失われた人を求めて
ルカ福音書19章1~10節

1.導入

みなさま、新年おめでとうございます。私は昨年からずっと、パウロの手紙である第一、第二コリント書簡の連続説教をしてきました。しかし今日は今年最初の礼拝メッセージということで、パウロの自叙伝的色合いの濃い第二コリント書簡をいったんお休みし、新年にふさわしい箇所からメッセージをさせていただきたいと考えました。そこで今日は、ルカ福音書を通じて改めて主イエスの福音宣教について考えてまいりたいと思います。

今日の箇所は大変有名な箇所で、教会に長らく通っている方なら何度も読んだり聞いたりした箇所だと思います。ザアカイという人は、とても印象的な、インパクトの強い人なので、この話を一度聞いたらおそらく忘れることができない、そういう人物です。今日は、このザアカイさんだけでなく、その前に出て来る盲人の物乞い、マルコ福音書によればその物乞いの名はバルテマイですが、バルテマイとザアカイという対照的な二人、さらにはその前のルカ18章に登場する金持ちの青年、これらの人物たちを対比しながら、主イエスの伝道の目的を考えていきたいと思います。

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パウロの弁明
第二コリント6章3~13節

1.導入

みなさま、おはようございます。先週は幸いなクリスマス主日を共に祝うことができたことを心から感謝します。そして今日はいよいよ2021年最後の主日礼拝になります。早いものですね。今年の最初の主日礼拝は第一コリント6章からでした。そして最後のメッセージが第二コリント6章からになります。まさに、コリント教会と共に歩んだ1年だったといえるでしょう。

今日の説教題は「パウロの弁明」です。弁明、という言葉はちょっと固い響きのある言葉ですね。日常会話ではあまり使いません。「弁明の機会を与える」というような言い方はよく聞きます。つまり弁明というのは、非難に対して釈明をするという、そういう意味です。でも、そもそもパウロのような偉大な人物が自己弁護などする必要があったのでしょうか。ここで私たちは頭を切り替えないといけません。今日、パウロと言えば押しも押されもせぬ大使徒ですが、この手紙を書いた当時のパウロについて、評価は定まっていなかったのです。むしろ彼に対しては疑問の声を上げる人が少なくなかったのです。これまでの説教でも何度かお話ししましたが、この第二コリント書簡そのものが、パウロの釈明の書として読むべきものです。ではパウロがどんな非難を向けられていたのか、それを三つ挙げましょう。

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イエス誕生の知らせ
ルカ福音書1章26~56節

1.導入

みなさま、クリスマスおめでとうございます。今年もいろいろ大変なことがありましたが、今日この良き日を皆さんと一緒に祝える幸いを感謝します。今日の説教箇所は、「受胎告知」と呼ばれる場面を描いたところです。これからイエスの母となる少女マリヤに、イエスの誕生の知らせが伝えられる場面です。かのナポレオン・ボナパルトは「子供の将来は母親が決める」という名言を残していますが、歴史に名を遺すような大人物には立派な母親がいるというのは確かに言えることだろうと思います。子どもが生まれてから最初に深い人間関係を築くというか、完全に依存するのが母親なわけですが、この母親が私たちの人格にどれほど深い影響を及ぼすのか、そのことをナポレオンは適切に言い表しています。

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エズラ・ネヘミヤによるユダヤ教
ネヘミヤ記13:1-9
森田俊隆

今日はネヘミヤ記です。先月はエズラ記でしたが、今日のネヘミヤ記はエズラ記と一体のものであり、エズラはユダヤ教の骨格を打ち立てた学者であり、ネヘミヤは政治指導者として、そのユダヤ教を民族の宗教としてユダヤ人に実行せしめた、と言う関係にあります。このエズラ、ネヘミヤが確立した宗教が本来の意味でのユダヤ教と言ってよいでしょう。後期ユダヤ教と言います。これ以前は、ユダ王国の宗教が存在しましたが、国家祭儀としてのユダヤ教です。後期ユダヤ教は国家なき宗教であり、ユダヤ教の信仰者共同体がユダヤ民族である、という世界でも稀に見る民族を誕生させたのです。通常、民族と言うのは基本的には人種から形成されるものです。その民族が共通の言語を持ち、共通の宗教を持つようになって、民族が形成されていくのです。ユダヤ人は人種的な出発点こそ、セミ族の一つと見られますが、雑多な部族の混血によりなっており、人種的に共通性がある訳ではありません。ユダヤ人とはユダヤ教を信ずる人、ということであり、宗教共同体が民族となった、民族です。この民族は、よく言えば波乱万丈の歴史を経験し、苦難の歴史の中で宗教のみが共通点というユダヤ人が生まれたのです

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今は恵みの時、今は救いの日
第二コリント5章16~6章2節

1.導入

みなさま、おはようございます。12月に入りました。アドベントの第二週で、クリスマスまではもうすぐです。第二コリントのメッセージも、いよいよ核心部分といいますか、とても深い内容になっています。今日のパウロのメッセージは、私たちに神との和解を呼びかけるというものです。先週も、神との和解という話を少ししましたが、今日のメッセージはまさにこのテーマについて語られているところです。アドベント、そしてクリスマスとは、イエス様がこの世界に誕生した目的を深く考える時なのですが、神の子であるイエスが私たちの住む世界に来られた理由は、神と人間との和解を成し遂げるためでした。

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なぜ福音を伝えるのか
第二コリント5章11~15節

1.導入

みなさま、おはようございます。今日からいよいよアドベント、待降節に入ります。イエス・キリストは今から約二千年前に地上に降誕しましたが、その誕生を当時の人々は待ち望んでいました。私たちも当時の人々の気持ちになって、救世主の誕生を待ち望み、また喜ぶということを追体験する、それがアドベントの目的です。イエスがこの地上にお生まれになった目的は、イエスが「平和の君」と呼ばれているように、この地上に平和と和解をもたらすためでした。アドベントの過ごし方にはいろいろな仕方があるとは思いますが、今年はぜひこの「平和」、そして「和解」ということを、日常生活において少しでも実現することを心がけていきたいと願うものです。

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第二の出エジプト
エズラ記1:1-6
森田俊隆

*当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

本日の聖書からのメッセージはエズラ記からです。ユダ王国は滅亡し、3度にわたって所謂「バビロン捕囚」が実行されました。実はその約140年前、北王国がアッシリヤに滅ぼされる時、イスラエルの主だった人々がアッシリヤに連れていかれる、というアッシリヤ捕囚が2度にわたって起きています。町としては、ダニエル書の記述から、この時も、バビロンであったと推測されます。イスラエルの枢要な人々が占領国に連れていかれる、という事態はその時から起きていました。ユダ王国の指導的立場の人々は、自分たちがイスラエル信仰の正統的継承者と自認していましたから、神により選ばれた民がこのような憂き目に会わなければならないのは、どうしてか、という疑問に立ち向かわざるを得ませんでした。結論は、モーセの定めた「律法」の順守をしなかったユダ王国の民の罪の結果である、と理解しました。バビロン捕囚の期間に、この反省から「律法順守」を中心とする信仰体系が出来上がっていきました。それが「ユダヤ教」と言われる宗教になります。律法順守の中心は①安息日の順守、②男子に対する割礼の実施、③食物規定の順守、です。

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いつも心強く
第二コリント5章1~10節

1.導入

みなさま、おはようございます。先週は召天者記念礼拝でしたが、先週読んだ第二コリントの聖書箇所も、人間の生死の問題を考えさせられる、非常に大切な箇所でした。今日はその箇所の続きになっています。先週の箇所も、今日のところも、パウロは人間を肉体と霊から成る存在として語っています。人間は肉体だけでできているのではない、ということです。これは、今の世の中の一般的な考え方とは異なっています。現代人の多くは、人間は死んだらそれで終わりだと考えます。つまり、肉体に死が訪れると、その人は消滅し、後には何も残らないのだ、ということです。このような見方は唯物論の影響を強く受けています。私たちが心とか精神とか呼ぶものは、物質、つまり脳細胞が生み出したものにすぎないので、脳の活動が停止すれば心や意識、精神といったものも消えてなくなると考えるのです。たしかに精神や心は目では見えないし、実験で観察できるものでもありません。唯物論に立てば、心とか意識は物質が生み出したかりそめのものなのだということになります。しかし、キリスト教や他の宗教、そして一部の科学者でさえ、脳の活動が停止しても、人間の意識、より正確には「霊」は存続すると信じています。20世紀になって盛んに研究されるようになった、いわゆる臨死体験の豊富なデータからも、このことは裏付けられると思います。

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日々新たにされる
第二コリント4章13~18節

1.導入

みなさま、おはようございます。今日は召天者記念礼拝、先に天に召された兄弟姉妹の方々を覚えながら礼拝するという特別な日です。そのような特別な日だということで、メッセージのための聖書箇所も、昇天者の方々を覚えるのにふさわしい特別な聖書箇所から、とも考えました。しかし、これまで連続説教をしてきた第二コリント書簡の今回の箇所が、奇しくも死者の復活についての箇所で、まさに今日の召天者記念礼拝にふさわしい箇所でしたので、今日もこれまで通りに第二コリント書簡からメッセージをさせていただくことにしました。

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土の器
第二コリント4章1~12節

1.導入

みなさま、おはようございます。今日で10月も終わりですが、秋らしい気持ちの良い日が続きますね。第二コリントからの説教も今日で9回目になりますし、第一コリントから合わせると41回です。これまで長い間、パウロとコリントの教会と共に歩んできたということになります。今日もこのコリント教会への手紙から、励ましと力を受けて参りましょう。

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