エズラ・ネヘミヤによるユダヤ教
ネヘミヤ記13:1-9
森田俊隆

今日はネヘミヤ記です。先月はエズラ記でしたが、今日のネヘミヤ記はエズラ記と一体のものであり、エズラはユダヤ教の骨格を打ち立てた学者であり、ネヘミヤは政治指導者として、そのユダヤ教を民族の宗教としてユダヤ人に実行せしめた、と言う関係にあります。このエズラ、ネヘミヤが確立した宗教が本来の意味でのユダヤ教と言ってよいでしょう。後期ユダヤ教と言います。これ以前は、ユダ王国の宗教が存在しましたが、国家祭儀としてのユダヤ教です。後期ユダヤ教は国家なき宗教であり、ユダヤ教の信仰者共同体がユダヤ民族である、という世界でも稀に見る民族を誕生させたのです。通常、民族と言うのは基本的には人種から形成されるものです。その民族が共通の言語を持ち、共通の宗教を持つようになって、民族が形成されていくのです。ユダヤ人は人種的な出発点こそ、セミ族の一つと見られますが、雑多な部族の混血によりなっており、人種的に共通性がある訳ではありません。ユダヤ人とはユダヤ教を信ずる人、ということであり、宗教共同体が民族となった、民族です。この民族は、よく言えば波乱万丈の歴史を経験し、苦難の歴史の中で宗教のみが共通点というユダヤ人が生まれたのです

ユダヤ教の背景は独自に解釈されたイスラエル信仰です。私たちキリスト者は「新しきイスラエル」と呼ばれ、本来のイスラエル信仰の正当な継承者である、と自負しています。もちろん、当初のイスラエル信仰に対する一定の解釈に基礎を置いた宗教であり、ユダヤ教徒とは兄弟関係にある宗教です。神の子イエスの教えに従う、という点に中心があります。後に、7cになりイスラム教が勃興します。この宗教も古来のイスラエル信仰の正当な継承者と称しています。最後の預言者ムハンマドを崇敬している宗教で戒律に従うことにより神の恵みがもたらされる、とする点でユダヤ教と共通しています。このように、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3宗教はイスラエル信仰に基礎を置くものです。そのうちのユダヤ教が今日のテーマです。もちろん、ユダヤ教は変遷をたどっており、エズラ、ネヘミヤのユダヤ教が現在のユダヤ教の主流ではありません。ユダヤ人最大の人口を有する国は現在では、アメリカです。

アブラハムからサムエルまでをイスラエル信仰の時代、サウル王からユダ王国滅亡までを前期ユダヤ教の時代、バビロン捕囚からAD70年のエルサレム陥落までを後期ユダヤ教の時代、それ以降、現在までを離散の民のユダヤ教の時代、と大づかみに分けることができるでしょう。離散の民のユダヤ教は、後期ユダヤ教の最後の方に生まれた、サドカイ派とパリサイ派のうち、パリサイ派だけが生き残り、その系譜の中にあるユダヤ教です。現代のユダヤ教内の最大の対立点は現に存在する国家としてのイスラエルをどう見るかです。主流派はイスラエル国家の成立を神の摂理のもとにある、と認めますが、拡張主義的な態度には反対です。少数派ではありますが、前期・後期ユダヤ教の民族主義的伝統を重んじる正統派はダビデ王朝の再興を主張し、イスラエル国家の拡大強化を図るべき、としています。今や、アメリカのユダヤ人の中では少数派がイスラエル国内では多数派を形成しています。その中心になっているのはロシヤからの移民です。

具体的に、「エズラ、ネヘミヤによるユダヤ教」の中身に入る前に、ユダ王国滅亡によるバビロン捕囚のところから歴史を年表に添って、概観いたします。ユダ王国が新バビロニヤによって滅亡させられたのはBC587年ですが、その時、ユダ王国の枢要な人々がバビロニヤに連れていかれ、奴隷の身となるのはその前のBC597年から始まっています。その後、新バビロニヤはイランで勃興したアケメネス朝ペルシャに滅ぼされ、捕囚のユダヤ人の支配者が変わります。ペルシャのクロス王は宗教的寛容策を採用し、伝統的なユダヤ教の復活を認めます。その結果、捕囚のユダヤ人はエルサレムへの帰還が許されました。その時の帰還の民の指導者は、ゼルバベルでした。総督と呼ばれています。その時、一緒に帰還した祭司はヨシュアでした。BC539年のことです。第一次バビロン捕囚から58年、約60年後(のち)のことです。ゼルバベルはその後、ユダヤ教のメシヤのモデルになった人物ではないか、と推測されている人物ですが謎の人物です。

ゼルバベル、ヨシュアは神殿再建に着手しますがサマリヤ人らの抵抗もありうまくいきません。BC520年頃、ハガイ、ゼカリヤという預言者が現れ、ユダヤ教の復興を後押しします。BC515年に至って、曲がりなりにも神殿再建が完了いたします。しかし、神殿礼拝をおこなうには、まだまだの状態でした。また、エルサレムが町として再興するには城壁を築かなければなりません。その間にバビロニヤでは残ったユダヤ人指導者たちはモーセ五書をまとめていった、と推測されます。中でも、レビ記、申命記を中心とする祭司法典はこの時、文字にされたと考えられます。神殿再建から57年後、学者エズラがモーセ五書とともに帰還し、イスラエル信仰の基本はこれだ、と述べ伝えようとしますが、地場信仰に慣れ切った民の耳には伝わりません。一応、ユダヤ教共同体はこの時、形成された、ということになっています。その時、バビロニヤにいたネヘミヤがエルサレムの栄光が復活していないのに心を痛め、ペルシャ王に願い出て、エルサレムに帰還致します。BC445年のことです。実に第一次捕囚から152年後です。ネヘミヤ書にはエズラが登場致しますが、エズラ帰還とネヘミヤ帰還の時期は、実は逆なのではないか、という説もあります。この部分は、聖書解釈の上で興味ある事柄ですが、割愛致します。

では、ネヘミヤ書の記述に入ります。先ほどお読みいただいたネヘミヤ記13章は「エズラ、ネヘミヤによるユダヤ教」の要約のような個所です。これを手掛かりに、後期ユダヤ教の特徴を見ていきたいと、思います。まず、エルサレム神殿中心の宗教だと言うことです。神殿中心のユダヤ教は後期ユダヤ教になってから始まったのではありません。前期ユダヤ教の時代、とくにユダ王国における宗教改革を通して確立していったものです。ユダ王国16代王のヨシヤがその完成者と見られています。エルサレム以外の祭壇を禁止し、エルサレム神殿における国家的祭儀に限定する、というのが柱です。ここに来ることができない人は原則家庭と地域での礼拝ということになります。そこでは、いけにえを捧げるような祭儀は認められません。エルサレム神殿の祭司、神殿職員はそれで良いでしょうが地方祭司は非常に苦しい立場となり不満を持つようになります。ネヘミヤ記13:10-13のところでは、そのエルサレム神殿においてさえ、神殿職員であるレビ人が生活を保障されないので農業に戻ってしまっていた、と語られています。おそらく、ネヘミヤ帰還の頃はエルサレム神殿さえ、その祭儀は貧弱なものであったと思われます。ネヘミヤは、ユダヤの民に神殿のために捧げものをするように勧め、レビ人を呼び戻し、エルサレム神殿での祭儀を定め通りにやるようにしました。神殿中心主義の復活です。このエルサレム神殿はこの後、ユダヤ教の中心的な場所になります。これはAD70年のローマによるエルサレム神殿破壊まで続きます。ユダヤの政治は大祭司を中心として、エルサレム神殿の側(そば)にある議会(サンヘドリン)が担います。主イエスはこのエルサレム神殿中心主義を強く批判し、信仰の本来の在り方は神殿という建物に依存するものではない、ことを説きます。主イエスは後期ユダヤ教の中心点の一つであるエルサレム神殿の権威を否定しています。主イエスの十字架の40年後にその神殿は現実に、完全に破壊されることになります。

後期ユダヤ教の特徴の第二は「律法順守」とりわけ安息日規定の順守です。律法の中でも安息日が特別なものとされ順守を強く求めたのは、安息日順守が十戒のなかの一つになっているからです。当時の、安息日順守の状況についてはネヘミヤ書13:15-22に記述があります。安息日に麦束を運ぶなど農業をやったり、ぶどう酒の売買をやったり、世俗の営みを行い、安息日を汚している、と非難しています。安息日は神に捧げる日なので、祈りと、聖書の学びに費やす日だ、と言うのです。ネヘミヤはユダヤの人々に、先祖たちが安息日を汚すようなことをしたので、神の怒りが我々に下された、と言い、律法に立ち返るよう求めます。安息日が終わるまで、エルサレムの町のとびらを締めさせ、外との交流をできないようにしました。門の守りを固め、規則を守らない人々を取り締まりました。安息日は金曜の日没から土曜の日没までです。後期ユダヤ教の時代以降に、安息日にやってはならないことのリストが精緻化されていきます。この規定は39の労働を禁止するようになり、更にこれが各項目6つの小項目に細分化され、結局234の禁止項目にまでなっていきます。安息日に歩く距離の制限とか、明かりをつけることを禁止する、とかです。異常と言わざるを得ません。ネヘミヤの時代から270年後くらいのセレウコス朝シリヤ支配下にあったころ、戦争で安息日に戦うことをしなかったために全員死亡した、という話さえ伝えられています。主イエスの時代にもこの安息日規定は当然、生きていました。「安息日の主は人の子」である、ということでこの規定を相対的なものとして扱われたように見受けられます。キリスト教では安息日はなくなり、代わりに、主イエスの復活を記念する主の日が日曜日と定められ、共同の礼拝を持つ日、とされました。なおイスラム教にも安息日はあり、金曜日で、成人男子はモスクでの共同の礼拝が義務とされています。「エズラ、ネヘミヤによるユダヤ教」は安息日規定が詳細化される出発点になっています。

後期ユダヤ教の第三の特徴は異民族との婚姻禁止です。異民族にユダヤ人の娘を嫁がせてはならず、異民族の娘をユダヤ人は娶ってはならない、というものです。申命記7:3には「また、彼らと互いに縁を結んではならない。あなたの娘を彼の息子に与えてはならない。彼の娘をあなたの息子にめとってはならない。」とありますが、エズラ、ネヘミヤが帰還する前まではあまり守られていない規定だったようです。ネヘミヤは13:23-31でこの混血の現実を嘆いています。ユダヤ人のなかにペリシテ人やアモン人、モアブ人の女をめとり子供が異国の言葉を話し、ユダヤ人の言葉がわからなくなっている、と言っています。彼らはソロモンが多数の異教の娘を妻とし、それによって、ソロモンは罪に陥るようになった、と言っています。ソロモンの妻たちがイスラエルにおける宗教混交の原因をなしていたことは事実です。ネヘミヤは外国人の妻を強制的に離婚させることもしたようです。当時の大祭司エリヤシブの子エホヤダの子の一人がサマリヤ総督サヌバラテの婿であったので、エルサレムから追放した、と言っています。サマリヤ人は異教徒扱いだったのです。これは申命記史書に共通している排外的民族主義の流れの極致とも言うべき政策です。もちろん、旧約聖書にはヤハウェー信仰に立つ異邦人もたくさん登場します。サマリヤ人の女の話に見られるように、主イエスは異邦人に対しても同様に神の愛が注がれていることを述べられ、旧約聖書の国際主義的流れの頂点に位置する、と言って差し支えないでしょう。後期ユダヤ教とキリスト教の最も大きな差がこの点にある、と思います。

ネヘミヤ記13章には明確に示されてはいませんが、後期ユダヤ教の第四の特徴は、割礼とか、食物規定のようなユダヤ人の独自性を外形的に明確に示す特徴を厳格に守ることです。律法順守の一環ですが、ユダヤ人の独自性を示す点に重点がある規定です。一種の民族主義です。割礼はエジプト、エチオピアが発祥のようですが、イスラエルのように民族の徴(しるし)と確立したのはユダヤ教において初めてだと思われます。その後、イスラム圏にも広がり、今や、かなりの広がりを持った慣習となっています。キリスト教の一部にはこの割礼の伝統を守っている宗派がありますし、一般のキリスト教徒で、男の子には割礼を施す人々も多数おります。ユダヤ教にはないですが、アフリカの一部では女性への割礼も行われており、人体に危険がある、と言われ、これを禁止すべき、という運動があります。キリスト教伝道者パウロは異邦人キリスト者に割礼を強制するな、と主張し、事実上、割礼規定を無意味なものとしました。信仰とは無関係な民族的伝統としたのです。

もう一つの食物規定は偶像への供え物を食べないこと、と律法において禁止されている動物の肉を食べない、というような食物に関するタブーのことです。ユダヤ教ではコーシェルと言い、この証明がある食物しか食べてはならない、ということで制度化されています。イスラムにおいてもこれと同様の規定が制度化されています。ハラールと言っています。佛教の僧侶にはこれ以上の菜食主義の伝統が強くあります。むしろ、中国や日本のように一般の人々に食物に関するタブーがない文化の方が稀である、とさえいえるかもしれません。キリスト教伝道者パウロはこの食物規定へのこだわりをも無意味化しました。要するにキリスト教は宗教規定としての割礼や食物規定から人々を自由にしたのです。主イエスはこの二つについて明確な言葉を語られていませんが、おそらく、パウロと同様、信仰の基準とは考えておられなかったと思われます。

ネヘミヤ記13章にはこの後期ユダヤ教とは関係のない一つの事件のことが書かれています。13:4-9のトビヤ事件と称せられる話です。これはヨルダン川東岸を基盤としていた有力者トビヤに時の大祭司エルヤシブがえこひいきして神殿内に部屋を与えた、という事件です。このことはネヘミヤがバビロンに一時帰国していた時に起こりました。エルサレムに返ってきたネヘミヤはこの収賄事件に怒り、トビヤ家の器具を放り出し、その後、清めの儀式を行った、ということです。このトビヤの家系はその後、どんどん経済的力を蓄え、アレキサンダー大王のあとのエジプトの寛容支配の時代には徴税権を獲得し政商的立場になっていきました。いわばユダヤ人社会における世俗的貴族階級の代表です。エズラ、ネヘミヤの時代から経済的な階級社会ができてくる気配が感じられます。これが主イエスの時代にサンヘドリンというユダヤ人議会の一部となっていく地主階級です。国の経済的発展は放置すると貧富の差が拡大し、主なる神の義に反する事態になります。後期ユダヤ教の場合、これを正すのは、ツェダカーと称する施しの義務です。言葉の本来の意味は「正義」です。施しによって経済的公平を回復するのが「正義の実践」だということです。しかし、十分な施しはなされないのが通常であり、どこかで爆発し、革命になる、というのが人間の歴史です。イスラムにおいてはこの施しの義務が強く残っています。医療をはじめとする社会福祉は、この施しによって支えられている、と言っても過言ではありません。

以上、後期ユダヤ教の特徴として、神殿中心主義、安息日規定順守、異教徒との婚姻禁止、割礼・食物規定の順守、という四つの特徴を見てきました。現在のユダヤ教の正統派は今もこれを守っています。もっとも神殿中心主義は将来の課題と言う形ではありますが。このように後期ユダヤ教は、ユダヤ教をユダヤ教たらしめたもの、ということができます。宗教による民族としてのユダヤ人の基本的特徴はここが出発点です。ある意味でキリスト教はこれを乗り越えることによって成立した、と言えるでしょう。しかし、キリスト教の神学的枠組みはこのユダヤ教の伝統に依存しています。祈ります。

(ご在天の父なる御神様、今日の共同の礼拝の時を感謝しています。私たちキリスト教の形式はユダヤ教の歴史に大きく依存しています。しかし、内容は、ユダヤ教の出発点であったイスラエル信仰の基本に立ち返るものです。イスラエル信仰のなかで生まれ、ユダヤ教の社会において培われた「神の国」のイメージは私たちキリスト教も共通のものとしています。どうか、「主よ、来たりませ。マラナタ」の願いが実現しますように。主イエスの御名により、祈ります。アーメン)

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