不評なユダヤ王、二人
歴代誌下26:19-23; 33:1-6
森田俊隆

今日は歴代誌からのお話です。南北分裂以降のユダヤ王国の王は20代です。そのうち、歴代誌において褒められている王の代表は宗教改革の王ヒゼキヤです。これに対し、列王記はやはり宗教改革の王ヨシヤです。国家祭儀としてのユダヤ教の基礎を始めたのがヒゼキヤで、実行したのがヨシヤということができるかもしれません。北王国については列王記のみが、記述していますが、褒められている王は、ほぼ皆無です。ちょっとましな表現をされているのがヨラム、エフ―、ホセアの3人のみです。南王国については少々ましな評価をされているのは、宗教改革王アサ、その後継者ヨシャパテ、やはり宗教改革を行ったヨアシュ、前半のみ評価されているウジヤ(列王記ではアザルヤ)の4名です。絶賛の2名を加えると6名です。総数20名の内。6名のみがプラス評価、それ以外はほぼまるでこきおろし、です。今日は、そのうち、前半のみ評価されているウジヤ、こき下ろされているマナセの2名のなしたことを推測し、なんかよいこともあったのではないか、と思いを致したいと思います。この両名は列王記記者、歴代誌記者からの評価は低いのですが、在任期間はウジヤ34年、マナセ46年と極めて長期間です。マナセの場合は歴代のユダヤ王のうち最長です。長期政権が民のための善政をしいたから、ということは全くないのですが、長期間、平和が保たれたことにはそれなりの理由があるに違いありません。

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ユダ王国の宗教改革
列王記下22:8-13
森田俊隆

本日はユダ王国における宗教改革についてお話しようと思います。ユダヤ教の形成される最初の段階ということになります。王様でいうと、最初はユダ王国三番目の王アサです。次は第8代のヨアシュです。三番目は北王国滅亡直後のユダ王国の13代の王ヒゼキヤです。最後は第16代王ヨシヤです。このヨシヤ王が戦死したのちユダ王国は急速におとろえ、王国滅亡に向かっていきます。

ユダヤ教とイスラエル信仰との関係について一言申し上げます。イスラエル信仰の出発点は創世記に示されています。創世記は世界の創造から始まっており、イスラエル信仰には、他民族も含んだ世界大の信仰の流れと、イスラエル民族の形成と言う民族主義的な流れとが共存しています。しかし、出エジプト記以降、歴史書まではそのうちの民族主義的傾向を強く示しており、ユダヤ教の基礎となっている申命記律法の確立過程が描写されています。これがユダヤ教です。創世記に示された、世界大、国際的潮流が旧約聖書の傍系の流れとして繋がっていきます。ルツ記とかヨブ記、箴言、伝道者の書などに受け継がれていきます。イザヤ、エレミヤの預言書にも、このような国際的志向が強く表れています。そしてその頂点が、主イエスの言動です。それがキリスト教となるのです。

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イスラエルにおける王権の根拠
列王記下9:1-6
森田俊隆

今日のお話のタイトルとしては「イスラエルにおける王権の根拠」とさせていただきました。列王記というのはイスラエルの王国が南北に分裂し、その後の王の変遷を記した文書です。北イスラエルは通常、イスラエル王国と言い、南イスラエルはユダ王国と言います。北王国についてはアッシリアにより、南王国は新バビロニアにより滅ぼされるまでが対象です。南北分裂がBC922年、南王国の滅亡BC587年ですから、300年強のイスラエルの歴史、ということになります。北王国では19代、南王国では20代の王の変遷があります。この歴史の中から見えてくる、イスラエルの王の正当性の根拠はどこにあるのか、と言うのが今日のお話です。

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列王記下9:1-6
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王権の継承
列王記上1:1-8
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

本日から列王記に入りたい、と思います。お読みいただいた個所は、ダビデの晩年のところで、最後のダビデ後継者争いが、始まるところです。この頃、ダビデは70歳くらいとみなされておりますが、体力は衰え、だれの目から見ても、最後の時が近づいている、と見える時でした。まず、先ほどお読みいただいた列王記の個所での出来事と、その結末について申し上げます。

一言、事前に申し上げておきたいことがあります。これから、私が申し上げることはダビデというユダヤ人に英雄視されている人物に関する手厳しい批判です。伝統的な神学から大きく外れる内容で、牧師であれば、お話することは憚られるだろう、と思いますが、私は「信徒伝道師」という立場でお話していますので、自分の考えを率直に言わせていただくことが許されている、と心得、申し上げる、ということです。ご容赦願います。

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列王記上1:1-8
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飢饉とサウルの子孫
サムエル記下21:1-14
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

今日の聖書個所はサムエル記下21章ですが、サムエル記下では20章で歴史的記述は終わり、21章から最後の24章までは補遺と言い、付録のようなものです。22章は「ダビデの感謝の歌」、23章は「ダビデ最後の言葉」ですので具体的出来事について書かれているのは21章と24章です。更に21章は「飢饉とサウルの子孫」に関する本日の個所で、15節以降は「ペリシテ戦における武勲」と称し、武勲があったものの列挙のようなものですから、物語になっているのは、本日の21:1-14と24章の2か所だけです。実はこの2か所は話の構成が並行的になっており、キアスムス配列と言われています。

21:1-14は簡単に言えば、飢饉があって原因を探ると、サウルがギブオン人を殺したからなので、サウルの子孫を抹殺すれば、飢饉は終わる、というのでそのようにした、という話です。24章はダビデが人口調査という罪深いことをやったため、預言者ガドは三つの災厄のうち一つを選べ、とダビデに迫ります。ダビデは疫病を選びましたので、民が七万人死にます。ダビデは罪を悔いて、その徴(しるし)に立派な祭壇を作る、という話です。これら二つの構成をみると、①主に対する恥ずべき行為、②そのために起きる主の裁き、③その裁きを避けるための王の行為、の三段階構成が共通しているのです。24章ではダビデの人口調査指示が罪あることとされています。それが災い発生の原因です。21章ではサウルがギブオン人を殺したということが災いの原因とされていますが、ダビデの罪の指摘はありません。しかし、21章の話の背後には24章同様、ダビデの罪が隠されている、と解釈することは可能と思われます。そうすると、この二か所は話の構成上共通しているのみならず、内容的にも共通していることが底に流れている、ということができます。それは「ダビデの罪」です。

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サウル王の最後
サムエル記第一31:8-13、サムエル記第二1:17-21
森田俊隆

初代イスラエルの王サウルの最後の場面が今日のお話のテーマです。お読みいただいた最初のところが、サウル王の戦死直後に起きたことを述べており、あとの方の個所は、サウル王の死後、ダビデが、サウル王、その子ヨナタンを悼んで歌った詩の前半です。これらの個所にこだわらず、サムエル記上31章全体とサムエル記下1章全体を見ながら、「サウル王の最後」についてお話し致します。

まず、サムエル記上31章の最初です。31:1-2「ペリシテ人はイスラエルと戦った。そのとき、イスラエルの人々はペリシテ人の前から逃げ、ギルボア山で刺し殺されて倒れた。/ペリシテ人はサウルとその息子たちに追い迫って、サウルの息子ヨナタン、アビナダブ、マルキ・シュアを打ち殺した。」とあります。イスラエルとペリシテは年来の宿敵です。サウルに率いられるイスラエルはガリラヤ湖の南イズレエルに集結し、王アキシュを指導者とするペリシテはイスラエルの中西部アフェクの地に集結します。最終的な戦場はイスラエルの集結地のすぐ南となりました。戦いの推移については全く叙述なく、ただ、イスラエルの敗北のみが記されています。ペリシテ人はサウルの子3名を殺害します。長男ヨナタン、次男アビナダブ、三男マルキ・シェアです。ヨナタンはダビデの盟友であり、ダビデが次の王にふさわしいと考え、自分の王国継承権を譲っていました。サウルがダビデを殺そうとしていた時、常にダビデの助けとなり、父サウルを諫めていた人物です。ダビデ/ヨナタンの関係は友情の模範とされ、キリスト教の時代以降も長く称えられるものとなりました。この3名の戦死でサウル王朝は事実上、断絶となります。しかし、サウルには四男イシュ・ボセテがおり、サウルの番頭的存在の将軍アブネルの支持の下、ダビデの王朝の成立に最後の抵抗を致します。この話はサムエル記下で語られます。

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サウル王の遺棄
サムエル記第一15:10-23
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

今月はサムエル記からです。サムエル記は上下2巻あります。上巻は預言者サムエルとイスラエル初代の王サウルの話です。下巻は王となったダビデの話です。中原キリスト教会では木曜会で山口先生がサムエル記からお話をされていますので、私のお話において、それも参考にさせていただいております。今日の聖書個所としてあげましたのはサムエル記第一15:10-23ですが、お話は15章全体を念頭にお話し、させていただきます。まず15章には何が書いてあるかを若干のコメントをしながら概略ご説明します。

15:1-3で預言者サムエルはアマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ、との主の命令をサウルに伝えます。15:3には「今、行って、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ。容赦してはならない。男も女も、子どもも乳飲み子も、牛も羊も、らくだも、ろばも殺せ。』」とあります。ヨシュア記、士師記を呼んだ方は驚かないかもしれませんが、このような知識のない方は驚きます。集団殺戮と何ら変わりません。アマレク人と言うのはユダヤの南のネゲブ砂漠の方に住んでいた人々です。聖書による血統ではイスラエルの始祖ヤコブの兄弟エサウの孫アマレクの子孫です。したがって、そんなに遠くない親類です。全滅させよ、という理由は出エジプトの時、イスラエルの民が南からカナンの地に上ってくるのを邪魔したから、というのです。この理由は調べると怪しいものです。一度は、アマレク人とカナン人がいっしょになってイスラエルを打ち破り、イスラエルがカナンの地に入るのをあきらめさせましたが、結局、モーセはヨシュアをたてて、アマレクを打ち破り、出エジプト記17:14では「アマレクの記憶を天の下から完全に消し去った」ことになっています。サムエルが言っていることは、常識的には何癖です。理由にもならないことを理由にした復讐です。

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サムエル記第一15:10-23
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ルツ記の女性たち:ルツ
ルツ記2:17-23
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

先月はルツ記に登場する姑のナオミについて主にお話しました。今日は、この文書の名前になっている「ルツ」について主にお話したいと思います。ナオミやルツ以外にルツ記に登場する女性として町の女たちについても若干述べさせていただきたい、と思っています。ナオミの時の話の補足という感じでお聞きいただきたく思います。  この文書はルツ記と称せられていますが、実はルツ自身の言葉はあまり含まれていません。その他の記述から彼女の信仰姿勢等については推測になります。まず、ルツはモアブ人です。モアブ人というのは創世記に示されている血統からすると、アブラハムの甥ロトの子モアブの系譜の人々です。このモアブはロトとその姉娘との間に生まれた子です。このようなことは昔から禁じられていた性行為ですから、モアブは不義の子ということが言えます。アブラハムの子イサクの子ヤコブの血筋であるイスラエルの民とは遠い親戚ということになります。彼らの住んでいた地は死海の東側です。イスラエルの民はエジプトに逃れ、その後出エジプトを経てカナンの地に戻ってきた人々ですが、その途中、モアブ人の土地を通過しようとしたのを断られたことから、両者は、曰く因縁の間柄となります。ルツ記の前の文書である士師記においては、モアブ人の王エグロンがカナンの地に侵入しエリコの町を占領し、18年間イスラエルを支配したと書かれています。そこにベニヤミン族出身の士師、左利きのエフデが起こされ、彼は剣を携え王に近寄り、その剣で暗殺し、そのあと士師の役割を果たした、と言われています。サウル王はモアブと戦いましたが、ダビデは両親をモアブの王に預けたと書かれていますし、ダビデ30勇士にはモアブ人がいたと記されています。両親が殺されたためダビデはモアブ人を討ったというユダヤ教の伝承もあります。ルツ記は士師の時代のこと、と言われていますので、この時代のイスラエルとモアブ人の関係は敵対関係と友好関係が入り組んだような時代であった、と推察されます。ルツ記はユダのベツレヘム出身のエリメレクがモアブの地に移住するところから話が始まります。その息子がモアブの娘ルツを娶る、という訳です。ユダ族とモアブ人との関係は少なくとも庶民の間では隣同士の民族という間柄、という状態であったと思われます。後に、捕囚から帰国したユダの指導者ネヘミヤが異民族との結婚を厳に禁止しますが、この士師の時代にはそのような制約はありませんでした。

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ルツ記2:17-23
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ルツ記の女性たち:ナオミ
ルツ記4:13-17
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

お読みいただいたルツ記の個所はルツ記の結論部分で、苦難の人生を歩んだナオミが幸せをつかんだところです。内容はご存じのことかとは思いますが、聖書に添って、順番に見ていきましょう。特に、今日は、ルツの姑ナオミに注意を向けてください。

ナオミはベツレヘム出身のエリメレクの妻です。「ナオミ」の名前の意味は「私の喜び、楽しみ、愉しみ、快い」であり、美しい名前です。この夫婦には二人の男の子がいました。一家は飢饉でモアブの野に行った、と記されています。モアブの地に開拓に入った、と考えよさそうです。私の親戚にもブラジルのアマゾン川下流のベレンに移住した家族がいますが、その開墾は大変な苦労だったようで、結局、ブラジリアに移り、野菜栽培と商売で生計を立てるようになりました。エリメレク一家もモアブの野の開墾は大変なことであったと思われます。その間に二人の息子は現地のモアブの娘と結婚します。長男の嫁がルツで次男の嫁がオルパです。ルツという名前は「友情、潤い、友」という意味の言葉でこれも美しい名前です。その後10年くらいモアブの地に住んでいた、と言われています。ナオミは15歳で結婚したとすると、二人の子が生まれ一家をなすまでが5年とするとナオミが20歳でモアブの地に移り、子供たちが結婚するまでが15年とし、更に10年住んでいた、ということのようですから、ナオミは既に40歳です。当時であれば孫がいて、おかしくはありません。この嫁二人には子供が生まれなかったようです。嫁は25歳くらいです。律法では子の生まれない妻は離縁されても文句を言えないことになっていましたが、エリメレクとその息子たちが離縁を考えた風はありません。おそらくナオミが異邦人であるモアブ人の嫁を自分の子のように扱い、子供が生まれなくても、男どもはそれをとやかく言わなかった、と理解してよいでしょう。男たちは、開墾が大変で、家のことはナオミが仕切っていた、と考えて差し支えありません。女系の雰囲気です。

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ルツ記4:13-17
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士師記;付録
士師記18:27-31; 20:43-48
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

本日は士師記の最後で通常「士師記・付録」と称せられている箇所から、メッセージを受け取りたい、と思います。17章から21章までです。「付録」と言われるのは、士師記の一部に似つかわしくないからです。特別、士師と言われる人物が出てくるわけではなく、士師の時代にイスラエルに起きた出来事を二つ記述してあるだけです。一つは12部族の一つ「ダン族」がユダ族とベニヤミン族の間の地から、イスラエルの最北端のフーレ湖(ガリラヤ湖の更に北)の近くに移住するに際し起きた出来事です。偶像礼拝に関する出来事です。二つ目は「ベニヤミン族」に関することです。ベニヤミンにあるギブアの人々が、一人のレビ人のそばめにひどいことをしたことが契機で、イスラエル全体とベニヤミン族の内戦がおこり、ベニヤミン族は絶滅の寸前にまでいく、という話です。不道徳的な事柄が立て続けに起こり、士師記の時代のイスラエルの極めて堕落した社会を赤裸々に記述しています。

ダン族移住物語の最初の方17:6とベニヤミン内乱物語の最後21:25に共通の言葉があります。「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」という言葉です。士師記の著者がこの付録部分を書いた理由が推測できます。士師記の時代はイスラエルの「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っ」た大混乱の時代であり、イスラエルには部族をまとめる権威ある王が必要である、ということです。いままでの士師に関するお話から推測できるように、例外はありますが、大部分の士師といわれる人物はイスラエルの十二部族をまとめた、などお世辞にも言えない状況であり、おそらく大混乱の時代であったろう、と推測されます。そのなかで、王をもとめる機運が強くなり、士師の時代の次に、サウル王、ダビデ王、ソロモン王の時代になるのです。

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士師記18:27-31; 20:43-48
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