神の痛み
エレミヤ書31:15-22
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

今日の聖書箇所を含むエレミヤ書31章は「新しい契約」と称せられる個所であり、新約聖書に示された「新しい契約」を指し示す個所として有名です。従って、キリスト教の教会においてはしばしば説教個所として取り上げられています。昨年、9月27日の山口先生のエレミヤ書からの説教の時もこの「新しい契約」のことを話されていました。聖書箇所はエレミヤ書31:31「見よ。その日が来る。--主の御告げ--その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ」です。今日は、その章の少し前の15-22節です。特に中心的部分は20節「わたしのはらわたは 彼のためにわななき、 わたしは彼をあわれまずにはいられない」の個所です。

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エレミヤ書31:15-22
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偽りの預言者
エレミヤ書23:18-29
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

本日の聖書箇所はエレミヤ書23:18-29です。23:9から23章の最後までは「偽りの預言者」と称せられており、本日の箇所はその中心部分ということになります。エレミヤ書全体を極めて概略的に見ますと、ヨシヤ王の時代の託宣、エホヤキム王時代の託宣、ゼデキヤ王の時代の託宣、そして、エレミヤ後半生の事件に関する記述があり、諸外国への託宣で結ばれる、ということができます。本日の「偽りの預言者」の箇所は、ゼデキヤ王の時代の託宣の中間に位置しています。ゼデキヤ王はユダ王国最後の王です。ユダ王国最後の時にエレミヤは当時の預言者達を、偽りを言う預言者として批判したのです。

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イザヤ書における王
イザヤ書42:1-9
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

今日は先月に続きイザヤ書からのお話です。イザヤ書に示されている王というのはどのような王なのかを見てみたいと思います。主イエスには、キリストとしての三つの職務がある、と言ったのは宗教改革者カルヴァンです。三つの職務と言っているのは「預言者、祭司、王」の三つです。預言者としての役割、祭司の役割はわかりやすいのですが「王」の役割は具体的にはイメージできません。主イエスの十字架上での死は世にいう「王」とは似ても似つかない、みじめなものであったからです。そのため、王であるのを示されたのは十字架によるのではなく、復活によるのである、とか、王の役割・職務が十全に示されるのは将来に予定されている主イエスの再臨、最後の審判の時、である、とか、正直なところ言い訳がましい説が言われます。王たる主イエスのいわば原型がイスラエルの歴史にあるとすれば、イザヤ書に示された王がその理解を助けるものになるのではないか、ということで、「イザヤ書における王」というものを見てみたい、と思うのです。

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大国の狭間でのイスラエル信仰
イザヤ書7:14-25
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

今日と来月はイザヤ書からお話させていただきたい、と思います。イザヤ書は言わずと知れた、聖書における最大の預言書です。66章ありますが、これがちょうど新旧約聖書の文書総数66と一致していて、イザヤ書を39章までと40章以降に分けると、それが旧約聖書と新約聖書の文書数にも一致します。実はイザヤ書は39章までと40章以降では成立年代が相違していることがほぼ明らかであり、39章までの著者を第一イザヤ、40章以降を第二、第三イザヤと称しています。39章までは預言者イザヤが預言を述べ伝えた時期の歴史に密着した話です。もちろん歴史叙述そのものではありませんが、預言者イザヤが当時の複雑な国際情勢にあって王やイスラエル特にユダ王国の民に向かっていかなる言葉を語ったかが記されています。それはイザヤが主なる神より預かった言葉でした。

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花嫁賛歌
雅歌:4:19-15
森田俊隆

今日は雅歌からです。この文書は、神信仰に関する表現は全くなく、単なる男女の恋愛詩のように見えます。それもかなりあけっぴろげに性的描写があるため、「性」については秘められたこととし、公に語ることが許されなかった時代には教会でこの文書を取り上げることさえタブーとされました。しかし、いろいろな議論はあったにしろ、ユダヤ教の聖書正典に取り入れられ、キリスト教会においても聖書正典の文書とはされてきました。ユダヤ教においてはこの男女の関係の描写が主なる神とイスラエルの民の関係を寓喩的に表現したものだと解釈し、キリスト教では主イエスと教会の関係を表現したものだと解釈し、聖書正典としての「雅歌」を合理化してきました。キリスト教の解釈は主なる神を主イエスに、イスラエルの民を新しきイスラエルたるキリスト教教会に置き換えたものです。根本的問題性はなぜユダヤ教の正典となったのか、という点です。雅歌を色眼鏡なしで読みますと、ここに描かれている花婿のイメージは旧約聖書の他のところで示される主なる神のイメージとは同一とは思えない大きな乖離があります。

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労苦の中にしあわせを
伝道者の書3:9-17
森田俊隆

「伝道者の書」は新改訳聖書の文書名ですが、口語訳聖書では「伝道の書」と訳されていました。日本のカソリックとプロテスタントが共同して訳した新共同訳では「コヘレトの言葉」となっています。ヘブル語原典では「コヘレト」と言います。これは、“会衆を召集する”という意味の「カーハル」の変化形で「会衆を召集する者」という意味になります。そこから伝道者、という意味になった訳です。ルターは「説教者」と訳しているそうです。ギリシャ語訳では「エクレシアステス」で英語訳でもこの名前です。“集会を司る者”の意味です。「エクレシア」といえば教会のことを指します。この伝道者の書は聖書の他の文書とは非常に異なっています。1:2で「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空」という言葉で始まり、人生に否定的で、信仰の書としての聖書に相応しくない、と見える文書です。

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あなたを憎む者
箴言25:21-22; 24:17-18
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

本日は、「箴言」のなかから、主イエスの「汝の敵を愛せよ」に通じる言葉ではないか、と思われる個所からお話をさせていただきます。「箴言」という言葉は英語では「proverb」といい、「格言」とか「諺(ことわざ)」の意味です。ユダヤ人の聖書の文書の分類では「諸書」の一つで、知恵文学と称せられる分野の文書です。知恵文学では「知恵」を大切にし、それを深く理解した「知恵者」となることが理想とされています。箴言以外では「空の空」で有名な「伝道者の書」、外典では「ソロモンの知恵」と呼ばれる「知恵の書」、「集会の書」と呼ばれる「シラ書」があります。更に偽書と呼ばれる文書のなかでは「モーセの遺訓」「ヨブの遺訓」「アブラハムの遺訓」という遺訓シリーズがあります。偉大な人物が語った“人生の真実を語った文書”という訳です。今日はこれらの聖書関連文書を含めてみていきたい、と思います。

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箴言25:21-22; 24:17-18
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畏れと驚き
詩篇111:1-10
森田俊隆

今日は先月に続き、詩編のなかからお話をさせていただきます。詩編111編です。詩編には、最初に「ハレルヤ」という言葉で始まる詩編が10編あります。そのなかで「アルファベット詩編」と称し、ヘブル語のアルファベットで各節が始まる詩が2編あります。それが111編と112編です。今日の詩編はそのうち前の方ですが、内容的には連続しているようです。ともに「神賛美の歌」です。両編に共通している言葉は「主は情け深く、あわれみ深く」です。イスラエルの神、主は私たちを超えた存在でありながら、「情け深く、あわれみ深い」存在であることがうたわれています。111編は「尊厳と威光」を示す神、112編は「繁栄と富」を齎す神に強調点がある、と言えようかと思います。

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ダビデのミクタム
詩篇16:1-11
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

今日のお話は、聖書の詩編からです。詩編は全部で150編あり、一巻、二巻、三巻に分かれていますが、内容的にはこの三つに整然と分類されている訳ではありません。このなかで、「ダビデの詩(うた)」としてイスラエル第二代の王ダビデがうたったものとされているものが多くを占めています。しかし、これらの詩編は、イスラエル信仰の基本を示したもの、と理解すべき文書であり、「ダビデの詩」としての理解に執着する必要性は全くありません。むしろ、作者ダビデに執着すると、ダビデが置かれていた歴史的状況の範囲での解釈に落ちる可能性あり、詩編の持つ意義を狭めてしまうことになりかねません。サウル王からの逃避行という初期ダビデが置かれていた困難な状況における詩という意味は心にとめるべきですが、その後のイスラエルの民、およびユダヤの民が経験した歴史上の困難は筆舌に尽くしがたいものであり、その歴史の下にこれら詩編を置いてみる方がイスラエル信仰の基本・根本が見えてきます。本日取り上げる、詩編第16編をはじめとする「ダビデのミクタム」もそのような詩です。私たち、新しきイスラエルも当然、このイスラエル信仰の基本・根本に忠実である者です。

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詩篇16:1-11
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ヨブは悔い改めたのか
ヨブ記42:1-6
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

本日の聖書文書は「ヨブ記」です。超難解な文書と言っても差し支えないでしょう。「神義論」の文書として有名です。神義論というのは、神は完全なる義なる存在である、というのは本当か、神が意図して人間に悪をなすことはありうるのか、という問いに対し、どう答えるかの神学的議論です。ヨブ記のように義人ヨブが「理由なき苦難」を経験させられるのはなぜか、という問いにどうこたえるか、ということです。

この文書の舞台となっている場所は、ウツの地と言われています。アブラハムの兄弟ナホルの子に、この名が見られます。イスラエルの北、アラムの地です。七十人訳では、ヨブはヤコブの兄エサウの系譜の人物で舞台はイスラエルの南、エドムの地とされています。後になって登場するエリフがアラビア系の人物と考えられますので、舞台はエドムの地と推測するのが自然なように思います。ヨブという名はBC2000年期の西方セム族ではポピュラーな名前であったようです。伝承のスタートはいつかわかりませんがかなり古いかもしれません。しかし、神義論的形をとったのは比較的新しいものと考えられます。著作年代はBC5-3cと幅広い時期が、推測がされています。この時期は捕囚の民の帰還・第二神殿建設・ネヘミヤによるエルサレム城壁建設の時期を始期として、アレキサンダー大王の時代を経て、プトレマイオス朝エジプトの緩やかな支配にあった時期を終期としています。私は、他の知恵文学の著作時期とほぼ同時期の緩いエジプト支配の時代ではなかろうか、と思っています。この時期はイスラエルにおける百花斉放の時代と言ってもよいだろうと思います。中間期から新約時代へ、大きな影響を与えた文書が書かれた時代です。

“ヨブは悔い改めたのか
ヨブ記42:1-6
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