第二の出エジプト
エズラ記1:1-6
森田俊隆

*当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

本日の聖書からのメッセージはエズラ記からです。ユダ王国は滅亡し、3度にわたって所謂「バビロン捕囚」が実行されました。実はその約140年前、北王国がアッシリヤに滅ぼされる時、イスラエルの主だった人々がアッシリヤに連れていかれる、というアッシリヤ捕囚が2度にわたって起きています。町としては、ダニエル書の記述から、この時も、バビロンであったと推測されます。イスラエルの枢要な人々が占領国に連れていかれる、という事態はその時から起きていました。ユダ王国の指導的立場の人々は、自分たちがイスラエル信仰の正統的継承者と自認していましたから、神により選ばれた民がこのような憂き目に会わなければならないのは、どうしてか、という疑問に立ち向かわざるを得ませんでした。結論は、モーセの定めた「律法」の順守をしなかったユダ王国の民の罪の結果である、と理解しました。バビロン捕囚の期間に、この反省から「律法順守」を中心とする信仰体系が出来上がっていきました。それが「ユダヤ教」と言われる宗教になります。律法順守の中心は①安息日の順守、②男子に対する割礼の実施、③食物規定の順守、です。

捕囚によりバビロンにいる間に新バビロニヤはペルシャとメディアの連合軍により滅ぼされ、結局、ペルシャが全体の勝利者となります。バビロンはペルシャ王クロスによって占領されます。捕囚の民は仕える相手が新バビロニヤからペルシャに代わりました。ペルシャは支配下の国々に対し、所謂宗教的寛容策を採用します。これはそれぞれの国が自国の伝統的宗教祭儀を継続することを認めるというものです。宗教はその国々の社会の性格を決定づけるものですから、それぞれの社会が自治的に運営されることを認める、ということになります。

この方針からペルシャ王クロスは捕囚の民のエルサレム帰還を許可します。その記述がお読みいただいた聖書個所です。1:1「ペルシャの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシャの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。」とあります。エレミヤの告げたこと、というのは、捕囚の民が70年後に解放されるであろう、という預言のことで、エレミヤ書29:10で「まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。」と言われていることを指しています。第一次捕囚がBC597年、クロスの勅令がBC539年ですから、その間58年、と言うことになります。70と言う数字は象徴的意味の数字ですから、厳密な一致をとやかく言う必要はないと思います。しかし、解釈としてはヨシヤ王の死(BC609年)から起算して70年だとか、神殿破壊(BC587年)から神殿再建(BC515年)までが72年であり、エレミヤの言う70年がこの期間のことだ、というもっともらしい解説もあります。第一次捕囚からクロスの勅令までの58年間でよろしい、と思います。

このクロスの勅令により捕囚の民がエルサレムに帰還することを指して「第二の出エジプト」と称されています。モーセの出エジプトを念頭におきつつ、このクロスの勅令の前後に起きたことを見ていきたい、と思います。まず、このバビロン捕囚の時、ユダヤ人はどのような状況にあったのでしょうか。モーセの時代におけるイスラエルの民のようにエジプトで、ピラミッド建設などの重労働に駆り出され奴隷状態にあったのでしょうか。ユダ王のヨヤキンはバビロンに幽閉されましたが、他の捕囚の民はそのような待遇に会った訳ではなく、バビロンの側のニップル付近のケバル川のほとりのテルアビブやその他の地に自分たちの集落を作りある程度自治的な生活を許されていた、と推定されています。特別な技術を持った人間は厚遇されもしていたようです。エゼキエル書33:30には「人の子よ。あなたの民の者たちは城壁のそばや、家々の入口で、あなたについて互いに語り合ってこう言っている。『さあ、どんなことばが主から出るか聞きに行こう。』」とあるように、自分たちの集まりを開くことも可能であったようです。しかし、エルサレム神殿における宗教祭儀を生活の中心としてきた人々は神殿なきバビロンでは精神的に満たされることはあり得なかったと想像されます。ヨシヤ王の宗教改革以降、ユダ王国の上層階級は神殿が中心となる国家祭儀としてのユダヤ教に慣れ親しんでいたのです。その意味で、バビロンでの生活は、奴隷的状態と感じられたのでしょう。ダニエル書1-6章には新バビロニヤの王ネブカデネザルの下で厚遇はされてはいますが、信仰的圧迫を受け、それに屈しなかった青年の話が縷々語られています。この境遇から逃れ、エルサレムの地での神殿祭儀を持ったかつてのユダヤ教の生活に戻りたいという希望はつのるばかりであったのでしょう。もちろん、敬虔なユダヤ教徒ばかりではなかったでしょうから、この地での生活にそれなりに満足していた人々も多かったと思われます。

従って、クロス王の勅令が発せられた時は、「奴隷からの解放」という「第二の出エジプト」の感を強く持った訳です。エジプトやアッシリヤ、バビロニヤのような大国は自分たちの宗教を強制する傾向が強いと思ってきたユダヤの捕囚の民にとっては「奇跡」とかんじられたことでしょう。エジプトは外国人に対しては宗教的寛容である、と言われていますが、王朝によっては、そうはいきません。神の代理人である王に対し、崇拝することを要求されることがままありました。その後の世界史の中では宗教的寛容政策を採用したと言われているのはローマ帝国です。ローマ帝政によるキリスト教迫害がありましたが、これは、それぞれの民族がその伝統的宗教の枠内での信仰継続は容認するのですが、キリスト教のように、伝統的な宗教であるユダヤ教と対立する新興宗教は認められません。ローマ帝政におけるキリスト教迫害は基本的には、治安上の理由によるものです。その後の歴史に於いても、概して、大帝国を築いた帝国は宗教的寛容策を採用しています。サラセン等のイスラム帝国、そしてモンゴル帝国、大英帝国がそれです。これに対し、特定の宗教やイデオロギーの強要を伴う帝国もあります。いくつかの中華帝国、神聖ローマ帝国、ナポレオン帝国、ソヴィエト連邦、です。あえて言えば、最近のアメリカ超大国もこれに入るでしょう。こういう帝国は、どうしても軍事力を頼みとする傾向が強く、長続きはしません。

本筋の捕囚の民に戻ります。クロスの勅令によりエルサレム帰還を果たした人々が直面したのは生易しい事態ではありませんでした。その人数は聖書では奴隷もいれて約5万人と言われていますが誇張であることはまず間違いありません。帰還の民の最初のリーダーはシェシュバツァルと言われています。アッシリヤの言葉であるアッカド語で「シンの神は父を守る」という意味の名前です。歴代誌ではシュヌアツァルと呼ばれています。ユダ王国最後の前の王の子です。シェシュバツァルのあとがゼルバベルです。シェシュバツァルの甥です。同一人物ではないか、という有力説もあります。このシェシュバツァル/ゼルバベルは聖書にはほんの少し述べられるだけですが、ユダヤ人社会ではメシヤ(救い主)とみなされることになった人物です。個人がメシヤとみなされるさきがけです。彼らは神殿再建の活動に入ります。ところが、すぐ、じゃまが入ります。嘗ての北王国サマリヤの有力者たちが自分たちも協力すると言って近寄ってきますが、帰還の民がこれを断ると、妨害を始め、工事はうまく進まず、3年後に中断してしまいます。それでも、中断の16年後BC520年、ハガイ、ゼカリヤという帰還の民である預言者の活動があり、神殿建設が再開され5年かけて、BC515年に、とうとう神殿再建が果たされました。ハガイ、ゼカリヤの預言は12小預言書に載せられています。神殿再建を鼓舞する預言です。ゼルバベルをユダヤ人解放の指導者とするメシヤ運動があったとする学者もおります。所謂第二神殿です。ソロモンの建設した神殿が第一神殿です。ペルシャの王はクロス、カンビセス、に続く、ダリヨスI世の治世第六年のユダヤ暦12月3日です。太陽暦では2月です。ユダヤ側の指導者はゼルバベルと大祭司ヨシュアです。クロス王の勅令から24年かかりました。

神殿はソロモンの時の神殿より少々大きなものです。しかし、神殿の周囲の施設や町の城壁はまだ手つかず、です。しかし、工事は遅々としてはかどりません。神殿完成から約50年後の、ペルシャのアルタクセルクセスI世アルタシャスタの初期に、再び北イスラエルの人間が中心になって、工事を止めさせるよう、ペルシャ王に嘆願いたします。ユダヤ人は危険な民族でいつペルシャに反旗を翻すかわからない人々なので、城壁の構築など、許すべきではない、ということです。この嘆願は受け入れられ、すべての工事は中断されることとなります。

その直後、BC458年に、バビロニヤにいた祭司で学者であるエズラがエルサレムに帰還してきます。彼はモーセ五書における律法を中心としたユダヤ教の教えを民衆に説きました。安息日、割礼、食物規定という律法の規定を順守することや、エルサレム神殿における祭儀を整えることなどを行いました。更に大きなことはカナン人を含む外国人の妻が、偶像礼拝を持ち込んでいる、としてそのような妻を子供とともに離縁することを要求しました。ユダヤ教に基づく宗教共同体の基礎を作ったのはこのエズラです。しかし、エズラがユダヤの民に呼びかけました、実現には程遠く、効果はなかったと推測されています。この13年後、帰還の人物ネヘミヤがペルシャのユダヤ総督として着任し、エズラの言ったことと同じことを再実施しているからです。これらのことから、エズラは実はネヘミヤのあとにエルサレムに戻ってきたのだろう、ということを主張している学者もおります。エズラがエルサレムに帰ってきたのはアルタシャスタの治世の第7年と、エズラ記7:8に記載がありますが、アルタシャスタの正式名はアルタクセルクセスI世ですが、実際はこの王はアルタクセルクセスII世のことではないか、というのが根拠になっています。エズラの帰郷はBC458年からBC398年に50年以上も後の時ということになります。これ以外の理由からネヘミヤがエルサレムに着任したBC445年のあと、BC428年という説もあります。いろいろ推測は可能ですが、聖書の記述が十分な根拠を持って否定されるまでは、極力、聖書記載のことを前提に物事を考えていくべきだ、ということから最も早いBC458年をハガイのエルサレム帰還と考えたい、と思います。彼が主張した教えをネヘミヤが、帰還してきて、強引にすすめるまで、現実にはならなかった、というのも十分ありうる話です。いずれにしてもハガイはユダヤ教の基礎を固めた人間ということでユダヤ人の間では敬意を評される人物になりました。

ユダヤ人の祭りの一つに「律法の祝典」シムハート・トーラーと言う日があります。ユダヤ暦7月22日です。ユダヤ暦の7月はティシュレーと称し、ユダヤの正月、新年の月です。新年は太陽暦では9月です。欧米では新年度は9月からというのが一般的ですが、由来を辿ると、このユダヤ暦の新年に由来するようです。この「律法の祝典」の時には律法の巻物を担いで円陣で回るダンスをする祝いで、おいしい祝宴もあります。子供達にはプレゼントがあげられるようです。日本のお正月にちょっと似ています。この「律法の祝典」はいつからこの時に祝われるようになったのかは定かではありませんが、この日から、礼拝に読まれる聖書個所が、新しく、創世記に戻ります。そして1年間でモーセ五書を読み終わる、というのがユダヤ教の習わしです。律法は神の恵みの賜物であって、これを守ることによって神の恵みに留まることができる、というユダヤ教の基本的考え方が、この祭りに示されています。律法は守るべき義務である前に選びの民への恵みの徴(しるし)です。祭りも、しかめっ面の祭儀ではなく、楽しむ祭りです。

エズラの教えの中で極めて社会的に重大なことは「外国人の妻を離縁せよ」ということです。10:2-5「そのとき、エラムの子孫のひとりエヒエルの子シェカヌヤが、エズラに答えて言った。「私たちは、私たちの神に対して不信の罪を犯し、この地の民である外国の女をめとりました。しかし、このことについては、イスラエルに、今なお望みがあります。今、私たちは、私たちの神に契約を結び、主の勧告と、私たちの神の命令を恐れる人々の勧告に従って、これらの妻たちと、その子どもたちをみな、追い出しましょう。律法に従ってこれを行いましょう。立ち上がってください。このことはあなたの肩にかかっています。私たちはあなたに協力します。勇気を出して、実行してください。」そこで、エズラは立ち上がり、祭司や、レビ人や、全イスラエルのつかさたちに、この提案を実行するように誓わせたので、彼らは誓った。」とあります。しかし、当然、反対意見もあったようで10:15-16に「アサエルの子ヨナタンとティクワの子ヤフゼヤだけは、メシュラムとレビ人シャベタイの支持を得て、これに反対したが、捕囚から帰って来た人々は、その提案どおりにした。」とあります。「捕囚から帰ってきた人々」はハガイの命令通りにしたが、エルサレムの地にとどまった一般のユダヤ人については、聖書は結果を語っていません。このあとエズラ記には外国人を娶った人物が列挙されていますが、10:44「これらの者はみな、外国の女をめとった者である。彼らの妻たちのうちには、すでに子どもを産んだ者もいた。」と言われ、結果に関しては明確な記述がありません。帰還のユダヤ人についても完全徹底がされたか、疑念が残る状態ですから、エルサレムでの残留ユダヤ人、ましてや、エルサレム以外のユダヤの地、更にはイスラエル全土については全く論外、というのが現実であったと推測されます。

しかし、エズラの教えはユダヤ教として伝えられ、世界中に離散しても宗教共同体としての独特の民族、ユダヤ人を維持する基盤となったのです。エズラは第一の出エジプトにおける預言者モーセの役割の一部を果たした人物と言えます。モーセの政治的指導者としての役割の部分は第二の出エジプトではネヘミヤがこれを果たすことになります。ユダヤ人はユダヤ教徒と結婚すべし、という教えはネヘミヤの時に再度実施が試みられます。今の、ユダヤ教においても生きた教えとして続いています。ネヘミヤに於いても適用はユダヤの地に限られています。しかもユダヤ人男性が外国人の妻をめとることが禁止されているのであって、ユダヤ人の女性が外国人と結婚するのを禁止するとは書かれていません。ユダヤ人とはユダヤ人の母から生まれた者とされていますから、ユダヤ人の女性の子は当然ユダヤ人であり、ユダヤ教の伝統を継承する者である、ということが前提になっているのかもしれません。アメリカのミュージカルに「屋根の上のヴァイオリン弾き」というのがあります。これはウクライナの田舎村に牛乳屋を営む貧しいユダヤ人夫婦がいて、三人の娘がいました。二人とも娘がユダヤ人と結婚することを望んでいましたが、長女はロシヤ人と結婚しました。ロシヤ正教徒でしょう。二女は革命家の後を追って遠くに行ってしまいます。おそらく、無神論者でしょう。三女もロシヤ人と恋に落ちて結婚します。母親は大反対でしたが父親が許します。ロシヤ正教徒でしょう。このあと、ユダヤ人追放命令がでて寂しくこの地を去ることになります。その時、ヴァイオリン弾きが物悲しい曲を奏でて夫婦の後を追う、という話です。娘を持っているユダヤ人夫婦の悲哀の話です。もちろん、息子であってもユダヤ教を継承するとは限りません。

エズラ記については付言しておきたいことがあります。日本基督教団の教会で使用されている日本語訳聖書に「共同訳」という訳があります。これはプロテスタントとカソリックの学者が共同して翻訳を行ったものであることから「共同訳」と名付けられているものです。数年前に再翻訳がされ、新共同訳から協会共同訳と称せられています。かつての口語訳聖書同様、日本聖書協会が認定した聖書の訳(やく)という意味です。この協会共同訳に続編というのがあります。これはカソリック教会が公式聖書としてきた、ウルガタというラテン語訳聖書に伝統的に含まれていた文書で、ヘブル語聖書に含まれていなかったものを集めたものです。ウルガタでは「外典」と呼ばれてはいましたが、正式聖書に準ずる文書とされてきたものです。このウルガタではヘブル語訳聖書におけるエズラ記は第一エズラ記、ネヘミヤ記が第二エズラ記、そして、共同訳の続編「エズラ記(ギリシャ語)」が第三エズラ記、続編「エズラ記(ラテン語)」が第四エズラ記とされました。更にこの第四エズラ記が最初の英訳聖書では第四、第五、第六エズラ記に分解されで英訳聖書(KingsJamesVersion=KJV)とされました。エズラはユダヤ教の基礎を固めた人物として伝承されてきましたので、そもそものエズラ記の後に書かれた神学的趣(おもむき)の強い文書に彼の名が冠せられるようになったと想像されます。エズラ記(ギリシャ語)は我々のエズラ記とほぼ並行的な内容ですが、「護衛達の挿話」という、他の文書にはない話が載っています。これはペルシャ王ダレイオスの身辺警護の三人の若者が「この世の中で何がいちばん強いか」に就き議論するという物語です。三人はそれぞれ「最も強いのは」酒、王、女であると言いますが、議論の結果、「真理」が最も強い、という点で一致します。この「真理」は神と同一視され、創造主神、即ち「真理」と理解されています。旧約聖書の伝統は神の性格を端的に表す言葉は「義」であって「真理」とはされていません。「義」は天上の世界と地上の世界を一体的に見た上での神の性格を示すものであるのに対し、「真理」はギリシャ哲学におけるイデアの世界における理念を指す言葉です。この物語はヘレニズム文化の影響を強く受けた思想の反映、とみてよさそうです。著作年代はBC100年頃と推測されています。エズラ記(ラテン語)は黙示文書の一つであり、ユダヤ教的黙示録、キリスト教的黙示録、初期キリスト教的黙示録の三つによって構成された文書です。これがKJVの聖書では第五、第四、第六エズラ記とされています。このうちユダヤ教的黙示録の部分は中間期及び新約初期の時代に成立した黙示録である、創世記で「神とともに歩んだ人」とされたエノクの名を冠した文書のシリーズに類似しています。天使がしばしば登場し、神の国のイメージを語ります。

この、エズラ記に記録されたユダヤ人の物語は「第二の出エジプト」と言われています。奴隷の地から解放され、約束の地に入るのです。この地に入ってからも苦難の歴史が待っていた、というところも第一の出エジプトと似ています。しかし、ユダヤ人の歴史は第二の出エジプトによって神の国が現実になった訳ではありません。一部のユダヤ人の間で「第三の出エジプト」と言われているのが現在のイスラエル建国の歴史です。AD70年のローマによるエルサレムからのユダヤ人追放により決定的となった離散の民ユダヤ人は世界中で差別の対象となりました。その頂点はナチスによるユダヤ人殲滅計画です。この少し前から、ユダヤ人は迫害から逃れ、イスラエルの地に帰ろう、というシオニズム運動が盛んでした。シオンの丘のあるエルサレムの地に還ろうという運動です。結局、イギリスが、第二次大戦のなかでユダヤ人財閥による支援の見返りとしてユダヤ人国家の建設を認める、という約束をします。バルフォア宣言と言います。二次大戦後、ユダヤ人はアラブ諸国の反対にもかかわらず、大量のユダヤ人のイスラエル移住を強行し、現在のイスラエルを建国します。そしてイギリスに代わり、世界の超大国となったアメリカがこのイスラエルを支援します。イスラエルと、エジプトを含むアラブ諸国と戦争になりますが、アメリカ製の近代装備のイスラエルは勝利します。停戦後、ユダヤ人の、ロシヤからの大量移住が続き、イスラエル政府は入植地を拡大し、軍事国家として嘗てのソロモン王朝や最盛期のハスモン王朝に匹敵する領土を確保するに至っています。

このイスラエル建国の人々の移住を「第三の出エジプト」と一部のユダヤ人は言います。奴隷の地、ヨーロッパやロシヤ、ウクライナから解放され、アブラハム、モーセに約束されたカナンの地に帰還してきた、という訳です。アメリカの映画で日本語名「栄光への脱出」というのがあります。原名は「エクソダス」即ち「出エジプト」です。この映画は、ナチス敗北後、アシュケナジーと呼ばれたヨーロッパのユダヤ人は、フランスから集団で出国し、船でまずは、キプロス島に向かいます。そこで、英国の収容施設にとどめ置かれます。アラブ諸国のユダヤ人移住に対する反対から、イスラエルの地に入れなかったのです。ユダヤ人地下組織の将校の活躍によりカナンにおけるアラブ人の協力者も得て、英国の承認の下、カナンの地に入ることに成功します。ユダヤ人のなかには平和主義者と元ナチ将校に指揮された戦闘派が居ましたが、戦闘派は平和主義者を殺害し、武力によるイスラエル国家の設立に向かいます。

このイスラエル建国の歴史を「第三の出エジプト」と言いうるのかどうか、極めて疑問です。アメリカの原理主義的なキリスト教徒はナチスのホロコースをはじめとするキリスト教徒の長いユダヤ人迫害の歴史に対する償(つぐな)い、としてイスラエル国家を支援するという心情があるように思います。そのこと自身は理解できることではありますが、それは現在のイスラエル国家のやっていることを支持することとは全く繋がりません。むしろ、アメリカ・ユダヤ教の主流は「イスラエルという国家を生んだシオニズム運動は政治的な運動であり、ユダヤ教という宗教活動の結果として行き着いたものではない。イスラエルの民を再びエルサレムに集める、というユダヤ教の教えとは全くその性質を異にする」という見解です。しかし、現在のイスラエル国家は建国当時から見ればずっと右傾化しており、ハスモン王朝の時のようなユダヤ教国家を目指しているように思われます。この「第三の出エジプト」とユダヤ人に一部が言っていることは、「奴隷状態からの解放」という一面は第一、第二の出エジプトと共通とはいえ、第三の出エジプトはイスラエル信仰に導かれたものとは言えません。軍事的・暴力的他民族支配による国家建設は神の摂理とは到底言えません。ユダヤ教の教えから言っても許されることではありません。ましてや、主イエスの教えには真っ向から反する態度です。ヨシュア記以降の申命記史書における戦闘も、現地の人々の集団殺戮というようなものではなかったことは考古学的に証明されています。集団殺戮を成功裏に行っていたのであれば、イスラエルの民の偶像崇拝などあり得ないからです。神の摂理と歴史をどのように見るか、どう考えるべきか難しい場合が多いのですが、私たちは、もしここに「主イエスがいらっしゃったならば、どうおっしゃられるであろうか」ということが判断の基本であるべきです。どう考えても、今のイスラエル国家のやっていることが、神の摂理の実行とは思えません。「平和の君」主イエスを仰ぎ見つつ歩みましょう。祈ります。

ご在天の父なる御神様、この礼拝の時を感謝します。イスラエルの歴史から、ユダヤ教の成立の契機を振り返り、第一の出エジプト、第二の出エジプトの意味を考える機会を頂きました。一部のユダヤ教徒には現代のイスラエル建国を第三の出エジプトと称する人々もいます。しかし、私たちが見ている現実は、戦争の現実です。どうか、どうか中近東の地に平和が訪れますように、人々の心に主イエス・キリストの福音が宿りますように心から祈ります。主イエスの御名により祈ります。

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