今は恵みの時、今は救いの日
第二コリント5章16~6章2節

1.導入

みなさま、おはようございます。12月に入りました。アドベントの第二週で、クリスマスまではもうすぐです。第二コリントのメッセージも、いよいよ核心部分といいますか、とても深い内容になっています。今日のパウロのメッセージは、私たちに神との和解を呼びかけるというものです。先週も、神との和解という話を少ししましたが、今日のメッセージはまさにこのテーマについて語られているところです。アドベント、そしてクリスマスとは、イエス様がこの世界に誕生した目的を深く考える時なのですが、神の子であるイエスが私たちの住む世界に来られた理由は、神と人間との和解を成し遂げるためでした。

ここでパウロが「神が人間の罪を赦すために」ではなく、「神が人間と和解するために」と言っていることに注目していただきたいのです。「罪を赦す」ということと、「和解する」ということとは少し意味が違うからです。私たちの人間関係で考えても、自分に損失や危害を加えた誰かを赦すことと、その誰かと和解するということとは少し意味合いが違うでしょう。私たちは誰かを赦したからと言って、その人と友達になろうとは思わないかもしれません。「お前の罪は赦してやる。その代わり、私の前に二度と姿を見せるな」という具合に、相手の罪を赦した場合でも、その罪を赦した相手を友として心から迎え入れるということは、むしろ非常にまれであるように思います。相手は罪人であり、自分とは違うのだ、そういう思いがあるからです。罪を赦すだけでなく、その相手と和解するためには、その相手に深い共感を抱く、ある意味で、罪を赦してあげるという上から目線ではなく、その相手と同じ土俵に立つ、相手も自分と同じなんだ、そういう気持ちになることが必要になります。罪を犯してしまった相手の事情をよく理解し、そのような罪を犯さざるを得なかった相手のことを、共感を持って見つめ、そして受け入れる。もし自分もその相手と同じような状況に置かれていたら、あるいは同じような罪、同じような失敗を犯してしまったかもしれない、そのような気持ちに至る、そうして初めて和解が生まれるのです。

なぜ神が人とならなければならなかったのか、それは神が人間という弱い存在をよく理解し、人間に心から共感し、そして和解する、そのために必要だったとも言えます。神は神であり、人ではありません。神が人間という存在をよく理解し、なぜ人間はこうも多くの過ちを犯してしまうのか、どうしてこんなに愚かな行動をしてしまうのか、そのことを理解するためには、神ご自身も人間という弱さを抱えた存在、また罪を犯さざるを得ないような状況にしばしば陥ってしまう存在そのものになり切る必要があったのです。神が人となられたのは、人をより深く理解し、人と和解するためであったのです。そして人となられたイエスは、王侯貴族に生まれたわけではありませんでした。むしろ、いつも生活に不安を抱え、生きていくこと自体が大変な状況のなかで生まれ育ちました。イエスの生まれ育ったナザレとは、「ナザレから良いものが出るはずがない」、そんな風に揶揄されるような貧しい村でした。今も昔も、自らの生まれ育った境遇を恨み、こんな家に生まれていなかったら俺にももっといい人生があったはずなのに、と不満を抱えながら生きている人たちは少なくないでしょうが、イエス様も彼らの心情が理解できるような、そうした厳しい生活環境の中で成長したのです。それだけでなく、人のために尽くし、人のために生きながらも無実の罪で殺される、人間社会の持つ不条理、理不尽さを引き受けて死んでいったのです。この世に生きることを楽しむ、生を謳歌するより、むしろ人生の惨めさを、私たちに代わって引き受けてくださった、だからこそイエス様は神でありながら人間の気持ちがよく分かる、共感できるのです。だからこそ、神と人とが和解をするための唯一の仲介者、仲保者となることができました。神の気持ちも、人の気持ちもどちらもよく分かるからです。その人となられた神の子であるイエスを通じ、神は私たち人間と和解を求めておられます。私たちはその神の気持ちに、呼びかけに応えていく必要があります。

とりわけこの現代という時代に生きる私たちは、神との和解を真剣に求めていく必要があります。神が私たち人間の立場に立って人間を理解しようとされたように、私たち人間もまた、神様の立場に立ってものごとを考える必要があります。もちろん私たち愚かな人間が神と同じように考えることは不可能ですが、私たちに許された範囲で神の思いを捉えていく必要があります。私たち人間は、神に不平を言うことがよくあります。「神様、どうして私をこんな目に遭わせるんですか。どうして私にもっといい人生、楽しい人生を与えてくださらないのですか」と思ってしまうことがあります。しかし神様も人間に対し、「人よ。どうしてそんな風に生きるのか。どうして私をそんなに失望させるのか」と思うことがあるはずなのです。神様が現代の私たちにひどくがっかりしていることの一つが、多くの人が神を認めない、そのことにあります。神は私たち人類のために非常に多くのことをしてくださっているのに、それに感謝もされず、無視されれば誰だってがっかりすると思います。現代は科学が進歩して、それを通じて神の力の偉大さを強く感じる、理解することができるはずなのに、かえって人は神を否定しようとするのです。最近読んだ本で、改めて強く印象に残ったのは、この地球上に生きるあらゆる生物は膨大な情報によって生きているということです。もっとも単純な単細胞生物にもDNAの暗号化された言語が10万個以上含まれていると言われています。DNAはA、T、C、Gという四種類の記号で表されるもので構成されていますが、この四つの記号の配列、組み合わせが意味を持っています。この暗号のような意味を解読して必要なたんぱく質を作り上げていくという情報解析機能、スーパーコンピュータのような機能をあらゆる生物が持っているのです。小さな豆つぶほどのありんこも、巨大なスーパーコンピュータを超える情報処理機能を備えているということです。よく考えてみれば、そんなものが偶然にできるはずがないのです。しかし、現代の文明は、これがすべて偶然によって生まれたと主張します。しかし、生物が偶然に誕生したという説は、本当なのでしょうか。最近私は『生命の謎』という本を熱心に読んでいますが、そこから学んだことなのですが、もし人間を含めたすべての生物が偶然によって発生したとしたら、生物には目的がないはずです。しかし、これはすべての生物に言えることですが、すべての生物は目的を持っています。それは「生きる」ということです。すべての生物は生きようとします。例外なくそうです。別に生きなければならないという命令を誰に与えられたわけでもないはずのに、生きようとします。生きることが善で、死ぬことが悪であるかのように、すべての生物は生きることを目指しています。でも、なぜ苦労して頑張って生きなければならないのでしょうか。むしろ何もしない、そういう楽な状態にいて死んではいけないのでしょうか。鳥は空を飛びますが、それは重力、自然法則に逆らうことです。なぜ自然法則に逆らってまでして飛ぶのか、それは生きるため、生き抜くためです。この「生きる」という目的は偶然には生じないものです。そこには生物を造った方の意志、目的が感じられます。このように、私たちの住む世界を観察し、考えれば考えるほどこの世界が偶然によって生じたものではなく、むしろ創造主としか呼びようがない方によって造られたとしか思えなくなります。しかし、今の現代の文明はそれを認めようとしません。私もイギリスの大学で学んでいた時、生物学を学んでいる学生とこのことについて話したことがありますが、科学において神とか創造主とか、そういう存在を想定してはいけないのだ、それはルール違反だというようなことを言われました。でも、なぜ認めてはいけないのでしょうか。あらゆる可能性を考えてもいいのではないでしょうか。私たちの現代文明は、神を排除して、人間こそが万物の尺度である、人間がすべてを決定する、人間の欲求、欲望を満たすことこそがすべての目的なのだ、というような考えに基づいて運営されています。しかし、人間の欲望を際限なく追及した結果、地球環境は大きく傷つき、今や人類の生存さえ脅かすほどになっています。その結果、地球の管理人である私たち人類と、地球の真の所有者であり主人である神との関係は敵対的なものとなってしまいました。私たちは今こそ神と和解し、神が私たちに与えた使命、この地球とそこに生きるすべての生物と共存していく、そのことを学ばなければなりません。そのことを踏まえて、今日のみことばを読んで参りたいと思います。

2.本文

今日のみことばには、パウロの有名な言葉が詰まっています。まさに珠玉の箇所とでも呼びたくなるところです。まず5章16節ですが、ここで「人間的な標準で」となっているところの直訳は「肉によって」ですが、ここは直訳したほうが意味が通ります。実際、最新の新改訳2017では「肉にしたがって」と訂正されています。では、パウロの言う「肉によって人を知ろうとしない」というのはどういう意味なのでしょうか。ここでは、視野を広くして、大きなスケールで考える必要があります。パウロの神学には「古い創造」の時代と「新しい創造」の時代という区分があります。古い創造というのは、天地創造から今に至るまで続いてきた世界のことです。私たちはこの創造によって始まった世界に生まれ、生きているのです。地球の歴史は45億年と言われ、宇宙の歴史は当然もっと長いわけですが、この気の遠くなるような時間を経て、神はこの地球を生物の溢れる世界へと創り上げてきました。しかし、この神の創り上げてきた世界にもいろいろなほころびが生じています。そのほころびには私たち人類も大いに責任があるのですが、神はこの世界のほころびを癒し、この世界をさらに良いものへと造り替えようとしています。たとえて言うならば、昆虫にも幼虫と成虫があるように、この世界も今の段階を脱皮して、さらなる高みへとその姿を変えていくということです。その新しい世界のことをパウロは「新しい創造」と呼びます。では、この新しい創造はいつ出現するのか、神はいつこの世界を新しくされるのか、と思うかもしれません。それは、イエスがこの世界に再び現れる時に、将来起こることなのだろうと思われるかもしれませんが、そうではないのです。実は、この新しい創造はもう始まっています。2千年前に、イエス・キリストが死者の中から復活した時、新しい創造が始まったのです。そして私たちがイエス様を信じる時、私たちもまた、この新しい創造の世界に加わる、これがパウロの言っていることです。とはいえ、私たちはイエス様を信じても、この世界は何も変わっていないように見えるかもしれません。しかし、この世界は古い創造のままでも、私たち自身はもう新しい創造の世界に入っている、これがパウロの示唆していることです。ですから、今私たちの生きている世界は古い創造と新しい創造とが混じり合っている、あるいは古い創造の世界の中に、新しい創造の世界がゆっくりゆっくり侵食している、じわじわと拡大している、そういうことなのです。これはあまりにも壮大な話で、ちょっと私たちの想像を超えるものですが、パウロはそのことを17節で言っています。ここで、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」となっていますが、ここも直訳すると「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しい創造です」となります。私たちは未だに古い創造の中に生きていますが、しかしイエスを信じたとき、私たちの内側には新しい世界が生まれている、私たちはすでに新しい創造の世界を生き始めている、そういうことなのです。パウロが16節で、「肉によって人を知ろうとしない」と言っているのはどういうことかというと、「肉によって人を知る」というのは古い創造の世界の在り方だからです。新しい創造に生きる私たちは「肉ではなく、霊によって人を知る」、これがパウロの言おうとしていることなのです。「肉によって人を知る」というのは、この世的な人の理解の仕方です。今の時代の基準とはどんなものでしょうか。その人の年収がいくらあるのか、学歴はどうか、どこに住んでいるのか、外見はかっこいいか、美しいか、そういうこの世の基準で人を判断することが、「肉によって人を知る」ということです。しかし、キリストにある者、新しい創造の世界に生きるものは、もはやそういった基準で人を判断したりはしません。むしろ神の霊に導かれ、その人の内面はどうなのか、その人の心が本当にイエスに似た者、柔和で寛容な人なのか、自分だけでなく人のことを考えられる人なのか、そのことをもって人間を判断するということです。人間的な基準で見れば、イエスの生涯は惨めなものでした。貧しい家庭で育ち、一所懸命人のために生きたのに、人々から裏切られ、十字架刑という悲惨な末路を遂げました。しかし、神の目からはそうではありませんでした。彼の死は無駄死にではありませんでした。それどころか、大いなることを成し遂げた死だったのです。そのことをパウロは18節から述べています。人間は神の意図に逆らって、神の喜ばれない生き方をしてきました。しかし神は人間を一方的に断罪されませんでした。むしろ、神ご自身が人となられ、人としての弱さや苦しみをすべて味わったうえで、人はどのように生きるべきなのか、それをイエスの生涯を通じて示されました。そして人間が受けるべき罪の報いである死をイエスに負わせることで、そしてイエスが復活によって死を打ち破ったことにより、私たちを罪と死の支配から解放されたのです。私たちには今や、神と和解し、神と共に歩む道が示されています。神はパウロたちを通じて、この神との和解を受け入れるようにと、私たちに呼びかけているのです。

そして6章の1節、2節を読んでいきましょう。パウロはコリントの信徒たちに、「神の恵みをむだに受けないでください」と呼び掛けています。ここで注意してほしいのは、パウロは信仰を持たない人たちにではなく、信仰を持つ、既に教会のメンバーになっているコリントの人々に「恵みをむだにしないでください」と語っていることです。ですからここで「恵みをむだにする」というのは、福音を信じないこと、神との和解を拒絶することを指しているのではありません。むしろここでは、福音を受け入れながら、その後の信仰生活において神の恵みをむだにしないように、ということを言っているのです。つまり、神の恵みを受けた者にふさわしく、神との和解を経験した者にふさわしく生きなさいと言っているのです。コリントの教会に多くの問題があったことは、第一コリント書簡の学びで十分読んできました。クリスチャンとして、兄弟姉妹を傷つけてはいけない、兄弟姉妹の信仰のつまずきとなるようなことはしてはいけない、むしろ兄弟姉妹の益となるような歩みをしなさい、愛を持って互いに仕え合いなさい、そうしなければあなたがたは神の恵みをむだにすることになりますと、パウロは語っているのです。

それからパウロはイザヤ書から引用します。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた」とは、イザヤ書49章からの引用です。イザヤ書49章1節から13節は「しもべの歌」と呼ばれます。ここはアドベントにふさわしい箇所なので、ぜひ後でじっくり味わっていただきたいのですが、パウロはここで語られている「しもべ」に自らの宣教活動を重ね合わせています。このしもべは、49章6節では「わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする」と語られていますが、使徒の働き13章47節では、パウロはこのみことばは自分たちのことを預言したものだと語っています。パウロは、自分たちは預言者イザヤによって預言された神のしもべ、異邦人の光なのだと語っています。ですから、そのパウロたちを拒絶することは、神との和解そのものを拒絶すること、神の恵みをむだにすることなのだと、パウロは語っています。これは、新しい宣教師たちに扇動されて、信仰の生みの親であるパウロを拒絶したり見下したりし始めた、コリント教会の一部の信徒たちのことを特に念頭に置いたものだと思われます。第二コリントは、パウロの弁明の手紙だと何度かお話ししていますが、パウロは自らの使徒としての正統性を、イザヤ書を引用しながら擁護しているのです。

確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」というのは、「あなたは今日イエスを信じて救われたのです」というような回心の瞬間のことを指した言葉ではなく、信仰者として歩み続けている一日一日が恵みの時、救いの日なのだから、日々の生活をおろそかにしないで、大切にしなさいとクリスチャンに向かって語っているのです。ですから6章2節の有名なみことばは、新しく信仰に入るように呼びかける言葉というより、信仰のベテランの人達に対して、日々新鮮な心で、救いの恵みをかみしめて歩んでくださいという、そういう言葉なのです。

3.結論

まとめになります。今日は、第二コリントの中でも特に有名な箇所、神学的に重要な箇所を学びました。まずパウロは、イエスを信じた人は、すでに新しい創造、新しい世界に生きているのだと語りました。ですから私たちは、世の中の価値観、見方に囚われずに、新しい創造に生きるものとして、霊的な視点で物事をとらえ直す必要があります。そして、私たちを神と和解させ、この新しい創造の世界に導き入れてくれたのがイエス様、とりわけその死と復活です。私たちはキリストと共に死に、キリストと共によみがえることで、古い世界に死に、新しい世界に生きることになったのです。この大いなる恵みをむだにしないために、日々の信仰生活において神の栄光を現しなさい、兄弟姉妹を愛しなさい、とパウロは教えます。さらには、彼らに福音を伝えたパウロたちを拒絶しないようにしなさいとも訴えています。このことは、この後の箇所で語られているので次の説教でより詳しくお話ししたいと思います。では、ひとことお祈りします。

イエス・キリストを通じて私たちと和解してくださった父なる神様、そのお名前を讃美します。私たちは今や新しい創造です。その恵みにふさわしく生きる力をお与えください。また、その和解を成し遂げるためにこの世に生を受けたイエス様、その恵みを深く覚えるアドベントの歩みとなるよう、私たちを強めてください。われらの救い主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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