神の国の権力者
マルコ福音書10章32~52節

1.序論

みなさま、おはようございます。今日の説教タイトルは「神の国の権力者」ですが、このタイトルを聞いて少し違和感を持たれたかもしれません。といいますのも、「権力者」という言葉の生々しさ、俗っぽさが、「神の国」という聖なるもの、清らかなイメージとそぐわないと感じられるからです。しかし、あえてこのようなタイトルにしました。といいますのも、イエスの弟子たちがイエスに従ってきた動機がかなり俗っぽいものだった、端的に言えば出世のためだったということが、今回の彼らとイエスとの会話で露骨なほど明らかになるからです。イエスの弟子たちは無欲な人たちではありませんでした。むしろ私たちと全く同じような、俗人でした。彼らはずばり、「権力者」になりたかったのです。ですから私たちも、自分自身が聖人にはほど遠い、人並みの欲得で動く人間だと痛感することがあったとしても、がっかりする必要はありません。そんな私たちのことを、イエス様は私たち以上によくご存じです。それでも主は私たちを選んで、召してくださったのです。

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神の国に入るためには(2)
マルコ福音書10章17~31節

1.序論

みなさま、おはようございます。前回から、神の国、神が支配される王国に入るためにはどのような生き方が求められるのか、どのような人間であるべきなのか、という大切なテーマについてイエスが教えている場面を学んでいます。神の国とは天国と言い換えてもよいですが、それは私たちの究極の希望ですので、そこに入るためにはどうすればよいのか、というのはクリスチャンであれば誰もが大変気になるテーマであろうと思います。

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神の国に入るためには
マルコ福音書9章42~10章16節

1.序論

みなさま、おはようございます。私たちはマルコ福音書を読み進めていますが、以前私はマルコ福音書の主題、メインテーマは「神の王国」である、ということを申し上げました。日本の聖書訳では「神の国」と訳されることが多いのですが、「神が王である」という大事なポイントを見失わない限りは「王」という言葉の含まれない「神の国」でもよいと思います。ですから私も説教で「神の国」と言ったり「神の王国」と言ったりしますが、あまりそうした違いは気にしないでください。ともかくも、「神の王国」こそイエスの宣教の中核、あるいはイエスの意図を理解するカギなのですが、その言葉が特にこの10章では繰り返しイエスの言葉の中に現れます。その意味で、今回そして次回学んでいく10章のイエスの教えは大変重要なものです。

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神の王国の到来
マルコ福音書1章14~15節

1.導入

みなさま、おはようございます。マルコ福音書からの説教は今日で四回目になりますが、この福音書は非常にテンポが速いといいますか、展開がとても急です。前々回、イエスの先駆者であるバプテスマのヨハネが登場しましたが、早くも彼は舞台から消え去り、イエスが歴史の表舞台に登場することになります。この展開の早さがマルコ福音書の魅力でもあるのですが、同時に簡潔な記述の背後にある様々な事情を考えながら、丁寧に1節1節読み進めていく必要があります。今朝のみことばもわずか2節ですが、しかしここには大変重要なことがらが凝縮して書かれています。ここには、まさにマルコ福音書の主題、メインテーマが提示されています。みなさんもよくご存じのベートーヴェンの交響曲5番「運命」、この曲は運命のテーマと呼ばれる「タタタターン」というわずか四つの音が縦横無尽に展開されて壮大な音楽の世界を作り上げているのですが、マルコ福音書における「タタタターン」は「神の王国」という短い言葉です。この言葉、マタイ福音書では「天の王国」とも言われますが、これは四つの福音書ではイエスの言葉として100回近くも登場する非常に重要な言葉です。そして、今日のイエスの宣教第一声で、この言葉がいきなり登場するのです。

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神の王国を相続する
第一コリント6章1~11節

1.導入

みなさま、おはようございます。おとといに元日礼拝をいたしましたが、主日礼拝としては今日が2021年の最初の礼拝となります。早いもので、第一コリントからの講解説教は今日で9回目になります。今年も、このパウロの書簡から私たち教会にとって大切なことを学んでまいりたいと思います。

さて、今日の説教のタイトルは「神の王国を相続するために」というものです。「神の王国」とは何か、ということは私も説教でたびたび取り上げていますし、非常に大きなテーマなのですが、しかし「神の王国を相続する」という言い回しに限って言えば、それは「永遠の命を受け継ぐ」ということと同じ意味だと言ってよいでしょう。主イエスもこの二つの言い回しを同じ意味で語っておられました。ここで注意したいのは、聖書の言う永遠の命とは、単に霊魂が不滅である、死んだ後もその人の霊は永遠に生き続けるということを言っているのではありません。実際、生きることが楽しいと思えない人が永遠に生き続けなければならないとすれば、それは耐え難い拷問と同じでしょう。聖書のいう永遠の命とは、元日の礼拝でも申し上げましたが、真の意味でシャロームを持つこと、つまり神との平和、人との平和な関係を永続的に持っていることです。天国に行っても、そこで嫌いな人がいて、でもその人と永遠に一緒に住まなければならない、ずっと毎日顔を突き合わせて暮らさなければならないとすれば、たとえそこがどんなにすばらしいところであっても、うれしさ半減でしょう。天の国、神の王国とはなによりも平和の王国です。シャロームの王国です。ですから、争いばかりして、人を憎む者、人を嫌う人はその王国には入れない、神の王国を受け継ぐことができないのです。

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神の王国のために
マタイ福音書4章1~11節

1.導入

みなさま、クリスマスおめでとうございます。言うまでもなく、今年は本当に大変な年でした。私はこの4月から当教会の牧師として赴任しましたが、赴任した翌週には政府から緊急事態宣言がなされ、これからどうなってしまうのかという不安の中にいました。そんな中でも、私たちの教会は十分注意をしながらですが、通常通りの礼拝を主に献げ続けることができ、休むことなくこのクリスマスを迎えることができました。そのことを主に感謝し、また皆様一人一人の祈りと献身に感謝したいと思います。

そうはいっても、コロナの第三波は留まるところを知らないようです。私たちは自分たちでできることを精一杯していますが、私たちの努力には限界があります。こんな時こそ、権限を一手に集める政治のリーダーが適切に私たちを導いてくれることを期待してしまいます。それは日本でもアメリカでも同じでしょう。独裁政権の国とは違って、日本のような民主主義の国では、リーダーは私たち自身が選べることになっています。しかし、自分たちが選んだはずのリーダーでも、その政治に心から満足するということは少ないように思います。特に大きな期待を受けて始まった政権が期待外れだと、その落胆もなおさら大きくなります。私たちみんなの期待に応えてくれるような、理想的なリーダーはいないものでしょうか?どうすればそのようなリーダーを見つけることができるでしょうか?

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