いつも心強く
第二コリント5章1~10節

1.導入

みなさま、おはようございます。先週は召天者記念礼拝でしたが、先週読んだ第二コリントの聖書箇所も、人間の生死の問題を考えさせられる、非常に大切な箇所でした。今日はその箇所の続きになっています。先週の箇所も、今日のところも、パウロは人間を肉体と霊から成る存在として語っています。人間は肉体だけでできているのではない、ということです。これは、今の世の中の一般的な考え方とは異なっています。現代人の多くは、人間は死んだらそれで終わりだと考えます。つまり、肉体に死が訪れると、その人は消滅し、後には何も残らないのだ、ということです。このような見方は唯物論の影響を強く受けています。私たちが心とか精神とか呼ぶものは、物質、つまり脳細胞が生み出したものにすぎないので、脳の活動が停止すれば心や意識、精神といったものも消えてなくなると考えるのです。たしかに精神や心は目では見えないし、実験で観察できるものでもありません。唯物論に立てば、心とか意識は物質が生み出したかりそめのものなのだということになります。しかし、キリスト教や他の宗教、そして一部の科学者でさえ、脳の活動が停止しても、人間の意識、より正確には「霊」は存続すると信じています。20世紀になって盛んに研究されるようになった、いわゆる臨死体験の豊富なデータからも、このことは裏付けられると思います。

パウロも、今日の箇所で人間は肉体と霊から構成されるという前提で書いています。パウロは肉体と霊との関係を、建物とその住民、あるいは衣服と服を着る人との関係になぞらえています。では、なぜパウロが肉体と霊との関係について話し始めたかといえば、それは人間とは何かというような知的好奇心を満たすためにこういう話をしたのではありません。むしろ、パウロはその宣教活動において、常に死を意識してきたからです。厳しい迫害を経験してきたパウロは死、つまり肉体が滅びるということを生々しいリアリティーとして感じてきました。しかし、そのような大変厳しい状況に置かれながらも、パウロは勇気を失いませんでした。むしろ、いつも心強かったと言っています。それはなぜか?パウロは、肉体の死が終わりではないことを確信していたからです。パウロは肉体の死の意味をよく理解していたので、死を恐れなかったのです。死の谷を歩むとも、恐れることなく歩み続けることができたのです。そのような背景を踏まえながら、今日の聖句を読んで参りましょう。

2.本文

さて、5章の1節目から見ていきましょう。パウロはまず、「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても」と書いています。「幕屋」という言葉は古風ですが、直訳すればテントです。テントは仮の宿であり、使い終わったらすぐ取り壊されます。パウロは副業としてテント職人をしていたので、ここでテントを持ち出したのだと思われますが、このテントは人間の肉体の譬えです。肉体とは、テントのように人間の本質である人間の霊にとっては仮の宿であり、いつかは壊れてしまいます。ですからここでパウロが言っているのは、「私たちの肉体が滅んでしまっても、肉体が死を迎えたとしても」という意味です。では、「神の下さる建物」とは何でしょうか。これは「人の手によらない、天にある永遠の家」だと言われていますが、これが朽ちないからだ、復活のからだのことです。私たちはいずれ、今の肉体と別れなければなりませんが、その代わりに、もっと素晴らしいからだを神からいただくことができるということです。それはちょうど、仮の宿であるテントと対比される、終の棲家である頑丈な家のような感じでしょうか、そういうからだを神から与えられるとパウロは言っているのです。この復活のからだについては、パウロは第一コリント15章で詳しく語っていました。私たちの現在身に帯びている肉体は、確かにケガをしたり、歳を取ると衰えてきますが、しかし基本的に素晴らしいものです。医学が進んで、人間の肉体が驚異的なほど精巧にできていることが分かってきました。しかしパウロは、復活のからだは今のからだとは比較にならないほど素晴らしいものだと言います。

でも、そんな素晴らしいからだなら、初めから神様は私たち人間にそのからだを与えてくださればよかったではないか、と思われるかもしれません。病気にもかからない、歳を取らない、そんなからだがあれば今すぐほしい、と思う人はこの世の中にたくさんいるでしょう。しかしここに神様の深いご計画があるのだと思います。先ほども言いましたが、人間は肉体と霊でできています。パウロは肉体を人間の住まいに譬えましたが、私は先週肉体を人間の乗り物に譬えました。しかし、いくら乗り物が素晴らしくても、乗り手にそれをうまく乗りこなす技量がなければ、それは宝の持ち腐れになってしまいます。肉体と霊についても同じことがいえるでしょう。たとえ今の世界に生きる私たちが不老不死の肉体を手に入れても、それを平和のため、世界をより良くするために使うでしょうか?いや、私たちが利己的、自己中心的な人間、自分の欲望を何よりも優先する人間であるならば、不老不死の肉体は人類にとって祝福であるよりも呪いとなってしまうでしょう。不死の人間同士が欲望のままに永遠に互いに争ってしまう状況を考えると、それこそ地獄図です。ですから私たちは朽ちないからだにふさわしい内面、霊性を持つ必要があります。私たちの今の人生は、そのような優れた品性を養うために必要なのです。なぜなら、人間の人格、霊性というものは、何もしなければ成長しないからです。運動やトレーニングという負荷をかけなければ肉体は成長しないように、霊にも試練が必要です。私たちが今、この世でいろいろな試練に遭っていること、また朽ちる肉体の抱える老いや病気に悩まされているのも、私たちの内面を磨くためなのです。そして、ここが大事なところですが、私たちは自分の判断で、自分自身の修行や努力で内面を磨くのではありません。私たち一人一人に与えられた聖霊、その聖霊が私たちを導き、私たちの内面をキリストに似たものへと変えてくださるのです。パウロが第二コリント3章18節で言っているのはそのことです。大事なところなのでもう一度読みましょう。

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

そのようにして、聖霊の導きと助けによって私たちの霊性は高められてゆき、朽ちないからだ、パウロが「天にある永遠の家」と呼ぶからだを受けるにふさわしい内面に変容していくのです。

さて、2節ではパウロは「私たちはこの幕屋(あるいはテント)にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと願っています」と語ります。私たちのこの世の人生を特徴づけるものの一つは「うめき」です。この人生には多くの喜びや楽しみがありますが、しかし同時に多くのうめきがあります。うめきとはなんでしょうか。人は苦しい時にうめきます。ですからパウロがここで「うめく」と語っているのは、人生の厳しさについて述べているわけですが、特に彼が伝道の中で受けた迫害、その時のことばにならないうめきを指しているのでしょう。そして神は確かに私たちの言葉にもならないようなうめきを聞いてくださっています。そのことをパウロが別の箇所で語っていますが、そこを読んでみたいと思います。ローマ人への手紙8章26節です。

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

ここでパウロが語っているのは、私たちを助けてくださる聖霊は、私たちのうめきによって、私たちの深い思いを神に伝えてくださっているということです。ですから、心にうめきを感じる時に、その思いは誰も聞いてくれない、ということはないのです。

パウロも、厳しい迫害の中、神にうめいていたのですが、そこで願われていたのは「天から与えられる住まいを着たい」ということでした。ここでパウロは天から与えられる住まいに「住みたい」ではなく「着たい」と言っています。まるで衣服のようですね。ここでパウロは、神から与えられる新しいからだを、建物ではなく衣服に譬えています。この流れで、3節では「それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです」とパウロは述べています。ここでの「裸の状態になる」という言葉は、「将来、裸の状態であることを見出される」というのが直訳です。つまり、パウロはここで未来のことを語っているのです。「見出される」という受け身になっていますが、見出すのは神です。将来、神は私たちが裸でいることを見出さない、それが3節の意味です。でも、いったいパウロはここで何の話をしているのでしょうか?神が将来私たちを裸で見出すとか見出さないとかいうのは、何のことなのでしょうか。おそらくパウロはここで、エデンの園でのアダムとエバのことを念頭に置いているのだと思われます。エデンの園で罪を犯してしまったアダムとエバは、自分たちが裸の状態であるのを神に見られるのを恐れて、神から隠れました。ここでアダムとエバが裸であるというのは、文字通りに裸だったというよりも、自分たちが神にお会いするのにふさわしい状態ではない、惨めな霊的状態であったということを指す比喩的な表現だと思われます。アダムは罪によって、生来与えられていた神のかたち、神の栄光を失ってしまいました。そのような状態で神の前に立つこと、それはアダムにとって恥ずべきことでした。そして私たちもまた、いつか必ず神の前に立たなければなりません。それは神の審判であり、私たちは必ずそれを経験するというのが聖書の教えです。そしてその時、神の前に立った時に、ふさわしい品性を身に着けていないと、神の前には比喩的な意味で裸の状態、神にお会いするのがはばかられるような状態になっているということになります。そうすると、神にお会いするのが喜べなくなり、むしろ神の前から隠れなければならなくなります。そのようなことにならないように、私たちはきちんとした服を着なければなりません。それが復活のからだなのです。そのように考えると、復活のからだとは、単に病気や老いとは無縁の不老不死のからだということにとどまらず、むしろ道徳的・倫理的に神の前に立つのにふさわしい状態をも含んでいるということができるでしょう。私たちが待ち望んでいるのは、単に死なないからだというのではなく、むしろ神と共にいるのにふさわしい内面の状態、霊の状態だということです。このことは、今日の箇所の大変重要なテーマです。私たちが常に霊的な成長、向上を目指すべきなのは、いずれ神の前に立つ時の備えをするためなのです。

4節の訳も、ちょっと誤解を生むようになっています。ここでの訳は「この幕屋を脱ぎたいと願っているからではなく」となっています。この幕屋が人間の肉体のことであるならば、ここでの意味は「死んでこの肉体を脱ぎ捨てたいと願っているからではなく」という意味になるのでしょう。しかし、この訳はちょっと的を外しているように思われます。むしろここは、正確には「裸の状態であることを願わない」という意味です。つまりパウロはここでも、神の前に裸であること、つまり罪あるものとして見いだされるのを望まない、と言っているのです。ですからここでも、パウロは単に朽ちるべきこの肉体を脱ぎ捨てて、不老不死の不滅のからだを手に入れたい、と言っているのではなく、むしろ死に向かうしかない霊の状態から、神の栄光にふさわしい優れた内面、霊性を持ちたい、ということを語っているのです。パウロが復活のからだについて語る時、常にそのような倫理的な問題、神に喜ばれるようなすぐれた人格の問題を常に念頭に置いていることを忘れないようにしたいですね。パウロの言う「死ぬべきものがいのちにのみこまれる」という表現も、単に寿命のある人間のからだが不老不死になると言っているのではなく、むしろ死に向かうしかないような罪の生き方が、いのちへと向かう神に喜ばれる生き方へと変容していく、そのことを語っているのです。そして、この罪ある存在である私たちを神に喜ばれる存在へと変えてくださるのは神であり、とくに私たちと共に歩んでくださる聖霊なのだと、パウロは5節で語っています。この聖霊の存在があるからこそ、私たちはいつも心強く歩むことができるのです。

さて、パウロは6節の後半部分で、「ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています」と述べています。ちょっと気になる言い方ですね。私たちは死んでこの肉体を離れない限り、神と一緒にいることはできない、とパウロは言いたいのでしょうか?そうではありません。私たちは肉体を持ち、この世を歩んでいる時にも主と共にいます。私たちが困難にある時、いつも主は共におられます。パウロがここで言いたいのは、この世の現実がすべてだとは思うな、この世の楽しみに目を奪われるあまり、神が将来備えてくださっているもののすばらしさを見失しなってはいけない、ということなのです。ですからパウロは7節で、「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます」と書いているのです。見るところとはこの世の現実のことです。パウロは今の世で良い思いをしたくて歩んでいるのではなく、神が用意されているさらに素晴らしいもの、それは今は見ることはできずに信仰において待ち望むものですが、それに目を向けて歩んでいるのだ、ということです。この未来への確たる希望があるために、パウロたちは「いつも心強いのです。」

ですから次の8節の「むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうが良いと思っています」という箇所も、私は早く死んで、天国に行きたい、というような意味ではありません。むしろそれは、この世の与える楽しみに執着しすぎてはいけない、神が用意してくださっているもっと素晴らしいものに目を向けることを忘れてはいけない、という警告として読むべきでしょう。そして、そのような素晴らしいものを受け継ぐためには、私たちは主に喜ばれる生き方をしなければならない、主が喜んでくださるようなそういう存在へと、自分を高めていかなくてはいけない、ということをパウロは語ります。パウロは第一コリント6章9節で、「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません」と書いていますが、約束のものを受け継ぐために、私たちはそれにふさわしい生き方をすることが求められているのです。ですからパウロは9節、10節でこう語ります。

そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願するところは、主に喜ばれることです。なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。

ここでパウロは非常に重要なことを語っています。私たち人間はみな、いつか必ず神の前に立たなければなりません。それは私たちの人生の総決算の時です。私たちは神の前に、地上で歩んだときの人生を振り返らされ、自分はこれまでどう生きて来たか、その結果自分はどんな人間になったのか。神のかたちにふさわしい姿になったのか、あるいは欲にまみれて人とは呼べないようなあさましい存在になり果てたのか、その現実を突きつけられます。そういう厳粛な未来が私たちを待っていることを忘れてはいけません。ですから私たちは今の人生を真剣に生きるのです。誠実に、人に対して親切に、まっすぐに歩んでいく必要があるのです。もちろん失敗をしてはいけないということではありません。私たちは弱く愚かな存在で多くの過ちを犯します。ですから神は赦しを豊かに与えてくださいます。しかしそのような神の恵みを軽く見てはいけません。多く赦された者として、それにふさわしく、より寛容な人を愛する生き方をする、そういうことが求められているのです。

3.結論

まとめになります。パウロは前回の箇所から、復活のからだをいただく希望について語り始めました。復活のからだを天の住まい、あるいは朽ちることのない衣服のように語っていました。私たちはそのような素晴らしいからだを与えられる希望を持っている、だからいつも心強いのだ、とパウロは語ります。そしてそのからだにふさわしい内面、霊性を養う必要があります。この世に生きることの中にはいろいろ大変なことや苦労がありますが、それらはそうした霊性を養うための訓練だとも言えます。ですからこの世で大変なことがあっても、それに挫けてはいけません。かえって、将来与えられる素晴らしいものに目を向けて、それを父から子に与えられる訓練として受け止めていきましょう。しかも神は私たちに聖霊を与え、常に慰めて、力づけてくださるのです。そのことを感謝し、この世の旅路を歩んで参りましょう。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様。そのお名前を賛美いたします。今日も使徒パウロの手紙から多くのことを学び、また励ましを受けました。私たちに与えられた希望から目を離さず、いつも心強く歩んで行けるように、私たちを強めてください。われらの救い主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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