失われた人を求めて
ルカ福音書19章1~10節

1.導入

みなさま、新年おめでとうございます。私は昨年からずっと、パウロの手紙である第一、第二コリント書簡の連続説教をしてきました。しかし今日は今年最初の礼拝メッセージということで、パウロの自叙伝的色合いの濃い第二コリント書簡をいったんお休みし、新年にふさわしい箇所からメッセージをさせていただきたいと考えました。そこで今日は、ルカ福音書を通じて改めて主イエスの福音宣教について考えてまいりたいと思います。

今日の箇所は大変有名な箇所で、教会に長らく通っている方なら何度も読んだり聞いたりした箇所だと思います。ザアカイという人は、とても印象的な、インパクトの強い人なので、この話を一度聞いたらおそらく忘れることができない、そういう人物です。今日は、このザアカイさんだけでなく、その前に出て来る盲人の物乞い、マルコ福音書によればその物乞いの名はバルテマイですが、バルテマイとザアカイという対照的な二人、さらにはその前のルカ18章に登場する金持ちの青年、これらの人物たちを対比しながら、主イエスの伝道の目的を考えていきたいと思います。

2.本文

さて、今日の箇所は、イエスのガリラヤからの旅がいよいよ終わろうとし、イエスが最後の一週間を過ごすためにエルサレムに入城する、その直前の頃の出来事です。イエスはエルサレムに入る前に、エリコという有名な町を訪れました。エリコは、旧約聖書によればモーセの後継者であるヨシュアによって征服された都市ですが、イエスの時代には非常に裕福な都市として知られていました。冬の間も温暖であるために、ユダヤ人の裕福な人たちはここにセカンドハウスを持っていました。つまりお金持ちの別荘地だったのです。このエリコで、イエスは二人の人物と出会っています。それがエリコの城外で物乞いをしていた盲目のバルテマイと、エリコの街中で出会った取税人のかしらだったザアカイです。この二人は全く対照的な人物だと思われるでしょうが、当時のユダヤ人から見ればある共通点を持った二人でした。それは何かといえば、彼らは神から捨てられた人、救われることはないだろうと思われていた人だということでした。当時のユダヤ人は、目が見えない人に対してある種の偏見を持っていました。それは、先週もお話ししましたが、ヨハネ福音書の記事から明らかです。ヨハネ福音書9章1-2節をお読みします。

またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」

イエスの弟子たちは、目が見えない人は何か罪を犯したので、その罰としてそのような状態になってしまったのだ、というような偏見を抱いていました。ですから、このエリコで乞食をしていたバルテマイも、神から捨てられた人という目で人々から見られていたというのも想像に難くありません。

他方でザアカイですが、彼は大変なお金持ちでした。当時のユダヤ人は、お金持ちであることは神様から祝福されている証拠だと思われていたのですが、しかしお金持ちなら何でもよいというわけではありません。不正な手段でお金持ちになったとみられるような人は当然人々から軽蔑されていました。そして、この時代の不正な手段で金持ちになった人の典型が取税人でした。取税人とは税金を取り立てるのを仕事にしていた人たちのことです。彼らは民衆から非常に嫌われていましたが、それには二つの理由がありました。その理由の一つは、彼らがローマ帝国の代理人として働いていたということです。当時のユダヤは、ローマ帝国の植民地でした。支配者であるローマは人口調査をして、ユダヤ人一人一人から税を取り立てていたのですが、税の徴収を直接せずに、ユダヤ人を雇って税金を取り立てさせたのです。ユダヤ人は、自分たちの王は神だけなので、本当ならばローマ人に税など収める必要はないと信じていました。税金は、神様にお献げする神殿税だけで十分だと思っていたのです。しかも、ローマ人たちはイスラエルの神に十分な敬意を払わず、ユダヤ人から見れば神を冒瀆するような行動を平気で行いました。ですからユダヤ人たちは、神はキリストと呼ばれる救世主を遣わしてこのにっくきローマ人たちをユダヤの地から追い払ってくれる、その時にはローマに協力していた取税人たちもローマともども滅ぼされると信じていたのです。

取税人たちがユダヤ人から嫌われている理由はもう一つありました。それは、取税人の全てとは言いませんが、その多くが不正を働いていたためでした。当時のローマからの税の取り立ては、大体収穫の2割ほどだったと思われますが、取税人たちは民衆から3割、多い時は4割を取り立てました。そしてローマの税の差額の1割や2割は自分のポッケに入れてしまっていたのです。ローマ帝国側もそういう取税人の行為は役得として多めに見ていました。民衆の側は、そういう事情を知っていたので、同じユダヤ人でありながら不正な手段で自分たちから財産を奪う泥棒のような存在として取税人を見ていたのです。

そしてここに登場するザアカイさんは、後で自ら告白するように、不正に手を染めて巨万の富を築いたような人でした。民衆は、彼のような人物は神から見捨てられている、死んだら地獄に行くに違いないと信じていました。

このように、盲目の物乞いのバルテマイと金持ちのザアカイは、全然違う理由からですが、いずれも神から見捨てられた人だと思われていたのです。その失われた人々に、イエスは自ら進んで近づいていかれたのです。

ではザアカイさんとイエスの出会いを見てみましょう。今日の話はイエスがエリコに入ったところから始まります。もうそのころには、イエスがエリコの外側でバルテマイという物乞いの盲目を癒したといううわさでもちきりだったでしょう。マルコ福音書によれば、目を癒されたバルテマイはそのままイエスに従っていき、イエスの弟子になりました。ですからエリコに入ったイエスの傍らには、バルテマイが奇跡の生き証人としていたのです。その噂を聞いたザアカイも、そのイエスという人物に非常に強い関心を持ちました。しかし人だかりができていてイエスに近づくどころか、見ることすらできません。そこでザアカイは、木に登ってそこからイエスを見ようとしました。ザアカイはいちじく桑の木に登りましたが、いちじく桑は葉っぱが大きいので、ザアカイはその陰に隠れて、人から見つからないようにしてイエスをこっそり見ていたのでしょう。実際、ザアカイは人々に見つけられたくなかったのです。ザアカイは金持ちでエリコでは有名でしたが、人々からはひどく嫌われていたからです。とても人々の目の前で、堂々とイエスの前に進み出ることなどできませんでした。ルカ福音書18章に出て来る金持ちの青年のように、「先生。永遠の命を得るにはどうしたらよいのでしょう。私は子どもの頃から神の戒めを守ってきたのですが」と真正面からは、とてもイエスに話しかけることは出来ないと思っていました。そんなことをすれば、人々から、「イエス様。こいつはあくどい取り立てで私たち貧しい民衆を虐げて、肥え太っています。こいつは神様から見捨てられた人です。こんな人と話す必要はありませんよ」と非難ごうごうとなることがよく分かっていたのです。

ザアカイがどんな経緯から取税人となったのか、その経緯は分かりませんが、彼も、はじめから好きで取税人になったのではないだろうということは言えるでしょう。取税人は人気のない職業でしたから、自分から進んでこのような仕事に就きたいと思う人はおそらくいなかったでしょう。ザアカイも重い税金に苦しんで生活に困り、貧しい家族を助けようと、ローマの犬となるのかと蔑まれながらも、生きていくためには仕方がないとローマの徴税人の仕事を始めたのかもしれません。しかし、そんな自分を冷たい目で見る人々に対してだんだんと敵意を持つようになり、どうせ嫌われているんだからと、彼らからさらに厳しい税の取り立てをして、そうして金持ちになっていったのでしょう。そうやって金持ちになっても、人々は自分のことを尊敬してはくれずに、むしろ孤独になっていったのでした。そんなザアカイでしたので、今や民衆の尊敬と期待を一心に集めるイエスに話しかけようなどとは夢にも思いませんでした。

しかし、そのようにして隠れるようにイエスの様子をうかがっていたザアカイをイエス様は見つけ出し、なんと彼の方から声を掛けたのです。そして言われました。「ザアカイ。急いで降りて来なさい」というのです。「急いで」と、強調してまで降りて来るように言ったイエスの言葉に、民衆は驚いたことでしょう。そして、イエスはザアカイのことを叱責するどころか、なんと彼の家に泊まるとまで言い出したのです。民衆は訳の分からない展開にびっくり仰天だったでしょう。なんであんな奴のところに!イエス様、あの男は神に呪われた男ですよ、彼の財産は汚れた金です、そんな奴からぜいたくな食事を振舞われて、いったい何のつもりですか、と人々は考えたことでしょう。

しかし、一番驚いたのは当のザアカイだったことでしょう。まさか自分みたいな悪人に、こんな立派な先生が口をきいてくれるとは思っていなかったのに、向こうの方から自分を見つけてくれて、しかもまるで友であるかのように自分の家に泊まってくれると言ってくれたからです。その様子をルカは、「ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた」と記しています。ザアカイは感動しました。この神の人は自分を軽蔑してはいない、自分の気持ちが分かってくれる人なんだ、見捨てられた自分を神様のところに導いてくれる人なんだと。ザアカイも、実は自分のことが嫌で仕方なかったのです。そして、そんな自分を理解して、救ってくれる人が現れるのを心の底では願っていました。ちょうどルカ18章のイエスのたとえ話に出て来る取税人のように。18章13節には自信満々のパリサイ派に対し、神に顔を向けることもできずにうなだれる、ある取税人の様子が描かれています。

ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人をあわれんでください。』

この名もなき取税人は、まさにザアカイその人だったのかもしれません。ザアカイは、自分は神に見捨てられた罪人なんだと自覚していました。それで、なおのことお金にこだわって、生きている間はせいぜい贅沢にくらしてやろう、みんなからうらやましがられるような生活をしてやろうと思ったのでしょう。しかし、イエスとの出会いはすべてを変えてしまいました。イエスを家に招いて、一晩中寝る間も惜しんでイエスと親しく語り合い、よく分かったのです。自分は神に見捨てられてなどいなかったのだと。今からでも自分は生き方を変えられるし、神様はそんな自分を喜んで迎え入れてくださるのだと。もしかすると、イエス様はエゼキエル書の次の一節を引用し、神の御心が何であるのかをザアカイに告げたのかもしれません。それはエゼキエル書18章21節から23節です。

しかし、悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行うなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。彼が犯したすべてのそむきの罪は覚えられることはなく、彼が行った正しいことのために、彼は生きる。わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。―神である主の御告げ―彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。

神は、たとえザアカイがこれまであくどいことをしてお金を儲けてきたとしても、そのような生き方の自業自得として滅んでしまうことを決して望んではおられないのです。むしろ、彼が悪を離れて神に立ち返るように、神の方から手を差し伸べてくださる、そのことをイエスとの出会いからはっきり分かるようになりました。イエスのまっすぐで、しかも自分の心の底にあるものをしっかりと受け止めてくれる視線を感じて、ああ、神様はこのイエス様のような方なのだ、そう気が付いたのです。それからのザアカイの行動は早かったのです。彼は即座に神に立ち返ることを決意しました。ザアカイは、イエス様から何か指示される前に、自ら進んでこう言いました。

主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。

ザアカイは取税人という職業そのものを捨てることはしませんでした。いくら民衆から卑しい仕事と思われていても、誰かがこの仕事をしなければならない、そう考えたのでしょう。しかし、その仕事に対する態度はこれまでとは全く違うものになりました。彼はもう、自分のお金儲けのためにその仕事をしようとは思いませんでした。むしろ、困った人たちを助けるためにこの仕事を続けようと考えたのです。彼は今までため込んだお金の半分を、税金もまともに払えずに、自分の田畑を得るかあるいは身売りするしかない人を助けるために使うことをイエスに宣言しました。しかも、残りの半分は自分のものだ、というのでもありませんでした。なぜなら今まで不正に取り立てた税を四倍にして返すともイエスに約束したからです。おそらくザアカイは何十年も不正に手を染めてきたので、この償いの額は大変な金額になったことだろうと思います。それを残りの半分の財産で賄おうというのです。ここまでやればほとんど財産は残らなかったでしょう。しかし、これを喜んで、自ら進んでやると言っているのです。

この彼の態度は、この前の18章に出て来る富める青年とは対照的でした。18章に出て来る青年は、ザアカイとは違って自信満々でした。彼はユダヤ人の指導者だとされていますので、おそらくシナゴーグと呼ばれる会堂、私たちの言葉で言えば教会の指導者でした。彼はイエスに、何をしたら永遠のいのちを得られるのかと尋ねました。そう尋ねた青年の心には、イエスがどんなことを求めてもそれを実行できるという自信がありました。彼は今まで律法をしっかり守ってきたし、イエスもそんな自分を褒めて、認めてくれるだろうと思ったのです。まさに、18章のイエスの譬えに登場するパリサイ人のようでした。しかし、イエスの言葉は彼の予想を裏切り、彼の自信を打ち砕くものでした。イエスは彼に、財産をすべて売り払って、貧しい人に分け与え、そのうえでバルテマイのように私に付いて来なさいと命じたのです。しかし、彼にとっては膨大な財産がつまずきとなってしまいました。イエスに従うよりも、現在の地位と財産を守ることを選んでしまったのです。イエスはこれを見て言われました。

金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。

この言葉を聞いてイエスの弟子たちは驚愕しました。あんなに神に祝福されている人、神の戒めを守り、大きな財産を持っている人でも救われないなら、いったい誰が救われるのか、と。しかしイエスは、大きな財産を持つ人でも救われることを、ザアカイさんを通じて示されたのです。全財産を売り払って誰かに与えるなどということは誰もできないと思っていたのに、なんとあの呪われたザアカイさんがそれを自発的に行ったのです。ザアカイさんは、富める青年とは正反対で、神の戒めを守らず、それでいて大金を稼ぐという、神よりも悪魔に魂を売ったような人でした。そんな人が救われるはずがないではないか、と多くの人が思いました。しかし、「人にはできないことが、神にはできるのです。」こんなザアカイさんを、神は、イエスは、まったく新しい人に変えて、全財産さえ売り払うことを躊躇しないような、そんな驚くべき人物に造り変えてしまったのです。イエスはそんなザアカイさんを見て、喜びの声を上げました。

きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。

滅んで当然の人などいないのです。神は悪人さえも、いや悪人こそが救われることを望んでいます。今の世界には、自分は悪人で、神様などと縁がないと思っている人が少なくないかもしれません。しかし、神はそんな人にこそ手を差し伸べ、しかもその人を全く新しい人に変える力を持っておられることを、ザアカイさんは教えてくれるのです。

3.結論

今日は、主イエスの伝道を、ザアカイ、バルテマイ、富める青年の三人を通じて学びました。彼らの中で、ザアカイとバルテマイはいわゆる「失われた人」、滅びに向かって歩んでいる人だと思われ、富める青年は宗教的にも社会的にも文句のない人で、天国はこのような人のためだと思われていました。しかし、イエスとの出会いを通じてまったく逆の現実が露になりました。なんとこの三人の中で天国から最も遠いのがこの富める青年で、地獄に一番近いと思われていた悪徳徴税人のザアカイと、呪われた者と思われていたバルテマイが確かに救われたのです。イエスの伝道は、当時の社会の常識をひっくり返しました。そして、神は高慢な者を遠ざけ、砕かれた人を近づけることを示しました。私たちもまた、この新年に際し、砕かれた心、へりくだった心をもって歩んでいきたいと思います。この人は救われた人、この人はそうではないなどとは考えずに、すべての人が神の子である、むしろ「失われた人」だと皆が思うような人こそ、神が捜し求めている人などだということを今一度覚えて、今年も伝道に励みたいと思います。そして、今一度昨年の年間主題聖句を思い出したいと思います。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」(第一テモテ2章4節)お祈りします。

ザアカイさんを招かれ、全く新しい人に変えられたイエス様の父なる神様、そのお名前を讃美します。今年もまた、愛する兄弟姉妹とこの主日聖餐礼拝をもって新年を始められることを感謝いたします。主が失われた者を探し求められたように、私たち教会も、主が探し求めておられる方々に神の愛と真理を少しでも伝えられるように私たちを強めてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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