なぜ福音を伝えるのか
第二コリント5章11~15節

1.導入

みなさま、おはようございます。今日からいよいよアドベント、待降節に入ります。イエス・キリストは今から約二千年前に地上に降誕しましたが、その誕生を当時の人々は待ち望んでいました。私たちも当時の人々の気持ちになって、救世主の誕生を待ち望み、また喜ぶということを追体験する、それがアドベントの目的です。イエスがこの地上にお生まれになった目的は、イエスが「平和の君」と呼ばれているように、この地上に平和と和解をもたらすためでした。アドベントの過ごし方にはいろいろな仕方があるとは思いますが、今年はぜひこの「平和」、そして「和解」ということを、日常生活において少しでも実現することを心がけていきたいと願うものです。

さて、今日も第二コリント書簡からメッセージをさせていただきます。今日の説教題は「なぜ福音を伝えるのか」です。パウロは今日の箇所で、なぜ自分が懸命に福音を伝えているのか、その理由を説明しています。ここですこし立ち止まって考えてみたいと思うのですが、私たちは当たり前のように「福音」という言葉を用います。では、「福音」とは正確には何を指しているのでしょうか。聖書を詳しく調べていくと、この福音という言葉には様々な意味合いというか、ニュアンスがあるのが分かってきます。そして、今日の聖書箇所の文脈では、パウロの伝えようとしている福音の最も大切なメッセージは「神との和解」です。このテーマは次週にさらに掘り下げますが、それが何を意味しているのか、ここで少し解説したいと思います。パウロは、人間は神と和解する必要があると言います。和解が必要だということは、神と人間との間には対立というか、敵意のようなものがあるということになります。しかし、神に対して敵意を持つ人などいるのでしょうか。神を信じない、神など存在しないと言う人はかなりの多くいますが、彼らは神に敵意など持っていない、というでしょう。神が存在すること自体を信じていないのだから、ありもしないものに敵意など持ちようがないではないか、という理屈になります。神に敵意を持つためは、まず神の存在を信じ、そのうえで神に敵意を持つということになるはずです。神を信じない、という人が増えているこの現代という時代においては、人間と神との間の敵意は存在しないのでしょうか。

しかしパウロによれば、人間は心の底では神を認めているのです。神を信じないという人は、例えばキリスト教の神とかイスラム教の神とか、そういう特定の宗教の教理によって定義される神を信じないと言っているだけなのかもしれません。この世界の根底にある存在、根源のような存在、この世界を世界たらしめている大いなる存在、そういう存在を、人間は本能的に知っているということです。その証拠に、人間は極度に追い詰められると、祈ります。絶望的な状況に陥ると、人という存在は思わず祈ってしまうのです。何に対して祈っているのか、はっきりは分からないけれど、祈らずにはいられないのです。それは、私たちが祈るべき方を知っているからなのかもしれません。

私たち人間は、普段はいろいろなことに忙しくしていて、根本的なことを突き詰めて考えることはしません。なぜ私たち人間という不思議な生命体が存在するのか、なぜ人間の体はこれほどまでに精妙にできているのか、人間の意識とは何なのか、あるいはもっと大きなスケールで考えると、地球や宇宙という神秘に溢れた世界がどうやって存在するようになったのか、こういうことを考えていくと、いずれ神とか超越者という存在にゆきあたらないわけにはいかないのです。私たちは、人間や世界を生じさせた原因となるものがあるはずなのだ、ということを本能的に、また直感的に知っているのでしょう。宗教に反発する人たちは、宗教がこの未知なる大いなる存在を、自明であるかのように語る、その知ったかぶりに反発しているという面があるように思います。天才物理学者のアインシュタインの言葉を読むと、そんな気がいたします。このように、人間は心の底では神の存在を信じている、あるいは感じているのですが、しかしその神に対する態度が良くないのです。パウロはそのことを、ローマ人への手紙1章20節、21節で次のように述べています。

神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。

人間が自分を超えた大いなる存在のことを忘れ、あるいは無視しようとし、この世における知性ある存在は人間だけなのだとばかりに尊大にふるまう時、人間の思いはむなしくなり、暗くなると聖書は言います。神は人間を、ある目的のために創造しました。それは、人間がこの世界を正しく治め、人間を含むあらゆる被造物が調和を持って生きられるようにするということです。人間はその使命に成功しているでしょうか。いや、今の世界を見ると、それは激しく失敗していると言わざるを得ません。20世紀後半からは、1年間になんと4万種もの動植物が絶滅しており、今も3万種以上が絶滅の危機にあるとされています。そして彼らを絶滅に追いやっているのが我々人間の留まるところを知らない経済活動なのです。皆さんも想像してみてください。皆さんが大きな庭園を持っていて、そこにたくさんの花や生き物を飼っています。そしてその庭園を管理するために管理人を雇ったとします。しかしこの管理人が庭を好き勝手に使い、そのために多くの花や動物が死んでしまったとします。そうした時、あなたはその管理人に怒らないでしょうか。あなたがその庭園を深く愛していたなら、あなたはその管理者に怒りを感じるでしょう。そしてこの庭園の所有者と管理人の関係が、そのまま神と人間の関係なのです。そうなると、神と人間との間には、間違いなく敵意があります。さらには、庭園の主人などいない、私たちこそ唯一の所有者なのだなどと管理人が言い張る場合には、主人と管理人の関係はますます悪くなるでしょう。パウロは、そして他の使徒たちも、私たちに神との関係を今こそ正しなさい、神と和解しなさい、と呼びかけています。そしてこの呼びかけこそが、「福音を伝える」ということなのです。このことを踏まえて、今日のみことばを読んで参りたいと思います。

2.本文

さて、今日の箇所でパウロは自分が福音を伝える理由として、二つのことを述べています。一つは、「神を恐れる」ため、もう一つは「キリストの愛が自分を取り囲んでいる」ため、この二つです。神への恐れと、キリストへの愛、ということです。恐れと愛とは正反対ではないか、と思うかもしれません。例えば第一ヨハネ4章18節にはこう書かれています。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。

このみことばの意味は、なんとなく分かるのではないでしょうか。人が何かをする動機として、それをしないと罰を受けるから、というのはかなり消極的な動機だと言えます。罰がなくなれば、罰を受ける恐怖がなくなれば、そのことをする必要もなくなる、もうやめたとなりかねないからです。しかし人の喜ぶ顔が見たい、純粋に助けてあげたいという動機から生まれる行動は積極的なものです。何の強制もなく、自発的なものだからです。こういう行動は愛から生まれたもので、罰とかそういったものとは無縁の行動です。このヨハネのことばは、私たちが叱られるからとか、罰が怖いからとかではなく、人を愛する気持ちから行動をしなさいという、そういうことを言っているのです。

では、パウロが伝道をする動機には恐れと愛が入り混じっているのでしょうか。パウロは、福音を宣べ伝えないと将来神様から罰を受けてしまう、それが恐ろしいので伝道を頑張ると言っているのでしょうか?そうではありません。パウロは自分自身が罰を受けるのを恐れているのではなく、他の人々が知らずに危険な道を進み、不幸な末路を遂げることを恐れているのです。それはちょうど、山で間違った道に進もうとしている人を見かけ、その人が間違った道を歩いて行って遭難するのを恐れる、だからその人に一生懸命「その道をすすんではいけません」と説得する、そんな感じです。前回お話ししたように、パウロはこのすぐ前の箇所でこう言っています。

なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。

私たち人間は皆必ず死にます。そして死んだあと、神の前に立って、どんな人生を過ごしてきたのかを振り返ることになります。私たちの過ごす一日一日は、ただ単に過ぎ去っていくものではありません。私たちの日々の生活でする小さな行動、決断の一つ一つが私たちの心を、魂を形作っていくのです。生まれたときの私たちの姿や体は、親からもらったものであって自分で選んだものではありません。しかし、その後の人生をどう過ごしたかで、私たちの外見は大きく変わっていきます。アメリカの大統領のリンカーンは、「人は40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持て」と言いましたが、それはその人の容貌はその人がどう生きてきたのかをある程度反映するからでしょう。外見ですらそうなのですから、人の内面はその人がどう生きてきたのかになおさら強く影響されます。ある意味では、人は死んだ時に自分の魂の姿に責任を持たなければならないと言えるでしょう。私たちが死んでから神様にお会いする時、私たちがどう生きて来て、その結果自分がどんな人間になったのか、その結果を神様から示されます。だからこそ、私たちは生きている間にイエス様を信じ、イエスのように生きよう、イエスのようになろうと日々真剣に生きることで、自分の心の中に神の似姿、神のイメージを形作っていかなければならないのです。

そして先ほど言いましたように、私たち人類はこの地球という神の庭園を正しく管理するという使命があります。この使命をきちんと果たしたかどうかも、神の前で問われることになるでしょう。ですから私たちは生きている間に庭園の主人である神と和解し、神の召しに忠実に歩むように自らの人生を方向転換していく必要があります。

パウロの話に戻りますが、パウロは自分が神との和解という福音を人々に伝える使命を帯びていることを強く自覚していました。そしてパウロは、その思いが曇りのないものであることを神がご存じであると確信しています。しかし、コリント教会の人たちの中には、パウロの福音にかける思いに疑問を抱いている人たちがいました。それは、これまで何度もお話ししてきたように、コリント教会にやって来た新しい宣教師たちの影響を受けてしまったからでした。彼らはキリスト教の総本山であるエルサレム教会から推薦を受けて来た人たちで、エルサレムの使徒たちとは関係の薄いパウロのことを見下していました。その彼らの態度がコリントの人たちにも伝染し、自分たちに福音を伝えてくれた信仰の父であるパウロを見下すようになった人がいました。それだけでなく、パウロの福音にかける動機そのものに疑問を抱くような人もいました。ある人は、パウロが極端な迫害に遭いながらも不屈の熱意で伝道しているのを見て、「あの人は頭がおかしい。狂っている。普通あんなにひどい目に遭えば、もうやめるはずなのに、彼があんなに頑張るのは彼がどこかおかしいからだ。彼は壊れている」と揶揄する人もいたのです。パウロがどうしてそこまでやれるのか、なかなか理解できなかったのです。

それに対し、パウロはこう言います、「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。」キリストは、ある意味では狂った人だと思われるような人でした。彼は人のために、自分を捨て、自分の命さえ捨てた人です。普通人間というのは、自分のことを、自分の命を何よりも大切にします。自分の命よりも他の人の命の方が大事だという人は、普通の感覚では狂った人だということになります。しかし、イエスは実際そのような人でした。イエスの人々への愛とは、そのようなものでした。そのイエスの愛が、今やパウロをコントロールしている、ある意味で乗り移っているのです。ですからパウロの伝道にかける信じがたいほどの熱意は、イエスの愛からもたらされていたのです。

それからパウロはこう言います。「ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。」これは不思議なことばですね。キリストがすべての人のために死んだのは、すべての人は死ななくてすむように、彼らが生きるために身代わりに死んでくれたのではなかったのか、だからパウロはここで「キリストが代わりに死んでくれたから、すべての人が生きるのです」というべきではないのか、と思われるかもしれません。しかし、ここはパウロの神学を理解するうえで極めて重要な点なのですが、私たちが救われるのは、キリストと一つになるからだ、というのがパウロの語る救いなのです。キリストが私たちの身代わりになったからではなく、私たちたちがキリストと一つになるから、それによって救いが達成されるのです。キリストこそが救いの道であるということは、私たちがキリストと同じ道を歩むことで救いが達成されるということなのです。これは夫婦関係に譬えればよく分かるでしょう。ある人が配偶者に対し、「私はあなたを信じます」と口で言ったところで、その配偶者を信じて、それを行動で表さなければ、その人と共に歩まなければ、苦楽を共にしなければ、その夫婦は決して同じところには到達できません。私たちも「イエス様を信じます」と口で言うだけで、実際にイエスのように歩もうとしなければ、イエスの行かれるところに私たちも行くことはできないのです。イエスが十字架を背負って歩まれたように、私たちも各々の十字架を背負ってキリストに従っていかなければ、キリストと同じところにたどり着くことはできません。ですから、キリストが自分に死なれたのなら、私たちもまた自分に死ななければなりません。それが、「ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです」というパウロの言葉の真意です。

パウロは重ねてこう言います、「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」キリストがすべての人のために死なれたのは、私たちは好き勝手に生きることができるために、どんな生き方をしてもキリストが身代わりで罰を受けてくれたから、私たちは罰を恐れずに好きなように生きられるため、ではありません。もしそんな風に考えているとしたら、それはとんでもない思い違いです。キリストは明確な目的をもって私たちのために死にました。それは私たちがその後の人生において、神の似姿を取り戻し、神に喜ばれる人生を送るためです。キリストのために生きるとは、そのような生き方をすることです。もしそういう生き方を拒否するなら、それはキリストの死を無にすることになるのです。私たちはキリストの死を無にしません。ですから、キリストのために、一日一日を大切に過ごし、人に親切に、誠実に歩んでいかなければならないのです。

3.結論

まとめになります。今日は使徒パウロが、なぜそれほどまでに、自分の命をかけてさえ伝道に打ち込んできたのか、その理由を学んで参りました。それは神への恐れと、イエスの愛から来ているというのがパウロの答えでした。私たち人間は、創造主である神に対して責任を負っている存在です。神は私たちを、神の似姿としてそれにふさわしく歩むことを願っておられます。それを無視して生きることは重大な、また深刻な裁きを自分自身に招くことになります。パウロは人々がそのような間違った道に進まないように、懸命に福音を伝えたのでした。しかしそれ以上にパウロを伝道に突き動かしたのはキリストの愛でした。人のために生きたイエスの生涯、他人のためにすべてを与えたキリストの生き方、それこそがパウロを伝道に突き動かす原動力だったのです。そのイエス・キリストのご降誕を待ち望むアドベントに私たちは入りました。私たちの人生は今やキリストのためにあるのだ、ということを思いながらアドベントを過ごして参りたいと願います。お祈りします。

使徒パウロを召し、彼に力を与え続けられたイエス様、そのお名前を讃美します。今私たちは、かつて二千年前の人々があなたを待ち望んだように、あなたを待ち望んでいます。どうか私たちの心にあなたが住まわってくださり、私たちにあなたのように生きる力をお与えください。われらの救い主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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