混乱と秩序
第一コリント14章26~40節

1.導入

みなさま、おはようございます。6月に入って、急に暑くなってきました。このような中でもマスクを着け続けなければならない状況が続き、不便な日常が続きます。そんな中ですが、今日もみことばから励ましを受けていきたいと願っています。

さて、第一コリント書簡ですが、毎週お話ししていますように第一コリントの11章以降は、特に「礼拝」の問題を取り扱っています。礼拝の中で生じる様々な問題をパウロは一つ一つ取り扱ってきましたが、今日の箇所はこれまでのところの総括、まとめのような部分になっています。当時のコリントの教会の礼拝はどんな風に行われていたのか、というのは私たちにとって非常に興味深い問いです。紀元1世紀、キリスト教が誕生したすぐ後の時代の礼拝のスタイルは、私たちにもいろいろな示唆を与えてくれるからです。

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おとなとして
第一コリント14章1~25節

1.導入

みなさま、おはようございます。6月に入りました。6月は、ジューン・ブライドという言葉があるように梅雨さえなければ、花の咲き誇る、一年でももっとも過ごしやすい時期であるのかもしれません。とはいえ、今この東京は緊急事態宣言下にあり、気の抜けるような状況ではありません。この6月も主の守りの中を歩めるように、ともに祈ってまいりましょう。

さて、いつものように、このコリント第一の手紙のこれまでの内容について振り返ってみましょう。コリントの教会は、パウロが1年以上開拓伝道をして立ち上げた教会です。1年半というのは、一か所での滞在期間としてはパウロにとって非常に長いものでした。それだけ異文化や新しいものを受け入れる気風のあるコリントという都市の可能性を、パウロは高く評価していたのです。パウロはコリントを離れた後も忙しく地中海の諸都市を巡り、次々に新しい教会を立ちあげていました。しかし、パウロがいなくなってしまった後のコリントの教会には、実に様々な問題が勃発しました。1年半というのはパウロには相当長い期間でしたが、ユダヤ人のようにもともと旧約聖書に親しんでいたわけでもない異邦人中心のコリント教会にとって、1年半という期間はキリスト教のことを深く理解し、実践していくには短すぎたとも言えます。パウロが去ってからすぐに新しい指導者が与えられたわけではなく、アポロという別の指導者が来るまでの間、コリント教会はリーダー不在の状況になってしまいました。その空白期間、コリント教会では内部分裂というか、いくつかのグループが出来てしまい、それらが互いに対立している有様でした。ほかにも様々な問題が勃発し、コリントの教会はまさに問題のデパートという様相を示していました。

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信仰、希望、愛
第一コリント12章31~13章13節

1.導入

みなさま、おはようございます。5月も終わろうとしていますが、初夏を思わせるような日が続きますね。これから梅雨の季節が続くと思うと少し気が重いですが、新しい階段のおかげで、雨が降っても安心して教会に来られるようになったことは大変大きな恵みです。

 さて、今日の箇所はパウロの第一コリント書簡の中でも最も有名な、いやおそらくは聖書全体の中でも最も有名な箇所だとすらいえるかもしれません。キリスト教は「愛の宗教」だと言われますが、ではその愛とは何かについて最も簡潔に力強く語っている箇所だからでしょう。今日の説教タイトルは「信仰、希望、愛」となっていますが、今日の話は信仰、希望、愛の三つについて等しく語ろうというのではありません。むしろ、キリスト教信仰においてきわめて大切なものだとされる信仰や希望よりも、なぜ愛がさらに大いなるものだと言えるのか、そのことを考えてみたいのです。

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からだは一つ、御霊は一つ
第一コリント12章12~30節

1.導入

みなさま、ペンテコステおめでとうございます。ペンテコステというのは、イースター、クリスマスと並ぶキリスト教の三大聖日の一つですが、クリスマスは主イエスの誕生を祝う日、イースターは主イエスが死者の中から復活したのを祝う日であるように、いずれもイエス・キリストの生涯にかかわるものですが、ペンテコステは三位一体の父・子・聖霊の中でも特に聖霊に関係する日です。ペンテコステというギリシャ語の言葉の意味は、50番目という意味なのです。では何から数えて50番目なのかといえば、ユダヤ教のお祭りの一つである初穂の祭りから数えて50日目ということです。初穂の祭りというのは、収穫の初穂を神に感謝してお献げする日ですが、人類の中で初めて死者の中から復活したイエス・キリストを比喩的に言えば人類の初穂です。ですから、初穂の祭りとはそのままイエスの復活の日を指し示すものなのですが、それから50日後に教会に聖霊が降ったので、その日がペンテコステの主日となったのです。

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御霊の働き
第一コリント12章1~11節

1.導入

みなさま、おはようございます。今月の第4主日はペンテコステ主日、初代教会に聖霊が降った日のことを記念する日になります。私たちは第一コリントの学びを続けていますが、奇しくも今回と次回の箇所はその聖霊の働きについてのパウロの教えになっています。ですから、ペンテコステ主日にもこの第一コリントの講解を続けていきます。さて、これまでの説教でなんどもお話ししていますが、第一コリントの手紙は内容がとても具体的です。パウロはコリントの教会で起こっている様々な問題を、手紙を通じて取り扱っています。先の8章から10章までは「偶像にささげた肉」の問題を取り扱っていました。11章以降は、パウロは新しいテーマに入ります。それは「礼拝」にまつわる様々な問題です。11章から14章まで、パウロは礼拝に関するいろいろな問題を取り扱います。パウロはまず11章で、礼拝中の女性のヘアー・スタイルの問題と、先週は「主の晩餐」、つまり「聖餐式」の問題についての教えやおすすめを書きました。今日のところからは、礼拝中における聖霊の働きに注目していきます。パウロはこれから、特に異言語りといわれるカリスマ的な働きについて指示や勧告を与えていくのですが、今日のところは聖霊についての基本的な事柄を語っています。

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主の晩餐
第一コリント11章17~34節

1.導入

みなさま、おはようございます。早いもので、5月に入りました。今は本来ならばゴールデン・ウィーク真っ盛りの時期ですが、今回も昨年に続き、緊急事態宣言下での大型連休となりました。どこかに行楽で出かけていくのは難しく、家で過ごす時間が長くなると思いますが、今日の説教箇所も「家」というのが一つの大きなテーマになります。先週の説教でお話ししたように、この第一コリント書簡の11章から14章にかけて、パウロは礼拝についてのいくつかの重要な問題を取り扱っています。前回は、礼拝中に女性が頭にかぶり物をする、あるいは頭を結わえるという、ヘアスタイルの問題を扱いました。そして今日の箇所では「主の晩餐」について語っています。主の晩餐というのは、私たちの教会用語でいえば「聖餐式」のことです。私たちは聖餐式を毎月の最初の日曜日に行っていますが、毎週の日曜日ごとに聖餐式を行う教会もあります。カトリックや聖公会の教会がそうです。逆に年に3回とか、限られた数だけの聖餐式を行う教会もあります。さて、大事なことはパウロがここで語っている「主の晩餐」というのは、私たちが行う聖餐式とはだいぶ様相が異なっていたということです。私たちが行っている聖餐式は、キリスト教2000年の歴史の中で練り上げられたもので、確固としたスタイルを持っています。まさに「儀式」という趣があります。皆さんが他の教会に行ってそこで聖餐式に与っても、戸惑うことなく普通に参加できるのは、それだけ聖餐式のやり方が普遍的に確立しているからです。しかし、パウロが活躍した時代はキリスト教の黎明期であり、聖餐式についても、これといった定まったスタイルはありませんでした。新約聖書がまだ出来上がっていない時代ですから、式文といいますか、聖餐式で語る言葉もはっきりと決まっていなかったのです。ですから、信仰に入って日が浅い信徒の中には、主の晩餐というのは何のためにするものなのか、よく分かっていなかったような人もいました。主の晩餐を、単なる食事会の一部のように考えていた人もいたようなのです。

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男と女について
第一コリント11章2~16節

1.導入

みなさま、おはようございます。いつもお話ししているように、今学んでいるコリント第一の手紙は、その内容がたいへん具体的・実際的であるのをその特徴としています。というのも、パウロはコリントの問題で起こった様々な問題の一つ一つを取り扱う形でこの手紙を書いているからです。パウロは8章から10章にかけて、「偶像にささげた肉」の問題をじっくりと取り扱いました。このテーマに沿って、私たちも今年の2月から数カ月にわたって学んできました。そしてこのテーマが終わり、今日の箇所からパウロは新しい問題に取り組みます。今日の11章から14章にかけて、パウロが扱う問題とは、「礼拝」です。コリントの教会の礼拝において生じた問題、それには礼拝における聖餐式や異言語りなどが含まれますが、それらについてパウロは取り組みます。その中に、あの有名な「愛の讃歌」も含まれています。

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サウル王の遺棄
サムエル記第一15:10-23
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

今月はサムエル記からです。サムエル記は上下2巻あります。上巻は預言者サムエルとイスラエル初代の王サウルの話です。下巻は王となったダビデの話です。中原キリスト教会では木曜会で山口先生がサムエル記からお話をされていますので、私のお話において、それも参考にさせていただいております。今日の聖書個所としてあげましたのはサムエル記第一15:10-23ですが、お話は15章全体を念頭にお話し、させていただきます。まず15章には何が書いてあるかを若干のコメントをしながら概略ご説明します。

15:1-3で預言者サムエルはアマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ、との主の命令をサウルに伝えます。15:3には「今、行って、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ。容赦してはならない。男も女も、子どもも乳飲み子も、牛も羊も、らくだも、ろばも殺せ。』」とあります。ヨシュア記、士師記を呼んだ方は驚かないかもしれませんが、このような知識のない方は驚きます。集団殺戮と何ら変わりません。アマレク人と言うのはユダヤの南のネゲブ砂漠の方に住んでいた人々です。聖書による血統ではイスラエルの始祖ヤコブの兄弟エサウの孫アマレクの子孫です。したがって、そんなに遠くない親類です。全滅させよ、という理由は出エジプトの時、イスラエルの民が南からカナンの地に上ってくるのを邪魔したから、というのです。この理由は調べると怪しいものです。一度は、アマレク人とカナン人がいっしょになってイスラエルを打ち破り、イスラエルがカナンの地に入るのをあきらめさせましたが、結局、モーセはヨシュアをたてて、アマレクを打ち破り、出エジプト記17:14では「アマレクの記憶を天の下から完全に消し去った」ことになっています。サムエルが言っていることは、常識的には何癖です。理由にもならないことを理由にした復讐です。

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偶像にささげた肉(2)
第一コリント10章14~11章1節

1.導入

みなさま、おはようございます。先週は幸いな復活祭がもてたことを心より感謝いたします。今日の説教では、再び第一コリントに戻ります。さて、これまで学んできましたように、8章から今日の箇所までパウロはずっと同じテーマを取り扱っています。それは「偶像にささげた肉」の問題です。この点については毎回話していますが、今回も簡単におさらいしましょう。古代社会では、肉は貴重な食べ物で、今日のようにいつでもスーパーで買えるようなものではありませんでした。では、古代世界最大のブッチャー、お肉屋さんはどこかといえば、それはゼウスやアポロン、アルテミスなどのギリシャ・ローマの神々を祭る神殿でした。こうした神殿で神様をどうやって礼拝したのかといえば、牛や羊などの家畜動物を屠り、そのお肉を燃やして香ばしい香を焚き、それを神々におささげしたのです。しかし、動物の脂肪を全部燃やしたわけではありません。肉のある部分は、神殿の中での食事会や晩さん会に使われ、それでも残った部分は市場に売られたのです。ですから、「偶像にささげた肉」を食べるという場合、二つの問題がありました。一つは、神殿でのお肉の食事会や晩さん会に果たしてクリスチャンは出てもよいのか、それは偶像礼拝になってしまうのではないか、ということで、もう一つは市場で売られているお肉が、偶像の宮で神々に捧げられた肉のお下がりである場合、その肉を食べてもよいのか、という問題でした。今日の箇所は、これまでの議論の締めくくりとしてパウロはこの二つの問いに対して、具体的な指示を与えています。

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復活の経験
ヨハネ福音書11章17~27節

1.導入

みなさま、復活祭おめでとうございます。復活祭はキリスト教の祝祭の中でも最大かつ最も大切な日です。初代教会からの伝統を最もよく保っていると言われるギリシャ正教にはクリスマスを含む12の大祭がありますが、復活祭はこの12の中には含まれない、別格の大祭とされます。なぜなら、主イエス・キリストの公生涯において、この復活という出来事ほど重要なものはないからです。パウロは、もしキリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰は全く意味のないものとなる、と語っています。その箇所、第一コリントの15章14節を開いてみましょう。

そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。

そこで今朝は、主イエスが復活したことと、私たちの救いの関係について考えてみたいと思います。私たちプロテスタント教会では救いを語るときに復活よりも十字架に強調点が置かれるからです。私たちは「イエスの十字架によって救われた」とは言っても、「イエスの復活によって救われた」と言うことはほとんどないのではないでしょうか?私たちの罪のために、私たちの身代わりとしてイエス様が十字架で死んでくださった、だから私たちは救われるのだと。しかしパウロは、イエスが十字架で死んだだけでは私たちは救われないのだ、ということを強く訴えています。先ほどのコリント書の続きでパウロはこう書いています。

そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。

と、こう語っています。十字架だけでは十分ではないのです。

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