僕(しもべ)となられた王
ヨハネ福音書13章1-17節

1. 序論

みなさま、おはようございます。当教会に就任して初めての説教が、主イエスのエルサレム入城を記念する棕櫚(シュロ)の主日となったことに、感慨深いものがあります。棕櫚の主日というのは、イエスがエルサレムに入城した時に、人々が棕櫚の枝を振ってイエスの入城を歓迎した出来事を記念する日です。シュロとはヤシの一種で、ほうきにも使われる丈夫な枝をならせます。その枝を振ることには、勝利者である王様を迎えるという意味がありました。しかし、それからわずか6日目にはイエスは逮捕され、十字架に架けられて死ぬことになります。その当時のエルサレムはものすごい数の人々で溢れかえっていました。今年の夏の東京オリンピックは延期になりましたが、もしこの夏に開かれていたら、この東京は世界中の人々で溢れかえっていたでしょう。イエスが最後の1週間を過ごされたエルサレムも、まさにそんな状況でした。なぜなら、その時にはエルサレムでは過越の祭りが祝われていたからです。過越の祭りというのは、イエスの時代からさらに千数百年ほど前に、エジプトで奴隷にされていたイスラエルの人々を、神がモーセを遣わすことで解放したことを記念するお祭りです。神は、イスラエルの人々を自由にしなさい、とエジプトの王ファラオに命じますが、ファラオはそれを拒否します。そこで神は10の災いをエジプトの地に下し、そして最後の10番目の災いが下ると、ファラオもとうとう降参して、イスラエル人を自由にします。その時のことを記念するのが過越の祭りでした。その祭りは夜祝われますが、その日には、各家庭は子羊を屠り、夜中に過越の食事をとるのです。

“僕(しもべ)となられた王
ヨハネ福音書13章1-17節” の
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