* 説教者の希望により、説教原稿を改定しています。そのため、音声と以下の内容が一致しないことをご了承ください。
今日から数回、士師記を学びたいと思います。ヨシュア記、士師記は旧約聖書の難物です。聖書の言葉を文字通りに読んで、「納得」という訳にはいかないからです。その理由は、人間から見て、残虐に見えるような事柄が起こり、それが「神の命令」「神の計画」であると書かれているからです。
そのうち最たるものは新改訳聖書で「聖絶」と訳されている言葉についてです。聖なる破滅と書きます。この言葉が最も沢山出てくるのはヨシュア記です。ついで、申命記、サムエル記と続きます。ヨシュア記では戦争のあと、敗戦のカナンの人々を全員、殺すという意味で出てきます。主なる神の命令として出てくるのです。ヨシュア記の次の士師記ではわずか2か所にしかでてきませんが、そのあとのサムエル記になりますとこの意味での「聖絶」が復活したかの如く何度も登場します。ヨシュア記ではイスラエルの民はカナン人に連戦連勝で、その勝利のあと、対戦の相手を全員殺せと命じられています。士師記になると、イスラエルは周辺の民族との融和路線になり、そもそもすっきりと勝利した戦争は消えます。そのため「聖絶」の言葉も登場回数が減ります。はっきり言えば、カナンの民の方が強かったので、戦争を仕掛けるなどと言うことはほとんどできなかったのです。しかし、サムエル記にはいると周囲の民族との民族存続をかけた戦争に突入します。初代の王サウルはアマレク人を打ち破り、その民を「聖絶」しますが、その家畜は「聖絶」しなかったということから、王として不適格とされる事態に至ります。サウルは精神病のような状態になり、結局、ダビデが王位につくことになります。
“士師記の時代士師記1:27-33
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