おのおのの仕事
第一コリント3章1~17節

1.導入

みなさま、おはようございます。来週からいよいよアドベントが始まりますが、ここ数日は夏日になろうかという温かさで、どうも季節感のない日が続いています。次週以降のアドベントですが、クリスマスの主日はもちろん特別なメッセージをしたいと思っておりますが、それまではこれまで通りコリント書簡の講解説教を続けていきます。この書簡から、クリスマス・シーズンにふさわしい説教ができると考えているからです。クリスマス・シーズンをどのように過ごすべきか、という話は次週にしたいと思っています。

さて、今日の箇所は、前回に続いてとても大事な内容です。今日の箇所では、パウロは特に教会について話しています。教会とは何か、また教会のリーダーとはどんな人たちなのか、ということを豊かなイメージを用いて語っています。イメージと言いましたが、つまりは比喩を用いて、パウロは教会とその指導者のことを説明しているのです。比喩には二通りあって、「君はバラのようだ」というように、「ようだ」を付けるのが直喩、「君はバラだ」と言い切るのが隠喩、メタファーです。君はバラだ、と言われるのは女性でしょうが、この言葉を聞いて単純に喜ぶわけにはいかないかもしれません。なぜなら、確かに良い意味では「君はバラのように美しい」という誉め言葉でしょうが、悪い方の意味では「君はバラのように棘がある、意地が悪い」という皮肉かもしれないからです。

このように、隠喩には話の流れによっていろいろな意味合いを持ちえます。パウロはいくつかの隠喩を用いて、自分自身や教会の人々のことを説明しています。そして最後にパウロはコリント教会の人たちを、「あなたがたは神の神殿です」と言っています。これは隠喩のように聞こえます。しかしパウロはここで、単なるたとえではなく、もっと強い意味で、つまりあなたがたは神殿のようだと言っているのではなく、あなたがたは神殿そのものだといっているのです。確かに、「あなたがたは建物です」と言われた場合、それは隠喩です。なぜなら人間は建物ではないからです。しかし、神殿という言葉は単に建物を指すのではなく、神の霊が宿る聖なる空間という意味があります。パウロは、あなたがたには神の霊が宿っている、だからあなたがたこそ神の神殿なのだ、と語っているのです。

では、パウロが思い浮かべている神殿とはどのようなものでしょうか?神殿と聞けば、ギリシャの白亜の石柱の美しい神殿、アテネにあるパルテノン神殿を思い浮かべるかもしれません。しかし、パウロが「あなたがたは神殿だ」といったとき、まちがいなくエルサレム神殿をイメージしています。皆さんはエレミヤ書の話を覚えているでしょうが、最初にエルサレムに建てられたのはソロモン神殿と呼ばれる立派な神殿でした。しかしこの神殿はバビロンによって破壊されました。その70年後、ユダヤ人は二つ目の神殿を建てましたが、それは第二神殿と呼ばれます。この神殿は、のちにヘロデ大王によって大規模拡張されたので、ヘロデ神殿とも呼ばれます。イエスやパウロの時代にエルサレムに建っていたのは、このヘロデ神殿です。イエスはこの神殿で、両替人などを追い出す宮清めと呼ばれる行動をし、ユダヤ人たちと口論になります。そのことを記した、ヨハネの福音書2章18節以降を読んでみましょう。

そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。

イエスはここで、自分こそヘロデ神殿に代わる新しい神殿、いわば第三神殿なのだ、と宣言したのです。そして教会はキリストのからだです。キリストが神殿ならば、キリストのからだも神殿なのです。ですから、私たちキリスト者は本当に神殿なのです。しかし、あなたがたは神殿なのです、と言われてもそれはいったいどういう意味なのか、と思われるかもしれません。その問いを抱きながら、今日の聖書テクストを読んでいきましょう。

2.本文

まず1節から3節を見ましょう。ここでパウロはずばりと、コリントの人々を叱責しています。コリントの教会の大問題は、内部分裂の問題でした。彼らの間には「ねたみや争い」がありました。コリントの人々は、「パウロ派」「アポロ派」「ペテロ派」などの派閥を立ち上げて、互いに争っていました。何を争っていたかといえば、知恵において抜きんでること、また霊的な賜物において他の人よりも多くのものを受けることでした。「あの人は霊的だ。霊性において優れている」と褒められたかったのです。それで、パウロとペテロではどちらが知恵において優れているか、または霊的な賜物において一番すぐれた使徒は誰かと論じ、一番すぐれた使徒のグループに入ることで、自分の教会内での地位を高めようとしたのです。そのような彼らに対し、パウロは皮肉たっぷりに言いました。「あなたたちは自分たちは霊の人だと思っているようだが、それはとんでもない勘違いです。あなたがたは霊の人どころか、肉の人なのです」と彼らに語っています。パウロの手紙では、肉の人というのはとても否定的な意味があります。例えばローマ人への手紙の8章13節でパウロはこう言っています。

もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。

肉に従って生きる人、肉の人は死ぬ、とまで言っています。しかし、パウロはコリントの人々をまさに「肉の人」と呼んでいるのです。ではコリントの人々はといえば、彼らは自分たちのことを霊の人だと見なしていました。当時のコリントの教会は、確かに御霊の働きがとても盛んでした。この点は、私たちが想像するのが難しい点です。私たちは「聖霊」というお方を、教理としては分かっています。父なる神、子なるキリストと共に三位一体の神です。しかし、では聖霊の偉大なる働きを身近に感じているかというと、なかなかそうは言えないと思います。むしろ異言語りなど、聖霊の働きを強調するペンテコステ派について、無秩序だとか、熱狂的だなどと警戒する方が多いように思います。こういう警戒感の一つには、私たちは聖霊のカリスマ的な働きというものに慣れていないということがあります。

けれども、コリントの教会では事情が違いました。聖霊のカリスマ的な働きが教会内で起こるのはあたりまえのことでした。聖霊の働きが強すぎで、パウロはこのコリント書簡では後にそれを抑えるようなことを書いています。コリントの教会では、ほとんどすべての信徒が聖霊の溢れるような働きを経験していました。ですから、そのような教会にいる人たちが「自分たちは霊的なんだ。霊の人なのだ」と考えてしまうのも頷けます。しかし、聖霊のカリスマ的な働きを経験したからといって、その人が「霊の人」になるのではありません。むしろ、キリストの心、キリストの霊を持って、キリストに倣って歩む人、そのような人が霊の人なのです。キリストはへりくだった方でした。神の力を持ちながら、それをひけらかすことはせずに、困った人を助けるためだけにその力をお用いになりました。しかし、コリントの人たちは「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思う」(ピリピ2:3)という、キリストの霊に導かれて歩む人とは全く逆の歩みをしていました。そこでパウロは彼らのことを「霊の人」ではなく「肉の人」と呼んだのです。

そしてパウロは、彼らが派閥のリーダーとして担いだパウロやアポロとは何者なのか、ということを語り始めます。彼らは勝手にパウロやアポロをリーダーに担ぎ上げましたが、彼らはリーダーではなくしもべでした。もっと正確に言うのならば、キリストの群れにおいてはリーダーとは率先して仕える人でなければならないのです。主イエスもこう言われました。

あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。(マルコ10:43-44)

そうして、王の王であるイエスが来られたのも、人を自分に仕えさせるためではなく、かえってご自分が仕える王となるためだったのです。そして、パウロやアポロはコリントの人々が選んだリーダーなのではなく、主イエスが選んだリーダーなのです。彼らは二人ともイエスから選ばれたのだから、そこには優劣はなく、どちらも主のしもべに過ぎません。パウロは自分たちのことを「私が植えて、アポロが水を注ぎました」と書いています。初代の宣教師であるパウロが教会の基礎を固め、二代目の宣教師のアポロがその教会を発展させたのですが、彼らはそれぞれ自分たちに与えられた役割を果たしただけで、そこには優劣はありません。むしろ、その背後にあって植物を育てているのは神ご自身なのです。「植える者と水を注ぐ者は一つだ」とパウロは言いますが、まさにその通りです。コリントの人々が勝手に分けてしまったパウロとアポロは、主にあって一つなのです。そしてパウロは「それぞれ自分自身の働きに従って自分自身の報酬を受けるのです」と言いますが、これは大事なポイントです。彼らはそれぞれの成果に従って報いられるのではなく、それぞれの労働に従って報いられるのです。神様の評価は成果主義ではありません。教会が大きくなったから、信徒の数が増えたから、献金が増えて立派な建物が立ったから、そのような成果に応じて神は働き人に報いるのではありません。神が見ているのは労働そのものです。その人がどれだけ忠実に、自分に与えられた仕事を行ったのか、その働きを神はご覧になります。その働きがどれほどの成果を生むのかは神のみこころ次第であり、私たちの実力の成果ではないのです。ですから、私たちは人間として実績ということを気にしてしまいますが、まず主の前に忠実に歩むという、そういう教会でありたいと思わされます。

次いでパウロは「あなたがたは神の畑です」と語ります。これは明らかに隠喩ですね。教会とは、そして教会員一人ひとりは畑なのです。これはイエス様がよく用いたたとえを思い起こさせるところがあります。主イエスは神の王国について、それは地に落ちた種のようだ、ということを語られました。人手に寄らず、おのずから知らぬ間に成長する食物のように、神の王国は大きく成長していくということを主イエスは語られました。しかし、もちろん人の手が加わったほうが食物はより早く、豊かに実を結びます。パウロは教会を、植物を生み出す「畑」にたとえています。そしてパウロやアポロは、その畑で働く農夫にたとえられます。ではその畑に育つ食物とは何でしょうか?それは、教会員の行う愛の業、信頼と赦しに満ちた共同体の在り方を指すのでしょう。

このように、パウロはまず「あなたがたは神の畑だ」と言いますが、次いで「あなたがたは神の建物だ」と言います。「神の建物」とは何のことかと思われるかもしれませんが、これこそ神の神殿という建物のことです。先ほども言いましたように、パウロがここで思い浮かべているのはエルサレムにある壮麗な神殿です。この神殿がイエスやパウロの時代のユダヤ人にとってどれほど大切なものだったか、強調しても強調しすぎることはありません。エレミヤ書の説教の時に話しましたが、イスラエルではどこでも好きなところで神様を礼拝してもよい、というわけではありませんでした。礼拝は、一か所だけ、エルサレムにある神殿でのみ献げることができたのです。そこは神の霊が宿る聖なる空間、神聖な場所でした。パウロは、あなたがたはその聖なる空間に建つ建物のようだ、というのです。しかし、パウロが本当に人々に注意を払わせたかったのは、その建物の土台です。この土台こそ、イエス・キリストです。どんな立派な上物を建てようとも、土台がしっかりしていなければ、よい建物にはなりません。そして、私たちの土台は最良の土台です。それはイエス様だからです。私たち教会は、このイエスという土台の上に建てられるのです。パウロは自分の役割について、このイエスという土台を据えた建築家になぞらえています。パウロはコリントの地に、イエス・キリストという土台を据えました。そしてアポロたち、パウロの後から来た宣教師たちは、その土台の上に建物を立て上げていったのです。

しかし、建物にもいろいろあります。パウロは金で出来た教会、銀で出来た教会、宝石で出来た教会、木でできた教会、草でできた教会、わらで出来た教会があると言います。そういわれても、なかなかイメージしづらいかもしれませんので、一つ例を挙げましょう。イギリスで第二次大戦を戦い抜いた総理大臣だったウィンストン・チャーチルは大変有名です。彼は今でもイギリスで一番人気のある政治家ですが、彼は第二次大戦で日本を敵に回すことになったときに、日本の家のことを紙と木でできている家だと揶揄しました。そして確かに当時のイギリスの家は石で作られていましたし、今でもそうです。私も7年間イギリスで暮らしましたが、空港から降りてバスに乗ると、石造りの街並みが見事だな、といつも感じました。チャーチルは、紙や木よりも石のほうが丈夫だ、空襲で火事になっても燃え尽きることはない、だからイギリスが戦争で勝つ、と言いたかったわけですが、このことは今日のみ言葉と関係があります。パウロや他の福音伝道者たちが立て上げる教会は様々な材料でできた建物に譬えられていますが、こうしたそれぞれの建物はかの日、つまり主が再び戻ってこられる「主の日」において、火によって試されるというのです。わらで出来た教会は燃え尽きてしまうでしょうし、金や宝石の教会はどんな火によっても燃え尽きることはないでしょう。パウロがここで言いたいことは、おのおのの教会の質を神が評価するということです。言い方を変えれば、福音宣教者たちの仕事の質が吟味されるということですが、その評価の基準とは彼らが立て上げた「教会」の質なのです。先ほど、神が私たちの仕事を評価する基準は成果主義ではなく、私たちの働きそのものだ、と申しました。教会が大きいか、小さいか、ということを私たち人間は気にするとしても、神は気に留められません。しかし神は私たちの働き、仕事の「質」には高い関心を持っておられます。私たちの働きが愛に基づく、神に忠実なものであれば、そのような働きによって立て上げられた教会も、そのようになります。そして神は、そのような教会の「質」を吟味されるのです。その吟味の方法とは、これはたとえなのでイメージするしかないのですが、それぞれの家が火で燃やされ、それが焼け付きてしまうか、あるいは燃え尽きないで残るのか、そのようにして試されるのです。その箇所をもう一度お読みします。

もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。

これは心して聞かなければならないメッセージです。私たちの教会はいずれ、その質を神によって吟味されます。私たちの教会が神の審査に耐え抜いた場合、存続する教会だと認められた場合には、私たちは神から大きな報いを受けることになります。しかし、もしその教会が神の審判に堪え得ない場合、神の目から見て存続する教会だと認められない場合には、教会は、特に福音伝道者は損害を被ります。その際、その伝道者個人の救いそのものが否定されるわけではありません。なぜなら救いの根拠は各人の働きや仕事に基づくのではなく、キリストの働き、とりわけその死と復活とによるからです。私たちはすべで恵みによって救われます。しかし同時に、救われた者も、その仕事ぶり、働きが神によってしっかりと吟味されるのです。その働きが神の目に良しとされない場合には、その人は「火の中をくぐるようにして助かります」。これが一体どのような意味なのか、パウロは詳しくは説明しませんが、それでも本当に心して受け止めなければならない神の警告だと思わされます。そして、教会が試されるのは何も再臨の時だけではありません。

私たち中原キリスト教会は、今年で創立51年を迎えます。それまで何度も困難な状況に直面したことがありますが、教会員の献身的な働き、何よりも主の守りと憐みの中で存続することが許されてきました。そして、言うまでもなく、今年は大変な試練の年になりました。私が教会に赴任して、その翌週には政府から緊急事態宣言が出されるという、困難な状況に置かれました。まさに火で試されるような試練だったと思えます。しかし、その中でもこの教会は守られて、ここまで着実な歩みをすることが出来ました。まだまだ大変な状況は続きますが、ぜひ皆で心を合わせて、祈りつつ歩んでまいりたいと願っています。

さて、パウロは教会とその信徒たちを「畑」、「建物」にたとえましたが、いよいよそのクライマックスとも呼ぶべきポイントに入っていきます。それは、あなたがたは神の神殿なのだ、ということです。先ほども言いましたが、ここでパウロは隠喩を使っているのではなく、文字通りの意味で「あなたがたは主の神殿だ」と言っているのです。なぜそんな大それたことが言えるのか?それは私たちには神の霊、聖霊が宿っているからです。パウロはこのように言います。

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。

私たちは神の神殿である言われると、なんだか誇らしい気分になるかもしれません。しかし、それ以上にこれはある意味で恐ろしいことでもあるのです。私たちが神の霊を受けているということの意味を、主イエスの兄弟であり、パリサイ派からも「義人ヤコブ」と呼ばれて大変尊敬されていたヤコブは次のようなことを書いています。ヤコブの手紙4章3節以降をお読みします。

願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであるのがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。それとも、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる」という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。

古代のイスラエルでは、エルサレムの神殿を汚すものは問答無用で石打ちの刑に処せられました。神の家はそれほど神聖犯すべからざるものでした。世の中の俗なるものとは異なる、聖なる場所なのです。ですから、そのような聖なる場所で狼藉を働くものは許されませんでした。それと同じように、神の神殿である教会を壊すようなことをするものを、神は許しません。「もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます」とパウロは語ります。これは、自分の利益のために分派争いをして教会の一致を乱そうとしているコリントへの非常に厳しい警告です。あなたが神の神殿であるならば、あなたの隣に座っておられる方も神の神殿なのです。ですから私たちが兄弟姉妹をつまずかせるとき、私たちは神の敵になってしまうのです。私たちが神の神殿であるということは、大いなる励ましであると同時に、そこには厳しい警告も含まれていることも忘れないようにしましょう。私たち一人一人は、神がねたむほどに愛する、そういう存在なのです。

3.結論

さて、今日は「おのおのの仕事」と題して、神の畑を耕し、神の建物を立て上げるために働く神の伝道者たちのこと、そして神の畑であり、神の建物であり、そしてなによりも神の神殿である教会のことをパウロの手紙から学びました。そして私たちの立て上げる建物、つまり教会は、いずれ火によって吟味されることになります。私たち、また私たちだけでなく世界の教会が今置かれている厳しい状況も、火の試練と言えるでしょう。しかし、試練を耐え抜いてその教会が立ち続けるなら、私たちは主からの報いを受けられるのです。ですから、今日も明日も、誠実に主から与えられたおのおのの仕事を果たしてまいりましょう。そのために、ひと言お祈りいたします。

私たち主の教会を、ねたむほどに愛しておられる神よ。そのお名前を賛美いたします。私たちの土台は主イエス・キリストです。そのことを感謝し、その土台の上に堅固な教会、試練に耐え抜くことのできる教会を立て上げていくことが出来るように、私たちに力をお与えください。特に今日の午後は「冬の会」が持たれます。この教会のための有意義な時間となりますように。一切を主にお委ねします。私たちの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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