世の知恵と神の知恵
第一コリント2章3~16節

1.導入

みなさま、おはようございます。11月に入りました。今日の主日は多くのプロテスタント教会では召天者記念礼拝が行われていますが、当教会では次週に行いますので、今日は通常の聖餐礼拝とさせていただきます。さて、コリント書簡からの説教は今日で四回目になりますが、今日の箇所は、先週の説教箇所の続きですので、少しこれまでの流れを振り返ってみましょう。コリントの教会には大きな問題が生じていましたが、その問題とは、分派争いでした。コリントの人たちは「パウロ派」「アポロ派」「ペテロ派」などの派閥を作って、互いに競っていました。彼らの関心の一つは、優れた「知恵」を得ることでした。ギリシャ文明において知恵は非常に高く評価されました。そこでコリントの人たちは、パウロやアポロ、あるいはペテロの中で誰が知恵において優れているのか、ということをとても気にしていました。できれば一番「知恵」の優れたリーダーに付きたい、そうすれば自分も知恵において優れた存在になれると、そう考えたわけです。そういうわけで、先週の聖書箇所にも「知恵」という言葉が何度か登場しましたが、今日の聖書箇所ではまさに「知恵」が中心的なテーマとなっています。パウロは今日の箇所で、ソフィア、これはギリシャ語の知恵という意味ですが、それは一体何であるのかを論じています。パウロは先に、「ギリシャ人たちは知恵を求める」と書いていますが、コリントで主を信じるようになったギリシャ人のクリスチャンたちは、クリスチャンになる前も、またクリスチャンになってからも、相変わらず知恵を求めていました。当時のギリシャでは、高い知恵を獲得することで、この人は優れた人だ、と社会的に尊敬されたからです。コリントの教会の人たちの中には、キリスト教の先生にも、他のギリシャの哲学の先生のように自分たちに優れた知恵を教えてくれることを期待していました。

そこでパウロは、彼らが求めているその優れた知恵とは実は「十字架」なのだ、と言うのです。当時の人々にとって十字架とは恥のシンボル、弱さのシンボル、また社会の底辺、負け組のシンボルでした。しかしパウロは、十字架によって示された神の知恵とは、力や知識、知恵によって自分を他の人より優れた者にしたい、という世の願いとは逆で、かえってみずからを仕えるもの、自らを低くして人に仕える、その愛の奉仕によって世界に変革をもたらすという、そういう知恵でした。コリントの人たちはそのような神の知恵を理解しなかったので、互いに競い合っていたのでした。そのことを考えながら、今日の聖句を読み進めていきましょう。

2.本文

今日のみことば、2章の3節ですが、パウロはここで、自分が初めてコリントを訪れた時のことをコリントの人々に思い起こさせようとします。パウロがコリントにたどり着くまでの歩みは苦難に満ちたものでした。ヨーロッパ宣教を開始したパウロは、まずマケドニア地方のピリピで伝道を開始しました。その時の経験を、パウロはテサロニケ第一の手紙2章2節でこう書いています。

ご承知のように、私たちはまずピリピで苦しみに会い、はずかしめを受けたのですが、私たちの神によって、激しい苦闘の中でも大胆に神の福音をあなたがたに語りました。

パウロは次いで、マケドニアのテサロニケに行きますが、そこでも激しい反対に遭い、設立して日が浅いテサロニケ教会を後に残し、南下して学問の都、知恵の都アテネに向かいました。アテネでの宣教は不首尾に終わり、それからコリントに向かったわけです。それまでの間、迫害に次ぐ迫害で、まさに石に枕するような生活を送ってきたのです。ですからコリントにたどり着いたときのパウロは、お世辞にも格好の良い、今でいえばパリッとしたスーツ姿ではなく、ヨレヨレのくたびれた格好で登場したのでした。パウロの宣べ伝えた福音は「十字架の福音」、つまり弱さの中で死なれた神の福音だったのですが、十字架でまったく無力な存在としてみじめに死なれたキリストと同じように、パウロもまた風采の上がらない無力な存在としてコリントに行きました。「あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。」パウロは弁舌さわやか、元気はつらつ、見事な話術で福音を宣べ伝えたのではなく、よれよれの弱り切った状態で福音を伝えたのです。ちなみに、パウロが初めて小アジアのガラテヤに行った時も同じような状況でした。ガラテヤ書4章13-14節です。

ご承知のとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり、きらったりしないで、かえって神の御使いのように、またキリスト・イエスご自身であるかのように、私を迎えてくれました。

パウロは、十字架に付けられた神というメッセージをそのままストレートにガラテヤでもコリントでも伝えました。それを伝えるパウロ自身も、まるで十字架に付けられているかのように、弱弱しく、カッコ悪かったのです。しかし、そんなうだつの上がらないパウロを通じて、神の驚くべき偉大な力が働きました。パウロは聖霊によって力を与えられ、人々の間で驚くべき奇跡をおこなったのです。パウロはガラテヤ書3章5節で「あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行われた方は」と書いています。コリントでも同じでした。パウロは、

私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。

風采の上がらない、弁舌がうまいわけでもない、恐れおののく小男であるパウロを通じて、神は御霊による大いなる奇跡を行ったのです。それは異言語りや預言、また病の癒しであったのでしょう。コリントの人々も、パウロのみすぼらしい外見や迫力のない話術と、彼のなす驚くべき業の落差に驚いたことでしょう。そして「あんなにダサい男が、これほど素晴らしい業を行うことが出来るのは、彼がすごいからではない。きっと、この小さな男を通じて神が働いているに違いない」と確信するようになったのでした。パウロがあまりにも弱弱しくカッコ悪かったので、人々はパウロに注目することなく、彼を通じて働く神を見たのです。今日の流行の新興宗教では、神様よりも教祖の方がえらくなってしまうことがあります。それは人々が神ではなく、素晴らしい業を行う人の方に注目してしまうからです。威厳のある教祖こそが奇跡をおこなっているのだ、と考えてしまうのです。しかし、パウロの場合はそうではありませんでした。彼には人々が慕うべき美しさやたくましさはなく、むしろ傷ついた、人から蔑まれるような外見をしていたからです。しかし、だからこそパウロは自分ではなく、神に人々の関心を向けさせることに成功したのです。それはパウロが人の知恵、世の知恵を用いて伝道したのではなかったからです。これが驚くべき神の宣教戦略だったのです。パウロは、「それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵でささえられず、神の力にささえられるためでした」と書いています。

このように、パウロはこの世の知恵の力ではなく、神の力によってコリントの教会で宣教を進めたのです。しかし、ではパウロには知恵がなかったのか、パウロの宣教には知恵がなかったのかといえば、そうではありません。むしろパウロがコリントの人たち語ったのはこの世の知恵ではなく、神の知恵でした。「しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります」と6節でパウロは言います。おやっ?と思われるかもしれません。パウロはこれまで自分は知恵を用いない、と言っていたのに、ここでは急に「知恵を語る」などと言い出しています。ここにはパウロの皮肉があります。「あなたたちがそんなに知恵を欲しがるなら、よろしい、知恵を語ってあげることもやぶさかではありません」と。しかしパウロはここで、「成人の間で」と但し書きを付けています。私が知恵を語るのは、成人した大人たちのためであって、子供のためではないと。ここにはパウロの皮肉があります。あなたがたは競い合い、背伸びして自分を大きく見せようとしているが、そんなことをしているあなた方は実は子供であって、私が知恵を語るべき対象、成人ではないのだと。実際、パウロは3章1節で次のように語っています。

さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子のように話しました。

あなたがたは自分たちが知恵と分別のある大人だと思っているけれど、互いに誰が賢いかなどと競いあっているようでは、キリスト者の共同体の中では子供、赤ん坊に過ぎないのだ、というのです。あなた方が求めている知恵を与えるには、あなたがたは幼すぎるのだと。

そしてパウロはさらに言います。「しかし、私が語ろうとする知恵は、あなたがたが切に求めている知恵とは全く違うものなのですよ」と。パウロは自分の語る知恵は「この世の知恵」ではない、と言っています。ここで注意していただきたいのですが、この世、というのは「この時代」と訳した方が正確です。この言葉はアイオーンというギリシャ語ですが、英語に直せば世界を意味するワールドではなく、時代を意味するエイジです。つまりパウロは、この世界ではない別世界の知恵を語ると言っているのではなく、今の時代ではなく新しい時代の知恵を語ると言っているのです。

パウロをよく理解するためには、「この時代」、「今の時代」と「来るべき時代」「新しい時代」という対比が非常に重要です。ここは誤解されやすいのですが、「この世」という言葉と対比されるのは「あの世」ではないのです。むしろ、昭和の時代と令和の時代というような、「古い時代」と「新しい時代」、それが問題なのです。パウロが言いたいのは、あなたがたが求めている知恵とは、もう時代遅れなのだと。イエスの十字架によってもう古い時代は滅び去り、イエスの復活によって新しい時代、来るべき時代、新しい創造の時代はもう既に始まっているのです。ですから、古い時代に属する知恵にはもう価値がないのです。新しい時代には、新しい知恵が必要なのです。この世の支配者たち、ローマ皇帝やユダヤを治める王であるヘロデ一門、あるいはユダヤ教の大祭司は、新しい時代に属する知恵、十字架によって示された神の知恵を悟ることはありませんでした。彼らはイエスを十字架に付けることで、彼らが権力を振るっている時代、自らの権力の基盤である時代を終わらせてしまったのです。イエスを十字架に付けるというのは、この世の権力者にとって自分で自分の首を絞めるようなものでした。この世の権力者たちの最終的なよりどころは暴力でした。自分の意に従わないものは武力でもって叩き潰す、それが当時の世界帝国であるローマのやり方でした。彼らはそのやり方で、うるさいイエスを黙らせようと殺しました。しかし、イエスが復活したことで、もう暴力は役に立たないことが明らかになってしまいました。紀元2世紀、3世紀のキリスト教の黎明期に、イエスを信じる人たちがローマ帝国による殉教を恐れなかったのは、イエスを信じることで死んでも生きることが分かったからです。神には死にすら打ち勝つ力があったのです。この世の支配者たちの究極の武器、暴力と死は、イエスの十字架と復活により牙を抜かれてしまったのです。ですから、ローマ帝国といえども、彼らに力ずくで信仰を捨てさせたり、彼らの考えを変えさせることが出来なくなってしまったのです。暴力によって人々の心を支配できた時代は終わり、新しい時代が始まったのです。神は新しい時代がもう始まっていることを、この世の弱い人々、軽んじられている人々には明らかにされましたが、この驚くべき事実はこの世の権力者たちの目には隠されていました。これからローマ帝国は数百年間、一生懸命暴力と死によってキリスト教を根絶しようとしました。しかし、それは逆効果でした。むしろキリスト教徒の数はどんどん増えていき、ついにはローマ帝国そのものがキリスト教に呑み込まれてしまったのです。コリント人たちが求めていた知恵は、過ぎ去り行く古い時代の権力者たちが用いていた知恵でした。しかし、そんなものはもはや時代遅れ、価値のないものなのです。

そして、その新しい時代、十字架と復活によって始まった新しい時代は、実は何百年も前に聖書によって預言されていました。パウロは2章9節で「聖書に書いてあるとおり」と言いますが、続く9節の言葉は聖書のどこから引用しているのか、実のところはよくわかりません。これと完全に一致する箇所は旧約聖書にはないからです。しかし、16節では確かにパウロはイザヤ書から引用しています。「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたのか」という下りはイザヤ書からのものです。そしてパウロの全書簡を通じて、イザヤ書はもっとも頻繁に引用される書なのです。ですから9節の「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの」というのも、イザヤからの引用ではないかと思われます。実際、この文脈にぴったりの箇所があるのです。それは、おそらく旧約聖書の中で最も有名な箇所、それなくしてはキリスト教そのものが誕生しなかったと思われるほど重要な聖書箇所、すなわちイザヤ書53章の「苦難のしもべ」の歌です。大事な箇所なので、ご一緒に見てみたいと思います。旧約聖書の1214頁、イザヤ書52章13節から53章1節までをお読みします。

見よ。わたしのしもべは栄える。
彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。
多くの者があなたを見て驚いたように、
―その顔立ちは、
そこなわれていて人のようではなく、
その姿も人の子らとは違っていた―
そのように、彼は多くの国々を驚かす。
王たちは彼の前で口をつぐむ。
彼らは、まだ告げられなかったことを見、
まだ聞いたこともないことを悟るからだ。
私たちの聞いたことを、だれが信じたのか。
主の御腕は、だれに現れたのか。

ここでは、不思議なことが語られています。神のしもべは、高められ、非常に高いお方だとされます。しかし、そのお方の顔はひどく損なわれ、傷つけられ、人ではないようなのです。その有様を見て、王たちは驚くのです。こんな話は、見たことも聞いたこともない、と。こんな話をいったい誰が信じられよう、とイザヤは語ります。実際、この世の人には十字架で痛めつけられて犬のように死んだ人物は世界の王として高められたなどという話は信じられないのです。パウロはそのことを、14節でこう語っています。

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼らには愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。

この世の人々、この世の知恵と常識によって判断する人には、十字架の福音は理解不能なのです。ここで先週語ったことを繰り返したいのですが、「十字架」というのは今日の私たちの文化ではペンダントやアクセサリーに使われたり、なんとなくお洒落で好ましいものとしてとらえられていますが、古代のギリシャ世界では口にするのもけがらわしいもの、忌まわしいもの、呪われたもののシンボルだったということです。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません」とパウロは言いますが、神の御霊に属する事柄とはまさに十字架のことです。神が、口にするのもはばかられるような「十字架」を通じて人を救うなどと言う考えは、当時の常識人にとっては愚かなことだとしか思えなかったのです。神なるお方が十字架にかかって下さって人間を救うなどということは、神の聖霊を受けた人にだけ理解できるような神の知恵なのです。パウロは「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたのか」と書いていますが、これもまた、イザヤ書からの引用です。イザヤ書40章13-14節ですが、旧約聖書の1188頁です。

だれが主の霊を推し量り、
主の顧問として教えたのか。
主はだれと相談して悟りを得られたのか。
だれが公正の道筋を主に教えて、
知識を授け、英知の道を知らせたのか。

神に何かを教えられる人がいるでしょうか。神の思いを知ることが出来る人がいるでしょうか。誰もいません、主ご自身の霊を除いては。そして、その主の霊、聖霊は、今やイエスを信じる者に与えられるのです。主の霊を持つものは、キリストの心を持ち、そしてキリストと結ばれている者だけが神の思いを知ることが出来るのです。そしてキリストの心とは十字架のことです。キリストがご自分を低くされて十字架までを耐え忍ばれたように、キリストの心を持つ者は自分を高くしよう、知恵の力によってほかの人より偉くなろうなどとはしないのです。かえってキリストのように身を低くします。日本のことわざに「実るほど頭が下がる稲穂かな」ということわざがありますが、キリストと共に歩む人は、知識を持てば持つほどますます謙遜になるのです。キリストの思いを持つ者はキリストのように生きるのです。その生き方は、コリントの人々がこの世の知恵を獲得することによって得ようとした生き方、己を高くする生き方とは正反対のものです。そのように自分を低くする生き方は自然の人、肉にある人には全く理解できません。しかし、主の聖霊を受けた人はもう新しい人、新しい時代を生きる人なのです。私たちも聖霊を受けた者として、新しい時代に相応しい生き方、イエスの十字架によって示された生き方をすることで、この世に主イエス・キリストを証ししてまいりましょう。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様。そのお名前を賛美いたします。今日はパウロのコリント教会への手紙から、今の時代の知恵と新しい時代の知恵について学びました。イエスの十字架と復活によって新しい時代が始まっています。この世はいまだに古い時代の力に縛られていますが、私たちは主によって新しくされたものです。そのようなものとして歩む力を私たちにお与えください。また、その生き方によってイエス・キリストを証しする力をお与えください。私たちの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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