エフタとサムソン
士師記11:1-6; 13:1-7
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

本日は士師記四大士師の二回目です。エフタとサムソンです。エフタの話はイスラエル人がヤハウェ信仰からはなれカナンの地場信仰に流れていくところからはじまります。カナンの地場信仰というのはバアルやアシェラに対する信仰であり、自然神・豊穣神への信仰です。そして、10:9「アモン人がヨルダン川を渡って、ユダ、ベニヤミン、およびエフライムの家と戦ったとき、イスラエルは非常な苦境に立った。」とあります。士師記の考え方はイスラエルがヤハウェ信仰から離れることが罪の始まりで、それに対する神のさばきが異民族支配です。そしてその異民族支配から独立することが神の救いの現れ、という考え方です。この考え方はユダヤ教正統派の主張であり、それは新約時代におけるメシア信仰にまでつながっています。士師記のここでもアモン人による支配は主なる神の裁きの現れです。アモン人はアンモン地方に住んでいた異民族です。今のシリアです。そのアモン人はヨルダン川の東、エモリ人の地に居たイスラエルを苦しめた、とあります。

士師記の後の話ですが、エモリ人の生き残りの部族であるギブオン人をイスラエルの初代の王サウルが虐殺しました。しかし、その後王となったダビデはサウルの子や孫七人をギブオン人に差し出し和解した、という話が第二サムエル記21章にあります。これから見ると、そもそもはエモリ人というのはイスラエルの味方の民族であった可能性は濃厚です。その民族とともにイスラエルの民はギルアデの地に住んでいた、ということです。そこにアモン人が侵入してきたのです。それが更にヨルダン川を渡って、イスラエル民族の主要な部族が居るヨルダン川西岸地区に侵入してきたのです。

10節で「そのとき、イスラエル人は主に叫んで言った。「私たちは、あなたに罪を犯しました。私たちの神を捨ててバアルに仕えたのです。」と告白し、救いを叫び求めています。これに対し、主の言葉は、繰り返す背信のためもう救いはない、というもの、でした。更にイスラエルは叫び求めます。そして16節「彼らが自分たちのうちから外国の神々を取り去って、主に仕えたので、主は、イスラエルの苦しみを見るに忍びなくなった。」と言われています。所謂「思い直す神」がここで表れています。アモン人が集まりギルアデに陣をしき、イスラエルはギルアデのミツバに陣をしきます。

そこにギルアデ人エフタが起こされます。この地のイスラエルは半マナセ部族ですので、エフテはマナセ出身と数えられます。父親の名はギルアデですが遊女の子であったため、兄弟はエフタを追い出しました。「ほかの女」の子、だからです。そして、エフタは逃げてトブの地に住んだとあります。トブはシリア砂漠の荒涼たる地です。そこに「ごろつき」どもが集まってきます。「ごろつき」はギデオンの時にも出てきましたが、やくざのような人々であったのではないか、と想像されます。しばらくして、いよいよ、アモン人がイスラエルに攻めてきます。ギルアデの長老たちはトブの地にあったエフタに自分たちの首領となってください、と頼みます。エフタは自分が追い出されたことを引き合いに出し断ります。ギルアデの長老たちは更に懇請します。とうとうエフタは「主が彼ら(アモン人)を渡してくださったら」という条件で首領を引き受ける、というのです。ギルアデの長老たちはこれを受け「主を証人として」戦勝の節にはエフタをかしらにすることを受け入れます。

エフタはアモン人に使者を送って、なぜアモン人はイスラエル人と戦おうとするのか、をたずねます。アモン人の王の答えは、出エジプトの際、イスラエルがエジプトから上ってきたとき、アモン人の国をとったから、今、返してくれ、というものです。これに対し、エフタは「イスラエルはその時、エドムの王、モアブの王に通らせてくれるよう頼んだが断られた。それで、これらの地を迂回して、アルノン川の向こう側に宿営した。そしてエモリ人の王シホンに通らせてくれと頼んだが拒否され戦いになった。そしてイスラエルはエモリ人の地全域を占領したのだ」と言います。アモン人が言う奪われた土地というのはエモリ人の土地をイスラエルが戦いで取った土地である、というのです。また、この地を巡ってのイスラエルの正統性を更に主張しました。イスラエルが300年間住んでいたのに、アモン人は取り返そうとしなかった、ということも言っています。主張は平行線です。アモン人はおそらく出エジプトの更にずっと前、BC24cのアッカド王サルゴンの時代のことを念頭に自分たちの領土だった、と言っているのだと思われます。

領土問題は国家にとって重大な問題ですが、庶民の目から見ると、そんなに意地を張る問題なのか疑問な場合がよくあります。歴史的に自国の領土であったと主張する時に「固有の領土」と言いますが、よく調べるとあやしいもので、身勝手な歴史解釈を前提にしている場合がほとんどです。尖閣、竹島の場合について、ノルウェーの著名な平和学の学者のヨハン・ガルトゥング氏は共有と言うことにして、利用方法について交渉することにしたらよい、と言っています。政治家のメンツのために戦争になることなどは愚の骨頂であり、主なる神が望まれている解決方法ではないことだけは明白です。

エフタとアモン人のケースは、ここまでくると戦いは避けられなくなりました。主の霊がエフタに下ります。この時、エフタは重大な誓約をします。勝利して帰ってきたら、最初に、迎えに出てきた者を全焼のいけにえとする、という誓約です。このような誓約は心の底に神を試みる気持ちがあります。神は人を試みることがあるのですが人は神を試みてはなりません。主イエスがサタンの誘惑をはねのける時におっしゃられています。申命記6:16「あなたがたの神、主を試みてはならない」です。

そしてエフタは戦いに勝ちます。そしてミツバの自分の家に帰ってきたとき、なんと自分の娘がタンバリンを鳴らし、踊りながら迎えにでていました。彼女は一人っ子であったと記されています。エフタは動転し、悩みました。しかし、もう取り消すことはできないことでした。これを知った娘は「お父さま。あなたは主に対して口を開かれたのです。お口に出されたとおりのことを私にしてください。主があなたのために、あなたの敵アモン人に復讐なさったのですから。」と言いました。しかし2か月の猶予を求めます。「このことを私にさせてください。私に二か月のご猶予を下さい。私は山々をさまよい歩き、私が処女であることを私の友だちと泣き悲しみたいのです。」と願いました。結婚して子供を得るのが女の定め、と信じられていた時代です。「二か月の終わりに、娘は父のところに帰って来たので、父は誓った誓願どおりに彼女に行った。」とありますので、誓約通り全焼の生贄とされたのでしょう。この故事からイスラエルの娘は年に4日間エフタの娘のために嘆きの歌を歌うことになっている、と書かれています。イスラエル全体の特別な時とはされていませんのでヨルダン川東岸の地域的な特別な時とされたのであろう、と推察されます。

このところを見ますと、「どうしてそこまでやらせるのだろう。それは本当に主の御心か」と疑問に思うのは当然のことです。人身御供的慣習がギルアデの地に残されていた可能性も否定できませんが、何といってもエフタがこのような神を試みるような誓をしたことこそ罪です。その罪の贖いの印として全焼のいけにえ、が求められることになったのです。神の前での誓約は神聖なものですから、原則として、取り消し不能です。このため、主イエスは山上の説教の中で、「わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。」とまでおっしゃられています。

もちろん誓いという誓いをやめろとおっしゃっているわけではありません。信仰告白に類した告白は律法の言う誓願的誓いとは異なる、とは言えるでしょう。このエフタの誓いは勝利祈願に伴う約束であり、主イエスが「誓うな」とおっしゃられている誓いに該当すると思われます。私たち新約の民は誤った誓いをしたとき、気づいたらすぐ、主イエスのゆえに、悔い改め、その誓いを取り消すことが、許されています。むしろ取り消さない方が罪です。このエフタの時代にも誤った誓約を取り消し、祭司によって、贖いのための全焼のいけにえ、を別途捧げるという余地がありえた、とは思いますが、エフタの娘の出来事は、後の預言者が語るような悔い改め、そして神への立ち返りの考えがいまだ、明確にされていない時期のことでした。むしろ、全焼のいけにえ、として自らを捧げたこの娘の行いこそ、称えられるべきと思われます。命を懸けた「象徴行為」です。そのためイスラエルの記憶にとどめられる光栄に浴した訳です。それは、死んでも、イスラエルの民として永遠の命を得る、という考えです。

もう一つ物語が付加されています。エフライム人がエフタにケチをつけた、というのです。エフライム人は「なぜ、あなたは、あなたとともに行くように私たちに呼びかけずに、進んで行ってアモン人と戦ったのか。私たちはあなたの家をあなたもろとも火で焼き払う。」 と言いました。ギデオンの時にも同様のことが起きました。ギデオンはマナセ族で背後にはエフライムとマナセの相克の問題があった旨お話ししました。そしてその時ギデオンはなだめて事なきを得ています。今度は、エフタはガド族であり、マナセのような有力部族ではありません。ガドの嗣業地は死海の東の荒涼とした地でかつ小さな範囲です。しかも、エフタは遊女の子です。エフライムはエフタを甘く見て、不平を言っていると思われます。

エフタは俄然反論し、呼びかけても来なかったくせして今更なんだ、ということです。エフタはヨルダン川東の全ギルアデの人々を糾合しエフライムに挑みます。そしてギルアデ軍が勝利しました。更にヨルダン川の渡しも占拠しました。そこで逃亡するエフライム発見のため「シボレテ」と言わせ、「スィボレテ」と言ったものをつかまえたという話が記されています。「シボレテ」とは「川の流れ」の意味です。ヘブル語アルファベットでは同一の文字で「shi」と「si」の両方の発音文字が含まれています。

ギデオンの話とあわせてエフライム族について考えてみると、エフライム族は後にサマリア人となった人々です。北イスラエル王国の中心部族です。南王国の中心は言うまでもなくユダ族です。経済的には圧倒的に北王国の方が豊かです。申命記史観は南王国で確立した考え方です。士師記も申命記史観の一文書として北王国に対しては極めて批判的です。このようなことが士師記の文章の端々に現れている、と考えるのは否定できない事であろうと思います。

次は四大士師の最後のサムソンです。士師記の13章から16章までがその記述に充てられています。ダン部族の出身でエルサレムの西のツォルアという町の出です。マノアという人がいてその妻は不妊の女でした。そこに主の使いが現れて、「あなたはみごもり、男の子を生む」と言います。また胎内にいる時から神へのナジル人である、と宣言します。そしてイスラエルをペリシテ人の手から救う、と言われます。ナジルと言う言葉は「na:zar」(聖別する)に由来し、ナジル人とは「聖別された人」のことです。神から特別な人として通常の人々から分かたれた人です。強い酒は禁止、汚れた食べ物は禁止、髪の毛を切ることは禁止、です。ここで特に重要なのは髪をきることの禁止です。サムソンの出生の由来、ナジル人としての扱い、は後にバプテスマのヨハネに同じパターンで継承されています。古代から特別な力を必要としている時、髪の毛を伸ばす、という風習があった、と言われており、今でも、アラブ遊牧民にこの風習がある、ということです。

妻がマノアにこのことを告げるとマノアはこの主の使いのところに来て再度、この子にしなければならないことを告げられます。3つの禁令です。マノアが子ヤギの料理でもてなしたい、と言うと、この主の使いは断り、全焼の生贄を捧げなさい、と言います。そこでマノアは名前を教えてくれ、と問いますと、「不思議」という名を告げられます。この訳はKing James訳が「secret」(秘密)と訳したことから来たものと考えられます。ヘブル語、ギリシャ語の言葉からは「驚くべきこと」「理解を超えているもの」「すばらしきもの」というような訳の方が適当だと思われます。いずれにしろ、名前は「隠されている」ことを意味していることに違いはありません。主の使いは後に天使として名前が付けられます。ガブリエルとかミカエルとかです。果ては、サタンは堕落した天使とまで言われるようになります。しかし、主の使いが天使となり名前が付けられ肥大化していくのは旧約と新約の間の中間期の時期です。士師記の時代はまだ創世記に於けると同様の意味で「主の使者」が使われています。

そしてマノアが子やぎと穀物のささげものを岩の上でささげると不思議なことが起きます。主の使いが祭壇の炎の中を上っていったのです。その後、男の子が生まれサムソンと名付けられます。「太陽の人」「太陽の子ども」更には「破壊者」「強健な」という意味もある、とされています。13:25では「そして、主の霊は、ツォルアとエシュタオルとの間のマハネ・ダンで彼を揺り動かし始めた。」と記されています。「揺り動かす」は口語訳では「感動させた」と訳されています。奮起させる、という意味もあり、ここではこの理解が最適なように思います。サムソンに奮起が促されている、ということです。

サムソンは地中海に注いでいるソレク川中流のティムナでペリシテの娘を見初めます。サムソンの悪い癖が始まります。惚れっぽいのです。しかも敵とみなされていたペリシテの娘です。父母はイスラエルから嫁を貰うことを勧めますがサムソンは聞きません。士師記の著者は、これは主によることであり、主はペリシテ人と事を起こす機会を求めていたのだ、と解釈しています。そもそも、住んでいた場所からしてペリシテ人との接触は避けられない地域でしたし、何といってもペリシテ人は文明の進んだ民族ですから、女性も魅力的に映ったことだと思われます。女好きのサムソンはたまりません。

サムソンの両親はやむなくサムソンとともに娘の居るティムナに行きます。サムソンはぶどう畑で、一頭の若い獅子に出会います。サムソンに霊が下り、獅子を引き裂いてしまいます。彼はこのことを父母にも言わなかったと記されています。そしてあの娘と会い、話し合い気に入りました。しばらくして娶るために再び来た時、あの獅子の死体の中に蜜蜂の群れと蜜がありました。彼は歩きながら蜜を食べ、父母にもこれをあげました。これは死体に近づいてはならないというナジル人の禁令違反です。

彼の父が正式な婚姻の申し込みに行ったとき、サムソンはそこで宴を催しました。30人の客が来ました。そこでサムソンはなぞかけをします。七日の祝宴の間になぞかけを解くというものです。解ければ着物三十着と晴れ着三十着をあげるというのです。なぞかけというのは「食らうものから食べ物が出、 強いものから甘い物が出た。」 のは何か、というものです。三日たっても解けません。四日目に彼らはサムソンの妻に答えを聞き出すよう頼みます。サムソンの妻は夫に泣きすがって、愛しているなら答えを教えてください、と言います。サムソンは答えません。それでも繰り返し泣きすがります。とうとう、七日目に答えを教えてしまいます。町の人々は「蜂蜜よりも甘いものは何か。 雄獅子よりも強いものは何か」 と答えます。蜂蜜と獅子が答えです。

サムソンは雌の子牛、即ち妻が教えなかったら解けなかったであろうに、と言います。そのとき主の霊が激しくサムソンの上に下った、と言われています。そしてアシュケロンの町に下っていき、「そこの住民三十人を打ち殺し、彼らからはぎ取って、なぞを明かした者たちにその晴れ着をやり、彼は怒りを燃やして、父の家へ帰った。」とあります。そしてサムソンの妻は客の一人の妻となりました。

物語は、そこそこ、面白いのですが、どうにもこの謎解きの設定が何を意味しているのかわかりません。例のスフインクスの謎解きの真似事かもしれません。エジプトには知恵文学の伝統が古くからありますが、その一部がカナンにも伝えられておりこの話になったのでしょう。イスラエルの知恵文学はもっとずっと後(あと)のことです。それから三十人を殺したと書かれておりペリシテを、やつけたことは確かですが、士師としてペリシテに対峙して勝利したわけでは全くありません。英雄ではありますが本来の士師、さばき人とは大きく様相を異にしています。

さてサムソンはしばらくしてまた妻に会いたくなり、そのティムナの家に行きました。父親から、娘は他の客にあげた、妹はどうか、と言われ、サムソンは腹をたて、「今度、私がペリシテ人に害を加えても、私には何の罪もない。」と開き直り、300匹のジャッカルを結んでたいまつをつけ、火をつけて放ち、あちこちが燃えました。ペリシテ人は「どうしてこんなことになったのだ」と騒ぎ、原因となった娘と父親を火で焼く事態となりました。逆にサムソンはそれら住民に復讐し、とりいひしいで、激しく打った、と書かれています。そして猛禽の住む場所エタムに住みました。

今度はユダ族に関連した話です。ペリシテ人はサムソンにやられたので仕返しをユダ族にしてきたというのです。レヒというユダ族の町です。ユダ族はなぜだ、と抗議しますがペリシテ人はサムソンを縛り上げるためだ、と言います。サムソンがユダ族の地に隠れていたので、ユダ族に、かくまわれていると考えられたのでしょう。ユダ族はサムソンのところに行ってペリシテ人が支配者なのに、なんということをしてくれたのか、と言い、サムソンを縛ってペリシテ人に引き渡そうとします。サムソンはどうぞ縛り上げてください、と言い、唯々諾々と従います。ペリシテ人の居るレヒにきて、ペリシテ人が近づいたとき主の霊がサムソンに臨み、縛り上げていた綱は亜麻糸のようになりほどけてしまいます。サムソンはろばの「あご骨」をとって千人のペリシテ人を打ちました。そしてそこをラマテ・レヒとなづけました。「あご骨の高台」の意味です。そこでサムソンはのどが渇いて死にそうになります。神はくぼんだところをさかれ、水がでるようにされました。そしてサムソンは元気になりました。そのため、その地はエン・ハコレ「呼ばわる者の泉」と名付けられました。15:20に「こうして、サムソンはペリシテ人の時代に二十年間、イスラエルをさばいた。」とありますのでサムソンの話はこれでおわりかとおもいきや、本論はむしろこの後にあります。

 これまでのところを見ると、サムソンという怪力の持ち主の物語を使いながら、土地とその地の名前の由来を説明することに主目的があるように見えます。「XXXとよばれ、今もここにある」と言う表現は創世記にも多数みられます。地方の民話の継承のような意味合いです。他民族の侵略に対抗してイスラエルの救いを図る、という士師記の本流とは非常に異なる話です。

いずれにせよ、これでサムソンの話は終わりません。サムソンはペリシテ人の主要都市のひとつ、地中海岸のガザに行ったとき遊女のところに入ります。ガザの人は朝方に彼を殺そうと待ち構えていたのですが、サムソンは真夜中に起きて、町の門のとびらと、二本の門柱をつかんでかんぬきごと引き抜き、ヘブロンに面する山の頂へ運んでいった、というのです。ガザからヘブロンまで100km以上ありますし、ヘブロンの地は山岳地帯です。サムソンの怪力を伝えるための物語です。しかし、ここには「主の霊」が臨んだ記述はありません。ペリシテ人との戦いの一部とは考えられなかったからではないでしょうか。

このあとが問題です。サムソンはソレクの谷に居る一人の女を愛した。その名はデリラといった、と言われています。ペリシテの女です。ソレクの谷はソレク川の中流にあり、ペリシテとユダの境界にあった場所と思われます。このデリラがサムソンを決定的窮地に追いやることになります。「サムソンとデリラ」は歌曲や演奏のテーマにされるテーマで有名な話になりました。デリラの名は「妖婦」「誘惑する女」「イシュタルの賛美、威光」「上品な」「贅沢好みの」といろいろな説がありますが、よくわかっていません。ユダヤ教ではヘブル語の「da:lal」(弱くする)から来たこと言葉だ、とも言われています。

 ペリシテ人はデリラにサムソンの力の源はなにか聞き出すように頼みます。「私たちひとりひとりが銀1,100枚をあげる、といいます。何人の代表がいたのか分かりませんが巨額な額です。ペリシテは経済的に豊かな民族でした。サムソンは三度、嘘を教えます。まず、「ほされていない、七本の弓の弦」でしばること、次に「仕事に使っていない新しい綱」で縛ること、三度目は「機の縦糸といっしょに髪の毛七房を織り込み機のおさで突き刺して」おくことでした。しかし、いずれの場合も、サムソンは容易にその縛りから逃れます。しかし、三番目に「髪の毛」のことが言われているのが最後の段階の呼び水になっています。デリラはこれだけ騙されてはたまりません。自分を愛しているのなら真実を教えてくれ、とせがむのです。彼はそれが死ぬほどつらかった、と言われています。ついにサムソンはデリラに言います。「髪の毛がそり落とされたら力を失う」と告げます。デリラがペリシテの領主たちにこのことを告げ、彼女のところにお礼の銀を持ってきました。デリラは膝の上でサムソンを眠らせ、人を呼んで髪の毛を切らせた、と記されています。力が失われていたので、ペリシテ人が襲ってきたとき、抵抗もできず、目をえぐられ、ペリシテ人の本拠ガザに連れていかれます。ペリシテ人は、彼に、青銅の足かせをかけて、牢につなぎました。そこでサムソンは臼をひいていました。

しかし、髪の毛はだんだん伸びてきてサムソンの力も回復してきます。ペリシテ人は自分たちの神ダゴンのまつりを行い、サムソンをつかまえさせてくれたことを感謝していました。ダゴンという神は魚の格好をした、豊穣神と推測されています。カナンの神々の一つです。そして祭りの中で、サムソンを呼んで来い、と言い、彼を見世物にしようとします。そこで、16:26「サムソンは自分の手を堅く握っている若者に言った。「私の手を放して、この宮をささえている柱にさわらせ、それに寄りかからせてくれ。」 と言い、多数のペリシテ人が見ている中で、16:28「サムソンは主に呼ばわって言った。「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。私の二つの目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです。」と叫びます。そして宮を支えている柱を持ち上げそれを引きました。サムソンは「ペリシテ人と一緒に死のう」という一言を発します。そして多くのペリシテ人がここで死にます。そして、彼の身内の者が来て、死体を引き取り、父マノアと一緒の墓に葬った、とあります。サムソンの出身地ツォルアのそばです。最後に、聖書は「サムソンがイスラエルをさばいたのは二十年であった。という決まり文句を付加しています。

この士師らしからぬサムソンの物語はどのように理解すべきでしょうか。男と女の心理的機微ということは別にして、当時の国際的力関係を考慮するとどんな意味をもっていたか、という点です。そもそも、士師の時代のイスラエルはペリシテ人に対抗できるだけの力は全くありません。イスラエルに味方してくれるカナンの人々もいましたが、ペリシテは、そもそもはエジプト系の民で、クレタ島を経由してカナンの地に侵入した先進民族でした。「海の民」と呼ばれているのがこのペリシテ人の中核であろう、と考えられています。文化的・文明的・軍事的いずれの点から見ても士師記の時代のイスラエルの対抗相手ではありません。そのため後世に、ペリシテ人に一矢を報いた伝承を、あたかも、ペリシテ人に対抗したかの話にしたのだと思われます。ヤハウェ信仰の見地からは、最後の、サムソンの叫びが重要です。イスラエルの希望は、強大なペリシテ人を前にしても生きているのです。希望は絶望的状況のなかでこそ意味がある、という、イスラエル信仰における「希望」の意味を示している物語です。イスラエルを勇気づける話として繰り返し語られたことでしょう。単なる願いではありません。絶望の中での主なる神の光なのです。主なる神しか希望はない、という言い方の方が正しいかもしれません。イスラエル、ユダヤ人の3千年の歴史をみると「希望」というのが生易しい話ではないことが良くわかります。ちなみに今のイスラエル国家の歌は「希望」(ハクティヴァ)です。昨今の中近東の状況を見るにつけ複雑な心境にならざるをえません。どちらかが正しい、という単純な話でないことだけは確実です。祈ります。

ご在天の父なる御神様、今日の礼拝の時を感謝いたします。士師記の世界をみるにつけ現在の中近東の政治的状況を憂えざるをえません。エフタ、サムソンの物語を見る限り、他民族を支配下に入れようという侵略的意図は感じられません。主なる神が望まれる和解のメッセージが根本にあるのであろう、と思います。私たち日本国民においても偏狭な国家主義からくる争いがあります。私たちが、「和解の福音」の証人となることができますよう、知恵と力をお与えください。主イエスの御名により祈ります。アーメン

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