貧しい人たちのための王国
ルカ福音書6章20節
ワールド・ビジョン・ジャパン・デボーション

みなさん、おはようございます。今日みなさんとのデボーションに招かれたことを心より感謝いたします。また、みなさんの平素からの貴いお働きに心から敬意を表します。

さて、ワールド・ビジョン・ジャパンの10月からの1年間のテーマと聖句が「神の国をまず求めなさい」であるということをお聞きしました。そこで今日は、短い時間ではありますが、この年間テーマで言われている「神の国」とはどんなものなのかを考えてまいりたいと思います。「神の国」、あるいは「天の国」と言われることもありますが、この言葉はイエスの伝記である福音書に100回ほど、イエスの言葉として登場します。イエスの言葉として、こんなに多く使われている言葉は他にはありませんので、まさにイエスという人物、またその働きを理解する上でのキーワードだと言えます。けれども、イエスは神の国とはこれこれこういうものです、ということを事細かには説明しませんでした。むしろ、「神の国とはなになにのようなものです」、というように、たとえ話を用いて、どこかつかみどころのないものとして話すほうがずっと多かったのです。イエスの話は聞く人に、「神の国」とはどんなものなのか、自分自身で思いめぐらすように、また深く考えるようにと促していました。もっと言えば、イエスの地上での生涯そのものが、私たちに「神の国とは何なのか?」と鋭く問いかけるものでもありました。

イエスは神の国について、いろんな形で教え、語りましたが、その中でも最も有名なのは「山上の教え」と呼ばれるイエスの教えです。その教えはマタイという人が書いた福音書の5章から7章に詳しく書かれていますが、今日お読みしたルカの書いた福音書6章20節以降にもその内容がコンパクトにまとめられています。その時にイエスが真っ先に言われたのは、「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです」という有名な言葉でした。これはまさに私たちの常識に挑戦する、すぐには受け入れられない言葉ではないでしょうか。貧しい人が幸いだなどと、どうして言うことができるのでしょうか。私たちの社会はみなが豊かであることを願います。貧しくなることを恐れ、そうならないように努力します。日本の中で、あるいは世界の貧しい人たちを助けようとする様々な働きは、貧しさそのものを決して良しとはしていません。むしろ人々を貧しさの中から引き上げよう、たとえ引き上げるのが無理だとしても、貧しさの惨めさ、辛さを少しでも和らげようとするものです。貧しさそのものが幸いだ、などという考えは私たちにはありません。では、イエスはどうして「貧しい人たちは幸いです」などと語ったのでしょうか。また、貧しい人たちが幸いだと言われる、神の国とはいかなるものなのでしょうか?

イエス自身が子供の時から読んでいたイスラエルの人々に伝わってきた聖なる書、旧約聖書には、貧しい人が幸いだという思想はありません。貧しさについて旧約聖書がどう見ているのか、それを簡潔にまとめている箇所があります。旧約聖書には「箴言」と呼ばれる書がありますが、これは知恵の書とも呼ばれ、人生を生きていく上で必要な教訓、処世術、生きる知恵が書かれた書で、クリスチャンではない方にも読みやすい本だと言えるでしょう。後でお時間があるときにぜひ読んでいただきたいのですが、その30章7-9節には次のような言葉があります。

二つのことをあなたにお願いします。
私が死なないうちに、それをかなえてください。
むなしいことと偽りのことばを、
私から遠ざけてください。
貧しさも富も私に与えず、
ただ、私に定められた分の食物で、
私を養ってください。
私が満腹してあなたを否み、
「主とはだれだ」と言わないように。
また、私が貧しくなって盗みをし、
私の神の御名を汚すことのないように。

ここでは、「貧しさも富も私に与えないでください」と言っています。これが、イスラエル人の生き方の理想であると言えるでしょう。イスラエルの人々が望んだのは、豊かになりすぎて神をも恐れないような傲慢な人になることなく、かといって貧しすぎて卑屈になることもない、中庸な生き方だったのです。これは個人だけの理想ではありませんでした。むしろイスラエル民族全体の理想だとも言えます。つまり、格差社会にならないように、平等な社会を作ろう、神の下に人はみな平等なのだという理念のもとに歩むのがイスラエルという民族だったのです。ですからイスラエルの法には、貧富の差、格差が大きくなりすぎないようにするための掟が含まれていました。その最たるものがヨベルの年でした。みなさんは、ジュビリー2000という運動を覚えておられると思います。これは2000年に、最貧国が抱える膨大な負債を帳消しにしようという世界的な運動でしたが、このジュビリーとは旧約聖書に出てくるヘブル語のヨベルからきた言葉です。ヨベルの年とは、50年に一度、すべての債務を免除し、すべての奴隷を解放する、負債のために手放さざるを得なかった土地も元に戻されるという、画期的な制度でした。50年に一度、格差は解消されるのです。しかし、聖書の法に守ることにかけては誰よりも熱心だったユダヤ人たちは、この教えを一度も実施したことがないと言われています。いつの時代にも、豊かな人がその富を手放すのがどんなに難しいか、そのことを思わされる話でもあります。

さて、このように、イスラエル民族の聖なる書、旧約聖書において、貧しさは決して良いものでも美徳でもなく、むしろ理想とする平等な社会を作るために克服するべきものだったと言えるでしょう。ユダヤ人であったイエスも、旧約聖書を子供の時からよく学んでいたので、このような聖書の目指す社会の在り方をよく知っていたはずです。そのイエスが、なぜ「貧しい人たちは幸いです」と語ったのでしょうか。

その一つの答えは、イエスの話を聞いていた聴衆が実際に貧しい人たちだったからです。ですからイエスは彼らに対し、「あなたがたは幸いです」と語ったのです。このことを理解するためには、イエスが生きた時代のイスラエルの人々がどのような暮らしをしていたのかを知る必要があります。イエスの時代には、いわゆる中流と呼べる人たちほとんどいませんでした。一部の大変な金持ちと、その他大勢の人たちは生きていくのがやっと、むしろ社会の底辺にいとも簡単に落ちてしまうような人たちでした。この時代はあまりにも税金が重かったのです。ローマ帝国の植民地となっていたユダヤの地では、イスラエルの宗教税とローマの税金を合わせると収穫の約半分は税として納める必要がありました。しかも、凶作で年貢が納められないと借金のために土地を奪われることが日常茶飯事でした。小作人になると、さらに税負担が2割ほど増し、結果として収穫の7割も税でもっていかれる計算になります。収穫の3割しか手元に残らないのです。現代でいえば、薄給なのに給料の7割を税金でもっていかれるサラリーマンのようなものです。そんな困窮した人々のところに、イエスは赴いていたのです。

このような人々の救世主になるために、イエスがすべきことはなにか。「神の国」と呼ばれる理想的な世界、人々が神の愛と正義の支配の下で生きることができるような社会にするために、イエスはどうすればよかったのでしょうか。一つの道は、人々にパンを、十分なパンを与えてやることでした。「衣食足りて礼節を知る」というように、人々が品位をもって生きるためには、まずは生きるために必要なパンを与えること、これこそが古今東西のあらゆる政治のリーダーに求められてきたことです。イエスが本当に救世主であるならば、彼は何よりも人々にパンを与える必要があるでしょう。このことが、イエスが荒野での誘惑の際に、悪魔によって示された神の国への道でした。荒野での誘惑とは、イエスが宣教の業に入る前に、四十日四十夜の断食という荒行を通じて、自らの使命が何なのかという問いに向き合った時のことです。空腹で息も絶え絶えのイエスに対し、サタンは「あなたが神の子なら、この石に、パンになるように命じなさい」とささやきます。この空腹状態のイエスは、そのまま彼の属するイスラエル民族の姿でした。彼らは重税で搾り取られ、乾ききっていました。彼らに今、何よりも必要なものはパンでした。イエスには彼らにパンを与える力がある、それを用いなさい、そうすれば人々はあなたを救世主として敬うでしょう、あなたは彼らにパンの心配のない神の国を与えられるのだ、とこうサタンはささやくのです。しかし、イエスにはサタンの示す道の落とし穴が見えていました。「人はパンだけで生きるのではない」とイエスは答えました。たしかにパンは必要です。イエスも「パンだけで生きるのではない」と言っているように、パンが必要であることは当然認めていました。でも、パンがあれば十分ではないのです。なぜなら、人々に十分なパンが与えられても、彼らはそれを独り占めにしようとして奪い合い、挙句の果ては殺しあうことになるからです。多くの人々が飢えに苦しんでいる今日のアフリカの地でも、一部の人々は先進国の人たちが想像もできないほど豊かな暮らしをしています。どうしてこうなるのか。それは、適切な分配がなされず、一部の人が富を独占してしまうからです。イエスの時代も、多くの人が生存ギリギリの状態で暮らしていましたが、それでも巨大な富を持つ一部のエリートは存在していました。極貧の人々も、あれほどの税負担がなければもっとまともな暮らしができたはずです。貧困の背景には、このような貪欲という問題がありました。この人々の心の問題が解決されないまま、イエスが人々にたくさんのパンを与えても、それを独り占めしようと人々が争ってしまえば、状態はもっとひどいものになります。いままで貧しかった時はパンを分け合っていた人たちが、急にお金持ちになると、それを独り占めしようとしてむしろ仲が悪くなってしまう、ということは実際に頻繁に起きることなのです。先ほどお話しした箴言の17章1節に、次のようなことばがあります。

乾いたパンが一切れあって平穏なのは、
ごちそうと争いに満ちた家にまさる。

たしかに、貧しいのは惨めなことですが、豊かであっても平和がないのはもっと惨めなことになります。ですから、パンよりも先に、人々の心が変わる必要があるのです。イエスが「あなたがたは幸いです」と語ったとき、なぜ貧しい人たちが幸いなのかと言えば、彼らこそ新しい心を受け入れる用意のある人たちだったからです。彼らこそ、イエスが示そうとしている神の国にふさわしい心、ふさわしい生き方を受け入れる用意のある人たちだったからです。競争によってどうやって相手を出し抜くか、どうやって人より多くの者を手に入れるか、そういうマインドの持ち主は神の国には入れないからです。

サタンは、人々にパンを与えなさいと誘惑しますが、イエスが乗ってこないのを見ると、別の誘惑をします。イエスの時代、何人もの人が民衆に「神の国」をもたらそうとしました。それは、力づくで富の分配をしようというものでした。彼らは人々に、自分が神の遣いだと信じさせ、自分に従って暴動を起こさせ、富める者から財産を奪おうとしたのです。彼らは強盗と呼ばれましたが、彼らは金持ちから財産を奪って貧しい人たちに施しました。ですから強盗とはいっても、民衆には人気があったのです。イエスの裁判の時に、総督ピラトは強盗バラバとイエスのどちらかを助けてやると民衆に問い、人々はバラバと答えました。それはバラバがこのような義賊で、民衆の味方だと思われていたからでした。そこでサタンはイエスに「石をパンに変えなさい」と誘惑した後に、「人々に奇跡を見せなさい」と誘惑しました。人々はあなたの奇跡をみれば、あなたを救世主だと信じてあなたに従うだろう、その人たちを扇動して武力によって悪い特権階級を倒し、神の国を作ればいいではないか、と誘惑したのです。今日でいうところの革命です。実際、イエスの時代には何人かの人々が奇跡を見せてやるといって人々を惑わし、ローマ帝国への反乱を企てたユダヤ人たちがいました。パンと奇跡、この二つがあれば人々は何でもあなたのいうことを聞くようになる、そうすればあなたの目指す神の国を作れるではないか、これが悪魔からのイエスへの提案だったのです。

しかし、イエスは悪魔の提案を拒絶しました。そのような人々のルサンチマンと欲望に訴えて出来上がるような神の国はろくなものにはならないということは、世界の歴史が証明しています。むしろイエスは全く別の道を人々に示しました、自らの生き方を通じて。イエスは人より偉くなろうとする弟子たちに対し、こう言っています。

あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。(マタイ10章42-44節)

イエスのもたらす神の国、神の支配する世界においては、王である神が真っ先にしもべとして仕えるのです。このような心構えを持った人たちの間にあっては、物質的な豊かさは、それが人々の奪い合いの原因となる呪いとはならず、むしろ祝福となるのです。ですから、あれも欲しい、これも必要だ、と求める前に「まず神の国と神の義を求めなさい」とイエスは教えたのです。神の義とは、神の正しさとは、神自らがしもべとなって仕えることを喜ぶ、そういう姿勢のことです。神の義を求めるとは、私たちもそのような神の姿勢、生き方に倣うということです。

ワールド・ビジョン・ジャパンの働きは誠に貴いものです。あなたがたの助けようとしておられる方々は、私たち日本の生活水準からすれば、大変貧しい人たちであると思います。しかし、そのような人々をイエスが幸いだといったこと、神の国は彼らのものだと言ったこと、そのことを忘れないようにしたいと思います。私の父も、実は定年より少し早く退職し、母と共に3年間中米の途上国に行ってボランティアとして働いていました。そこで両親は、貧しいと思っていた現地の人々に対する見方を根本から変えられた、と言っていました。たしかに彼らは大変貧しかったけれども、その眼は幸せそうに輝いていたと。そこには日本では失われてしまった豊かさがあったと。そこはキリスト教が熱心な国だったので、両親も現地の教会に通っていましたが、そこでは本当に助け合う人々の姿があり、両親もキリスト教とは何か、教会とは何か、ということを改めて教えられたと言っていました。私たちは支援する側の人間であったとしても、支援される側の人々がイエスから幸いだと言われた人たちであるならば、彼らから学べることはたくさんあるのではないかと思います。

皆様の働きがますます用いられ、支援する側、される側がお互いに豊かにされるようになることを願っております。ひと言お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様。そのお名前を賛美いたします。今日はワールド・ビジョン・ジャパンのデボーションで皆様とイエスの神の国について考えるひと時を持てたことを感謝いたします。どうか皆様の働きを豊かに祝し、イエスが語られた神の国が皆様の働きを通じてこの世界に現わされますように。私たちの救い主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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