主が来られるまでは
第一コリント3章18~4章5節

1.導入

みなさま、おはようございます。今日からいよいよアドベント、待降節に入ります。毎年クリスマス・シーズンになると、教会はいろいろなイベントで大忙しになります。しかし、今年は言うまでもなくコロナ問題が重くのしかかる状況下ですので、恒例の各種クリスマス・イベントは簡素化や自粛して、礼拝だけは守ろうという姿勢の教会が多いように思います。このようなときこそ、祈りにおいて神と静かに向き合ったり、聖書を読んで自らの信仰を振り返る機会とすべきなのかもしれません。クリスマスは今や、キリスト教信仰とは関係のない楽しいお祭りとして日本中で祝われるようになっていますが、そもそもはイースター、復活祭と同じく、私たちクリスチャンにとっては厳粛な気持ちで臨むべきものです。復活祭の場合はレント、受難節がその前に来るので、キリストの苦難を覚えつつ復活の喜びを待ち望むという、私たちも身を引き締めて準備をするという意識が強いのですが、クリスマスとなると、どうも世間のお祭りムードに影響されてしまい、そういう厳かな気持ちになりづらいように思います。

しかし、待降節という言葉がいみじくも示すように、アドベントとは待つときです。それも、主が来られるのを待つという厳粛な時なのです。今日の説教では、この「待つ」ということについて考えてみたいのです。

アドベントにおいて「待つ」ことには二重の意味があります。一つは、二千年前の人々、特にユダヤの人々の気持ちになって、メシアの到来を待ち望むということです。主イエスは確かに二千年前に人としてこの世にお生まれになりましたが、それは救世主の誕生を待ち望む人々の祈りに神が応えてくださったことによるのです。そのような人物のことをルカ福音書は記録しています。ルカ2章25-26節をお読みします。

そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。

シメオンは、キリストの誕生をずっと祈りつつ、待っていたのです。またルカは、アンナという女性の預言者のことも書いています。彼女は84歳になっていましたが、昼も夜も祈りと断食によって、救世主の誕生を待ち望んでいました。こうした名もなき多くの人たちの祈りによって、主イエスはこの世界に生を受けることになったのです。私たちも、こうした先人たちの信仰を覚えつつ、二千年前の人々の気持ちになって、メシアがこの世界に誕生したことの意味を考えたいのです。

しかし、アドベントにはもう一つの「待つ」ことが含まれます。イエスが生まれたという事実はすでに過去の出来事です。過去に起きた出来事を、現在に生きる私たちが待っているわけではありません。しかし、私たちキリスト者は常に別のこと、もう一つのことを待っています。私たちは毎週使徒信条で、「かしこより来りて生ける者と死ねる者とをさばきたまわん」と告白していますよね。ここで「かしこより来りて」と言われているのはキリストのことです。キリストが天から、世界を裁く方として来られることを私たちは信じます、と告白しているのです。「裁く」というと、恐ろしく感じるかもしれません。しかし、例えば「大岡裁き」という言葉があるように、正しい裁き主は弱きを助け強きを挫く、そういう裁きをします。主もまさにそのような方として世界を裁くのです。

また、しばらく前にどなたかに「マラナ・タ」とはどういう意味ですが、と聞かれたことがありましたが、この言葉は第一コリントの最後の16章22節に出てきます。聖書では、「主よ、来てください」となっていますが、これはアラム語の「マラナ・タ」を訳したものです。「マラナ・タ」とは主よ、来てください、私たちはあなたが来られるのを待ち望んでいます、という意味なのです。このように、私たちはいろいろなところで、「主よ、来てください」と告白しています。私たちが待っているのは再臨と呼ばれる日であり、主がこの世界を救うためにもう一度来られる日、その日を待ち望んでいるのです。「再臨」とは何なのか、その時には何が起きるのか、ということについてはキリスト教の中でもいろいろな立場があり、そのことについては改めてしっかりと学ぶ必要がありますが、いずれにせよ、初代教会の人々はそのことを待ち望んでいたのであり、またその後の教会の歴史においても、特にアドベントにおいて、主が再び来られるのを待ち望むということが強調されていた時期がありました。しかし今日では、この側面、主の再臨を待ち望むということはクリスマス・シーズンには忘れ去られているようにも思えます。けれども、今日の第一コリントの聖書箇所は、まさに「主を待ち望む」ことの重要性を私たちに思い起こさせてくれる箇所です。ですからこのことを覚えて、アドベントにおける「待つ」ということの意味を考えつつ、みことばを味わってまいりたいと思います。

2.本文

さて、今日のテクストでは二つの部分に分けられます。まず3章18-23節ですが、そこでは「知恵」の問題が取り上げられます。これまで学んできたように、コリントの信徒たちは、勝手にパウロやアポロのことをリーダーに担ぎ上げ、派閥争いに明け暮れていました。彼らは「知恵」をめぐって争っていたのです。ある人たちは、パウロの知恵はアポロに勝ると言い、だから自分たちパウロ派の人々はアポロ派よりも知恵において上なんだ、などと誇っていました。そのような誇りのむなしさについてパウロは語ります。

次の4章1-5節では、先週お話ししたテーマ、つまり福音伝道者たちは終わりの日に神によって裁かれること、具体的には彼らが立て上げた教会が、終わりの日に神によって吟味され、火の試練によっても燃え尽きない教会を立てた伝道者は神から報いを得ますが、火の試練によって燃え尽きてしまうような教会を立てた宣教者は損害を被るだろうという裁きの原則を、パウロは自分自身に当てはめています。神がパウロの宣教の働きを終わりの日に吟味するので、それまでは、やれアポロがいいだとか、パウロの方が上だとかいうような、先走った裁きや評価をすべきではない、ということが語られています。このように、この二つの箇所のテーマは互いに関連し合っていますが、それらを順々に見てまいりましょう。

まず、19節では自分が知恵者だ、自分は賢いのだ、と自惚れているコリントの信徒のことをパウロは取り扱っています。「あなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら」とパウロは書いていますが、実際にそんなふうに思っている人がいたのです。コリントはギリシャの都市ですが、ギリシャ人は知恵を求める、と言われるように、コリントの人々も知恵のある人を大変尊敬していました。そして、自分もまんざらではない、賢いのだ、と思っていたのです。パウロはそのようなうぬぼれ屋さんに対して、ギリシャの有名な賢者の言葉を思い起こさせようとしています。当時のギリシャ人の間で最も賢いと思われていたのは誰でしょうか?有名な哲学者であるプラトンやアリストテレスの名も挙がるでしょうが、しかし何と言ってもナンバーワンはソクラテスでした。彼こそ智者の中の智者であり、ギリシャ人たちの憧れの的でした。「ソクラテスは万人の中で最も賢い」とまで語り草になっていたほどです。ですから、知恵を得たい、智者になりたいと願っていたコリントの教会の人々にとっても、ソクラテスは羨望の対象でした。そこで、自分は知恵を得ている、自分たちは智者なのだ、と主張するコリントの人々に対し、パウロは、ではあなたがたの憧れるソクラテスは何と言っているのか考えてみなさい、と皮肉を込めて、こう指摘します。ソクラテスは、「彼らは自分が知っている、と思っている。しかし私は自分が知ってはいないということを知っている。私はこの点で、彼らよりも知恵があるということになるのだ」と語っているからです。パウロがここで書いている言葉も、ソクラテスの言葉を連想させるものです。ソクラテスのような賢者ですら自分は知らないと言っているのに、なぜあなたがたは自分が知っていると誇るのですか、とパウロはたしなめます。

だれも自分を欺いてはなりません。もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるために愚かになりなさい。

このようにパウロは、自分には知恵あるなどと、自分を欺いてはいけない、むしろ本当に知る者になりたければ、愚か者になれ、と言います。しかし、この逆説的な言葉は一体どういう意味なのでしょうか?愚かになれとは、この世の知恵ではなく十字架の知恵を求めなさい、ということなのです。十字架の福音は、この世の知恵から見れば全く愚かなものです。無力さや恥のシンボルである十字架刑が神の力である、というキリストの福音はこの世の基準では愚かさそのものです。しかしパウロは本当に知恵を持ちたければ、その愚かさを受け入れなさい、この世の基準から見れば愚か者になれ、と言うのです。愚か者になるということは、つまり十字架の福音を信じるということです。十字架の福音を信じる者は、神の知恵を持つものであり、そういう人はもはやこの世の知恵を競い合う必要などないのです。十字架の知恵とは、へりくだりの知恵です。すべての上に立つべきお方が、すべての人に仕えるために生きたのです。そして、その仕える生き方の究極の姿が十字架でした。主は、最も卑しい姿になって人々の罪を背負われたのです。神の王国とは、このように仕えること、互いに仕えあうことによって実現する世界なのです。自分を人より偉く見せようなどという虚栄や空威張りとはまったく逆の世界なのです。むしろ神はこの世のさかしい知恵を嫌われます。このことを示すために、パウロはソクラテスから離れて、今度は旧約聖書から論じます。「神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕らえる」とパウロは語ります。ここではパウロは微妙に変えて引用していますが、これはヨブ記5章12-13節からの引用だと思われます。そして二つ目の引用は詩篇94篇11節からです。初めの引用は、ヨブに対してテマン人エリファズが語った言葉です。そこからお読みします。

神は悪賢い者のたくらみを打ちこわす。それで彼らの手は、何の効果ももたらさない。
神は知恵ある者を彼ら自身の悪知恵を使って捕らえる。
彼らのずるいはかりごとはくつがえされる。

策士策に溺れる、ということわざがありますが、知恵ある者と自負する者は自らの浅はかな賢さが罠になる、と書かれています。もう一つの詩編にはこうあります。

主は、人の思い計ることがいかにむなしいかを、知っておられる。

神の前に、誰それは誰それよりも賢いなどと言い合うのは全く愚かなことです。神の前に、人間の知恵など目くそ鼻くその世界です。そこでパウロは、「ですから、だれも人間を誇ってはいけません」と書いています。ここでの「人間」とはパウロとかアポロとか、コリントの人々が勝手にリーダーに担いだ人たちです。あるいは、パウロをリーダーに選ぶほど賢い、コリントの人々自身の誇りのことを言っているのかもしれません。いずれにせよ、人の知恵を誇ることほど愚かなことはないのです。むしろ神は、自分が愚かであると謙虚に認める人こそ本当に賢いのです。

しかしここでパウロは突然、「すべては、あなたがたのものです」と語りだします。すべてはあなたがたのものとは、一体パウロは何を言いたいのか、戸惑うかもしれませんが、ここでもギリシャで当時話されていたことわざを知っておくと意味がよく分かります。それは、「すべてのものは知恵ある者のものだ」ということわざです。コリントの人たちが必死になってより高い知恵を得ようとしたのは、このことわざにあるように、知恵あるものこそすべてを手に入れられると信じていたからです。ですから、パウロはここでも皮肉を言っているのです。つまり、もしあなたが本当に知恵ある者なら、すべてを持っているはずだ、このパウロも、アポロも、あるいはケパつまりペトロも、すべてはあなたがたのもののはずではないかと。それなのに、なぜあなたがたは「私はパウロにつく」だとか、「私はケパにつく」などと言っているのか、おかしいではないか、ということです。それどころか、世界も現在も未来も、みんなあなたたちのもののはずではないですか、とパウロは皮肉っているのです。しかし最後にパウロはずばりと言います、いやそうではない、実際にはあなたがたはキリストのものなのだと。キリストこそ一切を持っておられる方です、すべてを支配しておられる方です。そしてそのキリストも父なる神のものである、とパウロは宣言します。

さて、これまで話してきたことを土台にして、パウロは新しい話題に移ります。コリントの教会には「パウロ派」や「アポロ派」などの派閥が出来ていましたが、それはコリントの人たちが彼らなりにパウロやアポロの働きを採点し、アポロの働きが優れていると思った人々はアポロ派に属することにし、いやパウロの方がいい仕事をした、と判断した人たちはパウロ派に入ることにした、ということです。しかしパウロは、自分がコリントの人々によってどのように評価されようと一切気にしない、と語ります。なぜなら、パウロに福音伝道という仕事を与えたのはコリントの人々ではなく、神ご自身だからです。仕事を与えたのが神である以上、評価をするのも神だけなのです。そしてパウロは自分の仕事のことを、「神の奥義の管理者」だと言っています。「神の奥義」とは何か、それはパウロの手紙の中でいろいろ語られていますので、一つではありません。しかし、「奥義」の定義として最もわかりやすいものが、ローマ書16章25-26節に書かれています。

私の福音とイエス・キリストの宣教によって、すなわち世々にわたって長い間隠されていたが、今や現わされて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示…

とありますように、「奥義」とは世々にわたって長い間隠されてきたけれど、今や神によって明らかにされた救いのご計画のことです。パウロの仕事とは、今や明らかにされた神の秘密のことがらを、余すことなく信じる人々に伝えることでした。そして、そのような管理者にとって何よりも大事なことは「忠実である」ということです。忠実にまっすぐに真理を伝えること、それこそが彼の使命であり、それをどれほど言葉巧みにうまく語って人々を引き付けるか、つまりどれほどその福音宣教が成功するかというのは問題ではないのです。前回もお話ししましたが、神が私たちを評価する基準は成果主義ではありません。どれだけ多くの人が洗礼を受けて、どれだけ教会が大きくなったか、そういう成果を私たちは重視しますが、神はそうではなく、私たちがどれだけ忠実に神のメッセージを伝えるか、その忠実さ、姿勢を見ておられるのです。ですから、コリントの人々がパウロのことを口下手だとか、演説に迫力がないなどと評しようと、パウロはそんなことは一向に意に介しません。そこでパウロはこう言います。

しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。

ここで「判決を受ける」と言われている言葉は、アナクリノーという動詞ですが、評価するという意味の言葉です。ここでパウロは、「私はあなたがたからどんな評価を受けようと、何も気にしない」と言っています。もちろん、これを今日の教会にそのまま当てはめて、牧師は教会員の方々からどう思われようが関係ない、などということはできません。私たち教会教職者はこの点で常に謙虚であるべきで、教会員の皆様からのご批判を真摯に受け止める必要があります。しかしパウロがこのようにあえて言っているのは、コリントの信徒たちがパウロやアポロを評価して派閥を作り、教会の分裂を生み出してしまったという事実があるからです。ですからあえてパウロは彼らに、あなたがたの評価を気にしないと言っているのです。「人間による判決」となっているところをギリシャ語から直訳すれば「人間の日」となりますが、これは次に出てくる「主の日」、つまり主による審判を受ける裁きの日と対応しています。パウロは人間によるいかなる評価や裁きをも気にしない、と言っているのです。さらにパウロは、

事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。

と言います。裁く、というのは先ほども言いましたように「吟味する、評価する」という意味ですから、パウロは「私は自己評価をしない」、と宣言しているのです。当時は自らを省みること、すなわち自省が美徳とされていましたから、この発言も、聴衆を驚かせたことでしょう。もちろんパウロは、私は自分の行動を顧みて反省することをまったくしない、と言いたいわけではありません。むしろ、パウロは自分のことを厳しく律し、自分の行動を反省していました。パウロは自分のことについて、「私にはやましいことは少しもありません」と言っています。パウロは非常に自分に厳しい人でした。イエス様を信じる前のユダヤ教時代の自分についても、「律法による義についてならば非難されるところのない者です」と言っています。律法にとりわけ厳しいパリサイ派の基準に照らしても、どこから見ても、後指指されるようなことはしていない、と断言しています。そしてキリストの使徒になってからも、「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人々に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです」という言葉からも分かるように、大変厳しく自らを律する人でした。

しかしそれでも、パウロは慎重に「それで無罪とされるのではありません」と言います。ここは新改訳2017「それでわたしが義とされているわけではありません」の方が忠実な訳です。まだ私は義とされているわけではない、なぜならそれは、将来の神の最終的な審判によって決まるからだ、ということです。

ここで、いわゆる信仰義認、信じることによって今既に義とされるというパウロの教えと、ここのパウロの言葉は矛盾していると思われるかもしれません。しかし、そうではありません。確かに私たちは信じた今、既に義とされて神の子とされますが、しかしその後の人生の歩みがどんなものでもいい、という訳ではもちろんありません。私たちは人生においてなした善いことであれ悪いことであれ、最終的に神からの裁きを受け、あるいは報いを得、あるいは損害を受けます。それは私たちが既に義とされ、神との正しい関係に入ったこととは矛盾しません。義とされ、神との正しい関係に入ったからこそ、私たちは評価されるのです。大学入試に受かったから、あとは何でもいいということではないのと同じです。私たちは大学生としての歩みを卒業の時に評価されます。同様に、義とされた私たちも神の子としての歩みを評価されるのです。そして、その最終的な裁きを下されるのは主お一人です。そこでパウロはこう書いています。

私をさばく方は主です。ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、人の心のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。

このように、「主が来られるまでは」、わたしたちおのおのの評価は神の前に定まることはありません。ただ、ここで注意していただきたいのは、「主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません」というのは、兄弟姉妹が罪を犯しているのを見ても無視してよいとか、それについては何のアクションも取るべきではない、という意味ではありません。逆です。本当にその兄弟姉妹のことを思うのならば、その人が将来神に裁かれることがないように、今その罪を改めるように、悔い改めるようにと促すべきです。もしその人が今悔い改めるのなら、神は将来の裁きの座でその人の罪を問うことはないでしょう。エゼキエル書18章21節にはこうあります。

しかし、悪人でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行うなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。

とあります。今私たちが悔い改めるのなら、最後の審判でもそのことで神から責められることはないのです。ですから、もし兄弟姉妹が過ちを犯しているのを見たなら、愛を持って、また時には厳しく戒めてあげるべきです。それでも、最終的にその兄弟姉妹の人生を評価される方は主お一人であることも忘れてはなりません。その人が本当はどんな人なのか、どんな歩みをしているのか、本当のところは私たちには分からないからです。裁きは主お一人がなされることだというのを忘れないようにしましょう。

このように、主が来られるときは、私たちそれぞれの歩みが神から評価を受ける時なのです。ですから、主が来られる時を待ち望むこのアドベントの時に、このことを特に強く覚えたいのです。裁きとか評価と聞くと、ぞっとするかもしれません。この人生で、人による評価を受け続けてきた私たちは、評価そのものにアレルギーがあるかもしれません。しかし、神が望んでいることは、「よくやった、忠実なしもべよ」と私たちをほめることなのです。ですからパウロも「そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです」と書いています。大切なことは、実績を上げること、成果を上げることではなく、ひたすら主に忠実であることです。どんなに地味なことでも、人目につかないことでも、主の前に忠実に行っていきましょう。そうすれば、私たちは身に余るお褒めの言葉に与るでしょう。ひと言お祈りします。

今から二千年前、まぶねのなかでお生まれになった私たちの救い主イエス様、そのお名前を賛美します。私たちは今、あなたが二千年前に人としてこの世に来られたことを記念し、また同時にあなたが再び来られることを待ち望むアドベントの季節を過ごしております。あなたからの裁きを受ける時に、「よくやった、忠実なしもべよ」とお褒めを受けるような歩みが出来ますように、私たちを強めてください。私たちも心から忠実に歩むことを願うものです。これからクリスマスに至るまで、この教会の歩みを祝福してください。われらの愛する主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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