四大士師以外の八士師
士師記3:7-11
森田俊隆

当日の説教では、この原稿の一部を省略して話しています。

今日は士師たちのいろいろな側面を見て、士師記の理解の基本を知っておきたい、と思います。士師記には12人の士師と呼ばれる人物が登場しますが、4大士師ということができる、デボラ、ギデオン、エフタ、サムソンについては次月以降のテーマとし、これら四名の士師を除く8人の士師を見るとともに、士師全体を見て、私たちが心に留めおくべきことを申し上げておきたい、と思います。 士師記はイスラエルの英雄列伝のようなところがあり、イスラエルの庶民には自らの歴史を記憶する上の必須項目でした。単に英雄について述べているにとどまらず、部族間のいろいろな問題等も記されています。ヨシュア記のようにイスラエルのカナンの地での戦いを申命記神学に立って極端に美化しているところもなく、真実味があります。個別の士師を見ていく中で、問題のテーマにつき、お話いたします。

まず、オトニエルです。ヨシュアの時代が終わり、その後、イスラエルの民はカナンの地のバアルやアシェラへの信仰に陥ります。そして、アラム、今のシリアですが、そこの王クシャン・リシュアタイムの支配下に入ります。そこでオテニエルがイスラエルの救助者として起こされます。彼は、十二部族のシメオンの出身です。一番南の地を与えられた部族で、弱小グループであり、後にユダ族に吸収され、ユダ王国の一部になってしまいます。そのオテニエルはアラムに戦いを挑み、その王クシャン・リシュアタイムを「抑えた」と記されています。ある程度の自治権を獲得したと思われます。そして40年の間、「穏やかであった」と言われています。そしてオテニエルは死にます。

十二の士師を出身地から部族を推定しますと、ヤコブの子、イスラエルの十二部族の各部族から一人ずつの士師が出たことになっています。問題は十二部族の数え方です。祭司の家系となったレビ族を除き、ヨセフの子マナセとエフライムをヤコブの子として扱い、12人の士師にしています。ヨセフの子即ちヤコブの孫を特別に子供と同様に扱うことは創世記48章のヤコブによる祝福の話に由来します。レビ族は特別な部族で嗣業地を与えられず、イスラエルの祭儀を取扱う部族とされました。このようにレビ族を除き、マナセとエフライムを加えて12族と数えるやり方は、既に創世記49章に現れており、民数記34章にもこのような数え方が出てきます。各部族に与えられた土地に関連した記述のところに出てくる数え方です。古い時代の数え方であり、士師記よりさらに後の文書には現れてきません。ヤハウェ信仰の見地から見ればレビ族を無視するような十二部族の数え方はあり得ない、と言えるでしょう。

ちなみにオテニエルはここで「救助者」と呼ばれています。これはのちに「メシア」と通称される、イスラエルの救い主、と同じ系列のヘブル語であり、そのギリシャ語訳は「so:te:r」であり、キリストそのものの言葉です。イスラエルの救い主を「メシア」「キリスト」と称するのはそもそもここに起原があります。「救助者」という言葉が使われているのは、この後のベニヤミン族士師エフデとオトニエルの二人だけです。

オテニエルの死後イスラエルの民はまた「主の前に悪を行った」と記されています。おそらくまた偶像崇拝に陥ったということでしょう。そのため、主なる神はモアブ王エグロンの支配下にイスラエルをおきます。モアブは死海の東の地域です。今のヨルダンです。その時、ベニヤミン族のエフデが起こされ、彼は計略を用い、モアブ王を暗殺します。両刃の剣を隠し持って、貢物をすると言って近づき、「秘密のおしらせがある」と言い、家来を遠ざけ、殺害するのです。そして、エフライム山地のセイルにのがれイスラエルの仲間を集め、「モアブを渡された」という主の声を聴き、ヨルダン川の渡し場でモアブ人に勝利します。その後、イスラエルは80年間、穏やか、即ち平和であったと言われています。

士師がイスラエルを統治していた期間には特別な法則は見られません。そして、異民族に統治されていた期間も足し算しますと410年になります。士師の統治期間を加えるだけでも、290年になります。その中でもこのエフデの80年が最長です。出エジプトと放浪の旅が40年と聖書では言われていますが、その倍数の年数が書かれています。ヨシュアの時代がBC1210年頃でサムエルの時代が1040年頃と推定されるのでその間は約170年です。410年の半分以下で約4割です。どうも士師記で記載されている期間はその4割くらいで見ると実際の年数になるようです。なお、荒野の40年は実年数に近かったと予想されます。

士師記では、カナンの神を崇拝することが、イスラエルの罪として非難されています。カナン地方の神々で有名なのは自然神である男神バアルと豊穣の女神アシェラです。後に、エリヤがやっつけたのはこのバアルとアシェラです。アシェラは木の柱によって象徴されていました。この両神以外にアシュタロテという女神も居ました。この女神は黄金製や青銅製の女体裸形像によって表され性的放縦が特徴です。バアルの妻とされています。また、子供の生贄で有名なアモン人の神モレクや下半身が魚のようなペリシテ人の神ダゴンなどが出てきます。バアルはメソポタミア地方での神を指すエルの子とされています。各都市がバアルのあとに都市名をつけて自分たちの守護神としたようです。カナン地方の神々はウガリット神話に由来する神々ではないか、と推測されています。ウガリットはフェニキア、今のレバノン地方の北で、シリアの地中海沿岸地方になります。一時王国が栄ました。出エジプトの以前です。住民のカナン地方への移住と共に宗教も移入されたと考えられます。これらの神々は自然神です。バアルは嵐の神です。女神は農業神であり豊穣の印です。アシュタロテはギリシャでのアフロディテ、ローマのヴィーナスになります。

これら自然神、農耕神、豊穣女神は世界中どこにでもある原初的な宗教であり、極めて根強い力を持っています。イスラエルの民がカナンの地に入った時、このような自然神、豊穣女神を祭っていたカナン人との妥協が起きることは避けられませんでした。何といっても彼らの方がいわば先進的な文化・文明の保有者だったからです。ユダヤ教の祭儀は出エジプトの記憶と地場の収穫祭の混合になっているものがかなりあります。

日本でいえば神道に当たるでしょうが、明治以降の天皇制国家とは異なります。地場信仰的な、宗教のことです。七五三の時や地鎮祭の時の神道祭儀のようなものです。お地蔵さん信仰や水子地蔵儀礼のようなものもこれに含めて良いかもしれません。祖先信仰もこれに近いと思います。このような信仰は根強いもので、人間の心の奥底に宿っています。ヤハウェ信仰の初期、即ち、この生成期においてはこれ等と対決し、純粋なヤハウェ信仰を確立する必要がありました。それが主なる神の意思でした。しかし、現実には、妥協に妥協を重ね、一種の混交状態に陥り、時を見て、主なる神に立ち返れ、という声が聞こえてくる、というのがイスラエルの歴史です。

実は現代の我々にとっては、これら自然神以上に重大な偶像が存在します。それはお金と国家です。お金は現代の社会では資本(会社)という形をとって現れ、資本は自己増殖してゆき、人間はその奴隷にされています。国家は、絶対主義王政において完成し、近代国家が形成されました。暴力的力を独占し、自らへの奉仕を要求しています。その最悪の形態が戦争です。資本も国家もすべての人間を奴隷としよう、としています。我々、キリスト者が最も問題としなければならない偶像崇拝はお金と国家の二つです。お金に関する偶像礼拝は、豊穣神信仰に由来します。国家に関する偶像礼拝は時に猛威をふるう自然神信仰に由来している、と考えられます。

三章の最後には「エフデのあとにアナテの子シャムガルが起こり、牛の突き棒でペリシテ人六百人を打った。彼もまたイスラエルを救った。」とあります。シャムガルについては後の士師、ナフタリ族出身のデボラが“シャムガルの時イスラエルの商業が衰えた”と嘆き、士師として立ち上がった次第が書かれています。シャムガルの父アナテの名はそもそも女神の名前ですが、イスラエルの最北部ベテ・アナテの町の人物と推測されています。ここはナフタリ部族に与えられた地ですが、ナフタリ族にはデボラやバラクがいますのでシャムガルはナフタリの嗣業地の南の地を与えられたアシェルの出身者ではないか、と推測されている訳です。「牛の突き棒でペリシテ人六百人を打った」と記されているので、後のギデオンのような怪力の持ち主だったのでしょう。「イスラエルを救った」と書かれていますが、実際のところは一地方で名をはせた程度でしょう。

士師記に登場する士師と言ってもいろいろな士師がいます。大士師はオテニエル、エフデ、デボラ、ギデオン、エフタ、サムソンの6名であとは小士師と呼ばれています。大士師はその後のイスラエルの伝承のなかで記憶にとどめられていった士師で、中でもギデオン、デボラの同僚バラク、サムソン、エフタは新約聖書へブル人への手紙に信仰の人、として引用されています。四大士師といいます。十二人の士師はイスラエルの部族に対する指導性には大きな差があります。聖書の表現を見る限り、女予言者デボラとその同僚バラクが最もイスラエルの部族の指導者として強力であったように思えます。20世紀中葉の高名なドイツの旧約学者のマルティン・ノートはヨシュア記、士師記の時代のイスラエルを部族連合の時代と定義しました。この部族連合の考え方は、古代ギリシャやイタリアにおい複数部族が宗教的提携を軸に都市国家連合体を形成していたことに由来します。しかし、その後のイスラエル史研究を通じ、実体的にそのような連合体が形成されていた、とは全く言えない、ことが明らかになり、この考え方は今では否定されています。聖書の叙述を丹念に見てみますと、ほとんどは単に所属部族の他民族との戦いをイスラエルの戦いとみなしているだけです。他部族に声をかけて彼らのいくつかが参加したことが明確なのは、デボラ、ギデオン、エフタの3名のみです。それも連合体として戦ったなどとはお世辞にも言えません。連合体的様相を若干でも伝えているのはデボラのケースだけです。従って士師記の時代がイスラエル民族の士師という英雄が活躍した時代だ、という後のユダヤ人の伝承は歴史的事実ではありません。むしろ、士師記の時代はカナンの地に侵入した放浪の民イスラエルがカナンの地における最貧層である部族と共に、この地に定着するために呻吟八苦していた時期である、と言ってよいでしょう。

シャムガルのあとは、デボラとその同僚バラクの話です。最もまともな士師ですが、次回以降のお話にゆずります。この次はギデオンです。ギデオン協会の名で有名な士師です。これも次回以降のお話とします。10:1-2にトラが出てきます。「さて、アビメレクの後、イスラエルを救うために、イッサカル人、ドドの子プワの息子トラが立ち上がった。彼はエフライムの山地にあるシャミルに住んだ。彼は、二十三年間、イスラエルをさばいて後、死んでシャミルに葬られた。」とあります。イッサカル人ですがこの部族の地はエフライム山地の北です。弱小部族ではありますがこの北のゼブルンと連携して時にイスラエルの歴史にその名を留めることになる部族です。彼が拠点にした地シャミルはイッサカルの地の南にあり、「いばら」の意味の無名の町です。どの民族と闘ったのか、イスラエルのどの部族に声をかけたのかについても書かれていません。おそらく、エフライム山地の北の地域において他民族支配の空白地区があり、その地でトラという人物が相対的に平和にさばきをおこなった、と理解するのが現実でしょう。

このあとはヤイルです。10:3に「彼(トラ)の後にギルアデ人ヤイルが立ち上がり、二十二年間、イスラエルをさばいた。彼には三十人の息子がいて、三十頭のろばに乗り、三十の町を持っていたが、それは今日まで、ハボテ・ヤイルと呼ばれ、ギルアデの地にある。ヤイルは死んでカモンに葬られた。」とあります。ヤイルはギルアデ人と呼ばれています。ギルアデというのはヨルダン川の東の広大な土地を指している地名でありイスラエルの部族ではありません。ハボテ・ヤイルはイスラエルの最北のバシャンの地との境くらいにありましたので、ヤイルはルベン族の出身と考えられます。「三十人の息子がいて、三十頭のろばに乗り、三十の町を持っていた」とありますから大富豪です。戦争をやった風はありません。ルベンは創世記でイスラエルの長子でありながら、父の女と床を共にしたため、長子の特権は奪われ、時には十二部族から除外されることになった部族です。その部族出身の大富豪という訳ですから、イスラエル民族にとっては正統的家系とは全く言えません。ギルアデ人と言われていますからもしかしたら、イスラエルのカナン侵入以前からこの地に住んでいた人々の系列なのかもしれません。そもそも、イスラエルの民は圧倒的少数派ですから、現実はその地に住んでいた人々と混交し住まわせてもらっていた、というのが現実と考えられます。宗教的な現実も推して知るべし、です。10:6では「またイスラエル人は、主の目の前に重ねて悪を行い、バアルや、アシュタロテ、アラムの神々、シドンの神々、モアブの神々、アモン人の神々、ペリシテ人の神々に仕えた。こうして彼らは主を捨て、主に仕えなかった。」と言われています。

この後はエフタです。彼もギルアデ人と呼ばれていますが、イスラエルのガド族の出身と考えられています。4大士師の一人なので次回以降のお話のテーマに致しますが、一点だけ申し上げます。ガド族はルベン族、マナセの半部族とともに、ヨルダン川を渡らずその東側にとどまった部族であり、正統的なイスラエル部族とは数えられない部族です。しかもエフタは「勇士であったが、遊女の子」であった、と言われています。イスラエルの正統な出では全くない人物なのです。そしてエフライム人ともめごとを起こしておりイスラエル民族の指導者とはとてもいえるような人物ではありませんでした。12:7で「こうして、エフタはイスラエルを六年間、さばいた。ギルアデ人エフタは死んで、ギルアデの町に葬られた。」とあります。彼は、血統的にはイスラエルの系譜ではない可能性が濃厚です。

次はイブツァンです。12:8に「彼の後に、ベツレヘムの出のイブツァンがイスラエルをさばいた。彼には三十人の息子がいた。また彼は三十人の娘を自分の氏族以外の者にとつがせ、自分の息子たちのために、よそから三十人の娘たちをめとった。彼は七年間、イスラエルをさばいた。イブツァンは死んで、ベツレヘムに葬られた。」とあります。ベツレヘムの出身ですからユダ族です。三十人の息子などの表現はヤイロの時の表現とそっくりです。三十人の嫁をとった、と言われているところをみると、混血が盛んにおこなわれ、イスラエルの独自性は失われていたことが想像されます。

この次には12:11以降に「彼の後に、ゼブルン人エロンがイスラエルをさばいた。彼は十年間、イスラエルをさばいた。ゼブルン人エロンは死んで、ゼブルンの地のアヤロンに葬られた。彼の後に、ピルアトン人ヒレルの子アブドンがイスラエルをさばいた。彼には四十人の息子と三十人の孫がいて、七十頭のろばに乗っていた。彼は八年間、イスラエルをさばいた。ピルアトン人ヒレルの子アブドンは死んで、アマレク人の山地にあるエフライムの地のピルアトンに葬られた。」と記されています。ゼブルン人エロンとビルアトン人アブドンが登場します。ゼブルン人もイスラエル北方に嗣業地をもらっていますが、ここはガリラヤの地で、主イエスの育った町ナザレはこの地にあります。エロンはイスラエルを裁いた、と記されているだけです。そのあとのピルアトン人というのは、エフライム部族の一部と推測されます。「四十人の息子と三十人の孫がいて、七十頭のろばに乗っていた」とありますからルベン族のヤイルと同様、大富豪です。特に戦闘で功績があったとは書かれてはいませんので比較的平和な時であったのでしょう。

最後はサムソンです。怪力のサムソンでダン族の出身です。悲劇的な最後を迎えますが彼こそ、民衆の英雄と言えるでしょう。ペリシテ人と闘った、とされていますが、イスラエルの他の人々の応援は全くなく自分の力のみで戦いました。4大士師の最後ですので次回以降のテーマに取っておきます。

こうやって順番に士師と言われる人々をみると英雄士師とはお世辞にも言えない人々がほとんどです。士師というのはむしろ部族を治めた有名人を、「イスラエルのさばき人」として表現したもの、と言ってよいでしょう。宗教的にもヤハウェ信仰のリーダーとは全く言えません。しかし、士師記の著者は伝承された士師たちをイスラエルの他民族からの解放者として描きヤハウェ信仰を維持したリーダーと描いたのです。よく見るとあちこちにぼろが出ています。むしろ、士師記の時代はイスラエル十二部族がカナン人たちの中に入っていきその文化・文明に吸収されていった時代である、といえると思われます。ヤハウェ信仰も風前の灯であった、というのが実際でしょう。

士師記の記述のパターンは「背信裁き→求め→救い」であり、イスラエルの罪・背信、それに対する主なる神の裁きがあり、この状況で民の叫びに応じ、士師が起こされイスラエルを救う」ということで、これは聖書における救いの原型を示している、と言われています。最初の士師オトニエルのところを見るとこのパターンに従っているように見えます。まず、イスラエルはカナンの他民族と混血し「主の目の前に悪を行い」とあり、イスラエルの罪の現実を述べています。しかし、他民族から嫁を貰うこと自身は罪とは限りません。その娘の家のカナン信仰に染まるから罪となるのです。なぜ、そちらの信仰に流れていったのか。それはカナンの自然神・豊穣神信仰は強力であり、また文化的・文明的に先進的であったからです。この世の生活のことのみを考えればカナン信仰の方が恵み豊かに見えたのです。現代も同じ問題です。

そのあと、主なる神のさばきとして他民族支配が現れます。オトニエルの場合はアラム・ナハライムの王クシャン・リシュアタイムによる支配です。他民族支配が神の裁きの具体的表れである、ということは必ずしも言えません。その後の歴史を見ると、むしろイスラエルは、一定の自治権を与えられつつも他民族の支配を受けていた時期の方が幸せであった、と言えます。アレクサンダー大王の死後のゆるいエジプト支配下における半独立国的状況、ローマ帝政初期のように、ヘロデ大王がヤハウェ信仰は尊重しつつも税金だけはちゃんと払ってもらう、という時期などです。エレミヤはバビロニアへの従属を主張しましたが、おそらく、バビロニアの支配は受けつつも自治的状況を維持し、ヤハウェ信仰を守り抜くことを目標にしていたと思われます。主イエスがローマ帝政の支配を容認しているかに見えるのも、その流れにある、と言ってよいと思います。ローマ帝政によるユダヤ人、キリスト者への弾圧が始まってからはそうは言っていられなくなりました。士師記においては、ダビデ王朝期を最高の歴史とし、他民族支配を神の裁きとし、そこからの解放をイスラエルの救いとするユダヤ教正統派の見方から士師の時代を見ているのです。主なる神の意思とは必ずしも一致していません。

他民族支配のもとで、イスラエルの民は主なる神に叫びます。イスラエルを救う指導者を叫び求めるのです。ユダヤ教のメシア期待はこのような民の叫びに由来しています。人間の歴史の中でもしばしば繰り返された「英雄待望」です。この「英雄待望」で本当に神に喜ばれる社会ができていったことなど一度もありません。士師記においても士師が起こされて他民族支配から一時脱したとしても、その社会が正義と公平によって建てられた社会になった、という風はありません。その後のイスラエルの歴史においても同様です。更には世界の歴史においてもそうです。中国の王朝における英雄はどうだったでしょうか。フランス革命以降の近代西欧史においてはどうだったでしょうか。むしろ聖書はこのような特別の支配者が登場し、神を神としない社会ができることを強く警戒していると、見るべきです。それは神の支配が人の支配に変わることを否定しているからです。

そして士師が立てられます。しかし、注意すべきはイスラエルの正統的な流れから士師が立てられるのではなく、何らかの意味でアウトサイダー的なところから士師が立てられということです。弱小部族からだったり、正当な家系ではなかったり、水滸伝のような盗賊のような人間からだったり、です。これは神の知恵です。これはヤハウェ信仰の根本にある考え方である、と言っても良いかもしれません。弱き者のところにこそ主なる神の働きが現れる、という新約の思想と底流でつながっています。

そしてこの士師がイスラエルの民を他民族支配から救うというシナリオです。他民族支配を脱することが救いと同じではないことは先に述べた通りです。士師記のパターンと言われているのは申命記史観といわれるユダヤ教正統派の見方で士師の伝承を再解釈しているのですから、歴史的事実と符合しないところが多数あります。しかし、それなら小説と同じか、と言ったらそうではありません。矛盾していることが赤裸々に伝えられているのです。小説としてはちぐはぐだらけです。無理に申命記史観に当てはめた、ということがバレバレの文書なのです。しかも、このパターンに無理でも当てはめることができるのは十二人の志士の内数人にすぎません。大部分は士師というがために「イスラエルをさばいた」と言っているのにすぎません。私たちは色眼鏡をはずしてちゃんと士師を見て、その直面していた現実を想像し、私たちに告げようとしているのは何かをよみとる必要があります。

これからの四大士師の働きのところを具体的に見ていくときにも忘れてはならない視点です。祈ります。

ご在天の父なる御神様、今日のひと時を感謝いたします。心静かに祈りと賛美の時を与えられ感謝申し上げます。今日は四大士師以外の八士師に関する簡単な叙述のなかから、背後のイスラエルの置かれた状況をも推測しつつ士師記が私たちに伝えんとしていることを見ようと努めました。私たちは形は変わっても今も強い偶像礼拝の社会に置かれています。主イエスのみ言葉に従うことでこの偶像礼拝から逃れることができますように。主なる神のみが支配者である神の国を見ながらこの世の旅路を歩むことができますよう、知恵と力と、そして勇気をお与えください。救い主、イエス・キリストの御名により祈ります。アーメン

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