救いか裁きか
マルコ福音書1章2~8節

1.導入

みなさま、おはようございます。マルコ福音書からの説教は今日で二回目になります。前回は救世主としての歩みを始めようとするイエス、その彼が向かう世界、ユダヤやガリラヤはどんな社会だったのか、ということを学びました。イエスの時代のユダヤ社会は、端的に言えば超格差社会でした。多くの民衆は四割強、ひどい場合は七割近い税負担にあえいでいました。あまりの税の厳しさに、ひとたび飢饉が発生すると農夫は生きていけなくなり、物乞いになるか、あるいは強盗になってローマ人やユダヤ人の金持ちを襲うしか選択肢がないほどに追い詰められていました。その一方で、エルサレム神殿にいる大祭司カヤパやその一門は富を独占していました。エルサレム神殿には全国各地から莫大な額の献金が送られてくるのですが、豊かになった大祭司たちは貧しい農民たちに貸し出しを行い、彼らが借金を返済できない場合は土地を取り上げて、そうやって大地主になっていきました。宗教家という表の顔の裏で、大祭司は大銀行家であり大地主でもあったのです。このような金満祭司と赤貧の多くの民衆という、ひどくゆがんだ社会に現れた救世主イエスは、この状況を正し、イスラエルを神の指し示すヴィジョンに基づく公正で平等な社会へと作り変えようとしていました。イエスはイスラエルの宗教のみならず、政治経済においても絶大な力を誇る大祭司カヤパを頂点とするイスラエルのエスタブリッシュメントたちを容赦なく批判し、そのために彼らと深く対立していくことになります。私たちも、そのような対立の構図があることを忘れないでマルコ福音書を読み進めてまいりたいと思います。

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超格差社会の中の救世主
マルコ福音書1章1節

1.導入

みなさま、おはようございます。私が毎週日曜日に講壇から説教するようになって6年目になりますが、これまで福音書の連続説教をしたことは一度もありませんでした。復活祭やクリスマスなどの特別の機会には福音書から説教をしてきましたが、福音書全体を連続して説教するということはしていません。それは、福音書全体から説教することに特別の重みがあるからです。聖書全体の中で、福音書から講解説教をすることは最も大変なことであろうと思います。そこで満を持して、とまで大きなことは言えませんが、これまで私なりに福音書を語るための準備をしてきました。これからじっくりと、最も古い福音書であるマルコ福音書を皆さんと一緒に読んでいきたいと思います。

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畏れと驚き
詩篇111:1-10
森田俊隆

今日は先月に続き、詩編のなかからお話をさせていただきます。詩編111編です。詩編には、最初に「ハレルヤ」という言葉で始まる詩編が10編あります。そのなかで「アルファベット詩編」と称し、ヘブル語のアルファベットで各節が始まる詩が2編あります。それが111編と112編です。今日の詩編はそのうち前の方ですが、内容的には連続しているようです。ともに「神賛美の歌」です。両編に共通している言葉は「主は情け深く、あわれみ深く」です。イスラエルの神、主は私たちを超えた存在でありながら、「情け深く、あわれみ深い」存在であることがうたわれています。111編は「尊厳と威光」を示す神、112編は「繁栄と富」を齎す神に強調点がある、と言えようかと思います。

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マグダラのマリヤと復活のイエス
ヨハネ福音書20章1~18節

1.導入

みなさま、復活主日おめでとうございます。2千年前、この方こそ私たちの救い主に違いないとイエスに期待をかけていた弟子たちは、イエスが十字架に架かって死んでしまったことに絶望し、イエスによって始められた運動は空中分解してしまったように見えました。みな、イエスの弟子だということを周囲の人々に隠し、自分の命を守ろうとしました。もう夢は終わったのだと、自分の元の生業に戻ろうとしました。しかし、彼らは突然勇気に溢れて、どんな反対に遭おうともイエスは全世界の王である、主であると大胆に宣べ伝えるようになりました。何が臆病だった彼らを変えたのか、命さえ惜しまずにイエスのことを宣べ伝えるようになったのはなぜなのか。この驚くべき変化の理由として、彼らは主がよみがえったのを目撃したからだ、と福音書は語ります。この驚くべき体験が、すべてを変えてしまったのです。今日は復活の主を最初に目撃した人、復活したイエスに最初に再会した幸いな人について見てまいりたいと思います。

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キリストに倣いて
第二コリント13章5~13節

1.導入

みなさま、おはようございます。今日は棕櫚の主日で、主イエスが地上での生涯の最後の1週間を過ごすためにエルサレムに入城したことを覚える日です。そして今日から受難週が始まりますので、週報に今週のためのデボーション・ガイドを挟みました。今週は一日一日、イエスの身に何が起こった日なのかを考えながらお過ごしください。また、1年半に及んだ第一、第二コリント書簡も今日で最終回になりますが、パウロはこの手紙を結ぶにあたり、コリントの人たちに今一度イエスの苦難の生涯を振り返るようにと呼びかけています。ですからこの棕櫚の主日に実にふさわしい箇所だと言えます。

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三度目のコリント訪問
第二コリント12章14~13章4節

1.導入

みなさま、おはようございます。4月になりました。私がこの教会で牧会をさせていただいてから今日で3年目になります。このコリント書簡からの学びも今日を含めてあと二回、その後はいよいよ主の復活を祝う復活主日になります。さて、前回まではパウロが「愚かな自慢合戦」、つまりパウロが開拓伝道したコリント教会に後からやって来た宣教師たちが、自分たちはパウロよりも優れていると誇ったのに対して、パウロがいわば強いられた格好でこの自慢合戦に付き合う、彼らと張り合うというところを学びました。しかしパウロは、単に彼らと同じ土俵で自慢合戦を戦ったのではありませんでした。むしろ彼らとは全く逆に、自分は強さではなく弱さを誇る、なぜなら自分の弱さにこそ神の力が輝き出るからだ、という感動的な教えを伝えてくれました。

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パウロの誇り
第二コリント12章1~13節

1.導入

みなさま、おはようございます。今日は2021年度の最後の主日礼拝となります。当教会のカレンダーは1月始まりですが、多くの学校や企業では4月がスタートになります。第二コリントからの説教も今日を含めてあと三回になりますが、今日の箇所はある意味で第二コリントのクライマックスとも呼ぶべき箇所なので、年度を締めくくるのにふさわしい聖書箇所が与えられたと思っています。

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ダビデのミクタム
詩篇16:1-11
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

今日のお話は、聖書の詩編からです。詩編は全部で150編あり、一巻、二巻、三巻に分かれていますが、内容的にはこの三つに整然と分類されている訳ではありません。このなかで、「ダビデの詩(うた)」としてイスラエル第二代の王ダビデがうたったものとされているものが多くを占めています。しかし、これらの詩編は、イスラエル信仰の基本を示したもの、と理解すべき文書であり、「ダビデの詩」としての理解に執着する必要性は全くありません。むしろ、作者ダビデに執着すると、ダビデが置かれていた歴史的状況の範囲での解釈に落ちる可能性あり、詩編の持つ意義を狭めてしまうことになりかねません。サウル王からの逃避行という初期ダビデが置かれていた困難な状況における詩という意味は心にとめるべきですが、その後のイスラエルの民、およびユダヤの民が経験した歴史上の困難は筆舌に尽くしがたいものであり、その歴史の下にこれら詩編を置いてみる方がイスラエル信仰の基本・根本が見えてきます。本日取り上げる、詩編第16編をはじめとする「ダビデのミクタム」もそのような詩です。私たち、新しきイスラエルも当然、このイスラエル信仰の基本・根本に忠実である者です。

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詩篇16:1-11
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愚かな誇り合戦
第二コリント11章16~33節

1.導入

みなさま、おはようございます。2020年の10月から始めた第一、第二のコリント書簡の連続説教も、1年半に及びましたが、それも今回を含めてあと4回になります。ですから復活祭の前の週、棕櫚の主日までは第二コリント、復活祭には特別なメッセージをして、復活祭の後からはマルコ福音書の講解説教を始めます。

さて、それでは今日の箇所ですが、これは先週からの続きになります。この11章においてパウロは今コリント教会で牧会をしている現役の宣教師たちと全面的に対決しています。今コリント教会にいる宣教師たちは、無牧であったコリント教会にやって来たのですが、彼らはコリントの信徒たちに教師として認めてもらう、受け入れてもらうためにいろいろと自己アピール、自己推薦をしました。彼らはユダヤ人の宣教師たちでしたが、初代教会の総本山、エルサレム教会から推薦状を携えてやってきました。これは理解できることですね。私たち教団に属する牧師たちも、本部教団からこの人は按手礼を受けた正式な教師であるという推薦を受けて個別教会に派遣されます。また、彼らは自分たちのこれまでの伝道実績や、自分たちの聖書についての知識についてもコリント教会の人たちにアピールしました。これも理解できますね。今でも各教会に送られる教師は、それまでの学歴とか社会人経験、神学校での学びやこれまでの伝道実績などを経歴書にまとめて教会の役員会に送ります。コリントにいた宣教師たちはこれらに加えて、彼ら自身の霊的な体験、つまり「私はこのような御霊の賜物を受けた、神からこのようなヴィジョンを受けた」ということもコリント教会の人たちと分かち合ったものと思われます。その結果、彼らはコリント教会の正式な教師として受け入れられ、教会から謝儀を受け取っていました。

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ライバル宣教師たち
第二コリント11章1~15節

1.導入

みなさま、おはようございます。先週から第二コリント書簡の中でも最後の部分、10章から13章までを学んでいます。先週もお話ししたように、この10章から13章まではひとまとまりの独立した部分です。ここでパウロは、自分から心が離れかけているコリント教会の人々に必死で訴えかけ、今コリントに来ている新しい宣教師たち、彼らはエルサレム教会と関係の深いユダヤ人宣教師たちなのですが、彼らに耳を貸してはいけない、彼らを信用してはいけないと強い口調で警告します。前回の10章でも彼らのことを遠回しに言及していたパウロですが、この11章以降では彼らを直接名指しし、いわば全面対決のような形になっています。

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