変貌山の出来事
マルコ福音書9章2~13節

1.序論

みなさま、おはようございます。ここ数週間、マルコ福音書の中でも非常に大切な箇所を読んで参りましたが、今日の箇所も大変有名な箇所です。ルネサンスの代表的な画家であるラファエロの代表作であり、白鳥の歌でもある「キリストの変容」という有名な絵が描いているのはこの場面です。この傑作はヴァチカン美術館にあり、私も実際に見たことがありますが、非常に強い印象を受ける作品でした。ただ、ラファエロの絵画を見て感動することと、マルコ福音書におけるこの出来事の意味を理解することとは別物です。今朝は、なぜこの出来事がこの場面で起こらなければならなかったのか、その文脈をよく考えてみたいと思います。

この場面に先立つ出来事とは、ペテロがイエスを「あなたこそメシアです、イスラエルの王です」と告白したことで、イエスはそのペテロの告白を受け入れつつも、自らを待ち受ける受難を初めて弟子たちに打ち明けられました。さらにイエスは、自分だけではなく、自分に従う人々をも苦難が待ち受けていることを示唆しました。しかし、イエスもその弟子たちも苦しみを受けるにもかかわらず、弟子たちが生きている間に神の国、神の支配が目に見える形で力強く実現していくだろうとも約束されました。弟子たちにとって、このイエスの言葉は受け止めることが非常に難しい言葉だったはずです。イスラエルの王とは、ダビデ王のようにイスラエル民族を敵の圧政から救い出してくれる人物です。そのような人物が敵に敗れて死んでしまえば、イスラエルに救いは来ないことになってしまいます。そんなはずはない、という思いはイエスの言葉を聞いた後でも弟子たちの心に強く残ったことでしょう。また、ペテロはせっかくイエスがメシアだという正しい告白をしたのに、そのイエスからみんなの前で「サタン」と叱責されてしまいました。こんなことを人前でされれば、人間関係はぎくしゃくしますよね。ペテロの気持ちは、サラリーマンの中間管理職の気持ちと近いかもしれません。社長が部下の気持ちを引き締めようとするときに、中間管理職一人を選んで、みんなの前でその人を怒ることで、ほかの社員にも緊張が走る、気が引き締まるということがあります。ペテロがイエスに抱いていた誤解は、多かれ少なかれペテロ以外の弟子たちにも共有されていた誤解だったのですが、イエスはペテロ一人を叱責することで、いわば一罰百戒ということで、ほかの弟子たちの誤解についても注意を促していたのです。

とはいえ、怒られたペテロとしては立つ瀬がないというところではないでしょうか。みんなの前で怒られて、かなり気落ちしていたと思われます。私もサラリーマン時代に中間管理職のポストにあったことがありますが、自分ばかり上から怒られて、部下の失敗もみんな自分の責任になり、面倒な仕事を引き受けさせられて、なんて損な役回りなんだ、と思ったことがあります。最近の若者は出世に興味がない、管理職になりたがらないという話をよく聞きますが、分かる気がします。そして今日の変貌山での出来事は、そんな気落ちしていた弟子たちのリーダーであるペテロを慰める、励ましを与えるような出来事でした。イエスとの衝撃的な対話の後に、なんとなく弟子たちの間に漂っていた嫌な雰囲気を振り払うような、やはりこのイエスはすごい人だ、彼の言うことは良く分からないけれど、それでも彼についていくしかない、と思わせるような重大な出来事だったということです。そしてこの出来事は、イエスの弟子たちへの問い、「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」という問いに対しての、神から弟子たちに与えられた答えだと言えます。今日の箇所は、ペテロの告白の続きの箇所であると言えるでしょう。そのようなことを念頭に置きながら、今日の聖書箇所を読んで参りましょう。

2.本論

まず2節ですが、「それから六日たって」とあります。ペテロの告白と、それに続くイエスの衝撃的な受難告知、それから六日後だということです。その間、弟子たちの間には重苦しい空気があったことでしょう。ペテロもイエスに質問したいことは山ほどありましたが、またイエスから怒られてしまうのも怖いので、黙っている、そんな状況でしょうか。そのような状況の中で、イエスは12弟子の中から、ペテロと彼の漁師仲間であるゼベダイの子ヤコブとヨハネ、この三人だけを選んで山に登ろうと言い出されました。イエスは気落ちしているペテロをケアしなければならない、気持ちを切り替えさせなければならない、と思われたのかもしれません。彼と仲の良いヤコブとヨハネも連れて、4人で山に向かいました。12弟子のうちの他の9人は、取り残されたような格好になるので面白くはなかったとは思いますが、しかし彼らもペテロがずいぶん気落ちしていたのを見てきたので、イエス様が彼を気分転換に連れ出してくれるのは良いことだと思ったのでしょう。なにしろペテロはムードメーカーなので、彼に元気がないと弟子全体が落ち込んでしまう、そのようにほかの弟子たちも感じていました。山登りでもして、元気になってこい、という感じで送り出したのかもしれません。

しかし、山というのは旧約聖書では神からの啓示を受け取る場所でもありました。特に旧約聖書最大の預言者モーセは、シナイ山に登って神から十戒を授けられたり、いろいろな教えを授けられたりしています。ですからイエスがこの大事な局面で山に登ろうと言われたのは気分転換のためのピクニックとしてではなく、むしろ神からの大事な啓示を受けるという意図があったはずです。十二弟子たちはそのようなイエスの意図に気が付いていなかったかもしれません。もし気が付いていたら、「私たちも一緒に行かせてください」と強く願ったでしょうから。イエスの方も、これから起きる出来事は秘密にしておきたいと考えていたので、必要最小限の弟子たちだけを連れて、山に登ることにしました。

山の頂に達した頃でしょうか、その時に驚くべきことが起きました。イエスの姿が変わり、そしてその着物が白く光り出したのです。「御姿が変わる」というのは、いったいどんな姿になったのか、興味をそそられることではありますが、福音書記者は詳しい説明を与えてはくれません。旧約聖書では、モーセがシナイ山に上って四十日四十夜神と共に過ごした後に、モーセの顔が光を放ったという記述がありますが、そのようにイエスもイエス自身から、それだけでなくイエスの衣からも光が放たれたのでした。

これだけでも十分びっくりする出来事ですが、さらに驚かされる出来事が起きました。なんと、イエスの横にエリヤとモーセが現れ、イエスと語り始めたのです。ペテロやヤコブ、ヨハネにとってエリヤやモーセは旧約聖書で読んだことのあるだけの人物で、その姿を見たことはなかったので、どうして彼らがエリヤとモーセであると気が付いたのか、不思議なことではありますが、イエスとの会話の中で彼らの名前が明らかにされたのかもしれません。このモーセとエリヤには共通点があって、二人とも四十日四十夜シナイ山に上り、そこで神の啓示を受けています。モーセはそこで、神の教えである律法を受け取りましたが、エリヤも大変印象的な形で神の啓示を受けています。そこはとても素晴らしい箇所なのでお読みしたいと思います。第一列王記19章11-12節です。

主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。

かつて神は、暴風の中からヨブに語り掛け、また燃える火の中からモーセに語り掛けましたが、エリヤは風の中にも火の中にも神を見出さず、かすかな神の呼びかけを聞いたというのは、とても印象的です。おそらくその時エリヤは疲れ果てていたので、神は彼の状態に合わせて、いちばんやさしい形でご自身を現わされたのでしょう。

このように、神の山で神の啓示を受けたエリヤとモーセが、イエスと共にペテロたちの前に現れたのです。こんな事態をペテロたちは全く予想をしていなかったので、腰を抜かすほど驚きました。しかし同時に、この神秘的な瞬間に立ち会えたことに感謝感激でした。イエスが光り輝いたことは、イエスが本物のイスラエルの救世主、メシアであることの確かな証しであり、しかも彼の横に旧約聖書の最大の預言者であるモーセとエリヤが現れたことは、イエスがどれほど偉大な方であるのか、その何よりの証拠でした。

この時ペテロたちはモーセやエリヤのことを幻ではなく、生身の人間だと考えたようです。とはいえ、エリヤはイエスの時代から数百年前、モーセに至っては千年以上も前の人物です。私たちからすれば、聖徳太子に出会うというような話です。しかし、ペテロたちがエリヤやモーセのことを本物の人間だと考えたのには、わけがありました。第二列王記によれば、エリヤは生きたまま火の戦車に乗って天に上げられています。ですからエリヤは人間のままで天国にいるということになります。しかも神は、世の終わりにそのエリヤを再び遣わすと約束しています。実に、旧約聖書の最後の一文はエリヤの再臨の預言なのです。そこをお読みします。

見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心を父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。

このように、生きたまま天に上げられたエリヤは、主の恐るべき日が来る前に再び地上に戻ってくると信じられていました。一方、モーセについても同じような信仰がありました。モーセは神から約束の地に入ることが許されず、カナンの地を目の前にして死んだとされていますが、その墓がどこにあるか分からず、遺体を見た人もいません。そのために、モーセもまた死を見ることなく天に上げられたと信じるユダヤ人たちがいたようです。

そのような信仰を共有していたペテロたちは、ですからイエスの横にエリヤとモーセがいるのを見たときに、彼らは幻ではなく、本物の二人が天から地上に戻って来たのだ、と考えてしまいました。そこでペテロは、イエスとモーセとエリヤ、それぞれのために幕屋を建てます、と言い出しました。ここでいう幕屋というのは、昔イスラエルが荒野を40年間放浪した時の移動式神殿、移動式礼拝堂のことではなく、仮設住宅か宿泊用テントというような意味合いでしょう。つまり、天から地上に戻ってきたエリヤとモーセが当座の宿として泊まれる家を作りましょうということです。たぶんペテロも、何かもっと気の利いたことを言いたかったのでしょうが、あまりの出来事に動揺してしまい、それでも何か言わなきゃ、ということでとっさに思い付いたのが、この「幕屋を建てましょう」という提案だったのだと思います。ペテロも、自分は何か的外れのことを言っているのかもしれないとドキドキしていましたが、だからといって何も言わないということも、彼の性格上できなかったのでしょう。

そうこうしているうちに、雲がわき起こって、イエスたちやペテロたちを包んでしまい、何も見えなくなりました。そして、その時雲の中から声が聞こえてきました。雲と言うのは、神を運ぶ乗り物だと信じられていたので、雲の中から聞こえた声は神の声として理解されました。その声はこう言いました。

これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。

天から声が聞こえるというのは、マルコ福音書では二回目のことです。最初はイエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けたときのことで、その時はこう呼びかけられました。

あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。

この時の声は、神からイエスにのみ話しかけたもので、イエスの周りにいる人たち、バプテスマのヨハネやほかの群衆にはその神の声は聞こえませんでした。これは神がイエスに、「あなたは本当にわたしの子なのだ」という確証を与えるためのものでした。ですから神の声はイエスだけに聞こえ、ほかの人には聞こえませんでした。つまりイエスが神の子であるということは、この時点ではイエスだけが知る秘密だったのです。

しかし、マルコ福音書のストーリーが後半へと向かっていく局面で、イエスの秘密、イエスは本当は何者なのかという秘密が徐々に明らかにされていきます。まず、ペテロがイエスこそイスラエルの王ですと告白し、イエスもそのことをお認めになりました。しかしそれに続いてイエスは、そのイスラエルの王は受難のメシアとなることを告げ、自分が死ぬ運命にあると言いました。そればかりか、自分に従うあなた方も十字架を背負うことになるだろう、とまで言いました。それを聞いた弟子たちは混乱してしまいました。

そこでここでは神ご自身が、イエスが何者であるかということをペテロ、ヤコブ、そしてヨハネに明らかにされました。イエスはイスラエルの王であるばかりでなく、神ご自身の子であることを宣言されたのです。しかも、キリストの変容とモーセとエリヤの出現という最大限の証拠も示されました。それはペテロたちの心によぎったイエスに対する疑念を振り払うのには十分だったでしょう。同時に神は、ペテロたちに重要なことを命じました。それは、「彼の言うことを聞きなさい」というものです。これは特に、イエスの言葉に反発し、イエスを叱ることすらしたペテロに対する警告として聞くことができます。彼らはイエスがこれから苦しむこと、イエスだけでなく自分たちも苦しむこと、さらに言えば敵に迫害され、殺されるかもしれないということが受け入れられませんでした。敵が私たちを滅ぼそうとするなら、むしろ敵と戦って、仮に勝てないとしても負けを認めるぐらいなら討ち死にしたほうがましだというのがペテロたちの本音だったでしょう。しかし神は、イエスの平和の教え、武器を取って戦わないというイエスの十字架の道に従うようにと、ペテロたちに命じたのです。ペテロたちも、ひとまずはイエスの言うことに対して反発してはいけない、ということをこの神の命令を聞いて思わされたことでしょう。

さて、その神の声を聞いて、雲が晴れた後にあたりを見回すと、そこにはもはやエリヤとモーセはおらず、イエスの体からあふれ出ていた光も消えていました。今見たことは夢だったのだろうか、いやそんなはずはない、あまりにもリアルだったではないか、そんなことを自問自答しながらペテロたちはイエスと一緒に山を下りていきました。その時イエスから、今見たことは人の子が死者の中からよみがえる時まで、だれにも話してはならないと命じられました。人の子は死んだ後、三日後によみがえるということをすでに聞かされていたペテロたちですが、その話は前に聞いた時にも意味が分からず、今回もやはりイエスの真意が分かりませんでした。しかし、このようなものすごい経験をした後でしたので、イエスの言葉にもさらなる重みを感じたのでしょう。ペテロたちはイエスのこと言葉をしっかりと胸に刻み、それだけでなく、この言葉の意味は何なのかということを弟子たち三人で互いに論じあいました。

それでも、そのことをイエスに直接尋ねると、また厳しい叱責を受けるかもしれないと思い、切り出せませんでした。そこでほかの気になっていた質問をしました。それは、変貌山で見たエリヤのことでした。先ほどマラキ書をお読みしたように、エリヤは「主の大いなる恐ろしい日」が来る前に現れるはずでした。いまエリヤを自分たちが目撃したということは、そのような恐るべき日がすぐそこに迫っているのだろうか、と考えたわけです。当時の律法学者たちも、主の大いなる日が来る前にまずエリヤが来ると教えていたことも気になっていました。それで弟子たちは、「律法学者たちは、まずエリヤが来ると言っていますが、それについてはどうお考えですか?」とイエスの考えを尋ねたのです。その弟子たちの問いに対し、イエスはこう言われました。「エリヤがまず来て、すべてのことを立て直します。」この「すべてのことを立て直す」ということはマラキ書には書かれていませんが、旧約聖書続編に含まれている紀元前2世紀に書かれた「シラ書」という文書にはこのことが書かれています。シラ書48章9-10節をお読みします。

あなたは火の嵐の中を、火の馬が引く戦車に乗って引き上げられた。書き記されているとおり、あなたは定められた時に備え、神の怒りが激しくなる前に、これを和らげ、父の心を子に立ち帰らせ、ヤコブの諸部族を立て直す。

このように、マラキ書の記述に加えて、「ヤコブの諸部族を立て直す」ということがエリヤについて書かれています。再臨のエリヤは、すべてを立て直し、主の大いなる日への道備えをするのだと信じられていたのです。イエスもそれを追認しました。しかしイエスは続いてエリヤではなく、再び「人の子」について話します。「では、人の子について、多くの苦しみを受け、さげすまれると書いてあるのは、どうしてなのですか」と逆に弟子たちに質問します。とはいえ、旧約聖書のどこを探しても「人の子は苦しまなければならない」という預言はありません。では、イエスはいったいどの箇所を念頭に置いて「書いてある」、つまり聖書に書いてあると語ったのでしょうか?イエスはどこかの箇所を引用したのではなく、おそらくいくつかの旧約聖書の箇所を組み合わせることで得られる一つの解釈を示したのだと思われます。これまで何度かお話ししたように、「人の子」とはダニエル書7章に登場する謎めいた人物のことで、彼には天において神から全世界の支配権が渡されることが預言されています。イエスはこの謎の人物は実は私のことなのだ、と示唆しているのです。同時にイエスは、イザヤ書53章に出てくる謎の人物、「苦難の僕」と呼ばれ、イスラエルの罪を一身に引き受けることでイスラエルのために罪の赦しを成し遂げる人物は、実は自分のことなのだということも示唆しているようなのです。当時のユダヤ人の間では、この栄光の「人の子」と「苦難の僕」とは別々の人物だと信じられていたのですが、イエスは自分がそのどちらにも当てはまるということを示唆しているのです。そうすると、イスラエルの罪のために苦しむけれど、その後に天で栄光を受けることになる人物がいて、イエスはまさに自分はそれなのだ、と言おうとしていたのです。それからイエスは再び話題をエリヤに戻します。

しかし、あなたがたに告げます。エリヤはもう来たのです。そして人々は、彼について書いてあるとおりに、好き勝手なことを彼にしたのです。

ここでイエスは、エリヤはもう来ていた、と言っています。ペテロたちは先ほどの変貌山で再臨のエリヤを初めて見たと考えていたのですが、実はそれより先に来ていたということです。ではイエスは誰のことを言っているのかといえば、バプテスマのヨハネのことです。ヨハネこそ、実はエリヤである、より正確にはエリヤの霊を受けた、エリヤの役割を果たす預言者だったということです。そのバプテスマのヨハネはヘロデ・アンティパスによって斬首されたのですが、イエスはそのことも「彼について書いてあるように」と言っています。しかし、再臨のエリヤが人々から迫害されて殺されるという預言は旧約聖書にはどこにもありません。ここでもイエスは、ご自身の独自の旧約聖書解釈から導かれる結論を述べたのだと思われます。エリヤは栄光の主の道備えをするために遣わされる人ですが、その栄光の主が実は「苦難の僕」であり、彼が苦しめられて殺されるならば、彼を世に送り出す役割を果たすエリヤも同じ運命をたどるだろうということをイエスは語ったのだろうと、私は考えています。

ここから分かることは、イエスの旧約聖書の理解は通り一遍のものではないということです。イエスは旧約聖書に書いてあることだけでなく、様々な旧約聖書の記述を組み合わせて、総合的に解釈し、そこから再臨のエリヤとしてのバプテスマのヨハネや、「人の子」つまり自分自身の運命についての一つの結論を導き出していたということです。しかし、弟子たちにはこのような深い旧約聖書への洞察はなく、したがってイエスの言葉を理解することもできませんでした、この時点では。

3.結論

まとめになります。今日はペテロのメシア告白と、それに続くイエスの受難告知、その後のペテロとイエスの口論という、驚くべき事態の推移に混乱していた弟子たちに、再びイエスへの強い信頼を取り戻させることになる出来事を学びました。今回は、神ご自身がイエスがどなたなのかということをペテロ、ヤコブ、ヨハネという弟子たちの中核的な人たちに示されました。しかもイエスの変容と、エリヤとモーセの出現という確かな証拠もお与えになりました。その後にイエスは、再臨のエリヤであるバプテスマのヨハネと、そして自分自身が苦難に遭うということを再び弟子たちに教えました。弟子たちは変貌山で見た栄光のイエスと、イエスの語る苦難のメシアというギャップに苦しみ、イエスのいうことがなかなか受け入れられません。弟子たちにはイエスの言葉を受け入れようという心と、受け入れたくないという思いのせめぎ合い、葛藤が深まっていきました。その葛藤の中で、弟子たちはこれから大きな挫折や失敗を経験することになりますが、しかし主イエスはこうした彼らの葛藤や失敗、さらには裏切りさえも、彼らが大きく成長するためのステップとして用いられます。

この弟子たちの歩みから、私たちも学んでいきたいと思います。私一人一人も神様から召されたものです。しかし、神の御心というのはそんなに簡単に私たちに分かるものではありません。私たちの思い込みや勝手な判断で調子はずれなことをしてしまうかもしれません。しかし、そのような時には神がきっと軌道修正をしてくださいます。この変貌山の出来事のような劇的な出来事ではないかもしれませんが、神は何らかの方向で私たちを正しい方向に引き戻そうとされるでしょう。ですから私たちも、自分の人生に起きる出来事のことを注意深く振り返るときを持ちたいものです。そのときは偶然の意味のない出来事だと思ったことのなかに、何か意味が隠されているのかもしれません。そして、そのような主の導きを常に願い求めて参りましょう。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様。今朝はあなたがイエスの弟子たちをどのように扱われたのかを学びました。あなたは弟子たちの揺れ動く心をよくご存じなので、彼らに確信と確証とをお与えになりました。私たちも揺れ動く弱い心を持つ者ですが、そのような私を主がいつも導き、お支えくださいますように。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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