まだ悟らないのですか
マルコ福音書8章1~21節

1.導入

みなさま、おはようございます。段々と寒くなり、アドベントの期間らしくなって参りました。さて、今日の聖書箇所についてはデジャブといいますか、あれ、ここは前に読んだことがある、とお感じになったかもしれません。それもそのはずで、6章でもイエスがたった五つのパンと二匹の魚から五千人分の食事を作り出したという奇跡の記事があったからです。ちなみに、マルコ6章に記されている五千人の給食の記事は四福音書すべてに記されている記事です。それがわざわざ指摘するようなことなのか、と思われるかもしれませんが、四福音書すべてに登場する奇跡というのは実は非常に稀なのです。共観福音書と呼ばれるマルコ・マタイ・ルカの三福音書は互いによく似ていますが、ヨハネ福音書はとてもユニークで、共観福音書とは多くの点で異なります。ヨハネ福音書にはイエスの奇跡は七つしか記されていませんが、その多くは共福音書には登場しません。例えばカナの婚礼で水をワインに変えた奇跡や、有名なラザロの復活はヨハネ福音書だけに記されている奇跡です。このように、共観福音書に記されている奇跡と、ヨハネ福音書に書かれている奇跡とは、重なり合わないのです。しかし、そのヨハネ福音書もこの五千人の給食の記事は記しています。それだけ重要な奇跡だったということです。

それに対して、二度目の給食、今回の四千人の給食の記事が出てくるのはマルコとマタイの二つの福音書だけです。マタイ福音書はマルコの後に書かれ、マルコ福音書を資料として書かれた福音書なので、マルコの記事の9割はマタイにも登場します。ですからマタイ福音書に四千人の給食の記事があるのは不思議ではありません。では、同じくマルコ福音書を元にして書かれたルカ福音書にはなぜ四千人の給食の記事がないのでしょうか?その疑問を考えることが、この四千人の給食の意味を明らかにしてくれます。前回の五千人の給食と、今回の四千人の給食との違いは何か?それは、五千人の給食がユダヤ人に対してなされた奇跡だったのに対し、今回の四千人の給食は異邦人に対してなされた奇跡だということです。先週の説教でお話ししたように、今イエスは異邦人の住むエリアの中で活躍しています。ですから今回彼につき従ってきた群衆は、ユダヤ人ではなく外国人、異邦人なのです。イエスはユダヤ人のみならず、異邦人にも救いの糧を与える方なのだ、ということを読者に伝えるために、マルコはこの似たような奇跡を二度も記したのだと思われます。逆に、ルカ福音書ではイエスの異邦人伝道に関する箇所は割愛されています。ですから、ルカ福音書には二度目の給食の記事がないのです。そのような点を踏まえながら、今日の聖書箇所を詳しくみて参りましょう。

2.本文

8章1節には、場所についての記述がありません。ですから、大ぜいの人の群れがどこに集まっていたのか、はっきりとは記されていないのですが、7章の後半ではイエスはデカポリスという地域で癒しの業を行っていたことが記されています。デカポリスとはギリシア語で10の都市という意味で、そこはパレスチナにおけるギリシア人の入植地でした。ですからイエスはギリシア系の人々の中で癒しを行っていたのです。今日の四千人の給食についても、同じくデカポリスで行われたと考えるべきでしょう。イエスの救いの業、特に病気の癒しを求めていたのはユダヤ人だけではありません。ユダヤ人から見れば外国人のギリシア人たちも、切実に病の癒しや悪霊からの解放を切実に願っていました。特に、貧しくて医者にかかることができなかったり、薬を買うことができないような人たちにとって、無償で医療的な癒しを行ってくれるイエスは、日本でいうところの生き神様のように映ったことでしょう。彼らはイエスを追いかけて人里離れたところまでやって来ていたのですが、貧しかったので十分な食糧を持って来ることができませんでした。もう三日間も満足に食事をしていない、そんな状態でした。

このような状態にある彼らを、イエスは深く憐れみました。彼らに食事を与えてやりたいと思われました。こうした状況で、おそらくイエスは弟子たちを試そうとされたのでしょう、空腹に苦しむ群衆たちをここで解散させたら彼らは家に帰りつく前に餓死してしまうかもしれない、どうしたものだろうかと尋ねました。弟子たちは、先に五千人の給食の奇跡を経験していたのですから、イエスにこの前と同じことをしてください、とお願いすればよかったのです。しかし彼らは、そのような驚くべき体験を全く忘れてしまったかのように、こう答えました。

こんなへんぴな所で、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができましょう。

この答えは、6章35節の弟子たちの答えとまったく同じです。あれだけの奇跡を目撃したはずの弟子たちには、何の変化も進歩もなかったかのようです。イエスとしては、「まだ悟らないのですか」と𠮟りつけたいところでしょうが、ここではぐっとこらえています。この弟子たちの愚鈍さ、悟りのなさがこれからマルコ福音書の重要なテーマになっていくのですが、ともかくもこの場面ではイエスは弟子たちの答えに失望しつつも、哀れな群衆のために奇跡を行う用意を進めていきます。イエスは弟子たちに、パンはどれほどあるのかと尋ねます。そこには七つのパンがありました。先の奇跡の場合は五つのパンしかありませんでしたから、それより四割も多いのです。そして、主イエスにとってはそれで十分すぎるほどでした。人間の目から見ればごく僅かなものも、神の目にはそれで十分なのです。

このことは、今日においても全く同じように当てはまります。私たちの教会は小さな群れで、世の中の基準から見れば大したリソースを持っていないかもしれませんが、しかし神にとってはそれは十分すぎるほどのリソースです。神は私たちが持っている物を何倍にも大きくして用いることがおできになるからです。ですから私たちもイエス様に対して、「私たちにはこれしかありません」と言うようなことがないようにしたいものです。ここに私たちの信仰が試されるのです。

さて、四千人の給食の話に戻りますが、イエスは七つのパンと、少しばかりの魚を取って、それを何十倍にも増やし、四千人の異邦人たちのお腹を満たされました。人々は満腹し、食べきれなかったパンは七つのかごに集められました。そうして人々の必要を満たした後に、イエスは彼らを解散させました。

それからイエスは、ダルマヌタ地方に向かわれたとあります。このダルマヌタというのはどこなのか、今でははっきりとしたことは分かりません。マタイ福音書の並行記事ではマガダン地方となっていますが、ここもどこだかよく分かっていません。しかし、イエスたち一行が異邦人のエリアからユダヤ人の住む地域に戻ってきたのは間違いありません。そして例のごとく、パリサイ派の人々との小競り合いが始まります。彼らはイエスを試そうとし、「天からのしるし」を自分たちに見せてくれとイエスに要求します。しかし、これまでもイエスはガリラヤで十分すぎるほどの奇跡を行っているので、これ以上彼らは何を求めていたのだろう?とむしろ私たちは考えてしまいます。もしかすると、これらのパリサイ派はイエスの奇跡についてはうわさを聞いただけで、自分の目では見たことがないので、私たちの目の前でやってくれ、そうすれば信じるから、というようなつもりで聞いたのかもしれません。あるいは、3章ではエルサレムから来た律法学者がイエスの悪霊払いについて、悪魔の首領の力を借りて行っている魔術の類いだ、と非難したことがあったので、「あなたの奇跡が悪魔の力ではなく神の力によるものだという確かな証拠、しるしを示してくれ」ということだったのかもしれません。なんにせよ、大きな業を行うイエスに虚心坦懐に向き合おうという姿勢ではなく、上から目線といいますか、さらには悪意すら感じる要求をしたのです。イエスも彼らの頑なさに呆れ、がっかりしてしまいました。そして絶縁状ともいえるような厳しい言葉をパリサイ派に返します。

なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。まことに、あなたがたに告げます。今の時代には、しるしは絶対に与えられません。

もうあなたがたにしるしは与えない、とイエスはおっしゃられました。ここで間違えないようにしておきたいのは、「天のしるし」を求めることそれ自体は悪いことではない、ということです。例えば、預言者イザヤはアハズ王に対し、

あなたの神、主から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから。

と、天からのしるしを求めるように促しています。また、士師の時代にギデオンは、神のみこころを確かめるために、二度までも天からのしるしを求めました。ですから、イエスにしるしを求めることそのものは悪いことではないのです。しかし、パリサイ派の場合は悪い意図から、つまりイエスを陥れて彼を否定しようという底意を持ってしるしを求めました。イエスはパリサイ派のこのような悪い意図を見抜いて、「あなたがたには決してしるしを与えない」という厳しい言葉を与えたのでした。しかし、イエスは誰にもしるしを与えないと言われたわけではなく、その時代の頑なな一部の人たちにしるしを与えることを拒否されたのです。実際、イエスはこの後も多くの奇跡を行っていますし、ついには究極の天のしるし、つまり死者の中からの復活を人々に示しているからです。ですから、繰り返しますが、「天のしるし」を求めること自体は悪いことではないのです。

私たちも、人生に迷う時に、神の御心を求め、さらにはそれが本当に神の御心であるのか、確かなしるしが欲しいと思うことがあるかもしれません。そして、そのようなしるしを求める思いそのものは悪いわけではありません。しかし、そこには神への信頼と、さらには示された神の御心に従うという素直な心が必要です。一番いけないのは、自分の願望を追認するために、神の御心、神からのしるしを求めることです。自分ではこうしたいと初めから心の中では決めていて、神にお墨付きを求めてはみたものの、神の御心がそれとは違っていたと気づかされる場合には、それを受け入れようとしない、かえって自分で勝手な理屈を作り上げて別の神の御心を造り上げてしまう、そういう自己欺瞞のようなことを私たちはしてしまいがちです。そのようなことにならないように、もし自分が神からのしるしを受けたと感じることがあれば、そのしるしを通じて示された神の御心が聖書の教え、特に主イエスの教えと本当に合致しているかを確かめることがぜひとも必要になるでしょう。

さて、話を戻しますと、このような敵対勢力というべきパリサイ派との対話の後、今度はイエスは身内である弟子たちの無理解に直面することになります。パリサイ派にはしるしを与えられる機会はもはやないわけですが、ではそのしるし、特に五千人と四千人の給食という大いなるしるしをすでに与えられた弟子たちは、果たしてパリサイ派よりもよくイエスのことを理解できていたのか、ということが問われています。しかし、残念ながら弟子たちはパリサイ派にある意味では負けないほどイエスについて理解できていないことを露呈してしまいます。14節以降のイエスと弟子たちとの対話は全くかみ合ってはいません。そのために、読者である私たちもいったい彼らが何について話しているのかが分からなくなるほどです。

まず弟子たちは、食事の心配をし始めます。弟子たちはパンを買い忘れていて、弟子たちとイエスの13人の男性のためにパンが一つしかないという危機的状況を心配し始めます。自分たちは舟の上だし、パンを買いに行けない、どうしよう、というわけです。しかし、ついこのまえ四千人の給食の給食を経験したばかりの弟子たちが、イエスを目の前にしてそのような心配をすること自体がどこか滑稽ですよね。イエスもそのような弟子たちのパンの心配を聞き流して、むしろパンという言葉から「パン種」を連想して、パリサイ人のパン種とヘロデのパン種に気を付けるようにと弟子たちに注意を促します。パン種とはパンを作る時に使う酵母のことで、小麦粉にパン種を入れることでパンはふっくらと膨らみます。ですから「パン種」とは急速に膨張するもののたとえとして使われます。イエスはここで、文字通りのパンの話から離れて、パン種のようにパリサイ派の悪い影響が急速に広がることに気を付けるようにということで、たとえ話を語ったのですが、弟子たちはイエスの言葉を文字通りの意味にとり、パリサイ派やヘロデ派がパンを作る時に使っているパン種に気を付けるように、と取ってしまいました。つまりこれからパンを買う時に、パリサイ派やヘロデ派の人たちが食べているパンを買わないようにせよ、とイエスが注意しているのだなと勘違いしてしまったようなのです。本当に、悲惨なほど話が噛み合っていません。

ここで、弟子たちには二つの問題があったことが分かります。まず、イエスがどなたなのかということをきちんと認識していれば、そもそもパンの心配などする必要はなかったことです。なにしろ、彼らは五千人の給食と四千人の給食を目のあたりにしているのですから、十人余りの人のためのパンなど何の問題がないことに気が付くべきなのです。さらには、イエスがこれまでも「たとえ」という形を教えてこられたのを知っていながら、イエスの「パン種」のたとえに全く気が付かずに、文字通りの意味で捉えてしまっていたことです。イエスは、自分がパリサイ派の悪い影響や教えに気を付けなさいと教えたのに、弟子たちがそのことにまったく気が付かずに、今夜の食事のためのパンをどうしようか、どこで手に入れようかと延々と論じているのに気が付き、こう言われました。

なぜ、パンがないといって議論しているのですか。まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。

これはかなり強い叱責です。イエスはこれまで耳の見えない人を癒したり、今後目の見えない人も癒しますが、弟子たちにもこれらの癒しが必要になる、ということが暗示されています。もちろん、弟子たちは目も見えるし耳も聞こえますが、彼らの心の目、彼らの霊の耳は堅く閉ざされてしまっているのです。弟子たちは、本来イエスと一緒に人々の霊肉の目や耳を癒す仕事を行っていくべきなのに、彼ら自身が癒しを必要としてしまっている状況にあります。

彼らの心の盲目の問題は、イエスがこれから厳しい途を歩まれようとする時にますます明白になっていきます。彼らはイエスのことを、イスラエルの栄光を回復してくれる、かつてのダビデ王のような英雄になる人物として期待を賭けていました。いまにイエスは軍勢を率いて、ローマの軍団を追い払い、イスラエルに独立を、いや独立どころか世界の盟主たる地位を与えてくれると信じていたのです。そのイエスについていけば、しがない漁師だった自分たちも大将軍や大臣になれるかもしれない、そういう野心を抱いていました。しかし、イエスはそのような征服者になるつもりはありませんでした。イエスが示そうとしたのは、暴力で人を支配するようなこれまでの帝国のやり方ではなく、徹底的に暴力を否定する道でした。ここで間違えないようにしたいのは、イエスは決して無抵抗の人ではなかったということです。イエスは悪に対してはそれをはっきりと指摘し、そのためにある人たちと敵対関係になってしまうことを恐れませんでした。しかし、いかなる悪に対しても暴力を用いることはせずに、率直な言葉において抵抗を示しました。イエスは無抵抗主義だったのではなく、非暴力主義、つまり暴力によって問題を解決することを否定したのです。さらには、敵を憎むのではなく愛するようにと弟子たちに教えました。侵略者であるローマ帝国やローマに協力する裏切り者のユダヤ人を憎むのではなく、むしろ愛しなさいと教えました。これがどんなに難しい教えであるのかは、外国の侵攻を受けていて、「私たちにもっと強力な武器を下さい」と叫んでいる人に、「暴力的な手段を使わずに、平和的な手段で抵抗運動を続けましょう」と語りかけたらどうなるか、想像してみたらよいでしょう。おそらく「何を甘いことをいっているんだ、そんな手段でどうにかなる相手ではない!」と怒られてしまうかもしれません。しかし、イエスはそのような気高くも険しい平和への道を弟子たちに示そうとしています。けれども、この時点では彼らの心は堅く閉ざされています。イエスはそのような彼らの心の目を開かなければならないのです。これは、文字通りに目の見えない人の目を開くのと同じくらい、あるいはそれ以上に難しいことでした。イエスは、パンをどうやって手に入れようかと論じあっている弟子たちに、まず最低限のことを悟らせようとします。つまり、イエスの非暴力の平和のヴィジョンを示す前に、まずイエスご自身をしっかりと信頼することを学ばせようとしました。ですから彼らに、五千人の人々が食事がなくて途方に暮れていた時に何が起きたのか、四千人の群衆が飢えに苦しんでいた時に、神が何をなさったのかを思い起こしなさい、と促しました。神は彼らが満腹になってもなお余りあるほどの食事を用意してくださったではないか、それなのにどうして今夜のパンの事ばかり心配しているのか、あなたがたにはもっと大きな使命があるではないか、ということを示そうとしたのです。

このことは今日のキリスト教会にも当てはまってしまうのではないでしょうか。教会には、クリスチャンには大きな使命があります。それは平和のために働くということです。戦争になってしまえば伝道どころではなくなります。ひとたび戦争になり、身近な人たちが戦争で敵国に殺されるようなことになれば、「敵を愛しなさい」というイエスの言葉には一般の人はおろか、クリスチャンでさえ耳を傾けなることは歴史が証明しています。ですから、今日の多くの教会が直面している足元の問題、教会員の高齢化の問題とか信徒の減少の問題とか、そういう教会維持のための足元の問題、日々のパン問題ももちろん大切ですが、しかし平和づくりというクリスチャンの大きな使命のために働くべきだということを今一度心に刻みたいと思います。日本におけるクリスチャンは、確かに数は少ないですが、しかし主イエスはたった五つのパンから五千人の必要を満たすことができたお方なのです。この方に信頼し、平和のために働いて参りましょう。

3.結論

まとめになります。今日は、主イエスがユダヤ人に続いて異邦人のためにも、多くの群衆のためにわずかな食糧を何十倍にも増やす奇跡を行われたことを見て参りました。これだけの奇跡を行っているにもかかわらず、パリサイ派の人はイエスにさらにしるしを行うように求めました。しかし、イエスは彼らの頑なな心を見て取り、これ以上のしるしを行うことを拒否されました。とはいえ、頑ななのはパリサイ派だけではありませんでした。なんと、イエスの大いなるしるしをつぶさに見てきた弟子たちも、心の目、心も耳が堅く閉ざされたままでした。ですから彼らはイエスの語ることがまるで理解できず、今日のパンをどうやって手に入れようかということばかり気にしていました。そうした彼らはイエスから「まだ悟らないのですか」というお叱りを受けることになりました。私たちも、日々の糧を手に入れることが一番の関心事になってしまうかもしれません。しかし、そのようなことは私たち以上にイエス様が心を配ってくださっているのです。主は私たちの必要を知り、私たちが必要なものは私たちが願う前から備えてくださっています。ですから私たちは主に信頼し、この争いの時代の中でも主が示す大きな課題、主の平和と愛を宣べ伝えていくことを第一としたいのです。お祈りします。

平和の主よ、そのお名前を讃美します。今日は、主イエスの大いなる御業を知りながらも、なおしるしを求める人々や、逆にそうしたしるしを何度も目撃しながらも、主を信頼することが出来なかった弟子たちのことを学びました。私たちも彼らと同じように鈍い者ではありますが、主を信頼することを学び、より大きな目的のために働くことが出来るように強めてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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