まことの休息
マタイ福音書11章25~30節

1.序論

みなさま、おはようございます。そして、新年おめでとうございます。1年の計は元日にあり、と言われますが、1年の初めの礼拝とそのメッセージは今年の方向性を決める大切なものです。そこで今日の説教は、今年1年間当教会を導いていく年間主題聖句について考えてみたいと思います。私たちは昨年の教会総会に年間主題聖句を選びましたが、それは大変有名なマタイ福音書11章28節です。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」この一節が含まれている11章25節から30節まで、今日はそこからメッセージを語らせていただきます。この28節はあまりにも有名なので、前後の文脈に関係なくこの一節だけが取り出されて語られることが多いのですが、英語でコンテクスト・イズ・キング、つまり聖書のみことばの意味を決定するのはその前後の文脈だという格言が示すように、この28節の真の意味は、イエスが語られた文脈全体から判断されるべきです。

では、どんな文脈に今日の聖書箇所が置かれているのかを考えてみたいのですが、まず11章の冒頭場面から見ていきましょう。今日は11章25節から読んでいますが、その前の場面がどうであったかを考えるということです。マタイ福音書では11章の冒頭から新しいストーリー展開になりますが、その最初の出来事は、あのバプテスマのヨハネがイエスについて疑問を呈するという、そのような出来事なのです。バプテスマのヨハネと言えば、イエスの先駆者としてイスラエルの人々に悔い改めを訴えた、とても重要な預言者なのですが、なんとそのヨハネがイエスは本当に自分たちが待ち望んできた救世主、メシアなのかという疑問をぶつけるという、そのような場面から11章は始まります。どうも、イエスのなさっていることは、ヨハネが期待していたメシアの行動とは違っていたようなのです。当時ヨハネは獄中にいて、いつ処刑されるか分からないという、非常に厳しい状況に置かれていました。ヨハネを捕まえたのは、幼子イエスを殺害しようとしたあのヘロデ大王の息子であるヘロデ・アンティパスという領主でしたが、ヘロデが統治するガリラヤでは繰り返しローマ帝国の支配に反対する反乱が起きていました。もしさらに大きな反乱が起きてしまうと、ヘロデはローマ帝国から統治能力がない無能な領主と見なされて、首になってしまうかもしれません。実際、彼の兄ヘロデ・アルケラオスはエルサレムの領主の地位を罷免されていました。ですからヘロデ・アンティパスはローマへの反乱の火種となりそうな人物に目を付けて、監視したり捕まえたりしました。民衆から大きな人気を博していたヨハネもヘロデからマークされていて、しかもヨハネはヘロデの不道徳な行いを公衆の面前で非難していたので、ヘロデは彼を黙らせようと獄に入れてしまいました。囚われの身となったヨハネはひそかに、イエスが反乱を起こして自分を救い出してくれるのではないかと期待していたのですが、イエスにはそういう軍事行動を起こす気は全くなさそうだという噂を聞いて、イエスが本当にローマを滅ぼしてくれる救世主なのかどうか、確信が揺らいでいったのです。そこで弟子たちを遣わして、イエスが本当に救世主なのかどうか、確認させたのです。

しかし、尋ねられたイエスの方も、このヨハネの質問はショックだったのではないかと思います。自分の尊敬すべき先輩で、また一番の理解者だと思っていたヨハネが、「あなたはいったい何者なのか」という質問をぶつけてきたわけですから、「ヨハネよ、あなたもか」という気持ちになったかもしれません。ヨハネですらイエスを信じないのなら、いったい誰がイエスを信じるのか、そのような問いがこの11章を貫いているのです。

イエスはバプテスマのヨハネのことを、大変高く評価していました。彼のことを、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした」とまで持ち上げています。彼は本当に強い信仰を持った、高潔な人物だったのです。しかし同時に、彼の限界も指摘しました。「天の御国で一番小さい者でも、彼よりは偉大です。」つまり、イエス・キリストの教会に属する者は、どんなに小さな人物でもバプテスマのヨハネより偉大だというのです。これはいったいどういう意味でしょうか?イエスは、バプテスマのヨハネは古い世代の中では最高の人物だけれども、いまや新しい時代が到来している、そしてヨハネはこの新しい時代の考え方についていけていない、ということを指摘したのです。預言者エリヤはバアルの預言者四百五十人を殺しましたが、このような暴力が容認される時代はイエスの平和の福音と共に過ぎ去りました。そのエリヤの再来と呼ばれたヨハネは、武力で超大国ローマを打倒する、あのダビデ王の再来のようなメシアを期待していました。実際、11章12節で「激しく攻める者たちが天の王国、神の王国を奪い取ろうとしている」とイエスが言われたように、当時の人々は武力、もっとはっきり言えば暴力によって神の王国を地上に打ち立てようとしていました。しかし、イエスの教えは明確にそのような道を否定しました。それは、ユダヤの地を不法に占拠するローマへの抵抗のために武力や暴力に訴える、そのような時代はもはや過ぎ去ったのだという、ある意味では非常に過激なことを教えたのです。征服者であるローマに武器を捨てろというのなら分かりますが、征服されている側のイスラエルが武器を捨てるというのは、単なる負け犬根性、敗北主義ではないかと思えます。しかしイエスは、力には力で、という暴力の連鎖では何の解決にもならないことを指摘したのです。このイエスの教えを理解できなかったので、ヨハネはイエスの目覚ましい奇跡の数々を耳にしながらも、彼をメシアとして認識できなかったのです。しかし、イエスは本物のメシアでした。新しい時代はイエスの登場と共にすでに到来したのです。ですからイエスはヨハネの断食を祝宴に変えました。メシアの到来を待ち望む時代は、悲しみの時代、断食の時代でした。しかし、もうメシアは来たのです。ですからメシアの到来を喜ぶ祝宴こそが相応しいのです。バプテスマのヨハネは偉大な預言者ではありましたが、そのことが分からなかったのです。

イエスはヨハネのことを嘆きつつ、さらにはご自身の行った目覚ましい奇跡の数々を目撃しながらも、なおもイエスを拒否したガリラヤの人々を非難しました。なんと彼らは、あの悪徳の都として名高いソドムよりも罪深い、と叱責したのです。この厳しい言葉の背後には、同胞のユダヤ人がご自身を信じなかったことに対するイエスの深い失望がありました。ヨハネも信じない、イエスの凄まじい奇跡を直接目撃した人々も信じない、では誰がいったいイエスを信じるのか、という問いに応えているのが今日の聖書箇所なのです。

2.本論

さて、25節はガリラヤでのイエスの目覚ましい働きにもかかわらず、多くの人々が、そしてあのヨハネまでもがイエスを認めようとしない、そういう状況の中で語られたイエスの言葉です。このような大変残念な状況の中でも、父なる神はイエスを信じる人々を起こしてくださっているのです。そして、イエスの言葉を受け入れるのはこの世で賢者・知者と呼ばれる人ではなく、「幼子たち」だというのです。幼子と訳されている言葉は、「単純な人」、あるいは「素直な人」という意味もありますが、ここではそのような意味にとった方がよいでしょう。つまり文字通りの小さな子どもたち、というのではなく、子どものように素直に物事を受け止めることができる人々、という意味です。イエスの言葉を、この世で知者だと尊敬を集めているような人たちは素直に聞くことができません。それは、自分たちがこれまで教えてきたことと違うこと、新しいことをイエスが教えているために、「なんだ、あいつは。学問も学歴もないくせに生意気な」と反発してしまうのです。

しかし、実は自分が知者だと自惚れているような人に真理を隠し、むしろ自分は何も知らない、教えてもらう必要があるのだと子どものような謙虚な態度を持つ人にこそ真理を明らかにするのは、父なる神の御心でした。しかも、このことは旧約聖書にも預言されていることでした。その一つをイザヤ書29章13-14節から見てみましょう。

そこで主は仰せられた。「この民は口先で近づき、くちびるはわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。それゆえ、見よ、わたしはこの民に再び不思議なこと、驚き怪しむべきことをする。この民の知恵ある者の知恵は滅び、悟りある者の悟りは隠される。」

人々は神の命令ではなく、人の命令を聞いている、というのはまさにイエスがこれまでもたびたび指摘してこられたことです。そのために、人々に神の命令だといって自分の命令を教えているような自称知者たちに、神は真理や知恵を隠すというのです。そして、まさにこの預言がイエスの伝道活動の中で実現してしまっていました。しかし、反対に神から恵みを受けるような人たちがいました。それは、人をうわべや外見、あるいは世間の評判などで判断しようとはせずに、人をありのままに評価しよう、先入観に囚われずにまっすぐに人を評価しよう、そのような人にこそ神はその御子を明らかにするというのです。そのことをイエスも喜ばれ、父なる神を讃美しています。

そして27節では、イエスは当時のユダヤ人の感覚では極めて大胆なことを主張しています。「すべてのものが、わたしの父から、渡されています」というのは、イエスは父なる神からあらゆる真理を託されているということです。他のユダヤ人の教師やラビが聞いたら卒倒するようなことをイエスは語っておられます。次の「父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません」という言葉も極めて重要な言葉ですが、これとまったく同じ趣旨のことをイエスはヨハネ福音書で語っています。こちらの方が有名な言葉なので、それも読んでみましょう。ヨハネ福音書14章6節です。

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

イエスこそ完全に父なる神を証しする人です。神を証しするものとしては、当時はもちろん旧約聖書がありましたが、旧約聖書そのものはイエスを証しするためのものであり、神の完全な姿はイエスにのみ見出すことができるのです。ですから、例えば戦争の是非について旧約聖書とイエスの教えとが食い違ったことを教えているように思えたなら、私たちは無条件にイエスの教えにこそ従うべきなのです。

そして、28節がきます。この一節が私たちの今年の年間主題聖句なのですが、これまでの文脈から分かるように、この一節の本来の意味は「弟子への招き」です。イエスのことを信じない人が多い中で、父なる神はイエスを信じる人々を起こしてくださいました。そのような人々への呼びかけが28節なのです。イエスの弟子として招かれている人は、一旦その重荷を下ろすようにと呼びかけられています。ここで「重荷」と言われているものは人生の重荷や心配事全般を示していると解することもできますが、より具体的に、当時イエスと対話していた人たちのことを念頭に置いて考えるならば、ここでは特に当時の宗教指導者であるパリサイ派や律法学者たちが人々に押し付けていた「律法」を指すと見るべきでしょう。神がイスラエルに与えた律法とは、本来的には人々を自由にする、また人々に真の休息を与えるべきものでした。しかし、そのような本来恵みである「律法」を、パリサイ派たちは重荷に変えてしまいました。その典型が安息日規定です。安息日は、定期的な休息を持たなかったイスラエルの人々に労働からのしばしの解放、自由を満喫させてあげるためのものでした。しかし、パリサイ派たちは安息日を自由を与える教えというより禁止事項として捉え、安息日にはあれをしてはいけない、これをしてはいけないという細かなルールを作り、それを破ることは罪になる、と脅かして人々を縛りつけました。本来休みのため教えられたものが重荷になってしまうという、正に本末転倒でした。これに限らず、どうもパリサイ派には律法の意図を的外れに解釈してしまう傾向がありました。イエスはパリサイ派の律法に対する姿勢について、マタイ23章1節から4節までで厳しく非難しています。そこをお読みします。

そのとき、イエスは群衆と弟子たちに話をして、こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行い、守りなさい。けれども、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。」

律法学者たちは、さすがに学者なので律法のことをよく知っていました。しかし、「論語読みの論語知らず」という諺のように、それを実行しません。いや、表面的には実行しているように見えるのですが、その動機がよろしくありませんでした。律法は人を自由にする、人を楽にしてあげるためのものなのに、彼らは律法を使って人々の心を支配しようとしたのです。彼らは律法を重荷として人々に課し、自分たちはその律法の管理人のようにふるまって人々を監視し、彼らの自由を奪っていました。

しかしそもそも律法は、それが正しく用いられるならば人を縛るのではなく自由にする、さらには人に休みを与えてくれるものなのです。ヤコブの手紙には「自由の律法」という言葉がありますが、律法とはそもそもそのようなものなのです。イエスはまことの知恵、まことの神の知恵を持つ方なので、人々をその教えによって縛るのではなく、むしろ自由にしてくれます。イエスこそまことの知恵を持つ者、いやむしろ知恵そのものなのだ、という真理が今日のみことばの背景としてあります。今日の箇所と非常に近いことばが、旧約聖書続編の「シラ書」にあります。旧約聖書続編とは、旧約聖書と新約聖書の間の時代に書かれた文書群で、聖書協会共同訳に収録されています。シラ書というのは、旧約聖書の箴言や伝道者の書のような知恵文学に属する書です。そこの51章24節から27節までをお読みします。

お前たちの魂は激しく渇いているのに、なぜ、これらのものなしで済まそうとするのか。私は口を開いて語った。代価なしに、自分のために知恵を手に入れよ。お前たちの首を軛(くびき)の下に据え、魂に教訓を受け入れさせよ。知恵はすぐ近くに見いだされる。目を開いて見よ。わずかな労苦で私は大きな安らぎを見出した。

この箇所は、マタイ福音書11章28節から30節までと非常に近い内容です。シラ書は、まことの知恵を求めなさい。まことの知恵は私たちを自由にし、休息と安らぎを与えてくれるということを教えていますが、主イエスはご自身がその知恵そのものであるとおっしゃっているのです。ここでも、主イエスの教えにも「くびき」という言葉が出てきます。くびきと言うと、二頭の家畜をつなぎ合わせるようなものをイメージするかもしれませんが、ここで言われているくびきとはそのような家畜用のものではなく、むしろ人間が用いる道具を指しているものと思われます。それはどんなものかといえば、みなさんがバケツに一杯の水を二杯手に持って運ぼうとすると大変ですよね。肩や手が痛くなって、あまり遠くまで運べないと思います。しかし、肩に担ぐさおのようなもの、天秤棒があれば楽になりますよね。主イエスがいわれた「くびき」もそのような天秤棒をイメージすればよいでしょう。もちろん、くびきというのは譬えであって、担ぐものは水ではなく人生の重荷です。どんな人も、人生を歩むうえで重荷を背負わなければならないのですが、その重荷を軽くしてくれるもの、さらには休息を与えてくれるもの、それを主イエスが提供してくださるのです。そして、それは何かといえば、それはイエスの教えです。イエスの教えを実際に行うことで、人生の重荷は軽くなり、さらには魂に安息と安らぎが与えられるのです。

そうは言っても、主イエスの教えを実行するのは大変ではないか、難しいのではないか、と思われるかもしれません。確かに「敵を愛しなさい」、「剣を鞘に収めなさい」という教えは実行するのが非常に困難に思えるかもしれません。しかし、イエスの教えは実際はそんなに難しいものでも重荷でもありません。たとえばイエスは、「兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません」と教えられました。この教えを、「いっさい怒ってはならない。怒ったら裁きを受ける」という風に理解するならば、確かに無理難題ということになるでしょう。どんなに穏やかな人でも怒ることはあるからです。しかしイエスは怒ることを禁止したのではありません。むしろ、怒ったままでいることの危険性を指摘したのです。人に怒りを抱いたままでいると、その怒りは段々と私たちの心を蝕み、危険な行動へと私たちを駆り立てていきます。怒りが熟すると最悪の場合は殺意にまで至ります。そうなると、取り返しのつかない悲劇を生みかねません。そのような悲惨なことにならないように、怒りを抱いたなら、一刻も早くその怒りの原因となることを解消して、和解の道を歩みなさい、というのがイエスの教えの真意なのです。ですからイエスは、神への礼拝において、感謝のために神に献げものをするという非常に重要な行動よりも、むしろ喧嘩をした兄弟との和解を優先しなさいと教えているのです。今日でいえば、牧師が教会員に日曜日の礼拝よりも、友達との仲直りを優先しなさいと教えるようなものです。

敵を愛しなさい」という教えも同じことです。これを「どんなに憎らしい奴でも愛さなければならない」という命令として考えると、それこそ不可能に思えるでしょう。しかし、人生において敵は少なければ少ないほど私たちの人生は楽になります。敵を友にすることができるならば、人生はより楽しいものになるでしょう。「そう簡単にはいかないから敵は敵なんだろう」と思われるかもしれません。確かに敵対関係を解消するためには知恵や忍耐、勇気も必要です。時にはプライドを捨てる必要もあるかもしれません。しかし、ずっと敵同士であるということも、それはそれで大変なことです。いつ相手から危害を加えられるか、中傷されるか、そんなことにびくびくしながら生きていくのは誰にとっても楽しいことではないでしょう。しかし、敵が友になるというのは決して不可能なことではありません。その第一歩を自分から踏み出す、それが「敵を愛しなさい」というイエスの教えの真意なのです。敵を敵と思わず、自分と同じ人間なのだと考えて、相手の立場になって考えることで、きっと和解の糸口が見つかるでしょう。譲歩や妥協をしなければならないこともあるでしょうが、それはお互い様です。和解の努力を通じて平和が生み出される、これこそがイエス・キリストの「福音」なのです。

このように、イエスの教えは決して人間に無理難題を押し付けるものではなく、むしろ私たちの人生を長い目で見れば楽にしてくれるものです。私たちのたましいに安らぎを与えてくれるものなのです。ですから、私たちは日々の生活の中で主イエスの教えを聞くだけでなく、実践していくべきです。

3.結論

まとめになります。今日は、主イエスのことを多くの人が誤解したり、理解できなかった中でも、神はイエスを信じる人々を起こしてくださった、ということを学びました。イエスを信じた人たちは、世の中の基準でいえば知者ではなかったかもしれませんが、しかし彼らは素直な心を持っていました。神が求めておられるのは、主イエスの教えを素直な心で聞いて、聞くだけではなく実行する人です。そして主イエスの教えは重荷ではなく、長い目で見れば私たちの人生を楽にし、楽しいものにし、また安らぎを与えてくれるものです。ですから、主イエスの下で憩いたいと願う者は、主イエスを信頼し、その教えを実践していく必要があります。主イエスのくびきは負いやすく、主イエスの荷は軽いのです。今年は「みことばを実行する人になりなさい」という教えと共に歩んで参りたいと願うものです。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様。主の年2023年を愛する兄弟姉妹と共に礼拝をもって始められる幸いに感謝します。どうかこの新しい一年間をあなたと、またあなたの教えと共に歩むことができるように、私たちを力づけてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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