亡国の預言者エゼキエル
エゼキエル書33章21~33節

1.序論

みなさま、おはようございます。これまで毎週マルコ福音書を読み進めていますが、今後は毎月の最終週には旧約聖書からメッセージを取り次ぐことにします。そして、今回はその一回目になりますが、預言者エゼキエルを取り上げます。私は当教会に着任した時に最初にエレミヤ書から講解説教をしましたが、エレミヤとエゼキエルは同じ時代に生きた預言者です。とはいえ、エレミヤが預言者としての召しを受けたのが紀元前627年で、エゼキエルの召命は紀元前593年ですから、二人の召命には35年ぐらいの開きがあります。このようにエレミヤの方が年上だったのですが、しかし二人の預言者としての働きには重なり合う時期がありました。それがエルサレムの滅亡する直前の時期でした。この二人の預言者の人生において、最も忘れがたい年はいうまでもなくエルサレムが陥落し、エルサレムの神殿が破壊された紀元前587年でした。日本でいえば原爆が投下された終戦の年、1945年のような悲劇の年です。エレミヤとエゼキエルの預言は、滅びに突き進むイスラエル民族に向けられたものでした。

しかし、エレミヤとエゼキエルの置かれた状況は大変異なっていました。当時の超大国であるバビロニア帝国は、最終的にはエルサレムを徹底的に破壊するわけですが、当初はそのつもりはなく、自分の意のままに動く王をエルサレムに据えて傀儡政権としてコントロールしようとしました。そこでバビロンの王であるネブカデネザルは、紀元前598年にエルサレムを包囲して、当時のユダの王であったエホヤキンとその主だった家臣たち、貴族たちをバビロンに捕虜あるいは人質として連行し、エルサレムには自分の操り人形としてゼデキヤ王を据えました。この時にエルサレムの主だった人たちがバビロンに連れていかれたことを第一次バビロン捕囚と呼びます。エゼキエルは祭司の家系の人でしたが、この際にバビロンに連れていかれた人の一人でした。そして彼はバビロンで捕虜、または捕囚の民として暮らしている時に預言者としての召命を受けました。一方エレミヤはその間もずっとエルサレムに留まっていました。ですからエレミヤとエゼキエルとを太平洋戦争の時代の日本人に譬えるならば、エレミヤは戦争中ずっと帝都東京に留まっていた預言者で、他方エゼキエルはアメリカで日系人強制収容所に収監されていた日本人ということになります。

エゼキエルは捕囚として連行されてから5年が経過した紀元前593年に、預言者としての召しを受けます。その時エゼキエルは30歳でした。ですから主イエスが公生涯を始められたのと同じ年齢です。では、預言者として召されたエゼキエルに神から与えられたメッセージとは何か?それは大変厳しいものでした。先に申しましたように、エゼキエルの立場は、太平洋戦争中にアメリカにいた日系人、強制収容所に入れられた日本人のようなものです。当然エゼキエルの同胞たちの願いは、この惨めな状態から抜け出すことでした。具体的には、早くこの人質のような状態から解放されて、祖国エルサレムに戻ることでした。そして、そのような期待は段々と高まっていました。エレミヤ書を学んでいたときに、ハナヌヤという預言者がエルサレムに現れて、もうすぐバビロンの支配は終わる、捕囚の民は帰ってくるだろうという楽観的な預言をしてエレミヤと対立したという話をしたことがありました。このハナヌヤが現れたのは、ちょうどエゼキエルが召命を受けた頃でした。本国でバビロンの支配からの解放の期待が高まり、敵地バビロンで捕虜になっている人たちにもその期待感が伝播していきました。そのような状況下で、エゼキエルは同胞に向かって、あなたがたはエルサレムには帰れない、それどころかエルサレムは滅びるだろうと預言したのです。当然そんな預言は歓迎されませんよね。人々はエゼキエルを変人扱いし、ひどく嫌う人もいました。みんなが聞きたくないことばかり言うわけですから、当然と言えば当然です。アメリカの日系人強制収容所で、日本は木っ端みじんに破壊され、無数の日本人が死ぬと預言した人がいたとするならば、そんな人は同胞から殺されかねなかったでしょう。そういう危険な使命を与えられていたのがエゼキエルという人でした。しかし、エゼキエルは神からの啓示により、エルサレムの霊的状態が極めて悪いことを知らされていたのです。エルサレム神殿では偶像礼拝が蔓延り、また社会正義は失われて、貧しい人たちや弱い人たちは虐げられていました。エゼキエルは異国の地にいながら、エルサレムの状況がよく分かっていましたが、彼と共に捕囚の民として暮らしている他の人たちにはエルサレムの詳しい状況など分かるはずもなく、彼のいうことが信じられません。むしろ、早く祖国に帰りたいという彼らの願いをいちいち否定するエゼキエルのことが憎らしくさえ思えたでしょう。エゼキエルは、エレミヤと同じく人々から理解されない孤独な預言者でした。そのような背景を踏まえて、今日のみことばを見ていきましょう。

2.本論

今日のみことばは33章21節からですが、この箇所の出来事が起きる前に何が起こっていたのか、それをまず知る必要があります。そのことが書かれているのが24章で、それはゼデキヤ王の謀反の動きを知ったバビロンが再びエルサレムの包囲を始めた紀元前589年のこと、エゼキエルが捕囚の民となってから十年目、また預言者として召されてから四年目のことでした。その時、エゼキエルは突然最愛の妻を亡くすという悲劇を経験します。その時のエゼキエルの悲しみは想像もできないほどですが、しかも神がエゼキエルにかけた言葉は慰めではなく、残酷と呼びたくなるほど厳しいものでした。それが24章16節と17節の主の言葉です。

人の子よ。見よ。わたしは一打ちで、あなたの愛する者を取り去る。嘆くな。泣くな。涙を流すな。声をたてずに悲しめ。

神はエゼキエルに妻の死を嘆くな、声を出さずに悲しめと命じました。これは、いくらなんでもひどいのではないか、と言いたくなるような神からの命令です。しかし、神に命じられるまでもなく、エゼキエルは泣くことすらできなかったのかもしれません。人は不意にあまりにも悲しい出来事に襲われると、泣くことすら忘れてしまうほど茫然自失になることがあります。悲しみが大きすぎて、感情を表に出すことができないのです。泣くということには実はストレス発散効果があると言われています。思いっきり泣いた後、なんだかすっきりした、という経験がある人は多いのではないでしょうか。しかし、それすらできないほど悲しいというのは、本当に深刻な状態です。感情が心の中に閉じ込められてしまうからです。そのためでしょうか、エゼキエルはどうも話すことができなくなってしまったようなのです。エゼキエルは妻が死んだ翌日、神のことばを仲間たちに告げることができました。しかしその後、話すことができなくなってしまいました。では、言葉を失う前にエゼキエルは捕囚の民に、何を話したのかを見てみましょう。24章21節にはこうあります。

神である主がこう仰せられるとイスラエルの家に言え。見よ。わたしは、あなたがたの心の誇りであり、あなたがたが愛し、心に慕っているわたしの聖所を、汚す。あなたがたが見捨てた息子や娘たちは剣で倒される。

これは恐ろしい預言でした。たった今、最愛の妻を失ったエゼキエルのような悲劇が、捕囚の民全体にも襲い掛かるというのです。彼らの愛する祖国エルサレムにある、最も神聖なる神殿、あの伝説のソロモン王によって建設されたソロモン神殿が壊されるというのです。それだけではありません。バビロンに連れていかれた捕囚の民は、自分たちの息子や娘をエルサレムに残している人も少なくありませんでした。彼らは家族が離ればなれの状態でした。彼らが祖国に帰りたかった理由の一つは、祖国に残した子供たちに会いたいという願いのゆえでした。しかし、その息子や娘たちが剣で殺されるだろうとエゼキエルは言うのです。あなたがたも、今私を襲った悲劇をいずれ経験するだろう、とエゼキエルは告げました。このようなことを聞かされて、彼の同胞たちは非常に気分を害したことだと思われます。せっかく妻を失ったエゼキエルを慰めてやろうと思ったのに、なんてことを言うのだと、ますますエゼキエルを嫌ったというのは想像に難くありません。そしてエゼキエル自身も、口がきけない状態、深い沈黙の状態に陥ってしまいました。しかし、その状態が終わる時が来る、とも神は告げました。それはなんと、エルサレム陥落の報が捕囚の民に告げられる時なのです。そのことが24章25節から27節までに書かれています。

人の子よ。わたしが、彼らの力とするもの、栄えに満ちた喜び、愛するもの、心に慕うもの、彼らの息子や娘たちを取り去る日、その日、のがれた者が、この知らせを告げにあなたのもとにやって来る。その日、あなたはのがれて来た者に口を開いて言え。もう黙ってはならない。あなたが彼らのしるしとなるとき、彼らは、私が主であることを知ろう。

このように、エルサレム陥落の報が告げられた時、あなたは再び口を開くだろう、というのが主の御告げでした。そして、エゼキエルが妻を失い、また言葉を失ってから二年後、バビロン捕囚が始まってから十二年後に、とうとうその知らせが来ました。バビロンは足掛け二年にわたるエルサレム包囲の後、ついにエルサレムを神殿もろとも破壊しました。そのことが今日の聖書箇所、33章21節、22節に書かれています。そこをお読みします。

私たちが捕囚となって十二年目の第十の月の五日、エルサレムからのがれた者が、わたしのもとに来て、「町は占領された」と言った。そののがれた者が来る前の夕方、主の御手が私の上にあり、朝になって彼が私のもとに来る前に、私の口は開かれた。こうして、私の口は開かれ、もう私は黙っていなかった。

エルサレム陥落の悲報が捕囚の民にもたらされる前夜、ついに神は預言者エゼキエルの口を開かれました。彼は二年の沈黙ののち、再び主のことばを語り始めたのです。その言葉は相変わらず厳しく、エルサレムの破滅を告げるその不吉なトーンは、以前と変わらず重苦しいものでした。しかし、彼の言葉を聞く人々の態度は大きく変わりました。以前はエルサレムの破滅を告げるエゼキエルの言葉を、縁起でもないと敬遠していた捕囚の民は、今やその預言が実現したことから、エゼキエルを見る目が変わったのです。彼は本物の預言者だった!と今や尊敬の目で彼を見つめるようになりました。そして人々は口々に、エゼキエルの言葉を聞こう、彼から出る主のことばを聞こう、と言い交わし、彼の家に集まってきました。その様子が30節以降に書かれています。

人の子よ。あなたの民の者たちは城壁のそばや、家々の入口で、あなたについて互いに語り合ってこう言っている。『さあ、どんなことばが主から出るか聞きに行こう。』彼らは群れをなしてあなたのもとに来、わたしの民はあなたの前にすわり、あなたのことばを聞く。

このように、人々のエゼキエルに対する態度は一変しました。彼は煙たがられる変人ではなく、時の人、神の人として人々の賞賛の的にすらなりました。でも、彼らは本当に変わったのでしょうか?いいえ、何も変わっていないのだ、というのが主からエゼキエルに与えられた言葉でした。神は皮肉たっぷりにこう言われました。

わたしの民はあなたの前にすわり、あなたのことばを聞く。しかし、それを実行しようとはしない。彼らは、口では恋をする者であるが、彼らの心は利得を追っている。あなたは彼らにとっては、音楽に合わせて美しく歌われる恋の歌のようだ。彼らはあなたのことばを聞くが、それを実行しようとはしない。

イスラエルの人々は、エゼキエルをかっこいいロックスターのようにもてはやし、彼の言葉を聞くたびに「アーメン!」と興奮して叫びます。しかし彼らは、エゼキエルの言葉を決して実行しようとはしません。その神のことばを実行することが自分の損になると思ったら、馬耳東風とばかりに聞き流すのです。人々はエゼキエルを褒めそやしますが、結局彼らの行動基準となるのは神の御心ではなく自分たちの利害損得なのです。彼らの心に、エゼキエルの言葉は本当の意味では根を下ろしませんでした。エルサレムの破滅を嘆きながらも、その原因となった自分たちの強欲という罪の問題には目を向けようとはしなかったのです。

私はこの箇所を読む度に、あることを思い出します。1995年の阪神淡路大震災の後に出版された『柩の列島』という本があります。地震列島である日本における原発の危険性に警鐘を鳴らす本で、「東北の福島で、兵庫県南部地震クラスの末期的大地震があれば、原子炉が10基まとめて爆発するおそれがある」とはっきり書いてありました。今の私たちには、ハッとする記述ですが、当時の多くの人々の反応は「何を大げさな。こういう極端なことを書かないと売れないんだよね」などと馬鹿にする方が圧倒的に多かったと思います。しかし、大変まじめな本で、今読んでも古びることのない警告が綴られていました。また、2007年に出版された『これから起こる原発事故〜原発問題の専門家から警告』という冊子にも、日本の原発は大地震には耐えられないということがはっきりと書かれていましたが、この本も東日本大震災が起こる前はノストラダムスの大予言の類いのトンデモ本扱いされていました。しかし、これらの警鐘が現実のもととなってしまいました。そうすると、それまで荒野で叫ぶ変人扱いされていた反原発を唱えていた学者や研究者は急にもてはやされるようになりました。にわかに講演会などに引っ張りだこになり、人々は熱心に彼らの言うことに耳を傾けるようになりました。小出 裕章(ひろあき)さんはその代表的な人物でしょう。しかし人々は聞くには聞きましたが、果たして聞いたことを実行したでしょうか?当時の日本政府は2030年までに原発を全廃するという方針を打ちだしました。日本人の8割は、原発に反対するようになりました。しかし今では政府は原発新設へと大きく舵を切っています。世論の方も、調査する新聞社によって結果は違いますが、原発新設を支持する人がかなり増えています。原発の危険性も、日本が地震列島であるという事実も変わっていませんが、原発の方が少なくとも短期的には経済的に有利だという経済の論理が安全性への懸念を吹き飛ばしてしまったのです。小出さんはこのような状況を、「経済最優先で、要するに、政治も企業も金の亡者になっているのです」と、エゼキエルとほとんど同じような批判の言葉を語っています。原発の危険性は、地震だけではありません。一番の問題は、核のゴミを処理する能力を人類が持ち合わせていないことなのです。約1,500本もの「高レベル放射性廃棄物」、核のゴミが集められている青森県の六ケ所村の人々は自分たちの村が最終処分場にされることに猛反対していますが、当然のことでしょう。福島の原発事故処理も、全然解決されていません。汚染水の海洋放出には漁業関係者が必死になって反対していますが、強行されようとしています。そもそも、原発事故による原子力緊急事態宣言は未だに解除されていないのです。コロナの場合はこれまで何度も解除されてきましたが、原発は10年以上もずっと解除されていません。こんな状況なのに、なぜ新しい原発なのでしょうか?先に紹介した『柩の列島』を書いた広瀬隆さんも、「なぜ日本人は、その当たり前の証明を、悲劇に待たなければならなかったのか。なぜこれだけ多くの人生を巻き込むまで、分からなかったのか。分からなかったのではなく、分かっていてもほとんどの人間が発言せず、一方、この国には噓つきの学者と解説者が多すぎるからである」と1995年の時点で書いていますが、この言葉は福島原発事故の後の言葉だと言っても誰も疑わないような言葉です。彼は預言者だったのか、と思いたくなるほどです。

私にも「ほとんどの人間が発言せず」というのは耳の痛い言葉です。同時に、この件ではつらい思い出があります。東日本大震災が起きたとき、私はイギリスにいました。BBCが繰り返し流す原発爆発の光景に恐怖し、遅まきながら原発のことをイギリスで勉強し始めました。自分の無知、いや無関心が恥ずかしくなりました。そして、日本でかつて一緒に仕事をした同僚や先輩たちに、原発反対を訴えるべきではないか、というメールをしました。そうすると、それまで良い関係だった方々からものすごく強い反発が返ってきました。「お前はイギリスで好きなことをしているから、そんなことを考える余裕があるんだろうが、俺は明日の営業ノルマをどうこなすかで頭が一杯なんだ。そんな話は止めてくれ」というような内容でした。私の方も正直ショックを受けて、それっきりになってしまった方々も何人かいました。私もサラリーマン時代には営業ノルマに苦しんできたので、彼らの言いたいことはよく分かります。でも、このような重大な問題に社会の第一線で活躍している人々が背を向けてしまったら、いったい日本の将来はどうなるのだろうか、という強い不安を感じました。実際、政治家は国民の無関心をいいことに、エネルギー政策や国防政策で世論を無視した政策を次々と実行に移しています。そして、多くの国民は段々とそうした状況に慣れていってしまい、あきらめの境地に入ってしまうかのようです。しかし、自分が何を言っても無駄だからと、あきらめてしまっていいのでしょうか。小出さんはこう書いておられました。

できれば少数派にはなりたくない、多数派でいたいと、多分ほとんどの人は思っていると思います。でも、声を上げないということは、それを認めているということなのです。それがどんなに愚かな政策でも、国民の声が上がらなければ政府はそのまま動いていってしまいます。つまり、黙っていることは、その愚かな政策に加担していることになるわけです。

イスラエルの預言者たちは、圧倒的な少数派でありながらも、黙ってはいない人たちでした。エセキエルもまさにそういう人でした。そんなことができたのは、神への信仰のゆえです。いくら彼らが固い信念を持っていたとしても、信仰なしにはそのような勇気を持つことはできなかったでしょう。この同調圧力が非常に強い日本で、多数の人に抗う力を私たちが持つことができるとするならば、それは天地万物を創造し、歴史を導く神への信仰を持つよりほかはないでしょう。神は利害損得よりも、私たち一人一人の小さな命を何よりも大切に思っておられます。その神の御心を信じるからこそ、私たちはたとえ少数派になろうとも、勇気をもって発言したり、歩むことができるのです。

3.結論

まとめになります。今日は遠い異国の地で神からの召命を受け、祖国に帰りたいと願う同胞たちに対して国の滅亡という厳しいメッセージを伝えなければならなかった亡国の預言者エゼキエルについて学びました。預言者とは良い医者のようなものです。良い医者は患者の健康状態を観察し、早く悪い習慣をやめないと大変なことになると警告します。しかし患者がその勧告に従ってくれないと、医者にはどうすることもできません。エゼキエルもイスラエルの霊的な健康を診る医者でした。そして、その歪んだ霊性を見てしまったエゼキエルは、イスラエルの破滅を宣言せざるを得ませんでした。しかしエゼキエルはイスラエルの回復の希望も語っています。そして、そのような輝かしい未来へ至るための処方箋をもイスラエルに与えました。それは18章16節と17節に書かれています。

だれもしいたげず、質物をとどめておかず、物をかすめず、飢えている者に自分の食物を与え、裸の者に着物を着せ、卑しいことから手を引き、利息や高利を取らず、わたしの定めを行い、わたしのおきてに従って歩むなら、こういう者は自分の父の咎のために死ぬことはなく、必ず生きる。

エルサレムの崩壊の報を聞いたエゼキエルの同胞たちは、今こそこのエゼキエルによって示された神の御心を行うべきでした。社会正義を実現すべきでした。誰も取り残されない社会を造り上げるべきでした。しかし、それが出来なかったがゆえに、イスラエルはさらなる混迷の時代を歩まなければなりませんでした。「他山の石」という言葉がありますが、このようなイスラエルの失敗を聞きながら、私たちがその行いを改めないならば、私たちが聖書を読み、みことばを聞く意味がなくなってしまいます。ですから、「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけのものであってはいけません」という神のことばを実行していくものでありたいと強く願うものです。お祈りします。

亡国の預言者エゼキエルを召し出し、彼に過酷な時代に生きる人々へのメッセージを託された神様、そのお名前を賛美します。あなたは私たちの生きる現代にも、様々な形でメッセージを送っておられます。原発や再軍備のこともそうです。こうした問題は損得の問題ではなく、人の命の重さ、大切さという観点からこそ考えるべきものです。私たちが聞くだけで終わらず、実行する者となることができるように、力をお与えください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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