ペテロの告白
マルコ福音書8章22~33節

1.序論

みなさま、おはようございます。早いもので、マルコ福音書からの説教も、今日で24回目になります。そして、今日の箇所からマルコ福音書は新しい展開に入ります。マルコ福音書を、イエスを主人公とするドラマと考えるならば、それは三幕から成るドラマだということができます。第一幕は、これまで読んできた箇所で、それはイエスの「ガリラヤ編」です。この第一幕では、主人公であるイエスの目的が示されました。イエスの目的、使命とは、「神の王国」の実現、神の平和な支配をこの地上世界に打ち立てるということでした。この目的を達成するために、イエスは人々を悪霊の支配から解放し、また病を癒して人々に生きていくための活力を与えました。そして今日の箇所から第二幕が始まります。第二幕の内容は、イエスと弟子たちのガリラヤからエルサレムへと向かう旅です。第二幕はエルサレム入城直前の10章の終わりまで続きます。そして第三幕は、イエスのエルサレムでの最後の一週間です。

この三幕から成るドラマという視点から、今日の箇所を考えてみましょう。ドラマ理論によれば、第一幕から第二幕に切り替わる際に、「ターニング・ポイント」と呼ばれる重要な出来事が起こります。このターニング・ポイントとなる出来事は、主人公に新たな行動を取るように促し、その結果ドラマは新しい展開を見せることになるのです。では、マルコ福音書におけるターニング・ポイントとなる事件は何なのか?それが今日の説教タイトルである「ペテロの告白」です。私たち福音書の読者は、イエスがいったいどなたなのか、ということを初めから知っています。イエスはメシア、イスラエルが待ち望んでいた王であり、それどころか神の子であるということがこの福音書の冒頭で語られているからです。しかし、ではマルコ福音書に出て来る登場人物たち、ペテロやヤコブといった12弟子や、あるいはイエスに反対するパリサイ派にとって、イエスがメシアであるというのは自明なことでしょうか?いえ、そうではありません。むしろ反対に、イエスはこれまで自分がメシアであり神の子であることを秘密にしてきました。悪霊たちがイエスを神の子だと言いふらしそうになると、イエスは悪霊たちに「黙れ」と厳しく命じてきました。つまり、このドラマの中ではイエスの正体はこれまでずっと秘密にされてきたのです。しかし、とうとうその秘密が明らかになる時が来ます。それが今日の箇所です。変なたとえかもしれませんが、有名な時代劇の「忠臣蔵」で大石内蔵助が仇討ちをするかどうか、ずっと胸の内を明かさなかったのが、とうとう同志たちに主君の仇討の決意を明かすという、そのような場面に近いものがあります。ここで忠臣蔵のストーリーは大きく転換していきます。イエスについてきた弟子たちも、イエスが500年以上も失われたダビデ王朝、イスラエルのお家再興を果たしてくれる人なのではないか、という期待を抱きつつイエスについてきたわけですが、これまでイエスはこの弟子たちの「あなたはメシア王なのですか?」という疑問に答えようとはしませんでした。しかし、それがついに明らかになり、その結果ドラマは新たな、意外な驚くべき方向へと向かっていく、それが今日の聖書箇所なのです。

2.本論

さて、では22節から見ていきましょう。先ほど申しましたように、この22節からマルコ福音書の第二幕が始まるのですが、この第二幕の特徴の一つはイエスが奇跡を起こしたという記述が非常に少ないことです。前に申しましたように、4章35節からはイエスが起こした十の大きな奇跡が記されていて、実はこの22節からの盲人の癒しは十番目の奇跡なのですが、この後にイエスが起こす奇跡は、弟子たちが不信仰のために癒せなかった子供を癒したというものと、そしてエルサレムへの旅の最後にバルテマイという名の盲人を癒すという、二つの癒しだけです。ここでみなさんもお気づきかもしれませんが、つまりこの第二幕の最初と最後に行われる奇跡はどちらも盲人を癒して目が見えるようにするという奇跡なのです。これは偶然でしょうか?いえ、そうではないでしょう。実は、この第二幕、ガリラヤからエルサレムへの旅における大きなテーマは「盲目を癒す」、または「見えない目を見えるようにする」ということなのです。それは文字通りの意味での盲目の人の目を開くということではなく、比喩的な意味で霊的に盲目な人、具体的にはイエスの弟子たちのことですが、彼らの目を開くということが大きなテーマになっています。イエスは先の四千人の給食の奇跡の際に、弟子たちを「目がありながら見えないのですか」と叱責していますが、この弟子たちの霊的な盲目をはっきりと示す出来事が「ペテロの告白」に続いて起こります。その盲目を癒していくことがこれからのイエスにとっての大きな課題なのですが、それを暗示するかのように、この第二幕の最初と最後に盲人の目を癒すという奇跡のエピソードを配しているのです。

そのような背景を踏まえながら、22節から26節までの癒しの奇跡を読んでいきましょう。イエスはベツサイダと呼ばれる町に向かいました。そこでイエスは盲人の人から癒しを求められますが、イエスは彼を直ちに癒そうとはせずに、村の外へと連れ出します。なぜそのような回りくどいことをしたのかといえば、イエスは先にもベツサイダで癒しを行ったのに、町の人々から拒絶されたことがあったのかもしれません。マタイ福音書にはイエスがベツサイダを叱責する記事があります。11章21、22節にはこうあります。

ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行われた力あるわざが、もしツロとシドンで行われたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだお前たちよりは罰が軽いのだ。

このように、ベツサイダの人々の不信仰を嫌い、イエスはこの盲人の人を人眼のない外に連れ出したのかもしれません。外に出たイエスは、つばきをその人の目につけました。前にもイエスは耳が聞こえずしゃべれない人を癒したときにも、つばきを舌につけるということをなさっています。つばきをつけられる、というと私たちにはかなり抵抗感があることかもしれませんが、しかし癒される側からすると、このように大げさなアクションをされた方が、直るのだという期待が高まるのかもしれません。特に目が見えない人は、目に触れていただくということが大変大きな励ましになったと思われます。しかし、最初にイエスが彼に触れたときにはその癒しは十分ではなく、彼はぼんやりとしか見ることができませんでした。完全な癒しのためにイエスはもう一度彼の目に触れる必要がありました。このことは、エルサレムの旅の終わりにバルテマイという盲人を癒したときには、何のゼスチャーも必要なく、イエスの言葉だけで盲目が癒されたこととは対照的です。この違いには実は大きな意味が隠されているのですが、その意味については、バルテマイのところでもう一度考えてみたいと思います。

さて、このようにベツサイダの外で癒しを行った後に、そこから北上してピリポ・カイザリヤに向かいました。カイザリヤというと、地中海沿岸のローマ総督の住居の所在地が有名ですが、ここではそれとは異なる場所で、ヘロデ・アンティパスの兄弟ピリポが統治していたガリラヤ湖の北にあるカイザリヤです。そこで極めて重要な問答がイエスと弟子たちとの間で交わされます。前にも言いましたが、イエスはこれまで自分がメシアであるということを公言しませんでした。もちろん、弟子たちが自分でそれを悟ってくれることを願ってはいましたが、とにかくイエスの方から明言することはなさらなかったのです。弟子たちもこれまでイエスのことを「先生」、あるいは教師としか呼んでおらず、イエスをメシア・キリストと呼んだことは一度もありませんでした。しかし、イエスの驚くべき奇跡を目のあたりにして、彼らももちろんイエスがただの教師だとは思っていません。それを端的に示すのは嵐鎮めの後の弟子たちの反応です。4章41節にはこうあります。

彼らは大きな恐怖に包まれ、互いに言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

イエスは自分が何者なのか、この時には確たる答えを与えませんでした。しかし、とうとうイエスはここで核心に切り込みます。イエスはまず、弟子たちが自分を誰だと思うかではなく、周囲の人々が自分についてどんな噂をしているのか、と尋ねました。まず弟子たちは、バプテスマのヨハネだ、という噂に言及しました。これは、バプテスマのヨハネを殺害したヘロデ・アンティパスがイエスのことを、ヨハネが墓からよみがえった人物なのだと信じ込んでいたことを指すと思われます。また、イエスのことをエリヤだと言うこともいました。エリヤは、旧約聖書では生きたまま天に上げられたと言われている唯一のイスラエルの預言者です。このエリヤは、終末の時代に神の来臨の道備えをするために再び現れるということが旧約聖書の最後の書である「マラキ書」に預言されています。エリヤは死んだ子供をよみがえらせるという奇跡を行っていますが、イエスも同じ奇跡を行いました。ですから、イエスこそ再来のエリヤだと信じる人たちがいたのです。また、エリヤの再来ではなくとも、イザヤやエレミヤなど、イスラエルに遣わされた大預言者の系譜に連なる預言者としてイエスを見ている人々も多かったのです。これらはいずれも極めて高い評価だと言えます。しかし、イエスはこれらの答えにも満足しておられないように見えます。そこでイエスは、弟子たち自身の意見を求めました。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と尋ねられたのです。

これは、緊張の一瞬でした。弟子たちは、いつもイエスに尋ねたくて仕方がなかったのに、尋ねることができなかった問い、その問いをイエス自身から問われました。イエスの返答次第では、弟子たちの夢、つまりイスラエルの栄光が回復され、自分たちが新生イスラエルにおいて出世する、高い地位を占めるという夢、あるいは野心が水泡に帰してしまうかもしれません。イエスが自分たちの期待するイスラエルの王であって欲しい、でもイエスがそれを否定してしまうことが怖い、こういう相反するようなもどかしい思いを弟子たちはずっと抱えてきたのですが、しかし弟子たちを代表して、ペテロは祈るような思いでこう告白しました。「あなたは、キリストです」と。キリストというのはヘブライ語のメシア、油注がれた者という意味で、イスラエルの王を指しています。ですからペテロはここで、「あなたこそイスラエルの王です」と告白したことになります。私たちクリスチャンにとっては「キリスト」というのはしばしば誤解される王にイエスの名前であるとか、あるいは神の別名のような意味だと理解されることがありますが、ペテロのようなユダヤ人にとって「キリスト」とはそのような意味ではなく、王の別名であった、ということはしっかりと覚えておく必要があります。

ともかくも、ペテロは勇気を振り絞ってその告白をしたのですが、イエスはその告白を真実だと認めたものの、ここでもその真実を弟子たち以外の人に語ってはいけないとくぎを刺しました。イエスがメシアであることを秘密とするという「メシアの秘密」は、このペテロの告白の後ですら撤廃されることはないのです。しかし、なぜイエスはご自身がメシア、つまりイスラエルの王であることをこの期に及んでも隠そうとするのでしょうか?弟子たちは不思議に思ったかもしれません。イスラエルの王としてヘロデやローマを打ち破るためには、多くの協力者やイエスに心酔してその命まで捧げますというような、彼の命令に従うしもべが必要なはずです。ですからイエスは今こそ自分がメシアであることを世に知らしめて、多くの従者を獲得すべきではないか、と弟子たちは思ったはずです。しかしイエスは、弟子たちの期待とは正反対のことを語り始めます。

それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。

とあります。これではまるで、先の大石内蔵助のたとえでいえば、「私たちはこれから仇討を決行する。が、それは必ず失敗し、私たちは死罪にならなければならない」と言っているようなものです。もちろんイエスは三日後の復活のことも語ってはいるので、完全な失敗について語っているわけではないものの、やはりその前の「必ず殺される」という一言が、ペテロたちにとってはまさに青天のへきれきのような衝撃を与えたのです。

これを聞いて弟子はみんな驚いたでしょうが、中でも勇気を振り絞って告白したペテロには、聞いていられないような話でした。そこで「ペテロは、イエスをわきへお連れして、いさめ始めた」のです。このいさめたということばは、次の33節の「しかった」と同じ言葉です。つまり、ペテロは師であり先生であるイエスを叱り飛ばしたのです。それに対して、なんとイエスも、ペテロだけでなく弟子全体を見回しながら、ペテロのことを皆の面前で「サタン」とまで呼んで、逆に彼を叱りつけました。イエスはこう言われました。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」しかし、イエス様は何でまた、ペテロをサタン、つまり悪魔呼ばわりしたのでしょうか?この瞬間だけ、ペテロは我を忘れてサタンに意識を乗っ取られていた、憑依されてしまっていたのでしょうか。いいえ、そうではありません。ペテロは完全に正気で、自分が何を語り、何をしているのかを完全に理解していました。それどころか自分は完全に正しく、イエスの方こそ気が違っていると確信すらしていたのです。しかも、このペテロの正気の考えが、サタンの考えと完全に一致してしまっていたのです。サタンとペテロの思考の波長が合ってしまいました。ですからイエスはペテロをサタンと呼んだのです。では、この時ペテロはどんなことを考えていたのでしょうか。ペテロは、イエスがメシア、イスラエルの王であるならば、神の敵であるヘロデやローマを滅ぼし、神の民であるイスラエルを悪の支配から解放すべきだというものでした。そしてこれは当時のユダヤ人にとって異端どころか、完全に正統的な考え方でした。神から選ばれた人がイスラエルのために外敵と戦うという例は、士師ギデオンやダビデ王など、それこそ旧約聖書にたくさん見出だせるからです。そして、サタンも同じ考えでした。イエスはイスラエルの王として外敵と戦うべきだ、というのがサタンの思いだったのです。サタンからすれば、イエスが剣を取って、イスラエルを率いて正義の戦争を行ってくれれば、それで自分の勝ちだということが分かっていました。正義の戦争だといって始めたものの、戦争をやっているうちに勝つためには手段を選ばなくなり、とても正義の戦争などとは呼べなくなることは歴史が証明しています。キリスト教の「正戦論」、正しい戦争の教えによれば、非戦闘員、民間人の殺傷は認められません。しかし、第二次世界大戦では勝った側も負けた側も民間人の無差別大量殺人を何度も行っています。しかも、軍人が命令違反で暴走したのではなく、トップの命令で行っています。「あいつらが悪いことをしたんだから、俺たちも同じことをしてもいいのだ」というのは子どものけんかの理屈であっても、文明国同士の戦争では通用しない理屈ですが、いざ戦争が始まってしまうと、いとも簡単に子どものけんかどころではない、過剰な報復行動が起こってしまうのです。そして、イエスがもしイスラエルの王として戦争を率いて、彼の部下が戦争犯罪に手を染めれば、それはリーダーであるイエスの責任になります。そうなると、「敵を愛しなさい」と教えたイエスの教師としての権威は地に堕ちます。所詮イエスも、あまたの歴史上の英雄と変わらない、凡庸な征服者になってしまうことでしょう。そして、これこそがサタンの狙いでした。イスラエルの王として戦ってほしいというペテロの願いは、このサタンの思いと完全に同調してしまっていたのです。ですからイエスは、ペテロに「気を付けなさい!」という思いを込めて、最大限の厳しい言葉をぶつけたのです。

しかし、このやりとりを聞いていた弟子たちがイエスの深い思いを理解できるはずもなく、彼らはあっけにとられてしまいました。これはなんというひどい話か、と彼らは思いました。とうとうイエスがイスラエルの王であるということが明らかになり、これからというときに、そのメシアと弟子の筆頭格が互いを叱り合い、ペテロはサタンとまで呼ばれてしまうのです。この思わぬ展開に、他の弟子たちも胆をつぶしたことと思います。しかし、このイエスとペテロとの口論こそが、弟子たちの盲目の根深さを象徴しているのです。そしてこれからエルサレムへの旅におけるイエスにとっての一番大きな課題こそ、弟子たちの霊的な目を開くことだったのです。

3.結論

まとめになります。今日はマルコ福音書の第二幕の始まり、そしてこのストーリーのターニング・ポイントとなる「ペテロの告白」について学びました。ペテロは正しい告白をしました。イエスはメシア、キリストであるという、文句のつけようのない正解の告白をしたのです。しかし、このペテロの告白が大いなる誤解に基づいていたこともまた、すぐに明らかになってしまいました。イエスはペテロの告白を受けて、ではイエスがどんなメシアなのか、ということを説明しました。イエスの指し示すメシア像とは戦わないメシア、武器を取らないメシア、それどころか敵すらも愛するメシア、支配するよりも進んで仕える者となるメシアでした。これはペテロの抱いてきたメシア像をひっくりかえす、まさに革命的なメシア像でした。ペテロはそのようなメシアを受け入れることができずに、イエスを叱責すらしました。

しかし、これはペテロだけに起こり得る過ちではないのかもしれません。私たちクリスチャンも、「イエスはメシアです、救世主です、神の子です」と正しい告白をします。しかし、ではイエスがどんなメシアなのかということを理解しているのでしょうか?イエスを平和の君として賛美しながら、他方で軍備増強を支持し、正しい戦争を熱心に支援するならば、私たちは間違ったメシア像に基づいてイエスを礼拝していることにはならないでしょうか。イエスがキリストであるということはもちろん大切なことですが、もっと大切なのはイエスがどんなメシアであるのかということです。私たちが一体どんなメシアを信じているのかは、私たちの行動がおのずから示します。私たちが武器を取らないメシアを信じているのなら、私たちも武器を取るべきではないのです。そのように考えることは、今の日本の空気を読めていないことになるかもしれません。しかし、それでも私たちは主の教えに忠実に生きたいと願うのです。お祈りします。

平和の君、十字架の主であるイエス・キリストの父なる神様。そのお名前を讃美します。今日は、ペテロが正しい告白をしながらも、その正しい告白が大いなる誤謬に基づいていたことを見て参りました。私たちもまた、同じ過ちを犯しやすい者でありますが、どうか常に主イエスの平和のメッセージに立ち帰り、そのために働く者とならしめてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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