律法は何を教えているか
マルコ福音書7章1~23節

1.導入

みなさま、おはようございます。いよいよアドベントに入りましたが、アドベント期間中もマルコ福音書を読み進めてまいります。これまで私たちはイエスが行った十の大きな奇跡について学んできましたが、今日の箇所はそこから少し離れて、もう一つの重要なテーマについて考えて参りましょう。それは神の教え、モーセの律法についてです。律法と訳される言葉のヘブライ語の原語はトーラーですが、これは「教え」あるいは「生き方の指針」とも訳すことができます。「律法」と「生き方の指針」とでは、全然響きが違ってきます。「律法」というと法律のようなものかと私たちは考えます。法律を守らないと罰を受けるので、律法という言葉は常に刑罰を連想させます。しかし、「生き方の指針」を守らないと刑罰を受けることはないかもしれませんが、人生が豊かなものとはならない、むしろ不幸な人生を歩むことになる、そういう含みがあります。ですから、神がイスラエルに与えたトーラーとは法律なのか、指針なのかということは、私たちの受け止め方にも大きな影響を与えます。刑罰が恐ろしいから律法を守るのか、あるいはより良い人生を送るために律法を守るのか、というのは全然違うことだからです。私は、少なくともイエス様がトーラーについて語っていた場合は「法律」ではなくて「教え」、「生き方の指針」として捉えた方が良いと考えています。ですから今日の説教でも、そのような観点からお話しさせていただきます。

今日の箇所は、その律法、トーラーについてイエスがパリサイ派と口論するという、そういう場面です。そして今日の場面はイエスとパリサイ派との間での「律法」の理解の違いがひときわはっきりと浮かび上がる、そのような場面です。ですから、とても重要な箇所だと言えます。イエスとパリサイ派との間には口論が絶えませんでしたが、その理由は「律法」の捉え方の違いにあると言っても過言ではありません。ではどのような違いがあったのか、その背景を少しご説明したいと思います。

パリサイ派とはどんな人たちかといえば、彼らは政府のお役人ではありませんでした。ですから彼らはいわゆる民間人です。彼らはエルサレムの大祭司たちのように、政府のリーダーとしてユダヤの民衆を指導したり裁いたりする立場にはなかったのです。それでも彼らは民衆の間でかなりの影響力と尊敬を勝ち得ていました。それは、彼らが律法、トーラーの専門家として民衆を指導する立場にあったからです。ユダヤの人たちは、旧約聖書に書かれているトーラーを神の言葉、神の御心を表すものと受け止めていたので、トーラーを日常生活においてしっかり守りたいと願っていました。しかし、具体的にトーラーを守るということは結構難しいことでした。例えば有名な戒めに「安息日を聖なるものとせよ」という十戒の戒めがありますが、では具体的に何をどうすれば安息日を聖なるものとしたことになるのでしょうか?あるいは、何もしないことこそが安息日を聖なるものとすることなのでしょうか。聖書はこのような疑問について答えてくれません。仕事をしてはならない、とだけ記しています。でも、では家族のための食事を作るのは家事という仕事だから、食事も作ってはいけないのでしょうか?そうなると、安息日はお休みどころか断食の日になりかねません。そこでパリサイ派の教師たちは、安息日に何をしてもよいのか、あるいは何をしてはいけないのか、そのことについて非常に詳しい解説を提示しました。今日でもユダヤ人の正統主義の方々は安息日を聖とすることの意味を考え続けています。例えば安息日にはスマホを使わないということを決めて、それによって安息日を特別な日、聖なるものとしているのです。イエスの時代のユダヤ人、特にパリサイ派の人たちもいろんなことを考えてルール化していきました。例えば安息日には火を焚いてはいけないというようなルールです。ですから料理のために火をくべたり、お風呂を沸かしたりはできなかったのです。もちろんそんな戒めは聖書にはありませんが、段々とパリサイ派の人たちは自分たちの先輩が作ったそういう細かなルールを聖書と同格の権威あるものと見なすようになりました。それが今日の箇所で言われている「昔の人たちの言い伝え」です。そうした言い伝えのすべてが悪かったとか、間違っていたということではもちろんありませんが、中には行き過ぎてしまって聖書本来の教えの意図からはずいぶんとかけ離れてしまったルールもありました。今日の聖書箇所はイエスがパリサイ派の崇める「昔の人たちの言い伝え」をピシャリと批判する、そういう場面なのです。

2.本文

では、さっそく今日の箇所を見て参りましょう。私たちは食事の前に手を洗うのは当たり前だと思っていますし、コロナが蔓延してからはなお一層食事前の手洗いを奨励されています。そしてパリサイ派の人たちも食事前の手洗いを強く民衆に促していました。しかしその目的はもちろんコロナ対策ではなく、律法の戒めを具体的に守るためでした。パリサイ派の人たちは、「清め派」と呼びたくなるような人たちで、自分たちを清く保つことに細心の注意を払う人たちでした。そして常に清くあるために、汚れたものからは常に距離を置こうとしていました。ここで「清い」とか「汚れている」ということばが出て来ましたが、これは私たちが日常生活で感じる清さとか汚れとは少し異なるものでした。むしろそれは聖書的な考え方、聖書的概念でした。日本にも「産後の穢れ」という言葉があります。お産をすると、どうして汚れるのか、と私たちには理解不能なことですが、でも実際昔は産後の女性は汚れているということで、お宮参りには行けませんでした。実はそれと全く同じ教えが聖書にもあります。例えばレビ記12章2節には、「女が身重になり、男の子を産んだときは、その女は七日の間汚れる」とあります。このように、聖書はこういう場合には人は汚れるということを教えていました。律法を読むと、人が汚れるのは体から何かが漏出するという場合であり、特に血が体から出ることは汚れの原因とされました。そして、日常生活ではそのようなことは頻繁に起こり得ることでした。気が付かないうちに体から血が出ていた、ということもあり得るのです。また、そうした汚れは伝染するので、汚れた状態にある人が触れたものは汚れてしまう、あるいは汚れた状態にある人に触れた人は、その人も汚れてしまう、ということがありました。しかし、ユダヤ人も誰が汚れているのか、あるいは何が汚れているのか、いつも分かるわけではありません。ですから、分からないにしてもできるだけリスクを減らそうと、パリサイ派たちは手洗いの徹底を奨励しました。実際、手洗いは汚れを落とす効果があると、聖書自体が語っているからです。例えばレビ記15章11節には次のような教えがあります。

また、漏出を病む者が、水でその手を洗わずに、だれかにさわるなら、さわられた人は自分の衣服を洗い、水を浴びる。その人は夕方まで汚れる。

ここでは水で手を洗えば、汚れを他の人に移さなくて済む、ということが示唆されています。おそらくパリサイ派はこのような聖書の言葉を敷衍して、手洗い、特に食事前の手洗いを非常に熱心に行うようになりました。彼らは、日常生活の中でうっかり、あるいは気が付かないうちに汚れたものに触れてしまっているかもしれないと考え、その汚れを食べものに触れる前に落とそうとしたのです。これは、私たちが日常生活で知らず知らずのうちに風邪とかインフルとかのウイルスを他の人から貰ってしまったかもしれないと考えて、食事の前にうがいや手洗いをすることとどこか似ているかもしれません。ともかくも、パリサイ派の人たちは食事前に手洗いすることで、気が付かないうちに手に付いてしまったかもしれない汚れを落とそうとしたのです。しかし、繰り返しますがそのようなパリサイ派が決めた食事前の手洗いのルールは、聖書にはっきりと書いてあるルールではありません。彼らなりの聖書解釈に基づくルールでした。ですからパリサイ派だけに通用する内輪のルールと言ってもよいでしょう。けれどもパリサイ派は自分たちのグループ以外のユダヤ人もこのルールに従うことを求めていました。彼らは、自分たちの先輩が決めたルールに聖書の教えに準じる権威を持たせようとしていたのです。

そんな時に、彼らはイエスの弟子たちが手を洗わずに食事をしているのを目撃してしまいました。今や人々から大きな注目を集めているイエスとその一行が、パリサイ派の決めたルールを無視しているのを見て、パリサイ派は怒りに駆られてイエスに抗議しました。それが5節の言葉です。

なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか。

パリサイ派は自分たちの影響力を民衆の間で保つことに心を砕いていました。ですからイエスたちに圧力をかけて、自分たちの決めたルールに従わせようとしたのです。けれどもイエスはそのような圧力をはねつけました。むしろ、彼らが新しく作ったいろいろなルールの問題点をズバリと指摘したのです。イエスはこう言われました。

あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。モーセは「あなたの父と母を敬え」、また「父や母をののしる者は死刑に処せられる」と言っています。それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。

これはイエスがパリサイ派の作ったルールの問題点を指摘したものです。ルールそのものが悪いというよりも、その実際の使い方が狡猾だという例です。どんなものかと言えば、子供は年老いた親の面倒を見なければならないというのがモーセの律法の教えのエッセンスなのですが、年老いた親の面倒をみたくないという性根の曲がった人は、その教えを守らないためにモーセの律法を悪用してその責任を逃れようとしました。親を扶養するという責任より重たいものがあるとするならば、それは神への献身以外にはありません。ですから悪知恵の働く人は、親を養うためのお金や家財を、「これはもう私のものではありません、神様のものです」と宣言するのです。とはいえ、それを神殿に献金や献品して手放してしまうわけではなく、あくまで自分の管理下に置き、そこから上がる収益や利子も自分で使い続けるのですが、しかしその名義を自分から神様に変えるということをしたのです。ただ、もはやそれは自分の財産ではないので、親のためにその財産やそこから上がる収益を使うことはできません、というのです。具体的に考えるなら、自分名義の畑があって、そこから生まれる収穫で親を養うべきところを、その畑はもう神様のものだから、そこから生まれる収穫も親に渡すことはできない、と言い張りつつ、その収穫物を他の人に売ったりすることは出来てしまう、というような話です。こんな詭弁のようなことが通用するのか、と思うのですが、そういうことを言っていた人がいたようなのです。ただ、パリサイ派の名誉のために言っておきますが、心あるパリサイ派の人は、主イエスと同じくこういうおかしな律法の使い方をしている他のパリサイ派を厳しく咎めていました。パリサイ派が作ったルールは全部が全部おかしなものだった、というようなことはもちろんないわけですが、この「コルバン」の例のように非常に問題のあるルールが作られる場合もありました。

このように、パリサイ派の作ったルールは必ずしも褒められたものではないことを指摘した後、14節以降でイエスはいよいよ本題に入ります。パリサイ派が拘る、食事の前の手を洗うというルールの何が問題なのか、そのことを民衆に説明するのです。イエスはこう言われました。

みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すのです。

この言葉は、当たり前のようでなかなか理解するのが難しい言葉でもあります。パリサイ派が食事の前に手洗いが必要だと考えたのは、ある意味では聖書的な考えだと言えます。確かに聖書的な汚れはある人から別の人へと移ってしまうからです。しかし、主イエスはそれとは別のことを指摘しようとしました。トーラーによれば、人はどういう場合に汚れてしまうのか?それは、基本的には人の内側から出るものによります。漏出、月経、出血、漏精なのです。外から入るものではなく、内から出るものが人を汚します。イエスはこれらの汚れを一種のたとえとして捉えます。つまり、汚れをもたらすとされる出血等は、人間の心から出る汚れた思いを象徴しているのだと。パリサイ派は、聖書の律法の字義通りの実践に夢中になるあまり、このような律法の教えの大切な側面に気を配ることが出来なくなっているのではないか、というイエスの批判があったのです。もちろん、聖書の教えである以上、いろいろな汚れから身を清めることは大切です。しかしパリサイ派は、そういう外見的なことには敏感なのに、自分の内面的な問題には鈍感でした。パリサイ派がどうしてイエスたち一行のことを非常に気にして、いちいち難癖をつけようとするのか、そうした行動の背後には人々からの注目を一身に集めるイエスに対する嫉妬や妬みというマイナスの感情がありました。パリサイ派たちは外部的な汚れの問題ばかりを気にして、自分たちの内側にあるそういう醜い思いには注意を払おうとはしませんでした。でも、それでは本末転倒になってしまいます。イエスはパリサイ派の人々に、もっと自分の心の内面を見つめて見なさい、そうした心の汚れをこそ、真っ先に取り除きなさい、それがトーラーの真の教えなのだと諭そうとしたのです。イエスの素晴らしい働きや教えに驚きつつも、それらにいろいろ理屈をつけて難癖をつけてしまう、その屈折した思いの背後にある悪い思いに気を付けなさい、ということです。

しかし、パリサイ派たちはイエスの真摯な問いかけに向き合うことが出来ません。ぶつくさ文句を言い続けていたものと思われます。それどころか、イエスの弟子たちもイエスの言葉の真意に気がつけないでいます。弟子たちも、律法の字義通りの解釈にばかり拘ってしまい、漏出物が身を汚すというトーラーの教えは一種のたとえ、つまり自分の心から溢れる悪い思いがその人を汚すということを教えるたとえなのだというイエスの教えが分かりませんでした。それでイエスは「あなたがたまで、そんなにわからないのですか」と弟子たちを叱責しました。そしてこう言われました。

人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。

このイエスの教えはとても大切な教えです。数千年も前に定められた律法の教えは一見、現代人の私たちの目にはナンセンスにしか思えないものがあります。しかし、そうした教えの背後にある本質的なもの、それらに私たちは常に注意を払う必要があるのです。

ところで、19節でマルコはさりげなく、重要な一節を滑り込ませています。それは「イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた」という下りです。注意すべきなのは、この一節も、たとえであって文字通りに受け取るべきものではないということです。聖書のレビ記11章には、きよい食べ物と汚れた食べ物の規定があり、ユダヤ人は昔も今もそれに則った食事をしています。ユダヤ人が豚肉を食べないのは、豚が汚れた動物に分類されるからです。イエスの真意は、レビ記11章に書かれた神のことばはもはや無効だと宣言することではありませんでした。つまりイエスは律法に書いてあるユダヤ人にとっての禁止事項、豚肉を食べてはいけないとか、甲殻類を食べてはいけないとか、そういう禁止事項を全廃しようとしたのではありません。食物に関する律法の教えを廃止するという極めて重大なことをイエスが教えたのなら、他の福音書や使徒の働きにもはっきりそう書いてあるはずです。むしろ、ここでの「すべての食物」とは人間を指す譬えなのです。この次の場面で、イエスは異邦人の女を「小犬」と呼びます。これは私たちにはショッキングなことです。イエス様が女の人を「犬」などという蔑称で呼ぶなんて、なんてことだ、と思うわけです。けれども、当時の多くのユダヤ人にとって異邦人とは汚れた存在、犬のような存在でした。しかし、次回の場面でイエスはこのようなユダヤ人の外国人差別の心を取り払おうとされています。つまり、19節はこの後に続く話のための伏線であり、イエスはここで「ユダヤ人も異邦人も、すべての人は清い」と宣言されたのです。しかし、このことの詳しい説明は次回にお話しします。

3.結論

まとめになります。今回は、ユダヤ人にとって最も神聖なもの、すなわち神の教え、トーラーをめぐるイエスとパリサイ派との論争を学びました。パリサイ派は真面目な人たちで、神のことばを徹底して守ろうとして聖書を熱心に学び、また行動していました。しかし、熱心ならばそれでいい、というわけにもいきません。パリサイ派の熱心さは、外面的なものに向かう傾向がありました。律法の字義通りの実践に拘りながらも、律法が指し示す深い教えには十分に注意を払うことができないでいました。ですから、イエスの弟子たちの外面的な汚れの問題にあれほど拘りながらも、自分自身の内面にある醜い汚れには注意を払いませんでした。彼らがイエスのことを受け入れられなかったのは、実は「ねたみ」というマイナスの感情からであることを見ようとはせず、むしろイエスたちに何とか難癖をつけようとあら捜しにばかり精を出してしまっていたのです。

ただ、私たちもパリサイ派のことを笑うことができません。私たちには誰しも、どうにも気に食わない人というのがいるものです。そして自分のその感情を正当化しようと、その人の問題点を一所懸命探そうとあら捜しをして、その人の良い点は見ようとはしない、ということがしばしばあります。しかし、その人が気に食わないのは単にその人に嫉妬しているだけなのかのかもしれません。「人の振り見て我が振り直せ」ということわざがありますが、私たちも自分たちの心の動きには十分気を付けたいものです。お祈りします。

イスラエルに恵みとして律法を与えてくださった父なる神様。そのお名前を讃美します。今日はイエスの弟子たちに対するパリサイ派の批判、その批判は実は彼らの心の汚れや歪みから生じたものだということを学びました。私たちもパリサイ派と同じ過ちを犯す愚かな者ですが、どうか主によって間違いを示されたら、素直に反省する心をお与えください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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