大国の狭間でのイスラエル信仰
イザヤ書7:14-25
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

今日と来月はイザヤ書からお話させていただきたい、と思います。イザヤ書は言わずと知れた、聖書における最大の預言書です。66章ありますが、これがちょうど新旧約聖書の文書総数66と一致していて、イザヤ書を39章までと40章以降に分けると、それが旧約聖書と新約聖書の文書数にも一致します。実はイザヤ書は39章までと40章以降では成立年代が相違していることがほぼ明らかであり、39章までの著者を第一イザヤ、40章以降を第二、第三イザヤと称しています。39章までは預言者イザヤが預言を述べ伝えた時期の歴史に密着した話です。もちろん歴史叙述そのものではありませんが、預言者イザヤが当時の複雑な国際情勢にあって王やイスラエル特にユダ王国の民に向かっていかなる言葉を語ったかが記されています。それはイザヤが主なる神より預かった言葉でした。

イザヤが述べたのは、①ユダ王国はいずれの他国とも軍事的同盟はせず、中立であるべきである。ただ主なる神の力のみを頼りとすべきである、②当時の世界帝国アッシリアは狂暴であるが、それは神の裁きの手段であるのでこれを受忍すべきであること、です。このアプローチは約120年後のエレミヤに継承されます。エレミヤもアッシリアを滅ぼしたバビロニアの王ネブカデネザルを「神の僕」とし、ユダ王国は狂暴なバビロニアの支配を受容すべき、と主張したのです。イスラエルを選びの民として主なる神が外国の圧政者を手足に使い、イスラエルに裁きを行う、という思想です。ここには、民族的守護神としての主なる神から、世界大の主なる神への転換が見られます。これは世界の宗教の中でも異色の特徴です。自らの選びの民を、外国人勢力を使い、裁きの結果として、破滅的状況に追い込み、離散の民とし、その中でも主なる神への信仰を貫く人々(それを「残りの者」といいますが)を通して、神の国、という信仰共同体を復活させる、というのです。なぜ、選びの民はそのような悲惨な目に合わねばならないのでしょうか。いかなる、罪を犯したのでしょうか。他の国民以上にひどい罪を犯したのでしょうか。そんなはずはありません。選びの民であるが故の苦難であり、主なる神は選びの民が世界の罪を贖い、人間のみならず世界の救いを証し(あかし)するものとなることを望まれている、ということであろう、と思います。私たちも、主イエスを「主」と告白したところでこの選びの民にされたのです。「新しきイスラエル」です。このイザヤにより基が据えられ、エレミヤが具体的に示した、選びの民の使命はイスラエル信仰の行きつく先を指し示しています。私たち、キリスト者にとっては決定的に重要なことが述べられています。

イザヤの言っていることを具体的に理解するためには、当時の国際政治状況において基本的なことを理解しておく必要があります。北王国イスラエルの王はヤラベアムII世、南王国はアザリヤ(別名ウジヤ)の時代から始めるのが妥当です。BC8cの前半です。ヨーロッパではギリシャ文明の曙の時代であり、神話におけるローマ建国の時代です。中国では春秋戦国時代の初め、です。当時、イスラエルを取り巻く情勢は大国の勢力が内紛により衰え、イスラエルを含むカナンの地には世界帝国による圧迫はなく、自由な経済活動が行われた時代です。エジプト、アッシリア、イラン、中国とつながる経済活動、文化的広がりにおいてカナン地方は貿易の中継拠点として繁栄いたしました。一般の歴史では南北イスラエル王国の黄金時代と言われています。繁栄はその実(じつ)格差の拡大です。小規模農耕業者は没落し、大土地所有者と小作農という関係になり、更に小作農は農奴的状況に陥る人々が多数でました。また外国貿易によって富を蓄えた商業資本は漸次力をつけてきていました。この勢力はその後、肥大化し、数百年後には大国の徴税権の代行者となり、その富の急拡大を手にすることになります。古典的なイスラエル信仰は生きたものとして働かなくなっていました。イスラエル信仰の基本は「主なる神によるイスラエルの民の直接支配」であり、強固な平等意識が根底にあったため、格差社会はその意識を破壊していったのです。

しかし、北の大国アッシリアはBC745、ティグラト・ピレセルIII世ブルが王に即位して後、軍制の大改革を行い、中央集権的体制を敷き、常備軍による軍に切り替え、周囲の地域を統合し始めました。戦車も新式のものを導入し、周囲の国の及びもつかない強力な軍事国家を形成しました。まずバビロニア地域を平定し、次いで、西方進出し、カルケミシュ、アレッポ、そして南方に向かい、ダマスコを支配下に入れ、更にカナンの地を狙う気配でした。この王は、占領すると征服民の民族的同一性を解体し、直轄的支配を行いました。その手段として住民の入替を行ったことが知られています。占領地の住民を遠方の新しい地に移住させるとともに、他の地域から大量の植民者を受け入れる、というやり方です。これは、後のイスラエルに対する捕囚の先駆けである、と言えます。現代になってからもスターリン体制のソ連において行われました。民族の破壊です。

その当時、北イスラエル王国ではヤフー王朝最後の王ゼカルヤがクーデタで死んだBC745以降、内部的権力争いが頻発し、王の暗殺が度々起き、不安定な政情となりました。ユダ王国の方は病にあったウジヤ王の子のヨタムが摂政となり、そのヨタムが死んでからはその子のアハズが王位を継ぎました。ダビデ家系が維持されています。ティグラトピレセルIII世はBC738頃、シリア・パレスチナ方面に遠征しますが、この時は、ダマスコ、ツロ、カルケミシュ、更にはアラビアも恭順の意を表し、事なきを得たようです。ユダ王国の朝貢はなかったようです。北イスラエルの王メナヘムとその子のペカヒヤは親アッシリア政策を採用しますが、これを不服に思ったグループはクーデタを起こし、ペカを王とします。ペカはダマスコのアラム王レツインと手を組んで反アッシリア同盟を形成し、ユダ王国にも同調を呼びかけます。ユダ王国の王アハズは参加を躊躇します。このため、業を煮やした北イスラエル/アラム連合軍がユダ王国に侵入することになりました。これがシリア・エフライム戦争と呼ばれるものです。これに乗じ、ユダ王国の支配下にあった死海南方のエドムが独立し、西方のペリシテ人が、ユダ王国の影響下にあったネゲブ地方や、ユダ王国とペリシテの境界である丘陵地帯を侵略したようです。預言者イザヤは軽挙妄動を慎み主なる神の助けを信頼せよと言ったようですが、王はアッシリアに助力を求める行動に出ました。この時の、イザヤが述べた主なる神の示す希望が、先ほどお読みいただいた「インマヌエル預言」と推測されています。イザヤは、北王国はそもそもはイスラエルの民だから彼らの支配下に入っても、ユダ王国の信仰は守られるのではないか、と思っていたのではないでしょうか。アッシリアについてはいずれアッシリアの支配下に入らざるを得ない時がくることを予見していたと思います。それを早める必要性はない、とかんがえていたでしょう。エドム支配については、執着の必要性はない、と考えていたと想像できます。インマヌエル預言は、その全過程は主なる神の意志において行われていることであるから、人為的な抵抗、戦争は行うべきではなく、その先の「希望」に信頼を置くべきだ、ということだと考えられます。「希望」に対する確信は現在における力です。忍耐の力であるのみならず、現在の歴史の中に主なる神の力の現れを見て、喜びを得て、希望への確信を更に強めていくことができるのです。

BC734年にユダ王アハズがアッシリアに朝貢したことが確認されています。エドム、モアブ、アンモンも朝貢し、アッシリアの報復を逃れています。ティグラトピレセルはBC733に北王国を襲い、ガリラヤ、ギレアド、メギド、ドルを占領、再編しました。北王国はサマリヤと周辺の都市国家に近い状態になってしまいました。そして、またしてもクーデタが起き、ホセアがペカを殺し、王となります。ティグラトピレセルに降伏し、朝貢します。翌年にはティグラトピレセルは、ダマスコを襲いアラム王レツィンを処刑し、住民を捕らえ移しました。ユダ王アハズはアッシリアに恭順の態度を示し、ダマスコでみた祭壇とそっくりの祭壇をつくり、エルサレム神殿に置き、ヤハウェの祭壇は片隅に追いやられた、と言われています。アッシリアの属国となり、王国の形だけは維持できました。BC729年、アハズが死に息子のヒゼキヤが即位しました。BC727年ティグラトピレセルIII世大王ブルは死にそのあとをシャルマネセルが継ぎます。

北王国の王ホセアは大王が死ぬとエジプトの王と結んで、貢納を中止し、アッシリアからの独立を企てます。時のエジプト王朝はリビア系の第24王朝と推測されています。まだまだエジプトは混乱の中にあり、とてもアッシリアの敵ではありませんでした。ホセアはシャルマネセルV世に打ち破られ、アッシリアに送られました。そのあともサマリヤは抵抗をつづけましたが、BC721年ついに陥落しました。時の王はシャルマネセルの後のサルゴンII世です。彼は、サマリヤの指導層をアッシリア国内各地に強制移住させ、代わりに複数の異民族を入植させました。その結果、サマリヤ地方は人種的に、宗教的に混交の結果となりました。これを称して「失われた十部族」と言われています。のちに、ユダ王国が経験する捕囚と同様の仕打ちです。この時、北王国から南王国に逃れた人々もかなりおり、北王国での伝承が南に持ち込まれ、その後。旧約聖書の一部をなすことになったと推測されています。エロヒーム系の伝承です。

南王国ではヒゼキヤがエルサレム神殿中心の国家宗教への宗教改革を進めつつ、アッシリアからの独立の機会を伺っていました。BC713年にペリシテのアシュドドで反アッシリア派の反乱が起きました。背後ではエジプトが援助をしていたようです。当初は、ユダ、エドム、モアブ及びキプロスが反乱に加わりましたが、2年間の反アッシリア戦争の中で、ユダ等の応援国は、最終的には手を引き、アシュドドはサルゴンII世に容易に占領されることとなりました。エジプトに亡命したアシュドドの王はエジプト王シャバカによってサルゴンに引き渡されるという結果になりました。この時のエジプトの王はクシュ(エチオピア)系の第25王朝です。多数の国の期待を担ってアッシリアに戦いを挑みましたが、どのような理由かは不明ですが、それらの国が支援を打ち切り、エジプト亡命する結果になったが、その亡命先の国によって敵国に引き渡されるという人間的思いからすると、腹が煮えくり返るような現実を見せつけられます。これを見たイザヤは悲しみの中で三年間、裸足で歩くという象徴行動を行います。ペリシテの住民はあきらめ気味に「アッシリアの王の手から救ってもらおうと、助けを求めて逃げてきた私たちの拠り所は、この始末だ。私たちはどうしてのがれることができようか」と嘆く。この反乱を支援することに反対であったと思われるイザヤも言葉を失うような出来事であったろうと思われます。今も、類似のことがこの世に起きていることを想起すると、主なる神の意志はなへんにあるのか考えさせられてしまいます。

ヒゼキヤの改革はどのようなものであったかはわかっていませんが、シロアの地下水路を開設したのはエルサレムに籠城した時のため、という軍事的目的もあったものと推察されます。父アハズがアッシリアに媚を売るように導入したダマスコの祭壇はおそらく撤去されたと考えられます。これらのことを考慮すると、ヒゼキヤの宗教改革は反アッシリアという政治的意図も含んでいたと考えるのが自然です。歴代誌下30-31章にはエルサレム長らく中断していた過越祭が復活されたと言われていますが、この歴史性については議論があるようです。いずれにしても、ヒゼキヤによる宗教改革はヤハウェ信仰を復活させることによりアッシリアからの独立を図る、という政治的意図をも持ったものと考えられます。

そしてユダ王国はBC705年、サルゴンの死を機会に反乱を起こします。エジプトと同盟しました。今回、アシュドド、ガザは反乱に加わらなかったが、シドンとペリシテのアシュケロンの王は行動を共にしました。またペリシテとの境界に近いエクロンでは反アッシリア勢力のクーデタが成功し、反アッシリア同盟に加わりました。また、バビロニアではメロダク・バルアダンが反乱を起こしました。サルゴンのあとを継いだセンナケリブはまずバビロニアの反乱を鎮圧し、BC701年、シリア/パレスチナに遠征し、シドン、アシュケロン、エクロンを征服し、ペリシテ北部のエルテケでエジプトの援軍を撃退しました。ヒゼキヤはエルサレムに閉じ込められ、ラキシュをはじめとするユダ側のほとんどが占領され、結局、ヒゼキヤは全面降伏やむなきに至ります。そしてエルサレム以外の地域は、反乱に加わらなかったアシュドド、ガザ、そしてセンナケリブにより復権されたバディのエクロンに分割されました。しかし、本国における異変によることか、自軍に疫病が発生したためか、エルサレムの破壊、占領をせずに自国に撤退しました。

列王記下19章には、このあと二十数年後にもう一度、アッシリアのエルサレム侵攻があったように書かれています。ヒゼキヤが再度アッシリアへの反乱を試み、センナケリプがエルサレムに侵攻したという話です。そして、イザヤの主なる神に信頼せよ、との忠告、そしてとりなしの祈りによって、主の使いがアッシリア軍の多くの兵士を殺し、軍は本国に撤退したというのです。エジプト王ティルハカの侵入によりアッシリア軍は撤退したと解釈できる個所もあります。これは、センナケリプによる再侵攻なのか、先の侵攻に関連した付属的出来事か、について時代的混乱があり記述されたのか、が争われています。私は、セナンケリプの再侵攻というシナリオはあまりにも不自然であり、これらの記述は、セナンケリプの701年の侵攻時のことを書いたものであろう、と考えています。一度か二度か、いずれにしろ、ダビデの町エルサレムは不滅であるとの神話的物語が形成されていった、ことは事実です。病気になったヒゼキヤがイザヤによるとりなしの祈りによって、15年の命を長らえた奇跡的物語も書かれています。

ヒゼキヤはBC687年死に、子のマナセが後を継ぎます。徹底的なアッシリアの僕になります。聖書ではくそみそに書かれていますが、イスラエルにおける最長政権であり国が経済的繁栄を享受した時期であることは否定できません。イザヤ自身はどうなったかについて聖書は何も語っていませんが、伝承では、マナセ王の時代に異教の神礼拝を批判し、最後はのこぎりで挽き殺さて殉教したと言われています。

これらの、アッシリアの圧迫の中で、ユダ王国はその政治的独立を守るために他国の助力によりそれを成し遂げようとしましたが、結局は、南北イスラエルともアッシリアの支配下に入らざるを得ませんでした。北王国は国が滅び、南王国はエルサレムを除き、アッシリアの支配下に置かれることとなりました。王朝そのものは残ります。このような歴史の中で、ユダ王国の王に忠告する立場にあったイザヤは「主なる神のみ、により頼み、他国の力を当てにすることはするな」と言い続けます。そしてそのことは、具体的にはアッシリアはイスラエルを支配することになり、イスラエルの民はそれを甘受せよ、と言っていることになります。アッシリアはこの局面では神の裁きの手足だからです。民族の独立を確保するために、英雄的に戦え、というようなことは一切言っていません。このような一種の敗北主義はどのような考えからくるのでしょうか。

イスラエルの「聖戦(聖なる戦争)」の考え方は、「主の戦い」という考えに基礎をおいています。それは主なる神が戦われるのであるから、イスラエルの民は主なる神のあとをついていけば良いのであって、自らの力を頼りにしてはならない。それは主なる神への不信仰の現れに過ぎない、という考えです。それがヨシュア記、士師記に示されている「聖戦」です。それは、戦争は「神々の戦争」であり主なる神ヤハウェはイスラエルの民の神である、という前提での考え方です。しかし、主なる神が全世界を統治する唯一の神である、という考え方に拡大されていくと、イスラエルと戦う国の一部は主なる神の意図からくるものであり、イスラエルは、それを甘受しなければならない、という考えになります。その主なる神の手足となってイスラエルに侵略してくるのがアッシリアだという解釈です。もちろん、すべての敵が神の手足ではありません。しかし、その神の手足となっている国に反逆するために、他国の助力を頼んだり、同盟を組んだりするのは、神の意志に反する行いであり、大きな罪である、と言うことになります。主なる神の手足であるかどうかを見極めるのは預言者が神の言葉により判断することですが、イザヤ、エレミヤの例によってみると、世界帝国を築いた大国を指している、と言えます。結局、事大主義を正当化しているだけのことではないか、という皮肉な見方もできますが、イザヤ、エレミヤはそうではなく、これだけの世界帝国を築いているという現実は、これ即ち、基本的には神の意志が働いている、と考えるのは合理的である、という見方と思います。その後のローマ帝政についても類似のことが言えるでしょう。しかし、その預言者はその大国も滅びに運命づけられており、その大国に対する裁きはすさまじいものになる、といいます。それは被支配者の方から見れば救いであり、神の国到来の希望でもあります。イザヤ書7章の「インマヌエル預言」、イザヤ書24~27章の「イザヤの黙示」のところはイスラエルの歴史の先にある「希望」について語っている、と理解すべきです。

でも主なる神のみにより頼む、というのが政治的・軍事的には中立を意味することは理解できるにしても、実際に侵略に直面したら、どうするのか、という疑問は消える訳ではありません。無抵抗で侵略を受け入れるのかどうかです。私自身、今、明快な回答はありません。また「主による勝利」とは具体的にはどういうことか、ということでしょうか。旧約聖書の例を挙げると、それには①奇襲攻撃による敵の軍隊の混乱に乗じての戦いにおける勝利、②敵の将軍等の暗殺による敵軍の指揮系統の破壊による敵軍との戦いへの勝利、③敵軍の自国におけるゆゆしい事件が起きることにより、敵軍が撤退せざるを得なくなること、④自然災害や天変地異の発生によって敵軍が崩壊するとか、撤兵せざるを得なくなること、⑤第三の他国が敵軍の国に戦争を仕掛け、その国が敗北するとか、敵軍が撤退せざるを得なくなる、というような事態です。強大な帝国の支配下にあって、小さな抵抗を続けていると、これらのどれかの項目の事態が発生し、敵国の軍は目の前からいなくなる日が必ず来る、ということは歴史的に言えそうです。小さな抵抗の継続は、どれかの項目の事態を必ず導きます。「時が満ちて」どれかが起きます。しかし、それは長い期間を要することもあります。しかし、無謀な戦争を行い、民族の消滅に近いことを惹起するよりは、ずっと犠牲は少なくて済むであろうと思います。主なる神は、離散の民になろうが、敵前逃亡であろうが、屈辱に耐える忍従の時であろうが、「生き永らえる」ことが選びの民に与える最大の使命である、というのが今のところの私の見方です。

もう一点、述べるべき点があります。罪と裁きの関係です。ヨシュア記、士師記等に示されたイスラエルの罪と神の裁きの関係は、①イスラエルの民が異国の神即ち偶像への礼拝を始める、②それに対し、神は異民族によるイスラエル支配という裁きを齎します、③イスラエルはそこで悔い改め、偶像礼拝をやめ、ヤハウェ信仰に立ち返ります、④すると神はイスラエルに平和と繁栄をもたらします。これが申命記神学と言われる初期ユダヤ教の基本的な考え方です。しかし、イザヤの罪と裁きの関係の焦点はここから変化しているように思われます。イザヤ書1:4では「ああ。罪を犯す国、咎重き民、 悪を行う者どもの子孫、堕落した子ら。 彼らは主を捨て、 イスラエルの聖なる方を侮り、 背を向けて離れ去った。」と言われていますが、その罪の内容は不明です。異教の偶像のような話は全くありません。これに対し、1:16-17では「洗え。身をきよめよ。 わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。 悪事を働くのをやめよ。/善をなすことを習い、 公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、 やもめのために弁護せよ。」と言われております。すなわち「善をなすことを習い、公正を求める」ことをしないのがイスラエルの罪である、と言っているようです。そしてその具体的行動としてはやもめ、とみなしご、を助けることだと言っているのです。

イザヤ書ではこのような考えが繰り返し現れます。11:4の「正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。」の部分が一般的表現として適切な部分だと思われます。「正義と公平」に背いていることがイスラエルの罪である、というのです。「正義と公平」は「神の義」のこの世における表現ですから、これを実践していないことは「神の義」に反すること即ち罪だ、ということです。「正義と公平」はイスラエル信仰の根底にある「イスラエルの民の支配者は主なる神のみ」という考え方の反映で、人間による人間の支配を否定する考え方を示しています。「神の前での平等」が徹底されている状態です。先に述べたようにイスラエル社会は経済的繁栄の裏で、どんどん格差社会化していき「神の義」「正義と公平」ではない社会になってきていたのです。それをイザヤ書は「イスラエルの罪」として告発している、と理解できます。今、イスラエルに下されようとしている苦難はその罪に対する裁きの現れだという訳です。イザヤは、これが悔い改められ「神の義」の支配する「神の国」の到来の希望も繰り返し述べています。「神の国」の具体的証(あかし)は「やもめとみなしご」が顧みられる社会です。それが判定基準になります。預言者が考えている「イスラエルの罪」はこのようなものであり、申命記史家が考える偶像礼拝=「イスラエルの罪」と言うのからの転換が見られます。もっとも「正義と公平」が壊されている社会は、ある種の偶像礼拝に陥っている社会です。その偶像は「お金と国家」です。経済的側面では「お金、資本」であり、政治的側面では「国家、権力」という得体のしれないものです。共通なのは「人による人の支配」です。

イザヤ書のメッセージは人間社会における、どうしようもなく大きな罪の指摘とそれへの裁きですが、それは同時に神の約束に対する希望の表現を伴っています。インマヌエルの神が、我々の苦難を共に背負ってくださる、ということです。ここには、共同体としての悔い改めとはどういうことか、ということが示されており、「貧しきものは幸いなり」の在り方が示されています。祈ります。

(ご在天の父なる御神様、本日はイザヤ書の中から、アッシリア、エジプトという二大大国に挟まれたイスラエルの南北両王国の選んだ道を見ました。北王国イスラエルは軍事同盟によってアッシリアに対抗し、滅びました。南王国ユダ王国はイザヤの忠告にも拘らず、アッシリアを頼りにし、後にはエジプトを頼りとし、結局エレミヤの時代に国家滅亡に至りました。アメリカとロシアの対立の中でアメリカを頼りにしたウクライナが悲惨な状況になっています。アメリカと中国の対立状況の中でアメリカの、言うがまま、の日本は危機的状況に直面しかねません。どうぞ、「主なる神の力」のみを信ずるということはどういうことなのか私たちにお示しください。主イエスの弟子として私たちキリスト者が判断することができますよう、知恵と力をお与えください。主イエス・キリストの御名により祈ります。アーメン)

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