畏れと驚き
詩篇111:1-10
森田俊隆

今日は先月に続き、詩編のなかからお話をさせていただきます。詩編111編です。詩編には、最初に「ハレルヤ」という言葉で始まる詩編が10編あります。そのなかで「アルファベット詩編」と称し、ヘブル語のアルファベットで各節が始まる詩が2編あります。それが111編と112編です。今日の詩編はそのうち前の方ですが、内容的には連続しているようです。ともに「神賛美の歌」です。両編に共通している言葉は「主は情け深く、あわれみ深く」です。イスラエルの神、主は私たちを超えた存在でありながら、「情け深く、あわれみ深い」存在であることがうたわれています。111編は「尊厳と威光」を示す神、112編は「繁栄と富」を齎す神に強調点がある、と言えようかと思います。

さて、5節に「主を恐れる」と言う言葉が出てきて、9節の最後に「おそれおおい」という言葉が出てきます。ヘブル語では同じ言葉です。今日の主題です。そして、10節には「主を恐れることは、知恵の初め」という言葉が出てきます。これは箴言9:10「主を恐れることは知恵の初め」と同じ表現です。箴言1:7には「主を恐れることは知識の初めである」という表現があります。知恵が、知識に変わっているだけの違いです。ヨブ記28:28に「主を恐れること、これが知恵である」とありますので、おそらく、原型は「知恵」(hakma:)であり、「知識」(da-at)のところはその変形であろう、と思われます。ギリシャ語訳はどちらも「sofia」(知識)です。そのギリシャ語は「哲学」(philosophy)のもととなった言葉です。ヘブル語ではこの2つの言葉はかなり違います。「知恵」という時は「知恵者」「賢者」を指すときのことばで、物知り、とは関係ありません。イスラエル信仰の真実の忠実な人、という意味合いであり、旧約聖書流に言えば「義人」です。これに対し、「知識」の方は、文字通り「知識」のことで通俗的には「ものしり」です。イスラエル信仰の上では「知恵者」こそが尊敬の対象です。

それにしても主なる神を恐れることは知恵のはじめ、ということはどうしてでしょうか。恐れおののいていると、知恵が深まるなどというバカげたことはありません。詩編111編では5節、9節、10節にこの「恐れる」がでてきます。ヘブル語では「ya:re:」、ギリシャ語訳は「fobe:o」です。3か所ともこの言葉またはその名詞形です。ヘブル語の「ya:re:」は旧約で332回も出てくる言葉ですが、大部分は「恐れる、怖がる」の意味ですが、「畏敬(もけい)」の意味の「畏れる」での使用も30回以上あります。日本語では同じ発音ですが意味合いはだいぶ違います。また、カソリックの日本語訳である、フランシスコ会訳では「畏敬(もけい)」の「畏れる」で訳しています。カソリック、プロテスタント共同の訳である新共同訳、協会共同訳も同じです。おそらく新改訳の訳者は同一の言葉は同一の日本語に訳す、という原則から、意味としてはおかしくてもおののく「恐れ」で訳したものと思われます。しかし、私たちが聖書の意味することを理解しようとするときは、詩編111編の「おそれ」は「畏敬(もけい)」の「畏れる」と理解することで良い、と思います。「畏れ」をもって、全能の主なる神を仰ぎ見る謙虚な姿勢こそがイスラエル信仰の上での「知恵者」=神の前に義なる人、になれる、ということを意味しています。ギリシャ語の「fobe:o」も両方の意味があります。

でもなぜ、主なる神を「畏敬(もけい)」すると「知恵」「知識」の初めになるのでしょう。それは皆さんが想像できるように、全能の神の深遠な不可思議な摂理に近づくことによる「おどろき」が契機になり知恵、知識の深みに進むのです。口語訳聖書で「恐れ」と「驚き」が同時に出てくる節をさがすといろいろあります。そのなかでいくつか見ると、エレミヤ書5:30「驚くべきこと、恐るべきことがこの地に起っている」とあります。やはりエレミヤの46:27「わたしのしもべヤコブよ、恐れることはない、イスラエルよ、驚くことはない。見よ、わたしがあなたを遠くから救い」とあります。エゼキエル書28:19「もろもろの民のうちであなたを知る者は皆あなたについて驚く。あなたは恐るべき終りを遂げ、永遠にうせはてる」とあります。新約においてもルカ5:26「みんなの者は驚嘆してしまった。そして神をあがめ、おそれに満たされて、「きょうは驚くべきことを見た」と言った」とあります。

ギリシャにおいても「おどろき」は知識のはじめと考えられてきました。ギリシャ哲学の偉人プラトンは“驚きは哲学特有の感情であり、哲学は驚きのうちに始まる。なぜなら、実にその驚異(タウマゼイン)の情(こころ)こそ知恵を愛し求める者の情なのだからね。つまり、求知(哲学)の始まりはこれよりほかにはないのだ”と言っています。ギリシャ哲学の大成者であるアリストテレスは「 人間がいま哲学し始めるのも、太古の昔はじめて哲学し始めたのも、驚嘆ゆえだからである」と言っています。こちらの方は「知恵」というより「知識」の要素が強いかもしれませんが、「恐れ」と「驚き」がつながっていることを示す、ことに変わりはありません。私たち現代人は、「驚き」を通して主なる神の神秘的力を見る、という健全さを失っています。科学はかつては神の力と言われていたことを次々と論理的説明をし、それにより、いずれはすべて、そのような科学的説明が可能になるだろう、というそれこそ神話を信ずるようになってきました。しかし、考えてみますと、未知の分野は多数あり、自然の仕組みは、知れば知るほどその不可思議さがわかってきます。

私は、銀行の中で、Computerを仕事にしていた時期が長いので、この技術に興味があります。皆さんも聞いたことがあると思いますが、量子Computerがそろそろ実用段階に入っています。この根本原理は次のようなものです。ある条件の下で2つの素粒子のペアができます。一つは右回りに回転しており、他方は左回りに回転しています。何かの原因で、右回りの素粒子が左回りになると、今まで左回りの素粒子が右回りに変わる、ということです。そして、2つの素粒子が逆回転するのが同時だということです。同時ということは時間がZeroということです。この時間Zeroは実験で証明されています。右回り、左回りを「0と1」に置き換えれば二進法のComputerの基本となります。二つの素粒子の間の情報が時間Zeroで伝達される、ということは時間ZeroでComputerの計算ができるということです。この原理を応用したのが量子Computerというわけです。今のComputerは情報の伝達は電子のSpeed以上には絶対、行きません。そんな馬鹿な、と思われるでしょうが科学的に証明された事実です。「驚き」です。

また、光とか、電波というのも不思議な性質を持っています。粒子であり、波である、というのです。ちょっと考えると、光や電波はまっすぐ進むので、なにか邪魔になる衝立のようなものがあれば、それにさえぎられて、裏側にはいかないように思われます。粒子であれば、衝立によって遮られたり反射したりして裏側にはいくはずはありません。しかし、実際には、光の場合、衝立の裏側もぼんやりと明るくなります。これは波の性質も持っているからです。電波についても同じです。衝立の裏にいる人の携帯電話に電話してもつながりますね。これは携帯電話網のアンテナから出た電波が携帯電話の周辺に電波の波を送っているからです。一直線に携帯電話に電波を送っているのではありません。発信する方も波を周囲に送っていて、それを近くにあるアンテナがキャッチするのです。電波に波の性質がなければ携帯電話は生まれなかった、ということです。音は波であり空気を伝わっていくのですが、光や電波は空気も何もない宇宙空間を伝わり波の性質を持って地球に届いています。「本当?」と言いたくなりますが事実です。「驚き」です。

今度は大宇宙の話です。大宇宙は現在、光の速さで膨張している、と言われます。この大宇宙はアインシュタインの一般相対性理論で示された公式で動いていると考えられています。ニュートンの万有引力の法則に変わるものです。この公式を解いて時間をZeroにするとすべての空間の距離もZeroとなり、時間・空間のない時点にさかのぼることができます。時間・空間がZeroであった時に一種の爆発(ビック・バン)によって時間・空間が作られ、膨張し、今の宇宙となり、更に光速での膨張を行っている、というのです。このビックバンにより、莫大なエネルギーが解放され、そのエネルギーの一部の凝縮により物質が形成され我々が見る星が形成されたといわれます。この物質のほんの少しを、もとのエネルギーに戻すのが原爆・原発の原理です。大宇宙のスタート、膨張、エネルギーと物質の関係、これらすべて「信じられない」の一言です。これを否定している科学者もいますので本当の本当なのかわかりません。しかし、時間と空間とは相互に関係しており、最初は「時空」と言う何かあって、どこかの時点で1次元の時間とN次元の空間に分かれたけれども相互の関係性は維持された、と考えるしか理解のしようがありません。首をかしげながら、「驚か」ざるをえません。

ちなみに、広島・長崎の原爆はほんの一グラムにも満たないウランが熱エネルギーに変換されたもの、ということらしいです。原発はそれを応用して発電をするものです。原爆開発には、議会の明示的承認もなしで、巨額なお金を費やしたため、アメリカ政府は民間で役に立つようにこの技術を役立て、国民の納得を得ようとしたのが原発ということです。そして廃棄物をどうするかの方針もないまま、原発拡大に突き進んでいきました。民間利用としては未完の技術だったのです。

もう一つ「信じられない」という話をします。先般、人間の体の不思議についてお医者さんが書いた本をよみました。そのなかで、「肛門」の機能について書いていた内容が傑作です。肛門は、体内にあって肛門から出ようとしている物質が気体、か液体・個体のいずれであるかを判別する能力を持っている、というのです。無意識でおならをする、という時、肛門は気体のみ外に出すことは問題ない、として開放するのだ、というのです。「本当かね。できすぎだ」と言わねばなりません。脳からの指令ではなく、肛門自身が識別しているというのです。「驚き」です。その他にも人間の体の持つ「できすぎ」の機能がいろいろ書かれていました。

この「驚き」はなにに驚いているのでしょう。大自然の絶大な力の表現を目のあたりにしたとき、良かれ、悪しかれ、「驚き」の声がでます。科学的研究が被造物の機能を明らかにした結果、それが自然とにできたということなど「信じられない」と叫ぶ時の「驚き」です。その他、いろいろな「驚き」があろうと思いますが、その背後に神秘的な力が働いている、としか説明できない事態に直面します。生物の種族保存の本能、と言われている者も、「なんで、そんな本能ができたの」と聞かれると何とも答えられなくなります。進化論において「突然変異」というのがありますが、なぜ突然そんなことがおきるのか、だれも説明ができません。量から質への転化だという説もありますが、何の量的変化の累積があったのか、答えられません。私は主なる神はすべての被造物がどのように動くか、について人間が理性的に理解しようとしている科学の働きは許容されている、と思いますが、不可思議さは更に増すばかりです。私たちは、これらのことを発見した時の「畏敬の驚き」を大切にする必要がある、と思います。

宗教の世界は合理的説明が不可能ないろいろな事象に充ちています。なぜ祈りが通じる、ということがあるのでしょう。夢・幻覚・幻聴はどんな意味があるのでしょうか。フロイトの「無意識」による説明で納得できる人はだれもいないでしょう。宗教的儀礼で使用されるシンボル(象徴)は何かの力(エネルギー)が宿っているのでしょうか。聖霊・悪霊と言いますが、その力は具体的には何なのでしょうか。宇宙物理学で言っている「ダーク・マター」のことなのでしょうか。「ダーク・エナジー」のことなのでしょうか。聖霊と悪霊は、人間は区別できる能力が与えられているのでしょうか。結果が起きて初めて分かるものなのでしょうか。死者の霊が立つという話はたくさんありますが実態はなんなのかでしょうか。

科学と宗教は矛盾しているのではないか、ということがありますが、そんなことあるはずもありません。神の創造物に対する、「畏敬的驚き」を失っているから、科学の非倫理的利用になってしまうのです。ヘブル語での「畏れ(ya:re:)」と「驚き(pa:la:)」を心にとめておきたい、と思います。祈ります。 (ご在天の父なる御神様、今日の礼拝の時を感謝いたします。聖書における「畏れ」と「驚き」について学びました。私たちは、この大自然・宇宙の中に示された不可思議に率直に驚く新鮮な心を失ってきています。それが、主なる神に対する畏敬の心を失い、神への賛美の声を失うことにつながっています。どうか私たちに神秘の前に驚く心を回復させてください。そして、我らが主イエスに従うことにより、全能の主にすべてをゆだねる心とさせてください。主の御名により祈ります。アーメン)

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