神の痛み
エレミヤ書31:15-22
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

今日の聖書箇所を含むエレミヤ書31章は「新しい契約」と称せられる個所であり、新約聖書に示された「新しい契約」を指し示す個所として有名です。従って、キリスト教の教会においてはしばしば説教個所として取り上げられています。昨年、9月27日の山口先生のエレミヤ書からの説教の時もこの「新しい契約」のことを話されていました。聖書箇所はエレミヤ書31:31「見よ。その日が来る。--主の御告げ--その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ」です。今日は、その章の少し前の15-22節です。特に中心的部分は20節「わたしのはらわたは 彼のためにわななき、 わたしは彼をあわれまずにはいられない」の個所です。

まずこの20節を除き、他の節を概観しておきます。まず、15節「主はこう仰せられる。 「聞け。ラマで聞こえる。 苦しみの嘆きと泣き声が。 ラケルがその子らのために泣いている。 慰められることを拒んで。 子らがいなくなったので、 その子らのために泣いている」 です。ラマというのは、エルサレムの北、ベニヤミンの地の町でBC586年、ユダ王国がネブカドネザルによって滅ぼされた時、捕囚の民はこの町に一度集められ、それからバビロンに連れていかれた、と推測されています。エレミヤはネブカドネザルと戦うことはするな、と預言したので、このラマで釈放されることになります。従って、この個所は、バビロン捕囚の直後に読まれたものと考えられます。捕囚に送られる民の「苦しみの嘆きと泣き声」が聞こえる、というのです。このあと、ラケルがその子らのために泣いている、と言われています。ラケルは創世記に記されているヤコブ即ちイスラエルの第二番目の妻で、彼女は第一番目の妻レア以上にヤコブに愛されました。子供は12部族の内の最後のヨセフとベニヤミンです。ラケルはベニヤミンを生む時陣痛が激しく、生んだのち、なくなります。その時、ラケルは「ベン・オニ(私の苦しみの子)」とその子を名付けました。この場面ではラケルが自分は死んでしまうので、子を育てることもできない悲しみは、主なる神が、選びの民が、遠くバビロンに追いやられるのを見て、悲しみの中にある、と言っているのです。

実は、子供を産む時に母親が難産で死ぬ事は、古来から、しばしばあることではありますが、「断腸の思い」という言葉の由来を調べていたところ、このラケルの話と似た話が背後にあるので紹介します。昔、中国の晋の時代の話です。晋は三国志で有名な魏の国の将軍司馬炎が建てた国です。AD3c半ばから5c初めの王朝です。その晋の武将、桓温(かんおん)が、敵国を攻めようと船に乗ったとき、彼の部下が猿の子供をつかまえて、船に乗せてきました。すると、母猿がとても悲しい声をあげながら、どこまでも追いかけて、ついてきます。そして、長いあいだ追ってきたあと母猿は船に飛び乗ってきましたがそのまま苦しんで死んでしまいました。なぜ死んでしまったのか。しらべてみると母猿のお腹の中で腸がひきさかれたようにちぎれていたのです。母親の子供との別離の悲しみ、そして死んだ母親が共通です。また後程見る、20節のヘブル語の苦難の表現が、内臓が動くことをもって表現しているところも類似しています。ラケルも断腸の思いであったのでしょう。主なる神がイスラエルの民がバビロンに送られていくのをみて「断腸の思い」であったと想像するのは行き過ぎでしょうか。

ついで、31:16「主はこう仰せられる。 「あなたの泣く声をとどめ、 目の涙をとどめよ。 あなたの労苦には報いがあるからだ。 --     主の御告げ-- 彼らは敵の国から帰って来る」とあります。捕囚の国から帰ってくることが述べられています。新バビロニアからペルシャに代わってBC539、キュロス王によってエルサレム帰還が許されます。BC597年の第一回捕囚から58年後です。この悲しみのなかで「希望」が預言されているのです。31:17「あなたの将来には望みがある。 --主の御告げ-- あなたの子らは自分の国に帰って来る」と再びこの預言が繰り返されます。その時は捕囚の民はその地で死に、帰還するのは「その子ら」です。31:18「わたしは、エフライムが嘆いているのを 確かに聞いた。 『あなたが私を懲らしめられたので、くびきに慣れない子牛のように、 私は懲らしめを受けました。 私を帰らせてください。 そうすれば、帰ります。 主よ。あなたは私の神だからです』と述べられています。主なる神が、イスラエルが嘆き悲しむ声を確かに聞いた、と言っています。エフライムというのはラケルの子ヨセフの子で、イスラエル民族の最も正統的部族とされています。北イスラエルのことをエフライムと通称することもあります。首都はサマリヤです。北王国は既に滅亡していますので、エレミヤはイスラエル12部族全体を代表する表現としてエフライムの名を使用したと考えられます。主なる神の懲らしめを受容し、そしてついにはイスラエルの地に帰還するのです。

ここで「帰る」と訳されている言葉は「shu:b」という言葉で、新約のなかでは、「悔い改める」と訳されている言葉です。イスラエルの地に帰還することは主なる神に立ち返る、という信仰上のことも意味しています。「shu:b」は、そもそもは、「戻る」という意味ですので「悔い改める」の「改める」部分を指していると言えそうです。31:19「私は、そむいたあとで、悔い、 悟って後、ももを打ちました。 私は恥を見、はずかしめを受けました。 私の若いころのそしりを 負っているからです』と」あります。ここで「悔いる」とされていることばはヘブル語で「ra:ham」ということばで、「慰める、心を変える、悔いる」などの意味を持つ言葉ですが、この三つの意味は相互に無関係なように見えますが、深いところでつながっています。ここでは「悔いる、後悔する」の意味で使われています。この言葉も新約の「悔い改める」のもとになっている言葉の一つです。「shu:b」と「na:ham」が一緒になって「悔い改める、の言葉になったと考えて良いと思います。「na:ham」が悔い改めの「悔いる」を指し示していることばです。この個所で「na:ham」のギリシャ語訳は「metano-e:wo」であり、これこそ新約で「悔い改め」として使われているギリシャ語です。

捕囚の民イスラエルは罪を犯したことを悔いて、自分を痛めるために、ももを力いっぱいたたき、主なる神の教えに立ち返り、エルサレムに帰還するのです。注意しておきたいことがあります。このようなバビロン捕囚を懲らしめ、として受けることになった罪はなんだったのでしょうか。異教の神々を拝む、ということがイスラエルの初期では第一次的に罪とされましたが、ここでは、そのような表面的なことだけではなく、寡婦やみなしご、のような弱き民が守られない社会、一般的な言い方で言えば「正義と公正」が成り立っていない格差社会にイスラエルをしてしまったことであろう、と思われます。人による人の支配が公然と存在する社会です。今の社会もそのような社会です。滅亡前の南北イスラエル王国は経済的繁栄のなかで、だんだん貧富の差が拡大し、格差社会になっていました。貴族支配の国です。特にユダ王国の王マナセの時代がそうです。エレミヤはその時代背景のもとでイスラエルの罪を弾劾したのです。表面的な経済的繁栄は、何もしないでいると格差拡大の社会となることは普遍的真理です。強い者はお金の力で更に強くなるからです。

20節はのちほど詳しく見ますので飛ばして、31:21「あなたは自分のために標柱を立て、 道しるべを置き、 あなたの歩んだ道の大路に心を留めよ。 おとめイスラエルよ。帰れ。 これら、あなたの町々に帰れ」です。捕囚の民がバビロンに行く途上道筋にしるしをおきなさい、と言っています。その大きな道の様子をこころにとめなさい、と言われています。子らに語るためでしょう。「おとめイスラエル」という言い方は主なる神を親とし、イスラエルの民はその娘、という譬えのことです。旧約聖書で一般的な比喩です。エレミヤ書のあとにあるエレミヤ哀歌や、ソロモンの雅歌と言われる文書はこの比喩のもとで語られています。そして「帰れ」の繰り返しです。讃美歌517番「われにこよと、主は今」を思い出しますね。「帰れよ、帰れよ」です。この個所を読むと思いだす話があります。アメリカン・ネイティブの話です。アメリカ合衆国政府はアメリカン・ネイティブのチェロキー族をオクラホマのインディアン居住地に強制移動させることに決定いたしました。チェロキーは移住してきたアメリカ人と良好な関係を築こうと努力した部族でクリスチャンも沢山いました。時の大統領はアンドリュー・ジャクソンで、時は1838年の5月のことです。テネシー州からオクラホマ州まで1,900キロの道のりです。チェロキー族の黒人奴隷2,000人を同伴した17,000人のチェロキー族の人々がアメリカの軍隊にせき立てられつつ、目的地に向かったのです。この道を「涙の道」と言います。3週間かかりました。4,000人から5,000人が途中で死にました。チェロキー族の人々は「我々が泣いた道」と呼びました。チェロキーの指導者はジョン・ロス首長でクリスチャンです。驚くべきことに、一人の医者で宣教師のバトラーが一行と共にしました。この時、うたわれたのが「AmazingGrace」です。作者の一人がチェロキー族です。私は西部のアメリカでインディアン居住地にいくつか行きましたがそれは、それはひどい土地です。農業は全くできません。オクラホマの居住地でのチェロキー族の生活もみじめなものであったに相違ありません。アメリカの歴史における辱部、恥ずべき一面として語り続けられるべき歴史です。

31:22、最後の節には「  裏切り娘よ。いつまで迷い歩くのか。 主は、この国に、一つの新しい事を創造される。 ひとりの女がひとりの男を抱こう。」とあります。裏切り娘とは主なる神の選びの民としての期待を裏切ったイスラエルの民のことです。「一人の女がひとりの男を抱こう」の部分はいろいろな解釈があります。文脈から考えて、女はイスラエルの民、男は主なる神を意味しているはずですが、ピタリときません。新改訳2017は「女の優しさが一人の勇士を包む」と訳し、協会共同訳は「女が男を保護するだろう」と訳しています。新改訳ではまれにみる意訳です。いずれも女はイスラエルの民という制約を外しているようです。どうも私は同意できません。私は、雅歌にしめされているようにイスラエルの一人の女が主なる神の使者である一人の男に恋い焦がれて抱き着く、ということだ、と解釈できないものか、と考えています。これで31:20を除く各節を見てみました。余談も若干ありましたが、本日の聖書箇所では何が言われているかは想像できると思います。「悲しみ」です。

では31:20「エフライムは、わたしの大事な子なのだろうか。 それとも、喜びの子なのだろうか。 わたしは彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す。 それゆえ、わたしのはらわたは 彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。 --主の御告げ--」です。エフライムはイスラエルの民のことを象徴的に言っていることで、主なる神は、このイスラエルは裏切りの民であり、見捨てるべき民であるが主なる神は選びの民を見捨てられない、という主なる神の屈折した心境を示しているのが前半部分と言えると思います。なんと主なる神について、「あまりにも人間的、あまりにも人間的」という叫び声が聞こえそうな部分です。イスラエル信仰における主なる神は全能の創造者なる神であって、人間とは隔絶された世界におられる絶対的超越者のはずではなかったか、という疑問がわいてきます。問題はここにあります。主なる神をどのようにみるのか、ということでの問題です。私たちは「主イエスのまなざし」の優しさに浸りたく思っています。しかし、旧約なかんずく、モーセ五書を見ると峻厳な罪への妥協を許さない主なる神の姿が見え、そのはざまで「三位一体とかいうのは何のことだろうか」と思うことがしばしばあります。中世キリスト教神学では絶対他者としての神が強調されたため、旧約の神の「人間的側面」を垣間見ると面食らってしまうのです。

この問題は31:20の後半を見ると更に拡大いたします。「それゆえ、わたしのはらわたは 彼のためにわななき、 わたしは彼をあわれまずにはいられない。 --主の御告げ--」とあります。「はらわたがわななく」のは主なる神です。このヘブル語の表現はもだえ苦しむ様(さま)のことです。先ほどの断腸の思い、と通じるものです。ラケルの悲しみ、苦しみを主なる神が経験される、と言っています。文語訳は「我、腸(はらわた)、かれの為に痛む」です。「痛む」という言葉を使っています。カソリックと共同の訳であった新共同訳は「彼のゆえに胸は高鳴り」で、大分ニュアンスが異なりますが、その改定版である協会共同訳は「彼のために、私のはらわたはもだえ」と変わり、新改訳と類似の訳になりました。実は口語訳は「わたしの心は彼をしたっている」であり、代表的なカソリックの訳であるフランシスコ会訳は「まことに、わたしのはらわたは彼を切望し」となって、主なる神の悲しみ、苦しみ、痛みは感じさせない表現に翻訳されています。そもそも、BC2c頃にギリシャ語に訳されましたが、その七十人訳という聖書のギリシャ語訳にそもそもの理由があると思われます。そこでは「私は彼を憐れむことに熱心で、彼の上に確かに憐れみをかける」という表現になっています。しかし、そのギリシャ語訳の英訳では「私は彼を助けることを急ぎ、彼の上に確かに憐れみをかける」となっています。またAD2cにラテン語訳が作成されました。そこでは「私の腸は彼のために悩まされています。憐れみつつ、私は、彼を憐れみます」となっており、ヘブル語の原義に少々もどったような感じです。しかし、「私の腸は彼のために悩まされています」であり、神が痛みを覚える、ようなヘブル語の表現とは異なります。ギリシャ語訳を作成したのはユダヤ教のラビです。ラテン語訳はキリスト教の神学者ヒエロニムスです。このラテン語訳がローマ・カソリックの正典となりました。

本当にいろいろに訳されていますが、根本的問題はギリシャ語訳のところで示されています。ユダヤ教のラビは主なる神が“悲しみ、苦しみ、痛む”のには抵抗感在り、主なる神がイスラエルの民に憐れみを掛ける、というように訳したのだと思われます。この問題は神の受苦問題と言われ、初期キリスト教での重大問題とされました。キリストは神の一顕現態様であり、キリストの受難は即ち神の受難である、とするモナルキア主義が異端とされ、正統派は受難即ち苦しみを被ったのは主イエス・キリストであり主なる神ではない、と主張しました。モナルキア主義は神とキリストは同一位格(人格)であるが態様が異なるに過ぎないので受難はこの同一人格の神、キリストが受けたものだ、というものです。正統派は神とキリストは別位格(人格)であるが本質において同一だというのです。神の受苦問題が三位一体論争に巻き込まれ、ローマ・カソリックはモナルキア主義の否定の結果、神の受苦否定にまで至ってしまったのです。結果的にはユダヤ教ラビの考え方と同じになりました。私は、この二つの問題は別の問題で、主なる神には人間から見ると矛盾して見えることがともに在る、と言うことなのではないか、と思いますので、主なる神の受苦(苦しみを受けること)はおかしくはない、と思っています。神の受苦に関する神学的議論はいまだ決着はついていません。聖書を読んでいくと、神は絶対他者で超越者という人間から隔絶された聖なる存在、という単純なことではなく、怒り、愛し、悲しむなど人間と同様な性質をお持ちである、としか読めません。神、エロヒームは超越的な聖なる方かもしれませんが、私たちが親しんでいる主なる神はそうではありません。苦しみを覚える方でもありはずだと思うのです。人となりたる神、主イエスはこれらの性質においては同一だと思います。三位一体という言葉の意味は正直言ってよくわかりません。旧約聖書を読んで黙想していくと主なる神と主イエス・キリストの同一性」が目立ってくる「ように思います。

実はこの個所は、戦後のキリスト教神学者で東京神学大学の教授であった北森嘉蔵先生の著書『神の痛みの神学』の中心的聖書箇所です。文語訳で「我、膓(はらわた)かれの爲に痛む」の個所から「神の痛み」ということを主題としたのです。この著書は1946年に出版され、1965年に英訳、1972年にドイツ語に訳されました。その後、更に韓国語等にも訳されました。ドイツの神学者の一部から絶賛され、日本のキリスト教界においても一世を風靡する神学となりました。ナチスの迫害のもとで死んだボーンヘッファーの「苦しむ神」と通底するものだともいわれました。「希望の神学」で有名な、現代のドイツの神学者ユルゲン・モルトマンの「神概念の革命」に寄与したともいわれています。「神の痛みの神学」は「神の痛み」を述べる神学です。「神の痛み」とは“神が自らの愛に反逆し、神にとって裁きの対象であるのみの罪人に対し、神がその怒りを自らが負い、なお罪人を愛そうとする神の愛を意味する”というのです。批判もあります。20世紀最大のキリスト教神学者と称せられるカール・バルトは「神の痛みの神学」の中に大東亜戦争の推進思想であった「日本的キリスト教」の匂いを感じ取りより批判しつつ、より普遍性を持ったキリスト教神学に発展することを期待しています。また戦前・戦中に人気を博した西田哲学の影響を読み取り、仏教的知恵の影響でのキリスト教だ、と批判されてもいます。また著者自身が神の受苦、を認めるものではないと主張したため、混乱が生じたことも事実です。私自身は「主なる神の受苦」を認めて何が悪いのか、と思いますが、神の受苦を認めないカソリックの伝統は極めて強い影響を残している、と思われます。

新改訳第三版の訳では「わたしの、はらわたは 彼のためにわななき」です。ヘブル語では「はらわた」は「e:me:」、「わななく」は「ha:ma:」です。それぞれの格変化で「he:me:-mu:a:」とつづられています。そしてこの直後にヘブル語「ra:ham(あわれむ)」が続いています。実は、これとそっくりの表現がイザヤ書63:15にあります。新改訳第三版の訳は「どうか、天から見おろし、 聖なる輝かしい御住まいからご覧ください。 あなたの熱心と、力あるみわざは、 どこにあるのでしょう。 私へのあなたのたぎる思いとあわれみを、 あなたは押さえておられるのですか。」とあります。この「あなたのたぎる思い」という部分が「hamo:n-me:e:ha:」で「ha:ma:(わななく)」の名詞形と「e:me:(はらわた)」の二人称語尾が付加された名詞です。そして「ra:ham(あわれむ)」が続きます。この節の少々前の63:9に「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、 ご自身の使いが彼らを救った。 その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、 昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた」とあることから、イザヤ書63:15もエレミヤ書31:20同様、神の痛み、について述べた個所、と言ってよかろうかと思います。まとめてみますと、「神の痛み」は、イザヤ、エレミヤに明確に述べられており、それは「神のあわれみ」につながるものであり、かつ、「神の痛み」の具体的表現は「選びの民イスラエルが苦しむ時、いつも主ヤハウェーも、ともに苦しむ」ということです。

北森先生の言う「神の痛み」は「大いなる罪の為、本来包むべからざるものを徹底的に包む」もので「神の愛」の表現そのものです。それは①神が神の敵である罪人を愛し給う時の痛みであり、②主なる神がその選ばれた民を罪の故に裁く時の痛みです。私たちクリスチャンにとってみれば、これ即ち、主なる神と主イエス・キリスト、更には新しきイスラエルとしての我々との関係と並行的です。神は、罪ある人とされた主イエス、即ち我々を痛みをもって愛し、いかなる罪をも許さない主なる神が、罪人とされた主イエス、即ち我々を、裁きの座に置く時の痛みが表現されている、と見ることができます。主イエス・は復活し、天上に挙げられたのちは、復活の主イエスが主なる神の痛みを私たちに示してくださることになるのです。その復活の主イエスはイザヤ書63:9にあるように「我らが苦しむときには、いつも主(イエス)も苦しみ、 その愛とあわれみによって主は我らを贖い、 我らを背負い、抱いて来られ」る、のです。これはインマヌエルの主、我らと共にある主を指しており、マタイ福音書11:28の有名な「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」のみ言葉に直結しています。

エレミヤ書31:20とイザヤ書63:15の神の痛み、のところのギリシャ語訳をみて、新約のどの言葉とつながっているかを見てみます。まずエレミヤ書31:20の問題の部分のギリシャ語訳を直訳すると「私は彼を憐れむことに熱心になり、彼の上に確かに憐れみをかける」となります。「あわれむ」という言葉がKeyWordであろう、と推測されます。イザヤ書63:15の該当部分のギリシャ語を直訳すると「どこにあるのか、大いなるあなたのあわれみと、我々への忍耐への共感は」となります。やはりKeyWordは「あわれむ」です。この「あわれむ」というギリシャ語の言葉は動詞は「elee:wo」ということばで、「主よ、憐れみたまえ(クリエ・エライソーン)」ということばで有名です。マタイ福音書9:27 「イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来た」とある言葉であり、ローマ・カソリックの典礼定型句としてよく知られています。マタイ受難曲の児童合唱のところにも出てくる言葉です。主イエスの受難に思いを致し、苦難の中にある我らに主の憐れみを賜れかし、という意味です。「主よ、憐れみたまえ」は神が苦にある我々に同情してくれることを願い求める言葉ではありません。先ほど来、申し上げている「インマヌエルの主」が重要です。主が我らと共にいて苦難を共にしてくださる。ということです。讃美歌551番にもこの言葉が出てきます。この最初は「我らをあわれみ、さきわいたまえ。神よ、み顔を我らの上に、てらしませ」とあります。「苦難を共にする」ということを考えると仏教においても「苦」が重要な言葉であることが思い出されます。イタイイタイ病のことを書いた石牟礼道子の『苦海浄土』のことも思い出されます。一切は苦、というのは仏教の悟りの一つですが、キリスト教はそれを「主よ、あわれみたまえ」と言う願いの表現で示しています。

新約聖書にはこれと類似の言葉がもう一つあります。「splangks-nizo:mai」という動詞です。この言葉は新約聖書で「深くあわれむ」と訳されている言葉です。用例としてマタイ9:36 には「また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた」とあります。ここでは「かわいそうに思う」と訳されています。新約聖書には12の節に用例がありますが、大部分は主イエスが人間を「深くあわれん」だり、「かわいそうに思われ」たりする場面で使用されています。内容的にエレミヤ、イザヤの「神の痛み」を「主イエスの痛み」と読み替えた時の意味合いと同じです。現在、同盟教団杉戸キリスト教会の牧師の野町真理先生は東海聖書進学塾の卒論で「神の痛みの神学のキリスト論的展開」のKeyWordとされています。「神の痛み」の個所、エレミヤ31:20、イザヤ63:15との言葉の上での関連を見ると、両個所の後半部分で「(神が)彼(イスラエル)をあわれまずにはいられない」、「私(イスラエル)への—あわれみ」と訳されているヘブル語「ra:ham」のギリシャ語訳の一つとして「splangks-nizo:mai」の変化形「saplangkna」がある、という関係です。エレミヤ31:20、イザヤ63:15では意訳され、異なる言葉が使われています。

七十人訳などでの「saplangkna」の用例を若干見てみます。箴言12:10「正しい者は、自分の家畜のいのちに気を配る。 悪者のあわれみは、残忍である」では「あわれみ」と訳されています。外典シラ書30:7 の協会共同訳「子を甘やかす者は、その傷の手当てをし/彼が叫び声を上げる度に/はらわたをかきむしられる思いがする」では「はらわたをかきむしられる」と訳されています。「神の痛み」のところとほぼ同じ意味です。外典第二マカベア書9:5 「するとイスラエルの神、すべてを見ておられる主は、目に見えない治癒不能な一撃で彼を撃たれた。彼が言葉を終えるやいなや、内臓の致命的な痛みと刺すような疼痛が、彼を襲ったのである」の「内臓の致命的な痛み」が「saplangkna」です。エレミヤ31:20の「わたしのはらわたは 彼のためにわななき」と極めて近い表現になってきています。更に同じく第二マカベア書6:07では「そして彼らは、月ごとの王の誕生日にはいけにえの内臓を無理やり食べさせられ、ディオニソス祭という祭りが催されると、—」と記されており「いけにえの内臓を—食べさせられ」がこの言葉です。これらは所謂中間期文書であり、ヘブル語原文は今に残されていませんが、対応のヘブル語は先ほどの「ra:ham」でほぼ間違いはありません。またこの「saplangkna」「splangks-nizo:mai」の元の意味は{(いけにえを供えた後、その内臓を食べる)であり、「はらわた」と共通しているイメージの言葉です。これらからの推測としてエレミヤ31:20の「わたしのはらわたは 彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない」の「わななき」と「あわれむ」の両方の意味を一つの単語で表現することばとしてギリシャ語の「saplangkna」「splangks-nizo:mai」が使用されるようになったものと考えられます。中間期文書が「はらわたがわななく」の意味を継承していると考えられる個所と「あわれむ」の意味を継承している分が混在しています。新約の時代に至ってはほぼ「あわれむ」の意味となっています。なお新約聖書で「主よ、あわれみたまえ」のギリシャ語「ele-e:wo」もヘブル語訳新約聖書では「ra:ham」が使われています。ギリシャ語「splangks-nizo:mai」とギリシャ語「ele-e:wo」はヘブル語「na:ham」を媒介として通じている言葉だ、ということもできます。

これらの言葉のつながりも考慮に入れると「主なる神の痛み」は新約に在っては主イエスの「splangks-nizo:mai」(深くあわれむ、かわいそうに思われる)によって表現されている、といってよい、と思われます。人間の方からそれを表現する時は「主よ、憐れみたまえ」の願いとなるのです。キリスト教、イスラエル信仰における主なる神は「痛み」を覚える存在であり、我らの痛みを共にしてくださる神なのです。祈ります。 (ご在天の父なる御神様、今日の聖書箇所は「神の痛み」に関する個所でした。神学的議論はいろいろありますが、我らの主イエスは我らと共に在って、「痛み」を共にしてくださる方であることを知り感謝申し上げます。このことは、旧約のエレミヤ書において既に現れている、ことを知り、新鮮な驚きを感ずるものです。インマヌエルの神、主イエスが「あなたを休ませてあげる」と、私たちにあわれみの言葉を与えてくださっています。私たちを、主イエスにすべてをゆだねる者とさせてください。我らと共に在って「痛み」を共にしてくださっている主イエスの名において、この祈りを捧げます。アーメン)

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