あなたを憎む者
箴言25:21-22; 24:17-18
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

本日は、「箴言」のなかから、主イエスの「汝の敵を愛せよ」に通じる言葉ではないか、と思われる個所からお話をさせていただきます。「箴言」という言葉は英語では「proverb」といい、「格言」とか「諺(ことわざ)」の意味です。ユダヤ人の聖書の文書の分類では「諸書」の一つで、知恵文学と称せられる分野の文書です。知恵文学では「知恵」を大切にし、それを深く理解した「知恵者」となることが理想とされています。箴言以外では「空の空」で有名な「伝道者の書」、外典では「ソロモンの知恵」と呼ばれる「知恵の書」、「集会の書」と呼ばれる「シラ書」があります。更に偽書と呼ばれる文書のなかでは「モーセの遺訓」「ヨブの遺訓」「アブラハムの遺訓」という遺訓シリーズがあります。偉大な人物が語った“人生の真実を語った文書”という訳です。今日はこれらの聖書関連文書を含めてみていきたい、と思います。

「汝の敵を愛せよ」に通じる言葉ではないか、と思われる箇所は複数あります。また外典等にもあります。また新約聖書の「手紙」のなかにもあります。これらを書かれた時の順序に並べ、主イエスのおっしゃられた「汝の敵を愛せよ」が旧約の制約を超えつつもイスラエル信仰の基本に忠実な言葉である、ことを申し上げたい、と思う次第です。そもそもの出発点となる疑問は「汝の敵を愛せよ」という言葉は、不可能なことを主イエスがおっしゃっているだけで一種の願望を述べたに過ぎない、のではないか、という疑問です。そもそも山上の説教は単なる個人的道徳の理想を述べたのに過ぎず。私たちの生活規範としての意味はない、という見方は昔からあります。しかし、よく考えてみると、主イエスの山上の説教での言葉は十戒を含む律法を本来の精神にまで立ち返り、恵みの手段としての律法の本義に立ち返るものではないか、という見方で見ると、その意味が納得できるようになります。例えば「殺すなかれ」ですが、主なる神はすべての命が本来の働きが十全に発揮され、喜びの生涯を生きるように望まれている、という基本に立ち返ると、主イエスが「兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません」とおっしゃられたのは「他人を憎むことはその人を殺すことと同じである。憎しみは主の裁きに委ねなさい」ということをおっしゃっている、と解釈すると意味が解ります。山上の説教は通常言われる「戒め」を列挙したものではないのです。「汝の敵を愛せよ」もその意味するところの正しい理解にまで行きつくことができるでしょうか。ではレビ記からスタートいたします。

レビ記の関連個所は19:17-18です。「心の中であなたの身内の者を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない/復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」とあります。主イエスの言葉の出典はこの個所ではないか、と言われている箇所です。まず「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」とあります。注意すべき点は愛する対象は「隣人」とされていることです。この言葉は十戒の第9戒「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。」に出てくる言葉です。この隣人は主なる神の選ばれた民イスラエルを指していることばです。従って、レビ記の言う「隣人を愛せよ」は「同じ仲間を愛しなさい」ということであり、仲間でない人々についても言っていることではありません。すなわち、異教徒については「愛する」対象ではない、ということです。

また、憎しみについても「身内の者を憎んではならない」と言われています。これに続いて「隣人を戒めよ」という言葉がありますので、「身内の者」とは「隣人」のことだと思われます。「隣人を憎んではならない」ということが言われています。「憎む」は「愛する」の反対語と考えてよいでしょうから、これは「イスラエルの民を憎んではならない」ということを言っていることになりますが、逆に言えば「異教徒は憎んでも良い」ということです。これが主イエスの聖書の引用としての「自分の敵を憎め」という言葉に対応していることです。結局、「信仰を同じくする者を愛し、異教徒を憎む」ということを言っていることになります。レビ記の「愛する」「憎む」のところには非常に強い排他性が裏側にはある、ということです。“なんだ、そんなことなら、守ることもできるだろう。仲間を愛し、それ以外は憎んでよい”ということなら、この世の中で通常あることで、特別なことではない、と言うことになります。

しかし、注意すべき重要な点があります。仲間への憎しみが禁止されるのは「彼のために罪を負うことはない」ためだ、と言われていることです。あなた自身が主なる神により、罪ある人とみなされ、裁きにあうことのないように、ということが言われています。憎しみの禁止は、彼のため、とかイスラエル共同体のため、ということではなく、あなたと神の関係が正しくあるため、ということであり、結局、あなたのためだ、と言っているのです。18節の「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。」も、復讐は主がなさることであるから、あなたは、主のなすべきことを勝手に自分でやってはならない、ということを言っているのであって、あくまで主なる神とあなたの関係の問題だ、ということです。なぜあなたが復讐をしてはいけないのか。それはあなたの、または復讐の相手の命が奪われる結果になるからです。もし、復讐の相手方の命は奪われるべきだとしてもそれを判断するのは主なる神であって、あなたではない、ということです。また、あなた自身が復讐をすることによって、返り討ちにあって命を失うことになるのは主なる神の望まない、ことである、ということです。主なる神は“命が生き永らえること”が最優先事項としている、ということです。命を奪う権利を持っているのは主なる神のみである、ということの信仰告白である、と言ってもよいでしょう。

この節の最後に「わたしは主である」とありますがおそらく、「私が主である」と訳す方が良いと思われます。あなたや愛する対象の人々であるイスラエルの民の主は私である、ということの宣言です。イスラエルの民またその構成員すべての命に関する支配権は主なる神にある、ということの宣言です。イスラエルの民のゆく道は容易な道ではないがその道は主なる神が整える、ということの宣言でもあります。「愛すること」「憎むこと」がイスラエルの民の中で起こることもあろうが、裁きは主なる神のみがその権利を持っている、という宣言なのです。すべての事柄を、究極的には「神とあなた」との関係で理解する、というのはイスラエル信仰の根本中の根本であり、これは新旧約聖書に一貫して流れている底流のようなものだ、と言えるでしょう。

では次に詩編140:10を見ます。「燃えている炭火が彼らの上にふりかかりますように。彼らが火の中に、また、深い淵に落とされ、彼らが立ち上がれないようにしてください。」とあります。この詩編は「私を—暴虐の者から—守ってください」に始まります。ここにも暴虐の者と戦う力のない無力な民が主なる神に復讐をゆだねる姿が示されています。おそらく、この詩人は暴虐の者を憎んでいるでしょう。しかし、その復讐を主なる神に祈り、自らは行動を起こさないのです。これはレビ記の「復讐してはならない」を実行しているのです。「復讐してはならない」と「敵を愛せよ」とは実はコインの裏表みたいなものなのです。

次は問題の箴言です。25:21-22に「もしあなたを憎む者が飢えているなら、 パンを食べさせ、 渇いているなら、水を飲ませよ。あなたはこうして彼の頭に 燃える炭火を積むことになり、 主があなたに報いてくださる」とあります。「あなたを憎む者に愛の業を示しなさい」とあります。ここであげられている行為は聖書では「愛の業」の代表的な事柄とみなされていますから、これは結局「あなたを憎む者を愛せよ」ということです。「憎む」はヘブル語で「sa:na:」ですがこの言葉は「敵」の意味にも使われます。創世記24:60「そして、あなたの子孫は 敵の門を勝ち取るように。」と言う時の「敵」はこの言葉です。するとここは「敵を愛せよ」ということになります。しかし、注意しなければならないことがあります「あなたを憎む者」と言っており、あなたが憎む者ではないのです。あなたを敵としている者を愛せよ、ということであり、あなたが敵としている者を愛せよ、といっているのではないのです。これは信仰的な見方からすれば非常に違います。あなたを憎むようにしているのは主なる神が何らかの理由があってそのように仕向けている可能性はあるのですが、あなたが憎んでいるのは文字通りあなたが憎んでいるのであって、主なる神の御意思とは全く関係ありません。箴言において愛の対象があなたを敵とする者と言われ、あなたの意志とは無関係に決まる他人のことだ、ということです。「あなたの敵を愛する」より、「あなたを敵とする者」を愛する方がまだ容易です。

このあとに「燃える炭火を積む」話が出てきます。これは“愛の業を行うことが、神の怒りの火が更に勢いよくあなたを敵とする者の頭の上で燃え上がるよう炭火を積むことになる“というのです。神が裁きを行う時の手助けになる、というのです。この愛の業を行った人物の復讐心は全く減少しておらず、その延長線上にあります。しかし、「復讐は主のなす業」というイスラエル信仰の基本はかろうじて維持している、と解釈できます。

24:17-18の方を見てみます。「あなたの敵が倒れるとき、喜んではならない。 彼がつまずくとき、 あなたは心から楽しんではならない。主がそれを見て、御心を痛め、 彼への怒りをやめられるといけないから」とあります。これは愛の業ということではありませんが、敵が敗北しても喜ぶな、ということです。その理由が面白いです。敵への主なる神の怒りが止まるかもしれないから、というのです。ここにも復讐心の残存が見られます。敵の敗北を喜ぶと神による復讐が止まる可能性がある、というのです。神による復讐を見て喜ぶ必要がなくなるので、神が怒りの発動をやめるかもしれない、というのです。変則的であれ喜びを得てしまうと本当の意味での喜びはなくなる、ということを言っています。主なる神による復讐を喜びとする、ということです。しかし、「復讐をしてはならない」という神の戒めは守っています。

箴言の言葉は、主イエスの「汝の敵を愛せよ」とは大きくかけ離れているのは事実ですが、レビ記に見られたイスラエル共同体についてのみ語られている戒め、と言う壁は取り払われているようです。箴言がまとめられた時期はBC3cの緩いエジプト支配の時代と推測され、ユダヤ人の民族主義は薄れ、国際主義的流れが前面に出てきた時期と推測されます。従ってイスラエル共同体のみに適用されるレビ記の教えの、その範囲が拡大され、人間一般について適用されるべき事柄になっています。この点は、大きな前進です。

次はシラ書です。これはBC2cの知恵文学の一つですがその10:6及び28:6-7には次のようなことが書かれています。「隣人のどんな不正な仕打ちにも、憤りを抱くな。また、決して横柄なふるまいをしてはならない。/自分の最期に心を致し、敵意を捨てよ。滅びゆく定めと死とを思い、掟を守れ。/掟を忘れず、隣人に対して怒りを抱くな。いと高き方の契約を忘れず、/他人のおちどには寛容であれ」とあります。えらくできた人の道徳観のような個所ですが、イスラエル信仰との関連での、中心的メッセージ部分は「自分の最期に心を致し、敵意を捨てよ」です。死の直前において最大の関心事は天の御国に入ることができるかです。憎しみ、敵意を持っていては天の御国入ることはできません。そのことを常に心にとどめておき、平常時から敵意を捨てるようにしなさい、と言っています。敵意を捨てるのは神と私の正常な関係を保つため、というイスラエル信仰の基本は確固として維持されていますが、復讐心は消え失せています。

また「掟を忘れず、隣人に対して怒りを抱くな」と言われています。シラ書の時代背景からすると「隣人」は狭義のイスラエル信仰共同体の構成人員にとどまらず、もっと広い範囲での人々のことを念頭に置いているはずです。「掟」は当然律法のことですがレビ記19:18の後半部分「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」が念頭にあると思われます。レビ記のイスラエル共同体構成員のみが対象という制約を破ったうえで、この言葉を取り上げると、そこでは、主イエスの「汝の敵を愛せよ」にかなり近づきます。しかし、死の直前の天の御国を思い起こすことでこのような境地に至ることができるのか、には疑問が残ることは事実です。もうひとつ、このシラ書の個所の難点は、どうも個人としての道徳より先にまでこの倫理観を広げていく動因が見当たらないことです。立派な人ですね、ということにとどまってしまう可能性大だということです。

次は、宗教要覧です。宗教要覧というのはエッセネ派のクムラン教団の洞穴に残されていた「死海写本」の一部です。関連すると思われる個所を続けて読みます。1:4、1:6、10.15です。「彼(神)の選び給うものをみな愛し、彼の斥け給うものをみな憎むこと。あらゆる悪から遠ざかってすべての善い業に結び付くこと。/地において真実と義と公正を行うこと。—すべての闇の子らをおのおの神の報復に入るべき、その罪に応じて憎むことのないように気をつけなさい。その人があなたのことで主に訴えるなら、あなたは有罪となる。/だれにも、悪行の仕返しをせず、善をもって人を追及しよう。生けるすべてのものの審きは神とともにあり、人にその報いを返し給うのは彼(神)であるからだ。」となります。

主イエスの律法の引用に見える『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』は実は宗教要覧の「彼(神)の選び給うものをみな愛し、彼の斥け給うものをみな憎むこと」のことで主イエスは宗教要覧に基づいた集団であるエッセネ派を批判しているのだ、という解釈がされたことがあります。確かに、宗教要覧の記述は、民族主義的ユダヤ教の色彩を強く残しています。愛の対象は「神の選び給う者」に限定されています。エッセネ派の信者に限定されている、と理解されます。神による報復の対象は「闇の子」です。これに反対の「光の子」がエッセネ派の信者です。但し、「闇の子」は罪あるものではあるが「憎む」ことは良くない、と言っています。それは「憎しみ」が復讐につながり、神の掟を破ることになるからです。最後のところの「だれにも、悪行の仕返しをせず、善をもって人を追及しよう。生けるすべてのものの審きは神とともにあり、人にその報いを返し給うのは彼(神)であるからだ。」というところはエッセネ派信者間に限られないように見受けられます。しかし、それもイスラエル共同体の範囲を超えるものではないと思われます。彼らは隠遁生活を送っており、そもそも異教の民との接触の場面は全くなく、せいぜい、イスラエルの他の宗派の人間たちとの接触の中で物事を考えていたものと思われるからです。エッセネ派の閉鎖性はこの教えの大いなる意味を打ち消すことになっています。

そして次はマタイ、ルカの両福音書です。ここではルカ福音書の方を見てみます。6:27-28です。「しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。/ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。」とあります。

まず、民族的排他性についてですが、主イエスの言葉にはその排他性が全く見られません。ユダヤ人が敵とみなしていたサマリヤ人を「隣人」としているのですからユダヤ的排他性は消去されています。それから、箴言のように「あなたを憎むもの」「あなたを敵とするもの」に善行の対象を限定するのではなく「あなたの敵」「あなたを憎むもの」にまで拡大していることです。もちろん、主イエスの伝道の範囲からすればイスラエル共同体に限定されたことではありますが、潜在的にはいわゆる異教徒にまで拡大される可能性を含んだものです。これがパウロをはじめとする、主イエスの弟子たちにより実行に移されます。「返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます」の部分は善行を行った相手から報酬が来るわけではなく、イスラエル共同体から表彰されるのでもなく、神の子となる、という報酬を受ける、ということを言っています。報いは神からくる、です。これぞイスラエル信仰の面目躍如たるところです。人間にも社会にも期待はせず、主なる神からの報いにのみ期待を寄せる、ということです。具体的な表れは、他人からや社会からの評価の形で現れるかもしれませんが、それは主なる神の意志であるときのみ意味があるこということです。そのような評価が全くなくても主なる神の書物には記され、死の時に至ってそのことが実りを示す、という考え方です。

それをルカ福音書では「なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです」と博愛主義的表現で記しています。マタイ福音書においても「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」と言われています。イスラエル信仰の基本は、そのようなすべての人にあまねく主の恵みが臨んでいるから、ということではなく、主なる神と私の関係にすべてを帰着させ、他人がどうか、とか社会がどうか、ということは無関係だという考えにあります。究極的には「汝と我」のみの信仰です。このような理由付けは、この世の人間にも納得しやすいような表現を方便として使った、と見るべきでしょう。主イエスは民衆がわかりやすいための手段を使っています。その代表は病の癒しです。このような博愛主義的表現も神の恵みを実感する上ではわかりやすい表現と言えるでしょう。でも、イスラエル信仰の深みに至るのにはもう一段の何かが必要です。

もう一つ、主イエスの言葉において画期的なことがあります。行動に現れる事柄の前に、心構えに関することをおっしゃっていることです。「あなたの敵を愛しなさい」です。ユダヤ教は基本的に行いによってその人間の信仰的評価をする宗教です。しかし、ここで主イエスは善行などの行動について述べる前に、心構えを述べています。心構えは神にしかわかりません。このことは、マタイ福音書の方が明確です。5:44で「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」という言葉がまず出てきます。このように、行動に現れる前の心の問題を問うことはシラ書の表現に始まっていますが、主イエスの言葉は、それを律法の本義の解釈として述べておられることです。律法の本来の意味を復活させるには、神にしか見えない心を問題にしなければならなかったのです。山上の説教の他の個所にも同様のことが言えます。もちろん、レビ記、箴言、宗教要覧のようにユダヤ教の基本的流れにある個所にもその萌芽はあります。その萌芽が、主イエスによって前面に押し出されてきたと解釈できます。もちろん、心構えは必ず何らかの行動につながります。その意味ではユダヤ教も真実を述べている、と言えますが、第一次的着眼点は違います。

最後は、新約の書簡です。ローマ書12:14と12:20-21を続けてお読みします。「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。/もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。/悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」とあります。まず気づくのは詩編140:10、箴言25:22に出てくる「燃える炭火」という表現が使われていることです。特にローマ書の12:20「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです」は箴言25:21-22「もしあなたを憎む者が飢えているなら、 パンを食べさせ、 渇いているなら、水を飲ませよ。/あなたはこうして彼の頭に 燃える炭火を積むことになり、 主があなたに報いてくださる」の個所と極めて類似しています。パウロは主イエスの言葉を箴言の言葉の拡張と理解したということになります。箴言にある、イスラエル共同体の構成員に限定している制約はとり払われています。しかし「あなたを憎む者」即ち「あなたを敵とする者」を想定している表現は箴言のままですし、その人間に対する神の復讐を待ち望む姿勢にも変わりはありません。箴言の線上で主イエスの言葉を解釈することの限界性が示されている、という言い方もできます。パウロが言うとどうも根暗っぽくなり、主イエスのおおらかさが消えてしまうような気がするのは私だけでしょうか。

しかし、12:14の「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません」や、12:21の「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」は限定条件なしの一般的表現で語られており、人間一般について言っているように思われます。「呪ってはいけません」の「呪う」はヘブル語では「qa:lal」であり、多数あるヘブル語の「呪う」の言葉の内、「神の祝福から排除される」の意味の「呪う」です。祝福を与えるか与えないかは神の判断事項であり、あなたは神の領域に干渉するようなことをしてはならない、ということを意味しています。極めてイスラエル信仰に忠実な態度です。

「善をもって悪に打ち勝ちなさい」と類似の表現は詩編34:14にあります。「悪を離れ、善を行なえ。平和を求め、それを追い求めよ」です。しかし、「善をもって悪に打ち勝ちなさい」とまで、「善悪」を対立したものであることを強調した表現はありません。イスラエル信仰では「善き行い」というように人間の行動と関連させて善が語られます。善とか悪とかを独立した実体が存在するような表現はイスラエル信仰の原初的なものではなく、むしろ、ギリシャ哲学の影響が看取される表現、と考えた方がよさそうです。パウロはギリシャ文化の中で育った人間ですから、「善悪」の対立概念で物事を考えるのに慣れていたのでしょう。主イエスの言葉のギリシャ哲学的展開と言えるかもしれません。ギリシャ・ローマ文化の中にあるキリスト者に向けた手紙であるのでこのような表現を使用したのかもしれません。類似の表現はギリシャ哲学の影響が強いと言われる第三ヨハネの手紙の1:11にもあります「愛する者よ。悪を見ならわないで、善を見ならいなさい。善を行なう者は神から出た者であり、悪を行なう者は神を見たことのない者です」とあります。ちなみに、イスラエル信仰における対立概念の中心的なものは「罪」と「義」です。                 

箴言における言葉から、レビ記、箴言、シラ書、死海文書、福音書、パウロ書簡を順番に見てきました。レビ記を見ている限り、そういうことなら自分も守ることができる戒めかな、と思っていたのが、漸次変化をしてきてシラ書においてはそれまでの各種制約が排除されました。そして、福音書の主イエスの言葉に至り、それまでのユダヤ教の枠内での「敵を愛せよ」が転換し、主なる神からの報いのみに期待する「愛の業」の勧めに至ります。これを受けたパウロは箴言の表現を借りながら、主イエスの愛敵の教えを理解しようとしています。そのために、ギリシャ哲学的考え方をも助けとしています。このような流れの中で見ると、主イエスの言葉がイスラエル信仰の根本を維持しつつも正統的ユダヤ教の教えにとっては、いかに革命的意味を持ったのかが見えてきます。祈ります。

(天に召します父なる御神様、今日の礼拝の時を感謝いたします。本日の「汝の敵を愛せよ」に至る聖書の言葉の数々の話は、是非とも唯一君に聞いてほしかったものです。我々は、人間を敵と味方に分け憎しみのぶつけあいをしている状況を止めることのできない無力な者です。唯一君もおそらくこの戦争の現実に心痛めていたであろう、と思います。私たちの主は大胆にも「汝の敵を愛せよ」とおっしゃいました。それは旧約の世界で培われたイスラエル信仰の初めであり終わりであります。この戦争の多くの被害者のために主が特別に慰めの言葉を与えてくださいますように、「主よ、きたりませ」と共に大きな声で叫ぶことができますように。和解の福音を下さい。主の御名により祈ります。アーメン。)

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