偽りの預言者
エレミヤ書23:18-29
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

本日の聖書箇所はエレミヤ書23:18-29です。23:9から23章の最後までは「偽りの預言者」と称せられており、本日の箇所はその中心部分ということになります。エレミヤ書全体を極めて概略的に見ますと、ヨシヤ王の時代の託宣、エホヤキム王時代の託宣、ゼデキヤ王の時代の託宣、そして、エレミヤ後半生の事件に関する記述があり、諸外国への託宣で結ばれる、ということができます。本日の「偽りの預言者」の箇所は、ゼデキヤ王の時代の託宣の中間に位置しています。ゼデキヤ王はユダ王国最後の王です。ユダ王国最後の時にエレミヤは当時の預言者達を、偽りを言う預言者として批判したのです。

この時代背景を簡単に見ておきましょう。エレミヤの預言はヨシヤ王の時代に始まります。ヨシヤ王は申命記改革と言う宗教改革を行ったことで有名です。現在、モーセ五書と言われる、旧約聖書の原型がこの時発見され、これに基づきカナンの農業神バアル等の偶像崇拝を完全にやめ、エレサレム神殿を中心とする、「主なる神」への信仰を確立した時代です。牧師の子どもで「義也(ヨシヤ)」という名の男の子がときどきいますが、このヨシヤ王から採られた名前と思われます。このヨシヤ王の時代は北のアッシリアは衰退し、BC612、メディアとバビロニアの連合軍により首都ニネベが陥落し、メソポタミアの地はバビロニアの支配するところとなります。他方、南のエジプトはエチオピア王朝である25王朝からエジプト人の26王朝となり漸次力を回復してきていました。そして、BC609年、エジプトは新興国バビロニアの進出を阻止するためアッシリアの完全崩壊を阻止しようと出兵します。ヨシヤ王はバビロニアと友好関係にあったのでエジプトの北上を阻止すべく、エジプト軍と戦います。そこでヨシヤ王は戦死し、ユダヤは敗退いたします。その後、ヨシヤ王のあとを継いだのはその子のエホアハズですがわずか3か月の短命政権です。エジプト王ネコII世のいうことを聞かなかったようでありエジプトに囚人として連れて行かれます。そのあとはヨシヤ王の他の子どもである、エホヤキムがユダ王国の王となります。エホヤキムはエジプトに従属した政治を行います。宗教政策は偶像崇拝の復活です。またエレミヤと同様にユダ王国に裁きの預言をした「シェマヤの子ウリヤ」を殺害しました。エレミヤやその書記バルクも殺されそうであった、と言われています。

さてアッシリヤを滅ぼしたバビロニアがエジプトの支配を放置していることはありえません。ネブカドネザルはシリア近辺でエジプト軍を決定的に敗北させ、パレスチナ地域に進出します。ネブカドネザルはエルサレムに侵入し神殿を収奪し、エホヤキムをバビロニアに従属させ、エルサレムの指導者の一部をバビロンに捕囚しました。バビロン捕囚の先駆けです。このなかに、ダニエル書のダニエルとその友人が含まれていました。エホヤキムは当初はバビロニアに忠実でしたが、エジプトを頼みとしてバビロニアの支配を逃れようと図るようになります。王子から正式な王となったネブカドネザルはBC598年、エルサレムに侵入し、多くのユダ王国の指導者を捕囚にします。第一次バビロン捕囚です。エホヤキム王は足枷をはめられ、バビロンに連れて行かれる前、敵の兵士によって殺害された、と見られています。本日の聖書箇所の前の22:18-19では「それゆえ、ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムについて、主はこう仰せられる。 だれも、『ああ、悲しいかな、私の兄弟。 ああ、悲しいかな、私の姉妹』 と言って彼をいたまず、 だれも、『ああ、悲しいかな、主よ。 ああ、悲しいかな、陛下よ』 と言って彼をいたまない。彼はここからエルサレムの門まで、 引きずられ、投げやられて、 ろばが埋められるように埋められる。」と記されています。そしてこのあと子供のエホヤキンが王となりますが、王位にあったのはわずか3か月であり、ネブカドネザルは彼も捕囚としてバビロンに連行し、おじのゼデキヤを王としました。このゼデキヤがユダ王国の最後の王であり、エレミヤが「偽りの預言者」の預言をした時の王です。しかし、当時、ユダの民衆はエホヤキンを王と見做していたようです。バビロニアにより王とされたゼデキヤは当初はバビロニアに従順でしたが、エジプトに援助を求め、バビロニアとの対決姿勢に転じます。これをみて、ネブカドネザルは再度エルサレム攻略に出兵いたします。ユダヤ人は頑強な抵抗を行ったようです。考古学上の証拠が残されています。二年半の抵抗です。結局、バビロニア軍に占領され、ゼデキヤ王は捕囚されます。エレミヤ書52:10-11には「バビロンの王は、ゼデキヤの子らを彼の目の前で虐殺し、ユダのすべての首長たちをリブラで虐殺した。またゼデキヤの目をつぶし、彼を青銅の足かせにつないだ。バビロンの王は、彼をバビロンへ連れて行き、彼を死ぬ日まで獄屋に入れておいた。」とされています。この年、BC587年がユダ王国の滅亡の日、となっています。

ユダ王国の末期は北のアッシリアそのあとのバビロニアと南のエジプトの間にあって、ユダ王国はあっちにつき、こっちにつき存続を図ろうとしますが、最後はバビロニアに滅ぼされる運命となります。エレミヤは一貫して、大国を頼みの綱とするのではなく、「主なる神」のみを頼りとする信仰に立てということを述べます。ユダ王国が自ら両大国のいずれとも同盟することをよしとしませんでした。政治的、軍事的には、具体的にはバビロニア支配を受容することを意味しました。その最後の場面で命の危険が迫ってきている中で、エレミヤは「偽りの預言者」に対する批判を行うのです。

23:9-17は「偽りの預言者」の前半部分ですが23:15-17をお読みします。「それゆえ、万軍の主は、 預言者たちについて、こう仰せられる。 「見よ。わたしは彼らに、 苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。 汚れがエルサレムの預言者たちから出て、 この全土に広がったからだ。」万軍の主はこう仰せられる。 「あなたがたに預言する預言者たちの ことばを聞くな。 彼らはあなたがたを むなしいものにしようとしている。 主の口からではなく、 自分の心の幻を語っている。彼らは、わたしを侮る者に向かって、 『主はあなたがたに平安があると告げられた』と しきりに言っており、 また、かたくなな心のままに歩む すべての者に向かって、 『あなたがたにはわざわいが来ない』と 言っている。」とあります。「偽りの預言者」達は、平安だ、平安だと言い、災いが来ることはない、と言いふらしている、というのです。イスラエルの民は神の選民であり、アブラハム、ダビデに対する神の祝福の約束があるから、必ずや平安が守られ、外国による占領と言うような災いはこない、と言っていた、というのです。エレミヤはユダ王国に対する神の裁きは避けられず、その滅亡が近い、ということを言っていた訳ですから、これと真っ向から対立する預言です。だれでも、エレミヤのように“滅亡は近い、救いはない”というようなことを言われると、“もう、聞きたくもない”というのが普通ですから、おそらく、この「偽りの預言者」の方が大勢であり、エレミヤのような預言は圧倒的少数であったでしょう。エホヤキムの時代に殺された預言者「シェマヤの子ウリヤ」と同様、エレミヤも殺害の危険にあったと考えられます。それでもエレミヤはこの預言を止めませんでした。神様はジグザグに進む救いの完成の道において悔い改めの心を持たない我々に、大災厄が起きることを容認することがあるのだ、という事だけは心に留めておく必要があります。聖書はネブカドネザルを神の使い、とまで言っています。

続いて本日の聖書箇所23:18-20をお読みします。「いったいだれが、主の会議に連なり、 主のことばを見聞きしたか。 だれが、耳を傾けて主のことばを聞いたか。/見よ。主の暴風、--憤り-- うずを巻く暴風が起こり、 悪者の頭上にうずを巻く。主の怒りは、 御心の思うところを行って、成し遂げるまで 去ることはない。 終わりの日に、 あなたがたはそれを明らかに悟ろう。」と言われています。「主の会議」についてはアモス書3:7に「まことに、神である主は、 そのはかりごとを、 ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、 何事もなさらない。」とあります。「会議」と「はかりごと」は同じ語です。ヘブル語で「so:d」です。アモス書のこの部分は主なる神は主のしもべや預言者を通じて働く、ということを述べています。エレミヤ書のこの部分は、真の預言者はこの場において主のはかりごとを聴く機会があるが、偽りの預言者にはこの場に連なることが許されない、ということを意味していることになります。そして、偽りの預言者には主の怒りが向けられます。このことが「終わりの日」に明らかに悟る、とエレミヤはあなたに言います。終わりの日、即ち主の日は「未だ、であり、既に、である」というのがイスラエルの信仰であり、我々の信仰です。エレミヤにとっては、このことが明らかになるのは未来でもあり、現在でもある、ということです。

次に23:21-22をお読みします。「わたしはこのような預言者たちを 遣わさなかったのに、 彼らは走り続け、 わたしは彼らに語らなかったのに、 彼らは預言している。もし彼らがわたしの会議に連なったのなら、 彼らはわたしの民にわたしのことばを聞かせ、 民をその悪の道から、その悪い行いから 立ち返らせたであろうに」と言っています。偽りの預言者は主の語られなかったことを述べており、もし彼らが主の言葉を真に聞く機会があったなら、その偽りを述べる悪の道から、悔い改め、主の言葉に立ち帰ることができただろうに、という事です。ここで「立ち返る」と言う言葉は新約聖書で「悔い改める」と言う言葉になっている「shu:b」です。

続く23:23-24も現代的問題を述べています。「わたしは近くにいれば、神なのか。 --主の御告げ-- 遠くにいれば、神ではないのか。人が隠れた所に身を隠したら、 わたしは彼を見ることができないのか。 --主の御告げ-- 天にも地にも、わたしは満ちているではないか。 --主の御告げ--」とあります。「主の御告げ」とありますので、ここはエレミヤの言葉ではなく「主なる神」の言葉です。主なる神は、人間には近くにいる、と感じられない、超越的であり「隠れたる神」であるが、同時に、この被造物世界のすべての場に満ち満ちている方だ、と言っています。ここでも「遠くにあるが、満ち満ちている」という我々から見ると論理矛盾と言える、ことが言われています。これは「主の日」が「未だ、であり、既に、である」のと似ています。イスラエルの歴史が示しているのは「絶望のなかに希望を見る」という信仰姿勢ですが、これもこれら論理矛盾とみられることと共通しているようにおもわれます。但し、イスラエルの信仰は抽象的哲学ではなく必ず、両者とも、この被造物世界において発生していることに根拠に持っている、ということを忘れてはなりません。

23-:25-28は偽りの預言者が夢を見たことを悪用している点についてです。「「わたしの名によって偽りを預言する預言者たちが、『私は夢を見た。夢を見た』と言ったのを、わたしは聞いた。いつまで偽りの預言が、あの預言者たちの心にあるのだろうか。いつまで欺きの預言が、彼らの心にあるのだろうか。彼らの先祖がバアルのためにわたしの名を忘れたように、彼らはおのおの自分たちの夢を述べ、わたしの民にわたしの名を忘れさせようと、たくらんでいるのだろうか。夢を見る預言者は夢を述べるがよい。しかし、わたしのことばを聞く者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない。麦はわらと何のかかわりがあろうか。--主の御告げ--」とあります。主なる神の言葉です。偽りの預言者の夢は、心の中の偽りの預言、欺きの預言から出たものだ、と言われています。「欺きの預言」の部分は新共同訳では「自分の心が欺くままに預言」となっています。自己欺瞞の預言ということであり、偽りの預言の別表現とみてよさそうです。この偽りの夢を述べ、主なる神の名を忘れさせようとしている、と言われています。そして、28節で主なる神の言葉に聞く者、即ち、主の僕、真の預言者はこの言葉を忠実に語らなければならない、と言われています。「聞いて、語る」です。聞かずして語ると、これは主なる神の言葉ではなく、自分の、人間の言葉になってしまいます。18節の「主の会議に連なる」ことも主の言葉に聞く場です。「聞く」はヘブル語では「sha:ma:」という動詞ですが、これが命令形「shema:」になると、あのイスラエルの祈りの最初の言葉「イスラエルよ、聞け。われわれの神、主は唯一の主である。」の「聞け」です。この言葉は「心に留める」「理解する」の意味でも使用されます。また再帰形という変化形では「従順である」という意味にもなります。謙虚な心で主の言葉に聞き、心に貯えられる、その言葉に従順に従って生きる、という意味でしょう。「麦とわらと何のかかわりがあろうか」は真の預言者と偽りの預言者は無関係、まるで逆だ、と言っています。

本日の聖書箇所の最後は「わたしのことばは火のようではないか。また、岩を砕く金槌のようではないか。--主の御告げ-- 」という文で閉じられています。主の言葉の力を表現したことばです。エレミヤ書20:9では「主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。」と言われています。火の中で神の言葉が語られる、と表現されてきたのが、エレミヤでは神の言葉そのものが火となっています。エレミヤにとっては主なる神より預かった言葉は、心の中で火となり燃え盛り、それが語られる時、岩を砕く金槌のようでもある、というのです。聖書を読んでいて、グサッと突き刺さる言葉に出会うことがありますが、それがこのことを意味しているのかもしれません。

30節から23章の最後までは、主の言葉ではなく自分の言葉を騙(かた)っている偽りの預言者には主が彼らの敵になる、と言われています。また、主の宣告を主からの重荷とし、それから逃れようとする者には主の裁きが下される、と言われています。「永遠のそしり、忘れられることのない、永遠の侮辱をあなたがたに与える。』」と言う言葉で結ばれています。ここで「宣告」と訳されている言葉と「重荷」と訳されている言葉はヘブル語では「masa:」という言葉です。新共同訳では一貫して「宣告」と同様の意味の「託宣」と訳されています。逆にカソリックのフランシスコ会訳は一貫して「重荷」と訳されています。この語は「物を持ち上げる」という意味の「masa:a:」が名詞化したもので「masa:」は「宣告」「重荷」「苦難」の意味があります。ナホム書1:1「ニネベに対する宣告」、ハバクク書1:1「預言者ハバククが預言した宣告」、ゼカリヤ書9:1「宣告」のところで「宣告」英語ではoracleと訳されることがある言葉です。苦難を宣告する神の言葉です。エレミヤの預言は、「平安、平安」と言っている偽りの預言者やユダの民には“主からのイスラエルに対する過酷な重荷である預言“と受け止められたのです。ナホムやハバクク、ゼカリヤの預言も同様です。この事情から、新改訳の一部、そして新共同訳ではすべてのこの言葉が「宣告」とか「託宣」と訳される結果になったと考えられます。しかし、意味するところに重点をおいて考えるなら、すべて「重荷」と訳するのが理解しやすい、と思われます。通常の「預言」とは異なります。「重荷」「苦難」の宣告なのです。そしてエレミヤ書のここでは、主から重荷を負わされたなどといってはならない、しかし、これを重荷というユダは滅びの裁きを逃れられない、と言われているのです。そうではなく、「主は何と答えられたか」ということにのみ注意を払い、主の言葉を忠実に語れ、それをどうこう解釈するなどするな、と言われています。これは主の言葉は「重荷」「苦難」を与え滅ぼすことが目的で与えられるのではない、ただ言葉を受けよ、と言われているのです。その裏には、その時には、人間には理解できない、神のはかりごとが隠れている、ということでしょう。

この偽りの預言者の章では、私たちの信仰姿勢に大きな問いを投げかけている、ということは理解できますが、このメッセージは新約聖書にはどのように受け継がれているのでしょうか。もう一度、言葉から入って行きます。ここで「偽りの預言者」と称しているのは23:25の「偽りを預言する預言者」のことです。これをつづめた「偽りの預言者」という言葉はエレミヤ書及び旧約聖書には登場しません。ここで「偽り」と訳されているのはヘブル語で「sheqer」という名詞です。「嘘」「偽り」「誤り」「欺瞞」というような意味で多用されている言葉です。預言者は「nabi:」ですから、「nabi: sha:qe:r」となります。イエス様が日常的に使用していたと推測されているアラム語ではここが「nebi: shaqra:」となっており、ヘブル語の「nabi: sha:qe:r」と同じ言葉です。発音は少々異なります。マタイによる福音書7:15に「にせ預言者」というのが出てきます。「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。」とあります。19世紀に成立した新約聖書のヘブル語訳というのがありますが、そこでこの「にせ預言者」は「偽りの預言者」(nabi: hasha:qer)です。これは旧約の「nabi: sha:qe:r」に冠詞「ha」を補つたものです。次に、ギリシャ語の方を見てみましょう。旧約聖書のギリシャ語訳でエレミヤ書23:25の「偽り」は「psyu:de:」という言葉で、預言者は「profe:te:s」です。従って、「偽りの預言者」は「profe:te:s psyu:de:」ということになります。マタイ7:15の「にせ預言者」は「psyu:do-profe:te:s」と記されています。これは旧約聖書ギリシャ語訳での「偽り」という形容詞と「預言者」という言葉を合成し造られた言葉です。「psyu:de:」と言う言葉は「偽り」「嘘」を意味する言葉です。英語にも「pseudo」(sju:dou)という「偽」と言う意味の言葉がありますね。従って、新約聖書でしばしば出てくる「にせ預言者」というのは旧約聖書における「偽りの預言者」のことだと断定してよさそうです。もっとも旧約聖書では「偽りの預言者」と言う形でまとめられた言葉はでてきませんから、エレミヤ書23:25における「偽りを預言する預言者」がその後、ユダヤの民に於いて一語として慣用的に使用されるようになり、新約の「にせ預言者」になった、と言えるでしょう。

本日のエレミヤ書23:18-29を追いかけていくと、「偽りの預言者」は神の言葉に忠実ではない、という特徴が見えてきます。神の言葉に「聞く」姿勢がなく、自分の思いを語るのです。厳しい、ある意味で残酷な言葉は、語りにくいものです。けして皆から喜ばれるものではないからです。しかし、それが、神の言葉であり、神の答えがあるならば、真の預言者は曲げずにこれを語るのです。では何が神の言葉でしょうか。もちろん、聖書が神の言葉の基本だというのはそうなのですが、私たち新約の民には神の言葉が人となられた、我らの主イエスがおられます。主イエスのおっしゃられたこと、なされたこと、が神の言葉という神からのメッセージになります。旧約の時代に神から与えられた律法という神の言葉では人間は救いの道に入ることは出来ませんでした。神は主イエスという形で神のメッセージ、神の言葉を私たちに与えられたのです。

エレミヤ書では神の言葉に忠実でない者を「偽りの預言者」としています。列王記、歴代誌では「預言者の口で偽りを言う霊」という表現があり、イザヤ書9:15には「そのかしらとは、長老や身分の高い者。 その尾とは、偽りを教える預言者」という表現があり、「偽りを教える預言者」という形で出てきます。そしてエレミヤ書では「偽りを言う預言者」が多数でてきますが、これ以降はゼカリヤ書13:3に「なお預言する者があれば、彼を生んだ父と母とが彼に向かって言うであろう。「あなたは生きていてはならない。主の名を使ってうそを告げたから」と。彼を生んだ父と母が、彼の預言しているときに、彼を刺し殺そう。」という表現があります。これは「うそをつく預言者」は裁きの時彼の父母が彼を殺す、と言っている部分です。十戒第二戒を破り「みだりに主の名を言う」預言者のことです。また外典と称せられる「知恵の書」14:28には「彼らは快楽に狂い、偽りの預言をし、不正な生活を送って、軽々しく偽証する。」という表現がでてきます。偶像崇拝にふける者は道徳的にも堕落して、遂には「偽りの預言」をし、十戒で禁じられた偽証をする、というのです。これらの表現は「偽りの預言者」の系列に属する、と言って良いと思いますが、神の言葉に忠実でない預言者というエレミヤ書の原義より拡大されているようです。

新約聖書で「にせ預言者」をみると、主イエスの福音から人々を離れさせる預言者のことを言っています。マタイ24:24では「にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。」と言われていますので「大きなしるしや不思議」を起こし、これによりイスラエルの民を惑わす預言者のことのようです。当時の状況において考えれば、イスラエル解放を実現してやると称している自称キリストのことではないか、と思われます。使徒の働き13:6では“「にせ預言者」バルイエスというユダヤ人魔術師“という表現も出てきます。これはキプロス島にいた魔術師のことです。おそらく、当時の医者も兼ねた魔術師的霊的指導者のことでしょう。ペテロの手紙、ヨハネの手紙にも「にせ預言者」が登場します。しかし、パウロの手紙には登場しません。パウロにとっては「預言者」と言えば、モーセに始まりイザヤ、エレミヤに続くイスラエルの綿々たる系譜にあるものですから、このような不埒な人々は「にせ」とは言っても「預言者」というに値しない、というようなことなのでしょう。新約聖書の最後に黙示録にこの「にせ預言者」という表現が3度でてきます。黙示録20:10が最後ですが「そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」と言われています。サタンの支配するハデスに居る「預言者」です。黙示録19:20では「獣の像を拝む人々を惑わしたあのにせ預言者」と言われています。偶像礼拝をしている民を悔い改めに導くのではなく、ハデスに行き、永遠の苦しみの道に惑わし、入れる指導者のことです。主イエスの福音のメッセージから離れたことを語る教師のことです。

「偽りの預言者」「にせ預言者」を通して見るとこの両者の識別の鍵は「神の言葉」にあることが一貫していると言えます。「神の言葉」の理解が旧約と新約では異なる、ということです。新約での「神の言葉」は主イエスの福音のメッセージ、即ち「愛の律法」ですが、この背後には旧約における火のような、岩を砕く金槌である「神の言葉」があるのです。この旧約の「神の言葉」があるがゆえに新約の「神の言葉」が神からの一方的恵みとして我々に迫って来るのです。あまり安易な適用は良くありませんが、大災害や戦争のような悲劇が主なる神からの警告であり、人間に平安・平和を回復するチャンスが与えられている、ということも出来るのです。原発事故のこと、憲法9条のことを考えると私たちに「神の言葉」が臨んでいる、と感じざるをえません。私たち、日本のキリスト者はこの「真の預言者」の系譜に立っているでしょうか。祈ります。

(ご在天の父なる御神様、今日の賛美と祈りの時を感謝いたします。「偽りの預言者」の言葉から学びました。エレミヤはユダの民に、選びの民には神の守りがある、と根拠のない気休めの言葉を語った預言者を「偽りの預言者」と呼びました。新約聖書黙示録などでも「偽預言者」が語られています。今の世にも、地球は氷河期に向かっているのだから地球温暖化は一時的出来事だ、という人もいます。私たちは、そのような気休めの言葉に振り回されてはならない、と思います。主イエスが私たちに語られた言葉に忠実に生きるよう私たちを導いてください。苦難は人間の罪からくる苦難として真正面から受け止め、耐える力をお与えください。なすべきことをなす勇気をお与えください。主イエスの御名により祈ります。アーメン)

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