労苦の中にしあわせを
伝道者の書3:9-17
森田俊隆

「伝道者の書」は新改訳聖書の文書名ですが、口語訳聖書では「伝道の書」と訳されていました。日本のカソリックとプロテスタントが共同して訳した新共同訳では「コヘレトの言葉」となっています。ヘブル語原典では「コヘレト」と言います。これは、“会衆を召集する”という意味の「カーハル」の変化形で「会衆を召集する者」という意味になります。そこから伝道者、という意味になった訳です。ルターは「説教者」と訳しているそうです。ギリシャ語訳では「エクレシアステス」で英語訳でもこの名前です。“集会を司る者”の意味です。「エクレシア」といえば教会のことを指します。この伝道者の書は聖書の他の文書とは非常に異なっています。1:2で「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空」という言葉で始まり、人生に否定的で、信仰の書としての聖書に相応しくない、と見える文書です。

この文書は、前後関係を無視して言葉のみを取り上げますと、有名な言葉もあり、信仰者の教訓となりそうな言葉もあります。そのため、その言葉だけをとりあげて、教会学校などでの暗唱聖句とされているものもあります。しかし、前後を読みますと「おや?」と思わされます。その代表は12:1の「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」です。これは“若いうちに創造主である神を常に心に思いとどめなさい”という教訓として理解されています。この後ろの方を含め読んでみますと「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。/太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう前に」とあります。「わざわいの日が来ないうちに」とはこのあとの表現から「年老いた日」が来る前に、と解釈されています。「太陽と月と—云々」は幼児期、少年期、青年期を経て、老年期に至る前に、と解釈されています。要するにこのみ言葉は「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ、年老いて身動きが思うに任せなくなる前に」というこということを言っています。年老いた老人が、自分の反省をこめて若者に忠告をしている言葉のように思われます。しかし、この最後が「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。/空の空。伝道者は言う。すべては空。」ですから、「そうは言っても、あなたの創造者を覚えることも死んでしまうと、空しいことなのだが」と言っているようにも、解釈できます。ことこと左様に、この「伝道者の書」は「人間の一生など所詮、空しいもので、無意味なことだ」というニヒルな書と解釈することもできるのです。

そのような文書が聖書正典の一つとなっているのはいかにもおかしな話です。聖書正典に適当かどうか、とユダヤ教のなかで議論されたという風もありません。従って、ユダヤ教の中で、イスラエル信仰の書として、当初から認められていたのです。それでは、単なるニヒルの書であるはずはありません。イスラエル信仰にとってなにか重要なメッセージを語っている文書であるに違いない、と思われます

これに関連して、東京神学大学での私の指導教官であった小友先生が、この文書に関し、非常に積極的な評価をしています。それは、「伝道者の書」は、この文書が成立したBC2c頃に流行していた「黙示文書」に対峙する目的で書かれた文書である、という理解です。黙示文書はいろいろありますが、先生が特に意識しているのはダニエル書です。ダニエル書に示された黙示文書の特徴としてはつぎのような点を挙げています。①ダニエルが夢解きをするように、神の意志は特別な人間に開示されること、②この世での人生の喜びは無意味であり、真の命は死後にこそある、③罪多きこの世は終末の時に向かっており、その時は決定的な裁きの時となる、という思想です。伝道者の書はこれに異を唱えており、①神の意志・計画は、いかなる人間も究極的には、それを知ることはできない、②この世での命ははかないものであるが、そうだからこそ大切にすべきなのだ、③この世での出来事は、循環的であり、時間の終わりが最後にある、というようなものではない、ということを主張している、というのです。

小友先生は、神学生のころからこの「伝道者の書」を積極的に評価するにはどのような視角でこの文書を見るべきか、という点がテーマだったようで、ドイツでの留学時代、神学校での教師の時期を通しての一貫した研究の結果、このような理解に到達したようです。先般はNHKの宗教の時間の時に、この文書について語っておられました。この解釈は、この文書の鍵となる言葉ヘブル語「hebel」の解釈に影響を与えます。この「hebel」は、日本語聖書では「空(くう)」とか「空しさ」と訳されています。「空」という訳は文語訳の時代からのもので仏教用語からとられたことばと思われます。「hebel」のそのそもそもの意味は「息、蒸気」のことですが、そこから「空(から)、空しさ、短さ、儚(はかな)さ、無意味、空虚、不条理、束の間、無(む)」の意味をもつようになった言葉です。英語聖書では「vanity、meaningless」と訳されています。小友先生はこれを「儚(はかな)さ」と訳していますが、そのこめた意味は、「短い、束の間」というように短時間の意味だと説明しています。人生は儚い、すなわち、短い時間、束の間のようなものだ、ということです。儚い、だからこそ、大切にすべきだ、というのです。「儚い故の宝」とでも言いましょうか。人生の短い時を、喜び、幸せの中で生きることこそ、神の望まれていることだ、というのです。「hebel」という、消極的な意味に解釈されがちな言葉に、積極的な意味合いを込め、黙示文書・終末思想への対決思想と理解するのです。

「伝道者の書」は主イエスの福音のメッセージの積極面を指し示している、という理解も可能です。主イエスのみ言葉には黙示文書・終末思想に基づく部分もありますが、それは、主なる神への「畏れ」を持たせるためのものと理解することもでき、地上での命の営みには基本的に肯定的です。終末思想に見られる禁欲的態度ではありません。カナの結婚式での水をぶどう酒に変えた話などに示されています。しかし、伝道者の書の人生肯定は手放しの肯定ではなく、苦難の下で、人生の喜びを見出していく、という生き様を示しています。あくまでも人生の、人の世の、この地上の世界の悲しみ、憂い、苦しみを抱え込んだもので、儚さ、空しさ、が漂っているのです。にもかかわらず、あえて、この短い時を、喜びをもって生きていく、という決意を示しているのです。そのため、表面的には矛盾した表現が同時に現れます。実は、その矛盾こそ真実なのです。“こういうことかな?いやそうではないだろう。こうとしか思えない、でもそのようには見えない”という心の揺れ動きの中に真実があります。

この矛盾したものを同時に見ることによってこの現実の世を理解する、という点は、仏教の「空」の概念にも通じるところがあります。「空」は大乗仏教の経典として最もポピュラーな「般若心経」に繰り返し出てきます。代表的な部分として「色即是空(しきそくぜくう)空即是色(くうそくぜしき)」という言葉があります。「この世の物質的なうつろい、はこれすなわち無であり、何の実体もない。その無である空がこの世においては実体的な存在するものとして立ち現れている」というような意味と思います。「存在するとされるものは実は存在しない、存在しないものが実は存在するものとされるのだ」という存在と不存在を矛盾の中で把握する、という訳でしょう。わかったようでわからない、わからないようでなにかしらわかったような表現です。伝道者の書に含まれる矛盾とされるものもこれと同じではありませんが、この世の、人生の不可思議さを指し示していることは同じではないか、と思うのです。

では、伝道者の書のうち、人生に肯定的表現をしている、と思われる部分を若干見てみます。最初は、3:10-17です。先ほどお読みいただいた個所です。まず9-11節「働く者は労苦して何の益を得よう。/私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見た。/神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」とあります。創世記で人は「一生、苦しんで食を得なければならない」ように定められました。この伝道者はこの労苦を見た、と言っています。「労働の喜び」といったしゃれた話ではありません。苦しみを抱えた労働です。それが庶民の現実です。ところがそれを「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。」と言うのです。むしろ「神が定められたことなのでその時は美しいはずだ。その労苦は永遠の神に必ず通じているはずだ」と言うべきところでしょう。「しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」と言われています。永遠に通じる労苦の報酬を得られるかどうかは死の床に至るまでわからないのです。いやそうなってもわからないかもしれません。死後の世界で報われるかどうかもわかりません。

次に、12-13節「私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを。/また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを」とあります。そうです、神は、この世で生きることをせいぜい楽しむように我々を創られたのだ、苦労して働くのも、それによって食べ物や飲み物を得て飲食することを楽しむよう我々を創られたのだ、というのです。労働は神への捧げもの、作物は神よりの賜物です。死んだのちのことなどどうせわかりはしないのだから、神にお任せしておけば良いのだ、という訳です。15節「今あることは、すでにあったこと。これからあることも、すでにあったこと。神は、すでに追い求められたことをこれからも捜し求められる。」とあります。ここは、神がこの世に示す事柄は循環的で、過去に探されたことをこれからも探し続けられる、とおっしゃっているようです。過去になしたことを今もなす、と言うことかと思います。要するに循環的状況を言っています。

最後の16節には「さらに私は日の下で、さばきの場に不正があり、正義の場に不正があるのを見た」とあり、この世の相変わらずの不正を見ました。正義の場、すなわち裁きの場、裁判所で不正を見た、と言っています。主イエスのお話にも「不正な裁判官」の話がありますが、裁判所で賄賂がやり取りされているのは驚くことはない、という状況だったと思われます。そして、最後に17節「私は心の中で言った。「神は正しい人も悪者もさばく。そこでは、すべての営みと、すべてのわざには、時があるからだ。」と言っています。表立って抗議をすることはできないが心の中で「神は正しい人も悪者もさばく」と言って、留飲を下げています。どのような裁きかわかりませんが「なにもなしでは済まされないぞ」という内にこもった祈りです。「すべてのわざには、時があるからだ。」という表現は、3章の最初の8節までが「—には時がある」という詩が記されており、その締(しめ)としてこの言葉が掲げられています。この「時」はヘブル語の「e:t」ギリシャ語の「カイロス」で、神の摂理の中で現れるべくして現れる時、という神の時間における時のことです。バプテスマのヨハネの宣教の第一声「時満ちて、神の国近づけり」の「時」です。信仰的重大性を持った「時」のことなのですが3:1-8では、特別な意味もない日常のことが起きることまでこの「時」を使っており、すべての起きることは神の摂理の内、という教科書的信仰の表明と考えた方がよさそうです。信仰告白とまでしかめっ面した表現ではなさそうです。

以上から、ここでの伝道者の現実の人生への態度はつぎのようにいえようかと思います。“人間が働いて食べ物を得る、というようなことは労苦ではあるが神が定めたことで人間は素直にこれに従うしかない。しかし、その中でも喜びは見いだせるのであって、神は、この世での短い人生を喜びの中で過ごしていくことを望んでおられるはずだ。この世に起きることは繰り返し同じことが出てくるのだが、これも神の定められたことなのだ。この世は不正が横行している社会だ。文句を言ってもしょうがない。神が正しい裁きをしてくださることを期待するのみです。そんななかでも「足れり、を知る」の態度で人生に臨めば、自ずから喜びの人生となるのだ”というところかと思います。つづめて言えば、「人生を喜び楽しみなさい、しかし、ちょっと斜に構えた信仰への態度もありますが」、というところでしょう。

もう一か所、この世の生を肯定しているところを見てみます。9:4-10です。まず、4-6節です。「すべて生きている者に連なっている者には希望がある。生きている犬は死んだ獅子にまさるからである。/生きている者は自分が死ぬことを知っているが、死んだ者は何も知らない。彼らにはもはや何の報いもなく、彼らの呼び名も忘れられる。/彼らの愛も憎しみも、ねたみもすでに消えうせ、日の下で行われるすべての事において、彼らには、もはや永遠に受ける分はない。」とあります。「生きている者には希望がある」と言っています。ここで「希望」と訳されている言葉は「信頼、確実」という意味の言葉で、ギリシャ語訳で「希望」という言葉「elpis」が当てられ、日本語訳も「希望」とされています。ヘブル語に忠実に行けば、「生きている者につながっているものには、確実な基礎、すなわち神の摂理がある」とでもいえるかと思います。そうではなく、確実なことは「死」のことだ、という解釈もあります。次の「生きている犬は死んだ獅子にまさるからである」はなにか格言かなにかでしょうが、“これ言っちゃあおしまいよ”という表現です。信仰も何もあったものではない、と言いたくなります。近東で軽蔑される動物、犬でも生きている方が死んだ百獣の王ライオンよりはましだと、言うのです。この言葉は時々、処世訓のごとく使われることもあります。恰好は悪いけれど這いずり回ってでも生き抜いてやる、という態度を「犬のように」というのです。とにかく、生きることに意義を見ていることだけは確かです。

続いて、死んだ者には何もない、ことを繰り返し言っています。生きているからこそ「死」が意味を持っている、ということです。死を見つめながら生きる、更に言えば死とともに生きている、ことこそ、生きていることのあかしだ、というのでしょう。死んでしまったらすべておしまいです。日本流に言えば「去る者は日々に疎し」です。

 7-8節に「さあ、喜んであなたのパンを食べ、 愉快にあなたのぶどう酒を飲め。 神はすでにあなたの行いを喜んでおられる。/いつもあなたは白い着物を着、 頭には油を絶やしてはならない。」とあります。食べて飲んで楽しめ、と言っています。パンとぶどう酒です。これは喜びの食事の時です。そして、特別の着物を着て、頭に油を塗りなさい、と言っています。「神はすでにあなたの行いを喜んでおられる」というところの「喜んでおられる」は「受け入れる」とも訳され得る言葉であり、この程度の表現の方が妥当と思います。いずれにしろ、この人生を楽しむ生き方が、神の受け入れられることとなっている、というのです。イスラエル信仰の歴史の中で、これだけもろ手を挙げて主なる神の受容を喜んでいる表現はないでしょう。

 この後に9節「日の下であなたに与えられたむなしい一生の間に、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。それが、生きている間に、日の下であなたがする労苦によるあなたの受ける分である。」とあります。愛する妻と生活を楽しむことが労苦の報酬だというのです。人生の楽しみはいろいろありますが、なんといっても愛する妻との生活を楽しむことが一番だと言っているのです。具体的な楽しみ方は、今までの出来事を話すこと、手をつないでただ歩くこと、長い抱擁の時を持つこと、など色々あろうかと思いますが、ここでは何かしら静かな喜びをかみしめることなのではないでしょか。イスラエルにおいてもこの時期は階級社会化しており、上層階級は複数の妻を持っていましたが、一般の民はそんなことは無理であり実質一夫一婦制でした。その妻を愛し、妻にも愛され、年老いて、この愛の関係を確認することこそ、喜びだということです。この世における命の肯定的態度というのはこのようなことこそ至福の時、ということでしょうか。伝道者の書はイスラエル信仰における「幸福論」であり、これが主イエスの神の国メッセージにつながっている、というように解釈しているカソリックの神父が居ますが、さもありなん、という気がします。

 最後の9:10は「あなたの手もとにあるなすべきことはみな、自分の力でしなさい。あなたが行こうとしているよみには、働きも企ても知識も知恵もないからだ。」という言葉で締めくくられています。さすがに「伝道者の書」はただ手放しでの喜び、だけでは終わりません。“なんでも自分でやれることは自分でやりなさい。死んで黄泉に行くと何も工夫して事をなすということはなくなるのだから”というのです。「よみ(sheo:l」はこの文書ではここだけです。死者の国の意味ですが、伝道者の書では、死後の国の存在を信じているわけではありませんから、「何もない場所」というように解釈するのがここでは妥当と思われます。「何もない場所」即ち場所とも言えない場所ですから、何もやることがないのは当然です。要するに生きている間のことに傾注しなさい、ということを言っているのです。

この考え方からは主イエスの復活は出てきません。主イエスの言動は旧約におけるいくつかの思想潮流が統合されているものと理解すべきであり、伝道者の書の“この世の生きざまを率直に肯定する”思想もその一つである、と言うことができるでしょう。もちろん、この文書には「むなしい」とか「無意味である」とかいう人間の生きざまに対する皮肉な見方もあるのですが、それをも超える「この世の生を生きる」という力を私たちは読み取ることができるものと思います。小友先生のように、「人の人生は短いものだ。だからこそ、大切に生きていくべきなのだ」と人生に積極的に解釈することもできます。しかし、その裏には「でもいつもうまくいかないのだ。なにか空しいな」という寂寥感がともなっています。また逆に、「人生に意味を見出そうなどというのは所詮無理な話だ。ただ死ぬまで生きるべきだというだけだ」というように解釈することもできます。しかし、「そうであっても与えられた命は珠玉のようなもので、これを楽しまなくてどうするのだ」という声もどこかで聞こえます。人間というのはその両面で右往左往している存在といえば良いでしょうか。私たちのこの日常の中にあるあふれる神の恵みとそれを喜ぶ姿勢だけは大切にしたいと思うものです。祈ります。

(御在天の父なる御神様、今日は聖書の中でも超難解と呼ばれている「伝道者の書」から、私たちの「しあわせ」についてみて見ました。確かにこの文書は、人生に対し積極的見方と、消極的見方が交錯している文書のように見えます。どうか私たちが、主の恵みの下に生かされ、日常のなかに、喜びを見出していくよう導いてくださいますよう、祈ります。主イエスの御名により、祈ります。アーメン)

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