神殿での説教
エレミヤ書7章1~15節

1.導入

みなさま、おはようございます。エレミヤ書からの連続説教は今日で7回目になりますが、今日の箇所はエレミヤの預言者としての40年の歩みの後半生の幕開けと呼ぶべきものです。エレミヤはだいたい20歳ぐらいから預言者としての活動を始めますが、それから19年後、エレミヤが40歳になる少し前に、衝撃的な出来事が起きました。それが前回の説教でお話ししたヨシヤ王の死です。ヨシヤ王は、南ユダ王国の歴史の中でもっとも神に忠実だったといわれる王で、偶像で満ち溢れていた南ユダ王国から偶像礼拝を一掃し、唯一の神への信仰に人々を立ち返らせるために力を注いだ人物でした。エレミヤも、この王の改革の働きに賛同し、預言者として人々に偶像礼拝から離れるように訴えました。多くの反対に遭い、孤立しがちだったエレミヤにとって、この同年代の王は心の支えだったことでしょう。ヨシヤ王にとっても、自分の改革を支持してくれる若き預言者は心強い存在だったでしょう。

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三人の証人・証言
申命記19:15-21
森田俊隆

先月は申命記の各種律法のなかから安息年における負債の免除の条項を採り上げました。本日は、裁きの時に於いて、証人が一人では罪に定めることはできず、複数人の証人を必要とする、ということが言われています。この規定は十戒のうちの第九戒申命記5:20「あなたの隣人に対して、偽証してはならない」を更に具体的に示したものです。十戒に違反して偽証していても一人であれば、それが偽証かどうかも分からない、ので、複数人の証言を求めています。いわば裁判の公正さを確保するための方法を律法として定めたもの、ということができます。「証人」「証言」は現代の裁判においても証拠の一つとされ、ここにおける偽証は極めて重大な問題を引き起こします。一般の社会においても「あの人が言っていることだから間違いないであろう」ということで信ずることも日常的にあります。考えてみると重大なことが気軽に決められていることもあります。

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申命記19:15-21
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王のための挽歌
エレミヤ書22章1~12節

1.導入

みなさま、おはようございます。エレミヤ書からの説教は今回で6日目になります。エレミヤ書をじっくりと読んで、エレミヤという人物について思い巡らす時に、彼の預言者としての歩みには大きく分けて前半と後半がある、ということが見えてきます。彼の預言者人生は40年にも及びますが、そのおおよそ半ばごろ、大きな出来事、衝撃的な出来事があり、それがエレミヤの人生にも深い影響を与えました。その出来事とは何かといえば、「王の死」です。王様、あるいは指導者の突然の死は、その国に甚大な影響を及ぼすことがあります。その指導者が優れた人物で、改革の先頭に立っているような場合、それはなおさらです。私たちの記憶に新しいところでは、アメリカのケネディ大統領のことを思い浮かべるかもしれません。彼は1963年に暗殺されましたが、その死はアメリカだけでなく、日本に住む人たちにも大変なショックを与えたと言われます。そのころちょうど太平洋横断テレビ放送が始まったのですが、アメリカから届けられた最初の放送が大統領の暗殺という、なんとも忘れがたい出来事になってしまったのでした。ケネディの暗殺がなければ、アメリカは泥沼のベトナム戦争に突入することはなかったと言われています。現在のアメリカの年間軍事予算は70兆円以上もあり、日本の一年間の税収よりも多いのですが、このような異様なアメリカの軍事国家化は、ケネディが仮に8年間大統領を務めていたら、あるいは阻止されたかもしれないし、世界の歴史は変わっていたかもしれません。このように、指導者の死は、その家族や近親者だけでなく、一国の運命、ひいては世界の運命にも影響を及ぼし得るものです。

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召命、再び
エレミヤ書15章15~21節

1.導入

みなさま、おはようございます。先週は幸いなペンテコステ主日礼拝を献げることができましたが、今日から再びエレミヤ書から学んでまいります。今日の説教タイトルは「召命、再び」です。エレミヤ書からの最初の説教が「エレミヤの召命」でしたが、一度神に召されたエレミヤが、再度その召しを新たにされる、というのが今日のメッセージの内容です。では、なぜ召しを新たにされる必要があったのかといえば、それはエレミヤが一度自らの召命を見失ってしまう、神の召しに背を向けてしまうという、そういう状態に落ち込んでしまったからです。どうしてエレミヤはそのような状態に落ち込んでしまったのか、また神はどのようにしてエレミヤを再びその使命へと呼び戻したのか、そのことを考えて参りたいと思います。

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聖霊に従って歩むとは?
ガラテヤ書簡5章13-25節

1.導入

みなさま、おはようございます。そしてペンテコステおめでとうございます。今日は、ペンテコステ主日ということで、エレミヤの連続説教をお休みして、「聖霊」をメッセージの中心に据えてお話ししたいと思います。

ここで皆さんと少し考えてみたいのですが、私たちは祈りの生活のなかで、どれくらい「聖霊」を意識しているでしょうか。祈る時に私たちは「天におられる父よ」と呼びかけ、私たちのこころは父なる神に向けられています。また、「イエス様、助けてください」、「イエス様、お願いします」と、主イエスに直接呼びかけることも多いですし、また祈りの締めくくりでは「イエス・キリストの聖名によって祈ります」と、父なる神への祈りも、仲保者であるキリストを通して祈っています。しかし、「私たちのうちにおられる聖霊様」ですとか、「聖霊様を通じて祈ります」とはほとんど言わないのではないでしょうか。でも、実際には私たちの祈りにおいて、聖霊ほど大事な方はいないとすら言えます。例えば使徒パウロは次のように言っています。ローマ書8章26節をお読みします。

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屠り場に引かれる羊
エレミヤ章11章18節-12章6節

1.導入

みなさま、おはようございます。この2か月の間、私たちの関心を占め続けてきたコロナウイルス問題も、ようやく収束が見えてきたように思います。もちろん現段階で油断することはできませんが、だんだんと普通の生活が戻ってきています。しかし、そうなってくると、私たち日本に暮らす者がどうしても向き合わなければならない現実が頭をもたげてきます。それは地震です。地震の脅威については、それこそ予言のように常に言われ続けてきました。東海大地震、首都直下型地震、南海トラフ大地震、そして最近では北海道で地震に対する注意が喚起されています。まさに日本は地震列島であり、地震は日本に暮らす者が避けて通れない宿命だといえるでしょう。

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負債の免除
申命記15:1-11
森田俊隆

*当日の説教ではこの原稿の一部を省略して話しています

今日は申命記の中でモーセが述べた律法のなかから一つを採り上げます。申命記の12章から26章は十戒以外の各種律法が述べられているところです。カソリックのフランシス会訳によると51項目の律法が述べられている、ということになっています。ユダヤ教の中では律法は整備されて結局最後は613個の戒めということになりました。先ほどお読みいただいたのはそのうちの一つで、安息年における「負債の免除」の部分です。簡単に言えば、7年目になったらすべての借金はなかったことにしなさい、というものです。私は銀行に勤めていましたが、そんなことをしていたら銀行業は成り立ちません。いくら昔のこととはいえ、この律法は守られたのでしょうか。信じられませんね。

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嘲られる預言者
エレミヤ書17章5~18節

1.導入

みなさま、おはようございます。エレミヤ書からの説教は今日で三回目になりますが、第一回は1章から、第二回は2章からだったのに、今日はいきなり17章にまで飛んでしまうのか、と驚かれたかもしれません。そこで、この点について少しお話させていただきたいと思います。エレミヤ書は、預言者エレミヤの40年にも及ぶ活動を記録していますが、エレミヤ書は年代順に書かれているのではありません。例えばエレミヤ書の7章には、エレミヤがだいたい40歳のころの有名な『神殿での説教』が収録されていますが、その話の続きはいきなり26章にまで飛んでしまうのです。そして7章と26章の間には、いろいろな場面の様々な預言が含まれています。どうしてそうなのかと言えば、エレミヤ書とは、エレミヤが自分で書いたものではないからです。エレミヤが死んだ後に、彼のお弟子さんたちが師匠の預言の言葉を集めて、それを一つの書にまとめたのです。そしてお弟子さんたちはエレミヤの言葉を年代順には並べませんでした。エレミヤの若いころの言葉と、様々な経験を経て熟練の預言者となった時の言葉とを、一緒にしている場合が多いのです。ですからエレミヤ書を深く理解するためには、エレミヤのそれぞれの言葉がどんな状況において語られたのかを知る必要があるのです。

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イスラエルの背信
エレミヤ書2章1~19節

1.導入

みなさま、おはようございます。先週からエレミヤ書を学んでいますが、今日の聖書箇所はエレミヤの40年にも及ぶ預言者としての働きの中でも、特に初期のころの預言です。その中心的なテーマは「偶像礼拝」です。この偶像礼拝の問題は、エレミヤ書に限らず、実に旧約聖書全体の一大テーマだといってよいでしょう。さらには、偶像問題は新約聖書でも大きな問題です。パウロはローマ人への手紙の冒頭で、人類の罪として

それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。(ローマ1:25)

と糾弾しています。実に人間の堕落は、真の神を神とせずに、偽りの神々を拝むことから始まりました。人間の様々な罪のルーツ、根本は「偶像礼拝」にあるのです。偶像礼拝とは、生ける真の神を捨てて、人間が自分の手で作った金銀あるいは木製の像を神として拝むということです。また、生きている者、つまり人間を神として拝むという偶像礼拝もあります。人間を神として礼拝する習慣は、特に人となられた神であるイエスが出現してから甚だしくなってきました。実際、紀元一世紀にキリスト教が地中海世界に広まるのとほぼ同じ時期に、人間であるローマ皇帝を拝む皇帝礼拝も急速に広がっていきました。悪霊は、神のなさることを真似して、神のようになろうとする存在です。ですから、皇帝礼拝とイエスの礼拝が同じ時期に広まったのも偶然ではないでしょう。聖書はこのように、真の神以外のもの、それがモノであれ人であれ、それらを拝むことを偶像礼拝として固く禁じています。

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エレミヤの召命
エレミヤ書1章1~10節

1.序論

みなさま、おはようございます。今日から、エレミヤ書から12回ほど説教をして参りたいと思っています。今日の説教題は「エレミヤの召命」ですが、私が中原キリスト教会でこの1月に初めて説教をした時の説教題は「それぞれの召命」でした。私はこの「召命」ということをとても大切に考えています。前にも話しましたが、「召命」とは聖書に出てくる預言者たち、あるいは今日の教会で宣教活動を担う牧師たち、こうしたいわば特殊な人たちだけのものではありません。すべてのクリスチャンは「召命」を持っている、召されているということを改めて強調したいと思います。「召命」という言葉のギリシャ語の原語は「呼ぶ」ということです。神から召された者とは、神から呼ばれた者です。そして全てのクリスチャンは神から呼ばれたのです。神はなぜ私たちを呼んだのか、といえば、それは私たちに何らかの使命、役割を与えるためです。このことはとても大事なことです。

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