神の王国のために
マタイ福音書4章1~11節

1.導入

みなさま、クリスマスおめでとうございます。言うまでもなく、今年は本当に大変な年でした。私はこの4月から当教会の牧師として赴任しましたが、赴任した翌週には政府から緊急事態宣言がなされ、これからどうなってしまうのかという不安の中にいました。そんな中でも、私たちの教会は十分注意をしながらですが、通常通りの礼拝を主に献げ続けることができ、休むことなくこのクリスマスを迎えることができました。そのことを主に感謝し、また皆様一人一人の祈りと献身に感謝したいと思います。

そうはいっても、コロナの第三波は留まるところを知らないようです。私たちは自分たちでできることを精一杯していますが、私たちの努力には限界があります。こんな時こそ、権限を一手に集める政治のリーダーが適切に私たちを導いてくれることを期待してしまいます。それは日本でもアメリカでも同じでしょう。独裁政権の国とは違って、日本のような民主主義の国では、リーダーは私たち自身が選べることになっています。しかし、自分たちが選んだはずのリーダーでも、その政治に心から満足するということは少ないように思います。特に大きな期待を受けて始まった政権が期待外れだと、その落胆もなおさら大きくなります。私たちみんなの期待に応えてくれるような、理想的なリーダーはいないものでしょうか?どうすればそのようなリーダーを見つけることができるでしょうか?

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エフタとサムソン
士師記11:1-6; 13:1-7
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

本日は士師記四大士師の二回目です。エフタとサムソンです。エフタの話はイスラエル人がヤハウェ信仰からはなれカナンの地場信仰に流れていくところからはじまります。カナンの地場信仰というのはバアルやアシェラに対する信仰であり、自然神・豊穣神への信仰です。そして、10:9「アモン人がヨルダン川を渡って、ユダ、ベニヤミン、およびエフライムの家と戦ったとき、イスラエルは非常な苦境に立った。」とあります。士師記の考え方はイスラエルがヤハウェ信仰から離れることが罪の始まりで、それに対する神のさばきが異民族支配です。そしてその異民族支配から独立することが神の救いの現れ、という考え方です。この考え方はユダヤ教正統派の主張であり、それは新約時代におけるメシア信仰にまでつながっています。士師記のここでもアモン人による支配は主なる神の裁きの現れです。アモン人はアンモン地方に住んでいた異民族です。今のシリアです。そのアモン人はヨルダン川の東、エモリ人の地に居たイスラエルを苦しめた、とあります。

士師記の後の話ですが、エモリ人の生き残りの部族であるギブオン人をイスラエルの初代の王サウルが虐殺しました。しかし、その後王となったダビデはサウルの子や孫七人をギブオン人に差し出し和解した、という話が第二サムエル記21章にあります。これから見ると、そもそもはエモリ人というのはイスラエルの味方の民族であった可能性は濃厚です。その民族とともにイスラエルの民はギルアデの地に住んでいた、ということです。そこにアモン人が侵入してきたのです。それが更にヨルダン川を渡って、イスラエル民族の主要な部族が居るヨルダン川西岸地区に侵入してきたのです。

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私にならう者となってください
第一コリント4章6~21節

1.導入

みなさま、おはようございます。いよいよ12月に入り、クリスマスが待ち遠しくなってまいりました。この前、道を歩いていると子どもたちが「早くクリスマスにならないかな」と話しているのが耳に入りました。どうも、プレゼントを楽しみにしている様子でした。多くの子どもたちにとって、また私自身の子ども時代を振り返ってみてもそうなのですが、クリスマスは「サンタクロース」の日だと思われているのでしょう。クリスマスに子どもたちにプレゼントを配って歩くという不思議な老人はサンタクロースと呼ばれていますが、この名前は聖ニコラウスという教会教父の名前に由来すると言われています。サンタ・マリアとは聖母マリアのことであるように、「サンタ」とはラテン系の言語では「聖」という意味です。聖ニコラウスはサンタ・ニコラウスで、それが「サンタニコラース」、「サンタクロース」となったのです。この聖ニコラウスは古代教会の教会教父の一人です。教父とはもちろん恐ろしい方の「恐怖」ではなく、教える父と書く「教父」です。私たちプロテスタント教会では牧師や教師を「父」と呼ぶことはありませんが、古代教会では教師たちは「父」と呼ばれていました。今日でもローマ教皇は「パパ様」と呼ばれますし、カトリックの神父も「ファーザー・ウイリアム」などと、父と呼ばれます。カトリックの聖職者はみな独身なので子供はいないわけですが、信徒たちにとって神父は「父」のような存在だということです。そして今日の聖書箇所でも、パウロはコリント教会の人たちに対し、自分はあなたがたの父なのだ、と訴えかけています。ですから、今日の箇所はそのような親子の関係を念頭に置いて読む箇所なのです。

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主が来られるまでは
第一コリント3章18~4章5節

1.導入

みなさま、おはようございます。今日からいよいよアドベント、待降節に入ります。毎年クリスマス・シーズンになると、教会はいろいろなイベントで大忙しになります。しかし、今年は言うまでもなくコロナ問題が重くのしかかる状況下ですので、恒例の各種クリスマス・イベントは簡素化や自粛して、礼拝だけは守ろうという姿勢の教会が多いように思います。このようなときこそ、祈りにおいて神と静かに向き合ったり、聖書を読んで自らの信仰を振り返る機会とすべきなのかもしれません。クリスマスは今や、キリスト教信仰とは関係のない楽しいお祭りとして日本中で祝われるようになっていますが、そもそもはイースター、復活祭と同じく、私たちクリスチャンにとっては厳粛な気持ちで臨むべきものです。復活祭の場合はレント、受難節がその前に来るので、キリストの苦難を覚えつつ復活の喜びを待ち望むという、私たちも身を引き締めて準備をするという意識が強いのですが、クリスマスとなると、どうも世間のお祭りムードに影響されてしまい、そういう厳かな気持ちになりづらいように思います。

しかし、待降節という言葉がいみじくも示すように、アドベントとは待つときです。それも、主が来られるのを待つという厳粛な時なのです。今日の説教では、この「待つ」ということについて考えてみたいのです。

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おのおのの仕事
第一コリント3章1~17節

1.導入

みなさま、おはようございます。来週からいよいよアドベントが始まりますが、ここ数日は夏日になろうかという温かさで、どうも季節感のない日が続いています。次週以降のアドベントですが、クリスマスの主日はもちろん特別なメッセージをしたいと思っておりますが、それまではこれまで通りコリント書簡の講解説教を続けていきます。この書簡から、クリスマス・シーズンにふさわしい説教ができると考えているからです。クリスマス・シーズンをどのように過ごすべきか、という話は次週にしたいと思っています。

さて、今日の箇所は、前回に続いてとても大事な内容です。今日の箇所では、パウロは特に教会について話しています。教会とは何か、また教会のリーダーとはどんな人たちなのか、ということを豊かなイメージを用いて語っています。イメージと言いましたが、つまりは比喩を用いて、パウロは教会とその指導者のことを説明しているのです。比喩には二通りあって、「君はバラのようだ」というように、「ようだ」を付けるのが直喩、「君はバラだ」と言い切るのが隠喩、メタファーです。君はバラだ、と言われるのは女性でしょうが、この言葉を聞いて単純に喜ぶわけにはいかないかもしれません。なぜなら、確かに良い意味では「君はバラのように美しい」という誉め言葉でしょうが、悪い方の意味では「君はバラのように棘がある、意地が悪い」という皮肉かもしれないからです。

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デボラとバラクとギデオン
士師記4:4-7; 7:4-7
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

今日は四大士師のうち最初の二名の士師についてです。まず、デボラですが彼女は女預言者と呼ばれ軍事的指導者としてはバラクを指名しますので、デボラ/バラク両者一体で士師とみられます。もう一人はギデオンです。お話の中心はあとの方のギデオンです。最初にデボラ/バラクをみます。

4:1に「その後、イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行った。エフデは死んでいた。」といわれています。モアブの王の支配からイスラエルを解放したエフデは既になく、イスラエルは主の目の前に悪をおこなった」と言われています。おそらく、カナンの地の宗教に染まってヤハウェ信仰から離れていった、ことを指ししている、と考えられます。そこで、主なる神はイスラエルをカナン王ヤビンの手に渡したと言います。カナンのそもそもの由来は、ノアの子ハムの子、クシュ、ミツライム、プテの弟カナンの系譜ということになっています。クシュはエチオピア、ミツライムはエジプト、プテはリビアを指します。カナンはフェニキアからペリシテまで含む広義のカナンの地の住民のことです。イスラエルはノアの子の内セムの系譜であり、カナン人とは民族を異にします。その王ヤビンには将軍シセラが居ました。デボラ/バラクのように対(つい)で考えるとヤビン/シセラということになります。彼らは戦車900両を持っていたと言われていますので鉄の兵器を持っていたようです。そしてイスラエルを圧迫していました。まだ税金徴収の習慣はなかったので、時々、イスラエルの民の住むところに来て略奪をしていった、ということでしょう。

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天と地をつなぐ礼拝
ヘブル書12章1~3節

みなさま、おはようございます。今日は召天者記念礼拝ですので、それにふさわしいメッセージをしたいと願って、準備してまいりました。説教には、大きく分けて二つの種類があります。一つは講解説教と呼ばれるもので、エレミヤ書や第一コリント書簡など、聖書の一つのテクストを数か月かけて、場合によっては数年かけてじっくり学んでいくという形の説教です。これは聖書テクストに沿って、聖書そのものに語ってもらおうという、そういう説教です。それに対し、もう一つの説教の種類とは「テーマ説教」と呼ばれるものです。ある一つのテーマ、主題について語る説教ですので、一つの聖書箇所にとどまらず、聖書全体を広く見渡しながら、一つのテーマについて深く考えていくのです。そして今日の説教はテーマ説教です。ですから今日お読みいただいたヘブル書12章1-3節は今日のメッセージにとってとても大事な箇所ではありますが、この箇所の以外の場所もいろいろ見ていきます。そして、今日の説教で考える中心的な問題とは、私たちここに集う礼拝者と、かつてここで共に礼拝を守っていたけれど、すでに天に召された兄弟姉妹たち、この両者の関係をどう考えるのか、ということです。今日は先に天に召された方々を思い起こす日ですが、そのことにどんな意味があるのかを考えていきたいと思います。

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世の知恵と神の知恵
第一コリント2章3~16節

1.導入

みなさま、おはようございます。11月に入りました。今日の主日は多くのプロテスタント教会では召天者記念礼拝が行われていますが、当教会では次週に行いますので、今日は通常の聖餐礼拝とさせていただきます。さて、コリント書簡からの説教は今日で四回目になりますが、今日の箇所は、先週の説教箇所の続きですので、少しこれまでの流れを振り返ってみましょう。コリントの教会には大きな問題が生じていましたが、その問題とは、分派争いでした。コリントの人たちは「パウロ派」「アポロ派」「ペテロ派」などの派閥を作って、互いに競っていました。彼らの関心の一つは、優れた「知恵」を得ることでした。ギリシャ文明において知恵は非常に高く評価されました。そこでコリントの人たちは、パウロやアポロ、あるいはペテロの中で誰が知恵において優れているのか、ということをとても気にしていました。できれば一番「知恵」の優れたリーダーに付きたい、そうすれば自分も知恵において優れた存在になれると、そう考えたわけです。そういうわけで、先週の聖書箇所にも「知恵」という言葉が何度か登場しましたが、今日の聖書箇所ではまさに「知恵」が中心的なテーマとなっています。パウロは今日の箇所で、ソフィア、これはギリシャ語の知恵という意味ですが、それは一体何であるのかを論じています。パウロは先に、「ギリシャ人たちは知恵を求める」と書いていますが、コリントで主を信じるようになったギリシャ人のクリスチャンたちは、クリスチャンになる前も、またクリスチャンになってからも、相変わらず知恵を求めていました。当時のギリシャでは、高い知恵を獲得することで、この人は優れた人だ、と社会的に尊敬されたからです。コリントの教会の人たちの中には、キリスト教の先生にも、他のギリシャの哲学の先生のように自分たちに優れた知恵を教えてくれることを期待していました。

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十字架の愚かさと力
第一コリント1章17~2章2節

1.導入

みなさま、おはようございます。10月も最後の週になりました。秋も深まってきましたが、読書の秋ですので、物事を深く考えるのにもよい時期になってまいりました。さて、前回の説教ではコリント教会に生じた深刻な問題、仲間割れと派閥争いのことを学びました。コリントの教会の人たちは、コリント教会の創設者であるパウロ、そしてパウロが去った後に、いわば二代目宣教師としてコリントに来たアポロ、さらにはコリントの教会との直接の縁はないものの、イエスの一番弟子として初代教会の間では名高いペテロ、こうした人たちを自分たちのリーダーに担ぎ上げて、互いに争っていました。なぜ彼らがそのような派閥争いに血道をあげたのかといえば、それは自分たちが他の人たちよりも上になりたい、えらくなりたいという自己中心的な思いから来ていた、ということを学びました。パウロよりペテロの方が偉い、あるいはパウロよりアポロの方が賢いならば、自分はペテロにつきたい、あるいはアポロにつきたい、そうすれば自分はパウロ派の人たちよりも偉くなれる、そんな思いから彼らは相争っていたのです。

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四大士師以外の八士師
士師記3:7-11
森田俊隆

当日の説教では、この原稿の一部を省略して話しています。

今日は士師たちのいろいろな側面を見て、士師記の理解の基本を知っておきたい、と思います。士師記には12人の士師と呼ばれる人物が登場しますが、4大士師ということができる、デボラ、ギデオン、エフタ、サムソンについては次月以降のテーマとし、これら四名の士師を除く8人の士師を見るとともに、士師全体を見て、私たちが心に留めおくべきことを申し上げておきたい、と思います。 士師記はイスラエルの英雄列伝のようなところがあり、イスラエルの庶民には自らの歴史を記憶する上の必須項目でした。単に英雄について述べているにとどまらず、部族間のいろいろな問題等も記されています。ヨシュア記のようにイスラエルのカナンの地での戦いを申命記神学に立って極端に美化しているところもなく、真実味があります。個別の士師を見ていく中で、問題のテーマにつき、お話いたします。

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士師記3:7-11
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