ヨブは悔い改めたのか
ヨブ記42:1-6
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

本日の聖書文書は「ヨブ記」です。超難解な文書と言っても差し支えないでしょう。「神義論」の文書として有名です。神義論というのは、神は完全なる義なる存在である、というのは本当か、神が意図して人間に悪をなすことはありうるのか、という問いに対し、どう答えるかの神学的議論です。ヨブ記のように義人ヨブが「理由なき苦難」を経験させられるのはなぜか、という問いにどうこたえるか、ということです。

この文書の舞台となっている場所は、ウツの地と言われています。アブラハムの兄弟ナホルの子に、この名が見られます。イスラエルの北、アラムの地です。七十人訳では、ヨブはヤコブの兄エサウの系譜の人物で舞台はイスラエルの南、エドムの地とされています。後になって登場するエリフがアラビア系の人物と考えられますので、舞台はエドムの地と推測するのが自然なように思います。ヨブという名はBC2000年期の西方セム族ではポピュラーな名前であったようです。伝承のスタートはいつかわかりませんがかなり古いかもしれません。しかし、神義論的形をとったのは比較的新しいものと考えられます。著作年代はBC5-3cと幅広い時期が、推測がされています。この時期は捕囚の民の帰還・第二神殿建設・ネヘミヤによるエルサレム城壁建設の時期を始期として、アレキサンダー大王の時代を経て、プトレマイオス朝エジプトの緩やかな支配にあった時期を終期としています。私は、他の知恵文学の著作時期とほぼ同時期の緩いエジプト支配の時代ではなかろうか、と思っています。この時期はイスラエルにおける百花斉放の時代と言ってもよいだろうと思います。中間期から新約時代へ、大きな影響を与えた文書が書かれた時代です。

この時代背景を考えながら、まずヨブ記そのもの内容をかいつまんでみて見ていきます。ヨブという人は異郷の地エドムの人間ですが、イスラエルの伝統的な信仰に忠実な人でした。そして多くの家畜を保有した富豪でした。親族のなかも良く、幸せな生活を送っていました。イスラエル伝統のいけにえ、祭儀も欠かすことがありませんでした。

実は、その時、天上で神の子、今でいう天使が神の前に集まっていました。その中にサタンもいました。主なる神、ここでは主ヤハウェの名だけが述べられていますが、その主がヨブの信仰者としての態度を誉めました。するとサタンは主が彼を守っているからで、財産を取り上げれば、話は違って、主をのろうに違いない、と言います。ここでいう、のろい、という言葉には実は、逆の意味の「祝福」という言葉が使われています。意味は「祝福」の反対のヘブル語「qa:lal」(のろい)です。このような逆転した用語の使い方が旧約聖書には、たまにあります。それはそれとして、主は、それではそうしてよい、とヨブの財産すべてが奪われることを許可します。サタンはこれを実行します。しかも子供たち全員も命奪われます。その時、ヨブは「立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、/そして言った 。「私は裸で母の胎から出て来た。 また、裸で私はかしこに帰ろう。 主は与え、主は取られる。 主の御名はほむべきかな。」/ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった」と、記されています。見上げた信仰者の態度といってよいでしょう。

再び、天上での出来事。主なる神が、さすがにヨブは大した奴だ、という趣旨のことをサタンに行ったところ、サタンはヨブの「皮の骨と肉を打つ」ことを主に求めます。今度こそ主を「のろう」にまちがいありません、と言います。これも、主は許可します。但し、命だけは奪ってはならない、ということでした。ヨブは悪性の腫物にかかり全身かゆくてしょうがありませんでした。全身帯状疱疹ということでしょうか。ヨブの妻は「神をのろって死になさい」とまで言います。この「のろって」も「祝福」の言葉の逆の意味での利用です。意味はヘブル語の「qa:lal」即ち「祝福から閉ざされた者」の意味です。ここでヨブは妻に言います。「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。」とあります。見上げた信仰です。はっきり言って、できすぎです。本心から出た言葉かな?という嫌な予感さえします。

このような事態にヨブが陥っていることを聞きつけた友人3人が見舞いに来ます。エリファズ、ビルダテ、ツェファルの3人です。エリファズはエサウの子と同じ名前ですからエドム人、ビルダテはシュアハ人と呼ばれ、アブラハムの後妻ケトラの子に、シュアハという人物がいるのでこの系譜とすると、アラビア人となり、ツェファルは、ナアマ人と言われているが系譜は全く不明。エドム、アラビアの方角のところの人物でしょう。この3人が、ヨブがこのようなひどい苦難の状況に落ち入ったのは何か罪を犯した結果、主が下された一種の罰ではないか、したがって、この罪を悔い改めれば神は元通りにしてくれるはずだ、ということを繰り返し語ります。これに対してヨブは猛然と反発し、自分は罪人と言われるいわれはない。ちゃんとした信仰者の道を歩んできた。3人の批判は絶対受け入れられない、むしろ神の方がおかしい、のではないか、と言います。ヘブライ信仰では絶対主、神に問題あり、などという不遜なことを言うことは絶対認められません。ヨブは「理由なき」苦難の下で、神の義に疑問を提示する、という、言ってはならないことまで言葉にしてしまいました。友人三人は、ほとほとあきれ、疲れて、もうヨブを相手にすることもやめて帰って行ってしまいました。

次いで、エリフという人物が現れます。この人物はブズ人と言われており、アブラハムの兄弟ナホルの子に同姓の子がいます。「ウツの地のヨブ」と称せられ、ウツの弟です。エリフはその系譜の人物と考えられます。エドム人です。エリフは友人3人がヨブを説得できなかったことを大変不満に思い、ヨブに対し、自分の持論を展開します。苦難の原因の問題には触れず、神の崇高性を強調し、「神が悪を行うなど、全能者が不正をするなど、絶対にそういうことはない」ことを強調します。これはエズラ、ネヘミヤにより確立された後期ユダヤ教の信仰です。イスラエル信仰では主なる神はもっと身近です。私は、このエリフの信仰姿勢が、「イスラム信仰」につながっているのではないか、と思っています。エドム、アラビアの信仰の在り方なのかもしれません。エリフの主張に対するヨブの反論はありませんが、ヨブとしてはエリフの主張にも全く賛同できなかったと思われます。ヨブは自分の「理由なき」苦難が降り注ぐ理由がわからないのです。しかし、ヨブは、すべては主なる神に由来するのだ、という一神教の基本は全く揺らいでおりません。イスラエル信仰は徹底的一元論であるためこのような疑問が解けない問題として出てくるのです。神と悪魔の戦いという二元論の場合は「理由なき」苦難は悪魔のなせる業、ということで、これにどう打ち勝つか、の問題となるだけです。悪魔=サタンをも神の被造物とする徹底的一元論では「理由なき」苦難はパズルです。

このエリフの弁論のあと、ついに主の弁論が始まります。そこで述べられるのは、創造者としての主なる神がこの世界の神羅万象を動かしているのである、ということを、いろいろな例を出して述べています。そして、ヨブよ、お前はそのことをなすことができるのか、知ることができるのか、と人間の限界を宣言いたします。38:16-19「あなたは海の源まで行ったことがあるのか。 深い淵の奥底を歩き回ったことがあるのか。死の門があなたに現れたことがあるのか。 あなたは死の陰の門を見たことがあるのか。あなたは地の広さを見きわめたことがあるのか。 そのすべてを知っているなら、告げてみよ。」とあります。無理難題を言っているに過ぎないように見えます。ヨブでなくとも創造者たる主なる神と被造物たる人間との力、知識の差は甚大であることぐらい知っています。

天地の動きについても主は語られています。38:31-32「あなたはすばる座の鎖を 結びつけることができるか。 オリオン座の綱を解くことができるか。/あなたは十二宮をその時々にしたがって 引き出すことができるか。 牡牛座をその子の星とともに 導くことができるか。/あなたは天の法令を知っているか。 地にその法則を立てることができるか。/あなたの声を雲にまであげ、 みなぎる水に あなたをおおわせることができるか。」と述べられています。これが今受けている「理由なき」苦難と何の関係があるのだ、と叫びたくなります。戦いに関連した言葉もあります。39:21-22「馬は谷で前掻きをし、力を喜び、 武器に立ち向かって出て行く。それは恐れをあざ笑って、ひるまず、 剣の前から退かない。」と勇敢な馬について述べています。しかし、人間のやることの中で最も大量の「理由なき」苦難を与えるものは戦争でしょう。戦死した息子のことを思い、さめざめと泣く母親を前にしてあなたはどうしますか。主なる神は、勇敢な馬を示し、私がその馬に勇気を与えたのだ、とおっしゃっているようです。この母親に、そんなことを示して何の意味があるのでしょう。

ついに、主なる神は「非難する者が全能者と争おうとするのか。 神を責める者は、それを言いたててみよ。」と決め台詞的なことを宣言します。これに対しヨブは「ああ、私はつまらない者です。 あなたに何と口答えできましょう。 私はただ手を口に当てるばかりです。一度、私は語りましたが、もう口答えしません。 二度と、私はくり返しません。」と言います。あっさりと降参です。私から見れば、そんなあっさりと主の軍門に下るのなら、最初からぎゃーぎゃー言わずにいろ、主に対し、不条理な苦難だ、ということで非難の声さえ上げときながら、この態度はなんだ、と言いたくなります。伝統的な解釈は全能の創造者の力と知識の大きさに圧倒されたヨブは神の自由なる主権を受け入れ、自分の今まで行ってきたことを改め、深く反省したのだ、というものです。伝統的なユダヤ教の信仰の理屈にはかなっているように思われます。でもこれ本当の話ですか。ヨブはそんなに物分かりの良い人物なのですか、という疑問が強く残ります。

さらに主なる神は河馬の話、牛の話、等もし、さらに人間社会への主の力の話も出てきます。41:13-14「だれがその外套をはぎ取ることができるか。 だれがその胸当ての折り目の間に、入れるか。/だれがその顔の戸をあけることができるか。 その歯の回りは恐ろしい。」とあります。するとヨブは次のように言います。今日読んでいただいた個所です。「あなたには、すべてができること、 あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、 私は知りました。/知識もなくて、摂理をおおい隠す者は、だれか。 まことに、私は、 自分で悟りえないことを告げました。 自分でも知りえない不思議を。/さあ聞け。わたしが語る。 わたしがあなたに尋ねる。わたしに示せ。/私はあなたのうわさを耳で聞いていました。 しかし、今、この目であなたを見ました。/それで私は自分をさげすみ、 ちりと灰の中で悔いています。」とあります。最後のところをもう一度読みます。「それで私は自分をさげすみ、 ちりと灰の中で悔いています。」という言葉で、「悔い改め」です。

最後のところの一節はヨブの回心をどのように理解するかによって大きく異なります。一覧表をご覧いただければ、いかにいろいろあるかがわかると思いますが、若干の例をあげます。まず新改訳2017は「それで、私は自分を蔑(さげす)み、悔いています。ちりと灰の中で。」であり、従来の新改訳とは、言葉の順序の差だけです。こんなことなら、わざわざ変えないでほしいとさえ思います。協会共同訳は「それゆえ、私は自分を退け/塵と灰の上で悔い改めます。」であり、新改訳との比較では、「自分をさげすみ」が「自分をしりぞけ」に変わっています。ヘブル語の「ma:at」は「拒否する」の意味の言葉ですから、協会共同訳の方が直訳的です。ユダヤ教の神学者ゴルディスは「それ故わたしはへりくだり/塵灰の中で悔い改めます。」であり、新改訳の訳とほぼ同じです。

しかし、旧約聖書学の神学者並木浩一先生の訳は大幅に異なっています。「それゆえ、わたしは退けます。また塵灰であることについて考え直します。」です。重要な点は「悔いています」が「考え直します」となっていることです。カソリックの伝統以来続いてきたヘブル語「na:ham」の「悔いる」という解釈を「考え直す」と理解しており、「悔いる」英語では「repent」の解釈をやめています。この「na:ham」の本来の意味は「心を変える」ですので言葉の原義に戻した、とも言えますが「悔い改め」の「悔いる」の理解をやめたことです。ヨブは悔い改めたのではない、考えを改めただけだ、ということになります。教会権威の訳ではなく一神学者の訳である、ということには注意を払ってください。「解放の神学」で有名なグティレスは「わたしは塵と灰を拒絶し、捨て去ります(これについてのわたしの考えを改めます)」であり、並木先生と同様、「悔いる」ではなく、「考えを改めます」です。「悔いる」の意味はありません。最後は、アメリカの旧約聖書学者のパーデュの訳です。英語を私が直訳しますと、「私は拒否し、塵と灰の上で慰められます」となります。「悔いる」とか「考え直す」と訳されている言葉が「慰められる」と訳されているのです。また「拒否する」の目的語は明示されていません。自然な理解では友人たちが示した絶対的超越的神理解を拒否する、という意味と思われます。「ヨブの悔い改め」は全く存在しません。「na:hanm」という言葉の旧約聖書での通常の使われ方は「慰める」の意味であり「悔いる」という意味で使われる場合は「ニファル形」という変化形の時だけです。この「ニファル形」であっても「悔いる」の意味で使用されるのはすべてではなく、「慰める」の意味で使用されている例もいくつもあります。ヨブ記だけに限って言えば、「ニファル形」はここだけであり、他はすべて「ピエル形」という変化形で「慰める」の意味です。従って、「ニファル形」であっても、「慰める」の意味で解釈する方が自然なのです。ニファル形というのは再帰形と言って、受身形のような形ですから「慰められる」という訳になります。

私は、このパーデュの解釈が正しい、と考えています。ヨブ記の記述や文脈からみて最も自然です。「悔いる」という訳はヨブが悔い改めた、と解釈したいがために、それに合わせて語句解釈をした「読み込み」解釈だと思います。しかし、ヨブの態度が神に対し反発する態度から従順な態度に180度変化したことは事実です。どうしてでしょうか。屈服したのではないことは、この変化がヨブの心からのものであることからして違います。私は、主なる神がヨブの理由なき苦難を担ってくださる、ということをヨブが確信したからだと思います。人間は脅迫や強制によっては心からの回心に至りません。軍事力で脅迫しても真の和解は得られないこと、と同じです。旧約聖書において「神顕現」と言われている出来事は神の霊が傍に寄り添い、すべての苦難、困難を主なる神が担ってくださる、ことの象徴的表現です。神顕現は夢・幻の形をとったり幻聴のような声となったり、十戒のように、なにか物を与えられたり、マリアの処女懐胎のような奇跡的出来事、戦争における奇跡的勝利のような形で現れます。この神顕現は主なる神の霊があなたの傍らに現存することを意味しており、いわゆる「インマヌエル(神我らとともにあり)」ということなのです。

ヨブ記における神の弁論という個所は「自分はこのような存在だ」とおっしゃっているだけで、いわば主なる神が私の名は「在りて、在るもの」とおっしゃったようなものです。主なる神との直接対話を強く望んでいたヨブにとってはそれで十分でした。ここに、主なる神の霊が私の傍らにいらっしゃるという確信を得たのです。それは彼の苦難を主なる神が担ってくださるということです。主なる神は言い訳がましい説明はいたしません。具体的行動で示されます。神の霊の臨在ということは感受性の鈍った我々には感じられないかもしれませんが、ヨブは生き生きとした神の臨在を確信したのです。それはヨブの信仰の深さからくるものだと思います。

このように理解すると、主なる神は苦難を与える神(「与苦の神」と呼びましょうか)であり同時に苦難を受け、担う神(「受苦の神」と呼びましょう)でもある、ということになります。私の申し上げていることは中世以来のユダヤ教、キリスト教の正統派の考え方とは違います。彼らは「受苦の神」という理解を否定します。矛盾しているといえば確かに矛盾しています。苦難を担うことまでやらなきゃならないのなら最初から苦難を与えなければよいのに、と言いたくなりますが、この矛盾の中に、主なる神が救いの技をなされるときの秘密が隠されています。このことを別の言い方で言いますと、苦難を受ける、ということが苦難を与えた創造者の責任の取り方、であるということです。一時有名になった「神の痛みの神学」はこの側面を強調しているとも言えます。また、このような矛盾した出来事を通してしか、人間は「神の無限の愛」、神の救い、を体感できない存在だ、ということでもあります。

新約聖書における主イエスと主なる神の関係を見ればこのことは明確になります。「理由なき」苦難は、「神の業(わざ)」が現れるためのものであり、個々人の責任とは無関係です。人類共同体の罪が関連していることはあり得ますが、根本は、主なる神の救いが示されるために主なる神が与えたもの、と理解できます。苦難を与えるのが神で、苦難を受けるのが主イエス、というようにも見えます。実はその両者は同じ神なのです。神の子、主イエスの受難は主なる神の受難と同じなのです。旧約ではまだ現実になってはいませんでしたが、この受苦の神がこの世に、人として現れたのが受肉です。不条理な苦難の中にさらされることが主なる神の摂理であったのです。このことは「理由なき苦難」を与える神がこの苦難を担った、というヨブ記の中に示されているということなのです。

この苦難を神の霊が担ってくれる、という確信を得た時、ヨブは慰められました。そしてその後のヨブ記の物語は、主はエリファズに「あなたは真実を語らなかった」がヨブにとりなしの祈りをしてもらいなさい、と言います。ヨブはエリファズだけではなく、ビルダテ、ツォファルにもそうします。エリフについては語られていません。エリフが言っていることは他の三人と少々違いますので、とりなしの祈りは先送りにされたのではないでしょうか。そしてヨブの財産は2倍に回復された、と言われています。家族も2倍として、回復されました。ヨブが苦難を受けたのが70歳ですから、この苦難より140年生きたというのですから240歳の長寿だったということになります。ヨブは、どこに葬られたかは記述がありません。この回復の物語はこの地上での幸いである、と無理に考えなくてもよいでしょう。このヨブの物語においては天上の世界の出来事と、地上での出来事が一体的に述べられているからです。友人へのとりなしのあとヨブが死を迎えた、と解釈したって差し支えありません。

最後に注意を喚起したいのは「真実」という言葉です。三人の友人は「神を神とする」というユダヤ教の伝統的信仰から見ると模範的なのに「真実」を語らなかった、と主なる神に判定されています。またヨブは神に対する抗議、自己を罪なき者とする不遜等の言葉にもかかわらず「真実」を語った、とされていることです。これもまた、いろいろな訳がありますが「真実」「確かなこと」「正しいこと」「正当な」というような訳があります。この言葉は「神の前に堅く立つ」という動詞からきている言葉で「確かなこと」というのが直訳的です。しかし、ギリシャ語訳ではこの言葉は「真理」という意味の「ale:the:s」が使われています。おそらく「確かなこと」という訳がヘブル語に最も忠実でしょう。しかし、ヨブの言ったことが「確かなこと」で友人の言ったことが「確かなこと」ではない、と主がおっしゃっていることになります。あの神の義に対し大いなる疑問を投げかけたのが、「確かなこと」であり神の前に恥としない、言葉だったというのです。ユダヤ教的絶対的超越的存在として神に、対することは主なる神の前に真実ではなく、事実でもない、ということになります。理由なき苦難に抗議の声を上げるのは主なる神の前に真実な態度であり、主なる神は甘んじて受ける、ということをおっしゃっているのです。

神への抗議は旧約聖書の他の個所にもあります。ハバクク書1:2「主よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、 あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか。 私が「暴虐」とあなたに叫んでいますのに、 あなたは救ってくださらないのですか。」の個所が有名です。不条理に対し、このような事態をもたらした、もしくは介入を避けている神に対し抗議してよいのです。神の前に吐き出すべきです。神に隠れて復讐などやってはなりません。主なる神がこの苦難を引き受けてくださることが約束されているのですから。アブラハムのソドム、ゴモラに関する神への祈り「アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。」」も抗議の一つと言っても良いかもしれません。神は思いなおされました。復讐の詩編と言われているところではイスラエルの信仰者が神に復讐の実行を願っています。強烈な神への要求書の提示です。これらの聖書箇所の中で、主なる神の前ではすべてを自分に正直にさらけ出して良いのだ、ということが知られます。それは、抗議でも、要求でも、恨み、つらみでも、果ては神を否定する言葉も許されているのです。ヨブは高慢の罪を犯したがそれに気づかされて悔い改めたのだなど、ものわかりの良い人がいますが、そんなの「真実」「確かなこと」ではありません。自分の感情を含め、すべてを洗いざらい主なる神に申し上げることが主なる神への「真実」であり、神の前に確かな態度なのです。

ヨブは主イエスではありません。「理由なき」苦難を担う方が具体的にこの世に現れることまでは想像していなかったでしょう。しかし、主なる神は受肉をもってしか、神の救いを見ることができない人間の現実を見て、奇跡の技をもって神の子を誕生させたのです。彼は苦難を受けることが運命づけられた人です。その主イエスが私たちに「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」とおっしゃられています。主イエスがあなたへの「理由なき苦難」を引き受けてくださる、とおっしゃっているのです。一言、祈ります。 (ご在天の父なる御神様、今日はヨブ記から学びました。ヨブは、主なる神の権限により、「理由なき苦難」を主なる神が担ってくださる、というインマニュエルの神を体感し、大いなる慰めを得たのです。また、ヨブは真実を語った、と言われています。一見、不遜に見える言葉であっても主なる神は、すべてを洗いざらい、ぶつけてくる方を望んでいらっしゃる、ということと思います。私たちの中には、復讐心も含め、どろどろしたものは沢山あります。すべてを、正直に吐き出しなさい、と勧められている主に感謝いたします。今の我々には、これらすべてを示した主イエスが与えられています。感謝と賛美をささげます。我らの主、イエス・キリストの御名により祈ります。アーメン)

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