エルサレム教会への献金(2)
第二コリント9章1~15節

1.導入

みなさま、おはようございます。今日の説教は、先週に続いてエルサレム教会への支援募金、支援献金のお話です。前回と今回の箇所は、第二コリントでは8章と9章に分かれていますが、内容的は同じか、同じとまではいかなくてもかなり重複していると感じられたかもしれません。ではなぜパウロは同じような話を繰り返しているのでしょうか。この疑問についてパウロ書簡を研究している学者の間では、8章と9章はもともと別々の手紙で、その二つの手紙がこの第二コリント書簡に並んで収録されたのだとする説が有力です。私自身は、その説に100パーセント合意しているわけではありませんが、あり得ることだと思います。例えば私たちの例で考えても、東日本大震災で被災した教会への支援募金を訴える場合、アピール文は一回だけでなく、二回・三回と繰り返されます。パウロも、前回にもお話ししたようにエルサレム教会への献金に、それこそ命を懸けて取り組んでいたので、同じような趣旨の手紙を二回コリント教会に送るというのは十分考えられるからです。また、8章と9章の内容は似て非なるものなので、それぞれじっくり読むに値します。こういう言い方は変かもしれませんが、みことばの有名度合いという点では、この9章の方が私たちにはなじみ深いものだと思います。私たちが使っている同盟教団所定の月定献金袋に書かれているみことばも、この9章から取られたものです。

さて、先ほど東日本大震災の話をしましたが、当時のエルサレム教会も、ある意味で被災地の教会に比べられるほどの苦境にありました。エルサレムが大地震に見舞われたということではもちろんありません。しかし、当時非常に深刻な飢饉が繰り返し起きていたのも確かです。ですからエルサレムの民衆は、お金持ちの大祭司たちを除けばみな生活が苦しかったのです。その中でも、イエスを信じるユダヤ人たちはユダヤの相互扶助ネットワークからのけ者にされていたので、周囲の人たちから支援を受けられず、一層苦しい立場にいました。エルサレム教会の苦境を伝え聞いたパウロは、なんとか飢饉に苦しむエルサレム教会を助けたいという思いがありました。また、パウロは自分にはその義務があることを自覚していました。ガラテヤ書2章によれば、パウロはペテロやヤコブのようなエルサレム教会の重鎮たちとの間である取り決めをしています。パウロは異邦人信徒には割礼を受けさせないという方針で伝道していましたが、それに反対する宣教師たちもいました。ヤコブやペテロらのエルサレム教会のリーダーはその問題について、パウロの立場を認める裁定を下しています。パウロは、いわばその見返りとして次の約束をしたと書かれています。ガラテヤ書2章10節です。

ただ私たちが貧しい人たちをいつも顧みるようにとのことでしたが、そのことなら私も大いに努めて来たちところです。

ここでパウロが「貧しい人たち」と言っているのは一般的な意味での貧しい人のことではありません。むしろ、エルサレム教会の貧しいクリスチャンのことです。ですから分かりやすく言えば、パウロはペテロたちに、律法を軽視して伝道しているという評判が立っていたパウロに不満を持つ他の保守的な教会の指導者たちを押さえてもらう見返りとして、エルサレムの貧しい信徒たちを助けるという約束をしていたのです。パウロはどうしてもこの約束を果たしたいと思っていました。ですからパウロは何度でも、コリントの異邦人信徒たちに献金・募金のアピールをしたのです。

2.本文

さて、では9章を見ていきましょう。1節にはこうあります。

聖徒たちのためのこの奉仕については、いまさら、あなたがたに書き送る必要はないでしょう。

ここでの「聖徒たち」というのは、エルサレム教会の人々のことです。もっとも、パウロはコリント教会の人たちのことも「聖徒たち」と呼んでいますから、エルサレム教会を特別に「聖徒」と呼んでいるわけではありません。つまりこれは聖徒同士の助け合いだということです。ここでパウロは、エルサレム教会の聖徒たちのための献金とは言わずに、奉仕だと言っています。「奉仕」という言葉はディアコニアというギリシア語で、宣教という意味合いもあります。実際、12使徒の働きを表すためにもこの言葉が用いられています(使徒1:25)。ですからパウロは、このエルサレム教会への献金が、人々にキリストを宣べ伝える伝道と同じ性質のものである、非常に大切なものだとみなしていたのです。パウロは、「いまさら、あなたがたに書き送る必要はないでしょう」と言いながらも、それでも実際はこの件について熱心に書いています。いまさら書く送る必要がなかったのだけれども、今やそうする必要が生じてしまったのです。それはなぜかと言えば、コリント教会の人たちはこのエルサレムへの献金を集めるのを中断してしまっていたからでした。コリントの人たちは、昨年ごろから熱心にエルサレム教会のための募金活動をしていました。パウロは次の2節で、こう書いています。

私はあなたがたの熱意を知り、それについて、あなたがたのことをマケドニヤの人々に誇って、アカヤでは昨年から準備が進められていると言ったのです。

アカヤとはギリシアの州の名前で、コリントはそのアカヤの首都でした。ですから、アカヤというのはコリント教会です。コリント教会は他の教会に先駆けて、エルサレムへの献金集めに着手していました。さて、先週お話ししたように、パウロはこの第二コリントの手紙でコリント教会の人たちに、マケドニア地方の教会、ピリピやテサロニケ教会の信徒たちはエルサレムのためにすごく頑張って献金している、だからあなた方も彼らを見倣って献金しなさい、とハッパをかけていたことを学びました。しかしパウロは、実はマケドニア教会の人たちに対しても以前同じことをしていたのです。パウロはピリピやテサロニケの人たちに対し、アカヤ地方の州都であるコリント教会では、昨年から熱心にエルサレムへの献金プロジェクトが進められている、だからあなたがたも負けずに頑張ってほしいとアピールしていたのです。マケドニアではコリント教会のことを褒めて、他方でコリントではマケドニア教会のことを持ち上げていたということになります。パウロは双方を競わせていたのではないか、そうやって献金集めを盛り上げようとしたのではないかと勘繰りたくなるかもしれません。別にパウロに悪気はなかったと信じますが、ただ物事をありのままに見れば、少なくとも結果としてパウロはこれらの教会を競わせていたことになると思います。私としては、正直、他の教会と自分が仕えている教会を比較したり、競わせたりしたくはありません。ですから、パウロのこのやり方は反面教師として受け止めています。

繰り返しになりますが、パウロはピリピやテサロニケ教会に対して、コリント教会のことを盛んにほめて、彼らもエルサレム教会に参加するように促したということがありました。しかし、そのコリント教会がパウロとの感情的なもつれから、パウロにはもう協力できないと、この献金プロジェクトを中止してしまいました。そうすると、マケドニア教会の人に対してコリントを盛んにほめていたパウロの面目も、そしてコリント教会そのものの面目も潰れてしまう、そうならないために、なんとしてもコリントでは献金プロジェクトが再開してもらわないと困る、そうパウロは焦っていたことでしょう。そして、「悲しみの手紙」の説教でお話ししたように、テトスの活躍もあって、パウロとコリント教会との関係は一旦は落ち着きました。それで、先週もお話しした通りに、パウロは再度テトスを献金集めのためにコリントに遣わし、彼の同行者としてマケドニア教会の信徒二人もこれからコリント教会に派遣しようとしています。そういう背景で書かれているのが3節、4節です。お読みします。

私が兄弟たちを送ることにしたのは、この場合、私たちがあなたがたについて誇ったことがむだにならず、私が言っていたとおりに準備していてもらうためです。そうでないと、もしマケドニヤの人が私といっしょに行って、準備ができていないのを見たら、あなたがたはもちろんですが、私たちも、このことを確信していただけに、恥をかくことになるでしょう。

当時のギリシア・ローマ社会は何よりも名誉を重んじ、恥を嫌う文化でした。パウロはマケドニア教会の人たちに、コリント教会は素晴らしい、熱心に献金していると盛んに自慢していました。しかし、では実際にコリントに行って見たら、全然献金が集まっていなかったということになってしまうと、マケドニア教会に対するコリント教会の面目丸つぶれです。コリント教会だけでなく、パウロたち宣教チームも恥をかきます。コリント教会の人たちも、パウロにこう言われてしまったら、必死で献金を集めるほかなくなるでしょう。しかし、後ほどパウロとコリント教会の関係が悪化するという事実から見れば、パウロのこのやり方は少なくとも一部のコリント教会の人たちから好意的には見られなかったものと思われます。

このように、パウロのやり方、募金のアピールの仕方そのものにはいくらか疑問が残るものの、しかし逆に言えば、それほどパウロはこの献金について真剣だったとも言えるでしょう。5節ではこの献金について「贈り物」と訳されていますが、これは直訳すれば「祝福」という言葉です。でも、献金が祝福だ、というのはどういう意味なのでしょうか。聖書では、祝福という言葉の主語は、基本的に神です。人に祝福を与えるのは神だからです。ですから、コリント教会がエルサレム教会に祝福を与える、というのは基本的にはありません。パウロもそういう意図で、「祝福」という言葉を用いたのではないように思います。むしろ、神はコリント教会を通じてエルサレム教会を祝福しようとしている、という意味ではないかと思います。さらに言えば、コリントはこのように神の祝福のご用のために用いられることで、彼ら自身も神から祝福されるだろうと、そういうニュアンスも含まれているように思われます。コリント教会がこの献金を神の祝福としてエルサレムに送ることは、巡り巡って彼らへの神の祝福となるだろうとパウロは言っているということです。

さて、次の6節以降ですが、私はここを読んでいると、私の祖母、おばあちゃんの話していたことを思い出します。祖母は、たらいの中の水を自分の方に持ってこようとするとかえって水は遠ざかってしまい、反対に水を自分の方から外に押し出すようにすると水は自分の方にたくさん戻って来る、とよく話していました。その話のポイントとは、自分の持ち物を自分のものだと独り占めしてため込もうとすると、かえってそれは減ってしまい、むしろ他の人に気前よく与えた方が結局は自分の所にもっと多くのものが返ってくる、それを教えようとしたのでした。祖母は熱心な仏教徒でしたが、立派な人で、本当に気前の良い人でした。パウロも6節で、祖母と同じことを言っています。

少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。

献金というのは、自分の持ち物を手放すことであるように思えるかもしれません。しかし、私たちが自分のものだと思っているものはすべて神から頂いたもの、もっと言えば神から預かっているものです。それを献金したり、あるいは困った人に与えたりすることは、神のものを神に返すことでもあります。しかも神はその返されたものを、もっと大きな祝福としてあなたに再び与えてくださる、そうパウロは言っているのです。また神は、与えたいと願う人に、そうするために必要なものをあらかじめ与えてくださると、そうパウロは言っています。

パウロは9節で、今日交読文で読んだ詩篇112篇9節から引用しています。ただ、パウロはギリシア語訳旧約聖書から引用しているので、私たちが使っているヘブル語から訳した旧約聖書とは少し違っています。ヘブル語からの訳の方は、

彼は貧しい人に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠に堅く立つ。

となっています。とってもよいみことばですね。あとで詩篇112篇を、その前の詩篇111篇と続けて読んで下されば分かりますが、詩篇111篇では神が人々に必要な物を与え、112篇では神を恐れる人が人々に必要な物を与える、そういう流れになっています。ですから、貧しい人に惜しみなく与える人というのは、神のなさっていることに倣っているのです。それが聖書のいう救い、つまり私たち罪ある人間が、人間本来の姿、神の似姿、神のイメージを取り戻すということなのです。神が憐み深いように、私たちも憐み深くなる、これこそが聖書の提示する私たちのあるべき姿なのです。そして、繰り返しますが、神は与えようとする人に、あらかじめ与えるべきものを備えてくださいます。10節の、「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方」とは、もちろん神様のことなのです。神様は与える人に、与えるものの種となるものと、また与える人自身が必要とするパンを備えてくださるのです。

11節以降では、このエルサレム教会のための献金が、神への感謝と賛美を生み出すことになる、ということが語られています。みなさんも、エルサレム教会の人たちの立場に立って考えてみてください。皆さんもよく分かると思いますが、皆さんが一生懸命必要な物を神様に願っていて、その願っていたものがある日ついに届けられたとき、もちろん届けてくださった人、送ってくれた人に感謝しますが、それにもまして、神様に感謝をするでしょう。そのすべての背後に神の業があるからです。ですから、貧困に苦しむエルサレム教会の人たちに、異邦人教会からまとまった額の献金が届けられたとき、彼らはまっさきに神に感謝をささげることでしょう。そしてもちろん、エルサレム教会の人たちは、まだ会ったこともないギリシアや小アジアの、同じくキリストを信じる信徒たちが自分たちのためにしてくれたことを心から感謝するでしょう。そのことが13節に書かれています。

このわざの証拠として、彼らは、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であり、彼らに、またすべての人々に惜しみなく与えていることを知って、神をあがめることでしょう。

エルサレム教会の人々は、この献金を通じてコリント教会が「キリストの福音の告白」に従順であることを知るようになる、こうパウロは記しています。これは大切なことを言っています。例えば、夫婦の間で夫が妻に「愛しているよ」と口で言っても、そのことが少しも行動に反映されていなければ、その愛を疑うでしょう。同じように、口で「神様、あなたを信じます、愛します」といくら告白しても、行動が伴わなければその告白が本心から出たものかを疑うでしょう。しかし、神の御心に添ったエルサレム教会への献金は、コリント教会の信仰告白が本物であることを証明したのです。そしてそれは、エルサレム教会のユダヤ人たちに、異邦人たちへの従来の見方を改めさせることにもなるでしょう。イエス様が来られるまでは、異邦人は真の神を知らぬ偶像礼拝者でした。その異邦人が、今やパウロたちの伝道によって真の神を知るようになり、旧約の時代を通じて神の唯一の民であったユダヤ人を助けるまでになったのです。神の祝福が、いよいよユダヤ人の垣根を越えて全世界に及ぶ時代が到来した、そのことによってユダヤ人たちはますます神をあがめるようになる、これがパウロの言おうとしていることです。こうして、パウロの宣教の目的である「ユダヤ人も異邦人もない」教会、ユダヤ人と異邦人の和解の証しである教会が立て上げられます。そのような偉大なプロジェクトに参加できること自体が、コリントの人たちにとって大きな恵みだったのです。

3.結論

まとめになります。先週、今週と2回にわたってエルサレム教会への献金を訴えるパウロのことばを学んできました。エルサレム教会への献金にはいろいろな意味がありました。それは、神の民の共同体の中に平等を実現するためのものであり、また与えることを通じてさらに豊かになる、そういう機会でもあります。主イエスも、「受けるよりも与えるほうが幸いである」(使徒20:35)と言われましたが、コリント教会はこの献金活動を通じてさらに霊的に豊かになることができました。そして忘れてはならないのが、この献金がユダヤ人と異邦人の和解のしるし、「ユダヤ人も異邦人もない」教会のしるしであったということです。 

私たちもまた、世界に広がる神の共同体の一員として、他の教会から助けられたり、あるいは他の教会を助けたりしてきました。私たちの助け合いが、人種を超えた真にユニバーサルな教会を立て上げることにつながりますし、それはひいては世界の平和づくりにも貢献するでしょう。そのような願いと自覚を持って、今後も歩んで参りましょう。お祈りします。

ユダヤ人も異邦人もない教会を今も立て上げておられる神様、そのお名前を賛美いたします。二回にわたって、エルサレム教会への献金について学びました。そのことから、私たちが日常的に行っている献金の意味を改めて考えさせられました。私たちも奉仕や献金を通じて、ユニバーサルな教会の建設に少しでも貢献できるように、強め、また必要な物をお与えください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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