エルサレム教会への献金(1)
第二コリント8章1~24節

1.導入

みなさま、おはようございます。先週は、パウロとコリント教会の信徒との対立、そして和解に向けての双方の努力ということについてお話ししました。今日の箇所では、内容が一転してエルサレム教会への献金がテーマとなっています。エルサレム教会への献金についてはこれまで何度かお話ししていますが、これはパウロの伝道生涯を考えるうえで極めて大切な事柄です。どれくらい大切かというと、パウロはこのエルサレム教会への献金のために命を懸け、そして実際にそのために命を落とした、それくらい重要な事柄でした。パウロは逮捕されて殺される危険があるにもかかわらずエルサレムへの最後の旅行をしました。それは、この献金をどうしてもエルサレム教会に自分自身の手で届けたかったからです。ではなぜエルサレム教会への献金がそんなに大事なのかと言えば、それがパウロにとって非常に大切なヴィジョンを体現するものだからです。パウロが抱いていたヴィジョンとは、「ユダヤ人も異邦人もない」教会、民族の垣根を乗り越えた、世界中のあらゆる民族が一つになる教会というヴィジョンです。私たち日本の教会で言えば、「日本人も外人もない」教会、人種や民族の違いを超えた真にユニバーサルな教会ということになるでしょう。

でも、コリント教会がエルサレム教会のために献金することが、なぜユニバーサルな教会を立て上げるためにそんなに大事なのでしょうか。なぜ他の教会、例えば他の有力な教会であるアンティオキア教会への献金ではないのでしょうか。それは、エルサレム教会が「ユダヤ人」という一つの民族グループを体現する教会だったからです。アンティオキア教会には異邦人もユダヤ人もどちらもいましたが、エルサレム教会はほぼユダヤ人だけで構成されていたからです。ですからほとんどが異邦人で構成されているコリント教会がエルサレム教会に献金を送ると言うことは、異邦人がユダヤ人を助けるという象徴的な行為、画期的なことだったのです。

キリストが現れる前は、ユダヤ人と異邦人との間には敵対的な関係がありました。神から選ばれた唯一の民であるユダヤ人から見れば、外国人、異邦人はみな真の神を知らない罪人で、汚れた存在、付き合ってはいけない人々でした。例えば使徒ペテロは、使徒の働きの10章28節でこう言っています。「ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり、訪問するのは、律法にかなわないことです。」このように、ユダヤ人は外国人と交際しない、外国人と親しく付き合うのは神の御心に反しているという、こういう姿勢を堅持していました。ユダヤ人と外国人、異邦人の間には敵意という厚い壁が存在していたのです。そして、この敵意の壁を壊したのがイエス様でした。パウロはエペソ教会への手紙2章14節でこう書いています、「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」ここでいう二つのものとはユダヤ人と異邦人のことです。パウロはイエスの十字架の目的は、ユダヤ人と異邦人の隔ての壁を壊すためだったと信じており、パウロもユダヤ人も異邦人もない、一つの新しい神の民を作るためにその生涯を捧げました。

実際、エルサレム教会は非常に困難な立場に置かれ、助けを必要としていました。エルサレム教会のユダヤ人たちは、イエスをメシアとは信じない、それどころかイエスをユダヤ当局によって公式に処刑された犯罪者だと思うようなユダヤ人に囲まれて、敵対的な状況の中で生活し、経済的にも困窮していました。そのようなユダヤ人クリスチャンを、異邦人のクリスチャンが助けること、それこそがユダヤ人と異邦人の和解の証だ、そう信じてパウロは異邦人教会において一生懸命献金集めをしていたのです。

このようなユダヤ人と異邦人という、大きな民族問題に加えて、パウロの個人的な事情もありました。実は、パウロはエルサレム教会との関係がうまくいっていなかったのです。パウロはローマ人への手紙の15章31節で、「エルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるものとなりますように」と祈っていますが、パウロは自分がエルサレム教会に持っていく献金がもしかすると受け取ってもらえないのではないかと、そんな不安を抱いていました。というのも、パウロはエルサレム教会のリーダーの一人であるイエスの一番弟子のペテロと気まずい関係にあったからです。ガラテヤ書2章によれば、使徒ペテロは律法遵守を徹底してほしいと注意するユダヤ人信徒たちの声を聞き入れて、律法を守らない異邦人信徒との食事を控えたのですが、その彼をパウロは皆の前で面罵しています。しかし、ペテロにはペテロの難しい事情がありました。彼はユダヤ人伝道に重荷を負っていましたから、その彼が神の律法を守っていないなどといううわさが立てば、ユダヤ人伝道には大きなマイナスだったからです。ペテロも異邦人信徒との食事を続けたかったのですが、しかしユダヤ人伝道にはマイナスになるのであれば、それを断腸の思いで諦めなければならなかったのです。ですからパウロのペテロへの非難は理解できるとはいえ、見方によっては大人げないものとも言えました。それ以来、パウロとエルサレム教会との関係は必ずしも良好なものとは言えませんでした。ですからパウロは、自ら献金を届けることで、個人的にもエルサレム教会の人たちと和解がしたいという、そういう思いを抱いていました。こういう事情から、パウロは熱心にエルサレム教会への献金をコリントの人たちに呼びかけたのです。

2.本文

さて、では8章の内容を詳しく見ていきましょう。パウロはコリント教会に献金を呼びかけるにあたり、まず他の教会のことについて言及しました。個人的には、私はこのパウロのやり方はどうなのかなと思います。他の教会も頑張っているから、あなたたちも負けずに献金しなさい、というのはちょっとどうだろう、ということです。献金は競争ではないのですから。しかし、パウロとマケドニアの諸教会、つまりテサロニケ教会とピリピ教会との関係は非常に良好でした。それでパウロも、ついそうした教会を褒めたくなってしまったのかもしれません。パウロはコリントで伝道活動をしていたころ、コリント教会からは献金を受け取らず、マケドニアの教会、ピリピやテサロニケ教会から支援を受けていました。こうした教会の方がコリント教会よりも貧しかったにもかかわらず、です。そのマケドニアの教会は、パウロの呼びかけに応えて、エルサレム教会への献金も熱心に行っていました。これらの教会は厳しい迫害に遭い、経済的にも苦しかったのにもかかわらず、そうしたのです。パウロは彼らのことを、2節から4節までに詳しく書いています。

苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。

ここでの「彼ら」とは、ピリピやテサロニケ教会の信徒であり、「聖徒たちをささえる」とは「エルサレム教会のユダヤ人信徒たちをささえる」という意味です。これらの教会の人たちは、自分たちの力を超えたような額をエルサレム教会のためにささげたのでした。そしてパウロは、コリント教会の人たちにもテサロニケやピリピ教会のような積極さを求めたのです。それが6節に書かれています。

それで私たちは、テトスがすでにこの恵みのわざをあなたがたの間で始めていたのですから、それを完了させるよう彼に勧めたのです。

ここで突然テトスが出てきますが、テトスは以前からコリント教会で、エルサレム教会への献金を募る役回りをしていたからです。コリント教会での献金集めは、しかしパウロとコリント教会との関係が悪化した時に一度中断されてしまいました。けれども、テトスが使者としてパウロの「悲しみの手紙」をコリント教会に運んだ結果、パウロとコリント教会との関係は一応正常化しました。そこでパウロは再びテトスをコリント教会に遣わし、エルサレム教会への献金集めを完了させようとしたのです。

さて、7節以降でもパウロはコリント教会の人たちに、エルサレムへの献金を熱心に勧めます。パウロはコリントの人たちが、信仰にもことばにも知識にも熱心にも愛にも富んでいると、まるで褒め殺しのように彼らを讃えます。ほかのところではコリント教会の人たちに厳しいことを言っていたのに、パウロ先生少し調子が良くないですか、とつい言いたくなります。しかしパウロが言いたかったのは次のことでした。それは、「この恵みのわざ」、つまりエルサレムへの献金においても富むようになってください、ということです。そして8節では、「他の人々の熱心さをもって、あなたがた自身の熱心さを確かめたいのです」となっていますが、これはちょっと分かりづらいですね。これは新改訳の2017年版の方が分かりやすいので、その訳をお読みしますが、「他の人々の熱心さを伝えることで、あなたがたの愛が本物であることを確かめようとしているのです」となっています。「他の人々の熱心さ」とは、テサロニケ、ピリピ教会の信徒たちの熱心さです。彼らの話を聞かせることで、コリント教会の人々の愛が本物かを確かめたい、テストしたいとパウロは言っているのです。

マケドニアの教会の人たちの熱心さについて言及したパウロは、今度は最も重要な方、つまりイエス様の熱心さについて言及し、コリントの人たちもイエス様に倣うようにと促します。こう書いています、「すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」パウロがここでイエス様について言及した理由は、富んだイエス様があなたがたのために貧しくなられたように、富んだあなたがたコリント教会の人たちも、貧しいエルサレム教会のために与えるのを惜しんではならない、そう伝えたかったのです。実際、コリント教会の人たちは他の教会に先駆けてエルサレム教会への献金を始めていました。「あなたがたは、このことを昨年から、他に先んじて行っただけでなく、このことを他に先んじて願った人たちです」と書いているように、彼らは最初はエルサレム教会への献金に積極的でした。しかし、牧師であるパウロとコリント教会との関係がおかしくなり、この献金集めは中断されてしまいました。そこでパウロは、「ですから、今、それをし遂げなさい」と訴えています。

しかし同時に、パウロはコリント教会の中の貧しい人々のことも忘れてはいませんでした。第一コリントで学んだように、コリント教会は経済的な格差の大きい教会でした。豊かな信徒と、経済的に苦しい信徒が混在していたのです。貧しい信徒たちにとって、エルサレム教会への献金を呼びかけるパウロの声は大きなプレッシャーになってしまったかもしれません。そこでパウロは、「もし熱意があるならば、持たない物によってではなく、持っている程度に応じて、それは受納されるのです」と書いています。つまり無理をしてはいけない、持っている程度に応じて献金するのがよいと言っているのです。

そして13節でもパウロは大事なことを書いています。パウロはこのエルサレム教会への献金の目的を、「平等を図る」ためだと言っています。14節の「今あなたの余裕が彼らの欠乏を補うなら」とありますが、これはコリント教会の経済的な余裕がエルサレム教会の欠乏を補うなら、という意味です。パウロはコリント教会がエルサレム教会に対してそうする義務があるのだと示唆しています。なぜなら、これまで霊的に豊かだったエルサレム教会は、霊的に貧しいコリント教会や他の異邦人教会のために多くを与え、骨折ってきたからです。エルサレム教会は世界最初の教会であり、すべての海外宣教チームはそこにルーツを持っています。パウロ自身はアンティオキア教会の出身でしたが、アンティオキア教会もエルサレム教会からの伝道者によって建てられた教会なのですから、パウロやバルナバのルーツも究極的にはエルサレム教会にあります。ですからお互いさま、困ったときの助け合いの精神で、コリント教会は霊的には借りのあるエルサレム教会のために、今度は一肌脱ぐべきだと、パウロはこう言っているのです。最後にパウロは旧約聖書の出エジプト記の記述から引用しています、「多く集めた者も余ることがなく、少し集めた者も足りないところがなかった」というみことばです。これはイスラエル共同体の社会理念が凝縮された言葉です。イスラエルが目指したのは格差社会ではなく、平等な社会でした。ある者が極端に富んで、ある者が極端に貧しいというのはイスラエルの目指す状態ではなかったのです。パウロはこのイスラエルの社会理念を、世界に広がる教会共同体の中で実現しなさいと、そう教えているのです。このことは私たちにも多くのことを考えさせられます。私たち日本の教会は小さく貧しいですが、その貧しさは大きくて豊かなアメリカの教会によって補われてきたという歴史的な事実です。私たちはアメリカの教会にお返しできるほどの経済的な余裕はないかもしれませんが、その分は霊的な仕方で、つまり祈りによってお返しすべきだということです。アメリカの教会はアメリカの教会なりの霊的問題を抱えていますし、イスラエル共同体の理念とは正反対の超格差社会となっているのがアメリカの現実ですが、彼らのために祈るべきだということです。

さて、第二コリントに戻りますが、16節以降を見ていきましょう。パウロは先に、「悲しみの手紙」を託してテトスをコリント教会に送りましたが、テトスは今度は自ら進んでコリント教会を訪問しようとしています。その大きな目的は、エルサレムへの献金プロジェクトを完遂することでした。しかしパウロは、このテトスのほかにもう一人の兄弟をも送ろうとしていました。この人物についての詳しい情報はありませんが、ほぼ間違いなくマケドニア教会の兄弟でしょう。それは少し先の9章4節から分かります。この人のほかにも、22節は更にもう一人の兄弟もいることが分かります。ですからテトスのほかに、マケドニア教会の信徒二人の合計三名が、コリント教会でのエルサレム教会の献金集めのために遣わされるということになります。しかし、なぜ三人も必要だったのでしょうか。その理由が20節に書かれています、「私たちは、この献金の取り扱いについて、だれからも非難されることがないように心がけています」とあります。このエルサレム教会への献金は、相当大きな金額になったと思われます。ではいくらなのかと、そこまで詳しいことは分かりませんが、多分金額を聞いたら「えっ」と思うような金額だったでしょう。そして、その献金をパウロが自分の懐に入れているという根も葉もないうわさがコリント教会には出回っていました。パウロもそのことを意識し、テモテやテトスという自分の宣教チームではない、独立した監査人のような人物がいたほうが透明性が増すだろうと考え、そこでマケドニア教会の信徒二人に、この献金プロジェクトに加わるように依頼したのだろうと思われます。コリント教会からしても、他の教会の信徒が来るというのは、いい意味での緊張をもたらしたことでしょう。パウロは8章の結びの24節でこう書いています。

ですから、あなたがたの愛と、私たちがあなたがたを誇りとしている証拠とを、諸教会の前で、彼らに示してほしいのです。

とありますが、ここで「諸教会」と一般的に言われているのは実際にはマケドニアの教会、テサロニケとピリピ教会のことです。こうした教会から遣わされる信徒たちの前で、いいところを見せてほしい、しっかり献金を集めて、「さすがコリント教会だ」と彼らに称賛されるようになってほしいとパウロは言っているのです。コリント教会としても、さんざんマケドニア教会の自慢話をパウロから聞かされていた後なので、それなりのプレッシャーを感じたかもしれません。もしかすると、マケドニア教会から人が来るということを心良く思わなかった人もいたかもしれません。しかしパウロがあえてこうしたことからも、エルサレム教会への献金に賭ける彼の並々ならぬ決意を感じさせます。

3.結論

まとめになります。今日の箇所を読んで、パウロとコリント教会を襲った問題も、ハッピーエンドになったと一安心するかもしれません。しかし、第二コリントを読んでいけばわかるように、問題はここでは終わりませんでした。パウロとコリント教会との愛憎劇はますます複雑な様相を呈するようになります。ここからは個人的な感想になりますが、パウロはここで暴言を吐いた人を叱責するだけでなく、自分の非をも認めるべきだったのではないかと考えてしまいました。コリント教会がこんなに問題だらけになってしまった理由の少なくとも一つは、パウロはコリント教会のために十分な時間と労力を割くことができなかったことにあると思えるからです。パウロにはパウロの言い分があったでしょう。彼はキリストの再臨が近いと確信し、それまでに世界中に福音を伝えようという大志を抱いていました。ですから個々の教会にそんなに労力を惜しみなく注ぐことができなかったのです。しかし、他方でコリント教会は生まれたばかりの教会であり、手取り足取りの指導を必要としていました。それが十分に与えあれなかったことで、どこかぐれてしまったようなところがあります。パウロに暴言を吐いた人も、そういう寂しさをパウロにぶつけたとも言えます。ですから、真の和解のためにはパウロはコリント教会の人たちに悔い改めを求めるだけでなく、自分自身のことも反省する、そういう懐の広さが必要だったのではないかと、そうも思えるのです。

冒頭でも申しましたが、私たちの教会はお互いの信頼関係という意味では大変良い状態にある教会です。しかし、もし将来、その信頼にひびが入るようになる事態があるとしたら、その時は、誰かが一方的に悪いと決めつけることなく、互いに反省しあい、赦し合うことが必要ではないかと、そんなことを思わされました。お祈りします。

主イエス・キリストを通じてすべての被造物に和解をもたらされた父なる神よ、そのお名前を讃美します。今日はコリント教会で生じた牧師と信徒との対立を通じ、真の和解のためには何が必要なのかを、改めて考えさせられました。私たちの教会は幸いなことに教会内に強い信頼関係がありますが、今後もし問題が生じたときには、互いに自分の非を認め合って真の和解を実現することができますように。われらに和解をもたらしてくださったイエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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