召命、再び
エレミヤ書15章15~21節

1.導入

みなさま、おはようございます。先週は幸いなペンテコステ主日礼拝を献げることができましたが、今日から再びエレミヤ書から学んでまいります。今日の説教タイトルは「召命、再び」です。エレミヤ書からの最初の説教が「エレミヤの召命」でしたが、一度神に召されたエレミヤが、再度その召しを新たにされる、というのが今日のメッセージの内容です。では、なぜ召しを新たにされる必要があったのかといえば、それはエレミヤが一度自らの召命を見失ってしまう、神の召しに背を向けてしまうという、そういう状態に落ち込んでしまったからです。どうしてエレミヤはそのような状態に落ち込んでしまったのか、また神はどのようにしてエレミヤを再びその使命へと呼び戻したのか、そのことを考えて参りたいと思います。

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聖霊に従って歩むとは?
ガラテヤ書簡5章13-25節

1.導入

みなさま、おはようございます。そしてペンテコステおめでとうございます。今日は、ペンテコステ主日ということで、エレミヤの連続説教をお休みして、「聖霊」をメッセージの中心に据えてお話ししたいと思います。

ここで皆さんと少し考えてみたいのですが、私たちは祈りの生活のなかで、どれくらい「聖霊」を意識しているでしょうか。祈る時に私たちは「天におられる父よ」と呼びかけ、私たちのこころは父なる神に向けられています。また、「イエス様、助けてください」、「イエス様、お願いします」と、主イエスに直接呼びかけることも多いですし、また祈りの締めくくりでは「イエス・キリストの聖名によって祈ります」と、父なる神への祈りも、仲保者であるキリストを通して祈っています。しかし、「私たちのうちにおられる聖霊様」ですとか、「聖霊様を通じて祈ります」とはほとんど言わないのではないでしょうか。でも、実際には私たちの祈りにおいて、聖霊ほど大事な方はいないとすら言えます。例えば使徒パウロは次のように言っています。ローマ書8章26節をお読みします。

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屠り場に引かれる羊
エレミヤ章11章18節-12章6節

1.導入

みなさま、おはようございます。この2か月の間、私たちの関心を占め続けてきたコロナウイルス問題も、ようやく収束が見えてきたように思います。もちろん現段階で油断することはできませんが、だんだんと普通の生活が戻ってきています。しかし、そうなってくると、私たち日本に暮らす者がどうしても向き合わなければならない現実が頭をもたげてきます。それは地震です。地震の脅威については、それこそ予言のように常に言われ続けてきました。東海大地震、首都直下型地震、南海トラフ大地震、そして最近では北海道で地震に対する注意が喚起されています。まさに日本は地震列島であり、地震は日本に暮らす者が避けて通れない宿命だといえるでしょう。

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負債の免除
申命記15:1-11
森田俊隆

*当日の説教ではこの原稿の一部を省略して話しています

今日は申命記の中でモーセが述べた律法のなかから一つを採り上げます。申命記の12章から26章は十戒以外の各種律法が述べられているところです。カソリックのフランシス会訳によると51項目の律法が述べられている、ということになっています。ユダヤ教の中では律法は整備されて結局最後は613個の戒めということになりました。先ほどお読みいただいたのはそのうちの一つで、安息年における「負債の免除」の部分です。簡単に言えば、7年目になったらすべての借金はなかったことにしなさい、というものです。私は銀行に勤めていましたが、そんなことをしていたら銀行業は成り立ちません。いくら昔のこととはいえ、この律法は守られたのでしょうか。信じられませんね。

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申命記15:1-11
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嘲られる預言者
エレミヤ書17章5~18節

1.導入

みなさま、おはようございます。エレミヤ書からの説教は今日で三回目になりますが、第一回は1章から、第二回は2章からだったのに、今日はいきなり17章にまで飛んでしまうのか、と驚かれたかもしれません。そこで、この点について少しお話させていただきたいと思います。エレミヤ書は、預言者エレミヤの40年にも及ぶ活動を記録していますが、エレミヤ書は年代順に書かれているのではありません。例えばエレミヤ書の7章には、エレミヤがだいたい40歳のころの有名な『神殿での説教』が収録されていますが、その話の続きはいきなり26章にまで飛んでしまうのです。そして7章と26章の間には、いろいろな場面の様々な預言が含まれています。どうしてそうなのかと言えば、エレミヤ書とは、エレミヤが自分で書いたものではないからです。エレミヤが死んだ後に、彼のお弟子さんたちが師匠の預言の言葉を集めて、それを一つの書にまとめたのです。そしてお弟子さんたちはエレミヤの言葉を年代順には並べませんでした。エレミヤの若いころの言葉と、様々な経験を経て熟練の預言者となった時の言葉とを、一緒にしている場合が多いのです。ですからエレミヤ書を深く理解するためには、エレミヤのそれぞれの言葉がどんな状況において語られたのかを知る必要があるのです。

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イスラエルの背信
エレミヤ書2章1~19節

1.導入

みなさま、おはようございます。先週からエレミヤ書を学んでいますが、今日の聖書箇所はエレミヤの40年にも及ぶ預言者としての働きの中でも、特に初期のころの預言です。その中心的なテーマは「偶像礼拝」です。この偶像礼拝の問題は、エレミヤ書に限らず、実に旧約聖書全体の一大テーマだといってよいでしょう。さらには、偶像問題は新約聖書でも大きな問題です。パウロはローマ人への手紙の冒頭で、人類の罪として

それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。(ローマ1:25)

と糾弾しています。実に人間の堕落は、真の神を神とせずに、偽りの神々を拝むことから始まりました。人間の様々な罪のルーツ、根本は「偶像礼拝」にあるのです。偶像礼拝とは、生ける真の神を捨てて、人間が自分の手で作った金銀あるいは木製の像を神として拝むということです。また、生きている者、つまり人間を神として拝むという偶像礼拝もあります。人間を神として礼拝する習慣は、特に人となられた神であるイエスが出現してから甚だしくなってきました。実際、紀元一世紀にキリスト教が地中海世界に広まるのとほぼ同じ時期に、人間であるローマ皇帝を拝む皇帝礼拝も急速に広がっていきました。悪霊は、神のなさることを真似して、神のようになろうとする存在です。ですから、皇帝礼拝とイエスの礼拝が同じ時期に広まったのも偶然ではないでしょう。聖書はこのように、真の神以外のもの、それがモノであれ人であれ、それらを拝むことを偶像礼拝として固く禁じています。

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エレミヤの召命
エレミヤ書1章1~10節

1.序論

みなさま、おはようございます。今日から、エレミヤ書から12回ほど説教をして参りたいと思っています。今日の説教題は「エレミヤの召命」ですが、私が中原キリスト教会でこの1月に初めて説教をした時の説教題は「それぞれの召命」でした。私はこの「召命」ということをとても大切に考えています。前にも話しましたが、「召命」とは聖書に出てくる預言者たち、あるいは今日の教会で宣教活動を担う牧師たち、こうしたいわば特殊な人たちだけのものではありません。すべてのクリスチャンは「召命」を持っている、召されているということを改めて強調したいと思います。「召命」という言葉のギリシャ語の原語は「呼ぶ」ということです。神から召された者とは、神から呼ばれた者です。そして全てのクリスチャンは神から呼ばれたのです。神はなぜ私たちを呼んだのか、といえば、それは私たちに何らかの使命、役割を与えるためです。このことはとても大事なことです。

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モーセの最後
申命記34章1-8節
森田俊隆

*当日の説教ではこの原稿の一部を省略して話しています

本日は申命記からです。申命記といえば、律法を思い出し、「あーあの、あーしろ、こーしろ、という規則が書かれた文書ですね」という声が帰ってきそうです。確かに申命記の中心部分と言えば、十戒を含め律法について書かれた部分でしょう。しかし、それがすべてではありません。

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イエスの祈り
ヨハネ福音書17章6-19節

1.序論

みなさま、おはようございます。イースターおめでとうございます。言うまでもないですが、昨今の緊迫した状況の中でこのように礼拝を守れること自体、感謝すべきことです。同時に私も、こんな情勢の中で礼拝をしてもいいのだろうか、中止すべきではないか、と日々心が揺れました。こういう時に、神様が「続けなさい」とか、「やめなさい」と指示してくださればありがたいと思いますが、しかし主は私たちがそれぞれ深く祈って、個々人で判断することを求めておられるように思いました。ローマ書の14章5節の、

ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。

というみことばが与えられました。イースターだから、特別な日だから、今日はなんとしても礼拝を守りたい、という方もおられます。また、たとえどんな日であろうと、神様からいただいた命を大切にすべきだ、だから断腸の思いで自重しよう、と信じる方もおられます。どちらも信仰に基づく確信ならば、正しいのです。私もそこで、今日説教壇に立つように召された者として、確信に基づいて話したいと思います。日々不安を感じる中で生活している私たちですが、今日は復活の主、イエスの祈りから慰めと励ましを得たいと思います。

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僕(しもべ)となられた王
ヨハネ福音書13章1-17節

1. 序論

みなさま、おはようございます。当教会に就任して初めての説教が、主イエスのエルサレム入城を記念する棕櫚(シュロ)の主日となったことに、感慨深いものがあります。棕櫚の主日というのは、イエスがエルサレムに入城した時に、人々が棕櫚の枝を振ってイエスの入城を歓迎した出来事を記念する日です。シュロとはヤシの一種で、ほうきにも使われる丈夫な枝をならせます。その枝を振ることには、勝利者である王様を迎えるという意味がありました。しかし、それからわずか6日目にはイエスは逮捕され、十字架に架けられて死ぬことになります。その当時のエルサレムはものすごい数の人々で溢れかえっていました。今年の夏の東京オリンピックは延期になりましたが、もしこの夏に開かれていたら、この東京は世界中の人々で溢れかえっていたでしょう。イエスが最後の1週間を過ごされたエルサレムも、まさにそんな状況でした。なぜなら、その時にはエルサレムでは過越の祭りが祝われていたからです。過越の祭りというのは、イエスの時代からさらに千数百年ほど前に、エジプトで奴隷にされていたイスラエルの人々を、神がモーセを遣わすことで解放したことを記念するお祭りです。神は、イスラエルの人々を自由にしなさい、とエジプトの王ファラオに命じますが、ファラオはそれを拒否します。そこで神は10の災いをエジプトの地に下し、そして最後の10番目の災いが下ると、ファラオもとうとう降参して、イスラエル人を自由にします。その時のことを記念するのが過越の祭りでした。その祭りは夜祝われますが、その日には、各家庭は子羊を屠り、夜中に過越の食事をとるのです。

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