ユダ王国の宗教改革
列王記下22:8-13
森田俊隆

本日はユダ王国における宗教改革についてお話しようと思います。ユダヤ教の形成される最初の段階ということになります。王様でいうと、最初はユダ王国三番目の王アサです。次は第8代のヨアシュです。三番目は北王国滅亡直後のユダ王国の13代の王ヒゼキヤです。最後は第16代王ヨシヤです。このヨシヤ王が戦死したのちユダ王国は急速におとろえ、王国滅亡に向かっていきます。

ユダヤ教とイスラエル信仰との関係について一言申し上げます。イスラエル信仰の出発点は創世記に示されています。創世記は世界の創造から始まっており、イスラエル信仰には、他民族も含んだ世界大の信仰の流れと、イスラエル民族の形成と言う民族主義的な流れとが共存しています。しかし、出エジプト記以降、歴史書まではそのうちの民族主義的傾向を強く示しており、ユダヤ教の基礎となっている申命記律法の確立過程が描写されています。これがユダヤ教です。創世記に示された、世界大、国際的潮流が旧約聖書の傍系の流れとして繋がっていきます。ルツ記とかヨブ記、箴言、伝道者の書などに受け継がれていきます。イザヤ、エレミヤの預言書にも、このような国際的志向が強く表れています。そしてその頂点が、主イエスの言動です。それがキリスト教となるのです。

まず、第三代王アサです。彼は、ユダ王国初代の王ヤロブアムの孫ですが、母はアブシャロムの娘と言われています。アブシャロムはダビデの子で、父ダビデの王権の奪取を目的に反乱を起こした人物です。反乱は失敗し、ダビデの後継者ソロモンはアブシャロムの家系を撲滅しようとしますが、その娘は残したようです。その娘が、アサの母、という訳です。「高き所は取り除かれなかったが、アサの心は一生涯、主と全く一つになっていた。」と記されており、王についてあまりよく言わない列王記の著者にしては「べたぼめ」と言っても良いと思います。①神殿男娼を追放、②偶像を取り除いた、③女神アシェラ 崇拝の母を王母からはずす、ということをした、と書かれています。しかし、神殿男娼は追放しましたが神殿娼婦はおいておきました。律法に於いてもイスラエルの女性は神殿娼婦になることを禁止されていますが、神殿娼婦一般を禁止することにはなっていません。偶像としてはおそらく、バール、アシェラなど地場の神々のことでしょうが、像はとりのぞいた、といってもエルサレム神殿においてだけのことです。地方では、偶像礼拝がまだまだ一般的であったと想像されます。

この時代における政治的・軍事的出来事を一つ申し上げておきます。北王国の王バシャとの争いです。バシャはダマスコの王ベン・ハダトと同盟し、エルサレムの北、ベニヤミンの地のラマに要塞を作ります。ユダ王国のアサは大量の贈り物をエルサレム神殿の宝物から、ダマスコ王に献上し、北王国をとの同盟をやめてユダ王国と同盟するように働きかけます。これが功を奏して、ラマになだれ込み、ベニヤミンの地を占領し、ユダ王国の一部にしてしまいます。宗教的な点では、この南北対立の状況から北王国では首都サマリヤを中心に北王国の宗教が成立していったのではないかと思われます。これは後にサマリヤ教団と呼ばれる宗派となり、後のユダヤ教サドカイ派に近い宗派です。実は今も少数ながら残っているそうです。

次は、第8代王ヨアシュです。北王国にも同名の王がいますが、ユダ王国のヨアシュのほうが先です。彼の直前の王はイスラエル王国唯一の女王、アタルヤです。アタルヤは自分の子であり王であるアハズヤが戦死するとそのあと女王に就任します。アハズヤの血筋を滅ぼし、独裁的体制をつくります。このアタルヤの母イゼベルはフェニキアのシドン王の娘で、バアル信仰で有名な女性でした。娘のイゼベルもこれを受け継いでバール信仰を復活しようとしたようです。そのためユダ王国の重臣たちはクーデターを起こし、イゼベルを先王の幼少の子ヨアシュを王としました。7歳です。この中心になったのは祭司エホヤダで、ヨアシュの摂政であったと推測されます。

列王記では「ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間はいつも、主の目にかなうことを行った。/ただし、高き所は取り除かなかった。民はなおも、その高き所でいけにえをささげたり、香をたいたりしていた。」と言われています。ヨアシュは成人してから宗教改革をしたのですが、あまり成功はしなかったようです。①ユダ王国でのヤハウェ信仰を「高きところ」を取り除かなかった、と言われており、②神殿改修のために祭司のわいろを止めさせようとしたが、首尾よくことが進まなかった、ことが記されています。この時代における「高きところ」とは、異教の神を祭る祭壇のあるところの意味です。取り除かなかったということは、異教の神への礼拝を放任したということです。しかし、エルサレム神殿とそこの祭司が排他的な信仰の中心となるユダヤ教の将来の姿は見え始めている、と言えるでしょう。1996年に神殿のための献金の呼びかけの陶片が発見された、ということで、この王の時代に、神殿修復のための献金集めが大々的になされていたことが証明されています。

ユダ王国における第三番目の宗教改革はヒゼキヤ王です。北イスラエル王国がアッシリヤに滅ぼされたのが、BC721年であり、ユダ王国のヒゼキヤが王になったのがBC715年です。北王国滅亡の5年後です。ヒゼキヤは最初の内はアッシリアに従順な態度をとりますが、時を見てアッシリヤから独立しようと覗っていた、と言っても良いと思います。時のアッシリヤ王は有名なサルゴンII世です。

ヒゼキヤが中心になって反アッシリヤ同盟を作ろうとします。預言者イザヤは当初から反対でした。イザヤは当初、宮廷預言者であったのではないか、と言われていますので、その反対を押し切ってヒゼキヤは戦争準備をしたということになります。ヒゼキヤは、エチオピア王朝であるエジプト第25王朝の支援も得ました。また、アッシリヤの背後となるバビロニアのメロダク・バルアダンII世とも連携しました。シドンとシュケロンの王も行動を共にしました。エクロンの反アッシリア派の人々も参加しました。この同盟はサルゴンII世が死亡した時、行動をおこしました。同時にバビロニアでも反乱を起こしました。アッシリヤの王センナケリプはまず、バビロニアの内乱を鎮圧し、シリア・パレスチナに遠征、シドン、アシュケロン、エクロン陥落、エルサレムも包囲されました。その後、セナンケリプはエルサレムを包囲・破壊しますが、自軍に疾病が発生したためか、途中で母国に引き上げてしまいます。いずれにしても、ヒゼキヤ・ユダ王国は首一枚で生き残ったということです。この物語が、エルサレム不落の信念を高める役割を果たした、と考えられています。

ヒゼキヤの改革については列王記は「彼はすべて父祖ダビデが行ったとおりに、主の目にかなうことを行った。/彼は高き所を取り除き、石の柱を打ちこわし、アシェラ像を切り倒し、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた。」と、べた褒めの記述がされています。ヒゼキヤは「高き所」を取り除いた、と言われています。異教礼拝を止めたということです。しかし、これはエルサレムだけのことと思われます。ユダ王国社会への具体的な浸透は、後のヨシヤの宗教改革をまたねばなりませんでした。

アッシリヤの神はアッシュールですが王は神の「副王」として崇拝対象とされていました。アッシリヤは占領地に対し、自らの宗教を押し付けたものと思われます。父アハズ王がアッシリヤ宗教の祭儀も導入したようですが、ヒゼキヤは反アッシリヤの旗を明確にするに従い、アッシリヤの祭儀もやめたと考えられます。後に、セレウコス朝シリヤの王がユダヤ教を捨てさせるためにイスラエル迫害をしますが、どうもシリヤ系帝国は政治と宗教が完全一体のようです。バビロニアのやりかたと同じです。これに対し、エジプト、ペルシャ、ローマは宗教的寛容が基本政策のようです。

最後の宗教改革はヨシヤ王です。この王は、列王記の王のなかで最高のヤハウェ信仰者として讃えられている人物です。しかし、非業の戦死を遂げ、その後はユダ王国が滅亡の道一直線となる、という悲劇を背負っています。信仰上偉大な人物が悲劇の人生をたどる、というのは、聖書の中ではしばしば登場します。旧約の中でその代表はやはりエレミヤでしょう。アッシリヤと争ったヒゼキヤのあとはその子のマナセがあとを継ぎますが、アッシリヤに徹底的に従属し、宗教的にはバアル、アシェラの地場信仰復活です。アッシリヤも伝統的な農業神・豊穣神については寛容だったようです。マナセの治世ではメソポタミア起源の星辰信仰も盛んだったようです。マナセは45年という長期にわたって王座にあり、アッシリヤに対する従属的姿勢を維持しました。そのため、列王記記者からは最悪の王の扱いを受け、ユダ王国の滅亡もマナセの罪が原因だとさえ言われています。しかし、当時の国際情勢、アッシリヤの強大さのなかでは政治的には、他に選択肢はなかったといえます。エジプトもアッシリヤの支配下に入ってしまいます。ヤハウェ信仰を維持することもアッシリヤは認めなかったと思われます。地場信仰はアッシリヤにとって脅威にはなりえない、と見られたのでしょう。徹底的にやられたユダ王国も次第に自治範囲を拡大し、マナセ王の最後の方は、ほぼ政治的自治が成り立っていたようです。

このマナセの時代にもレビ人祭司を中心としたヤハウェ信仰者の群れは生き続け、「原申命記」と呼ばれる、申命記の中核部分が形成されつつあった、と推測されています。この文書がヨシヤ王の時代の「律法の書」発見につながっていくわけです。マナセの後の息子アモンは陰謀により暗殺されますが「民衆」が立ち上がり、当時8歳のヨシヤを王とします。列王記では「ヨシヤは八歳で王となり、エルサレムで三十一年間、王であった。彼の母の名はエディダといい、ボツカテの出のアダヤの娘であった。/彼は主の目にかなうことを行って、先祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった。」と言われています。ボッカテはユダ族の地ですから、母親も純粋のユダヤ教徒であったと推測されます。

ヨシヤの第18年に大事件がおきます。ヨシヤ王は神殿修理の現場に書記官シャファンを送りますが、シャファンはそこで大祭司ヒルキヤから「律法の書」を見つけたと告げられます。王に一つの書物を読み上げると、ヨシヤ王は「自分の衣を裂いた」と言われています。祭司ヒルキヤたちはこの書がどうのようなものであるのか、女預言者フルダのもとに聞きに行きます。彼女は「わざわいをもたらす」とか「のろいとなる」というような言葉もはきますが、主なる神のことばとします。

改革の内容は、旧約聖書学の山我哲雄先生が次の3点にまとめています。①エルサレム神殿からすべての異教的要素を排除し、祭儀をヤハウェ宗教的に純化した、②エルサレム以外のヤハウェ地方聖所をすべて廃止し、祭儀をエルサレム神殿に限定した、③これらの改革を、ユダ国内に止まらず、当時なおアッシリヤ領であったベテルやサマリヤにまで広げた、ことです。ここで、国家祭儀としてのヤハウェ信仰は一応出来上がった、と見ることができるでしょう。しかし、地方聖所にいた祭司たちは不満をもったこと疑いありません。また、サマリヤで独自の祭儀を行ってきた北王国の流れにある人々も反発心を持ったと思われます。もちろん、地場信仰も根強く続いていたと想像されます。

このことはヨシヤが初期王朝の範図の回復、南北朝の併合まで展望していたのではないか、との推測もあります。当時、アッシリヤは衰退の道をたどっており、カナンの地における信仰をとやかく言う状況にはありませんでした。ヨシヤはアッシリヤからの完全独立を果たすことができました。

ヨシヤ宗教改革のもう一つの側面は、「神の義」の実現が改革の目標に掲げられたことです。「神の義」とは即ち、弱者救済です。経済的平等の推進とも言えます。当時は既に貧富の差が拡大していましたから、王権が介入して、やもめや孤児のための福祉的政策のために、神殿税とは別の十一税を創設した、と言われています。また、富める者から貧しき者への財産シフトを実現しようとしたのです。具体的には、不在地主化していた土地に対し、農耕者の所有権を復活させよう、としたのです。一種の宗教社会主義政策です。掛け声をかけたは良いが、その現実的適用は易しいことではありませんでした。ほとんどが失敗で、ヨシヤ王死後には「もとのもくあみ」の状況に戻ってしまった、と言われています。また、家族・部族の責任にさせられたということです。しかし、この経済的平等の考え方は、ユダヤ人社会に根強い願望として残ります。離散のユダヤ人社会で一部実現した、といえます。お互いの助け合いは迫害にあるなかで、もっとも、良く実現する、ということは普遍的真理のようです。

アッシリヤはBC612年、遂に、新バビロニヤとメディヤの連合軍に滅ぼされます。王アッシュル・ウバリットII世はシリア・ハランで抵抗をします。その時、エジプト王ネコはアッシリヤの残党を支援するために北上してきます。ネコはイズレエル平原の南のメギドでヨシヤ王の軍と遭遇し、ヨシヤを殺害します。この事件の結果、イスラエルの地はエジプトの支配下に入り、ヨシヤの宗教改革もとん挫、いたします。やがて、地方聖所も復活し、エルサレム神殿でも異教的祭儀が行われるようになります。

このユダ王国における4度の宗教改革を見て、考えさせられることがいくつかあります。まず、宗教と政治の関係です。国家というのはつまるところ、暴力的な力に支えられた権力機構ですが、国民の心からの従属を得るために必ず何らかの宗教的権威を得ようとします。古代においては宗教と政治は一体的でしたが、中世ではある種の緊張関係が生まれ、現代に至って政教分離が言われるようになりました。しかし、何らかの宗教的権威をつけようとするのは、すべての国家において共通です。日本の場合は明治以降の天皇制が代表的なものでした。アメリカの場合はAmericanDemocrasyという思想が、それであり、宗教類似のものですが、トランプ以降、これがはげ落ちてしまいました。現代中国は漢民族主義を背後に於いた国家主義思想です。儒教が背後にあります。ユダ王国の場合、ヤハウェ信仰を国家宗教にして行こうとする動きが宗教改革です。国家祭儀を中心とする後期ユダヤ教の形成過程です。今のイスラエル国家は信仰の自由を保障することで始まりましたが、今や、ユダヤ教国家に戻った、と言ってよいと思います。ユダヤ教には民族的排外主義の色彩がつきまとっています。ユダヤ人とはユダヤ教徒のこと、というのも事実ですから、ユダヤ教には宗教的排外主義の色彩も付きまとっています。極端なユダヤ教の一派は社会的に危険な存在です。政治優位であろうが宗教優位であろうが、両者が一体化するのは危険である、ということをわきまえておく必要があります。

もう一点、どうしても考えさせられるのは、異民族支配の問題です。日本人はぴんと来ないのですが、聖書に於いて異民族支配をどのように理解するのかは極めて重大なテーマです。主イエスの言動をみると、ローマ帝政に対する反乱が起きそうな状況の中でも、熱心党のような独立運動グループを支持する様子は全く見られません。更に、AD66年に始まる、反ローマ独立戦争においてキリスト教徒はこれから逃げ、生き延びることを選びました。異民族支配は神の正義に反することなので、独立のための反乱は神の正義を回復するための戦い、である、という考えは旧約における国際主義的流れを継承している新約のイスラエル、キリスト教徒、キリスト教会は採らない、ということです。キリスト教徒にとっては異民族支配を受け入れるべきか、どうかは、神そこに働いている神の摂理をどう理解するかという問題で、異民族支配、即ち、罪への罰、というものではない、ということです。宗教的自由を確保するために重い税金を負担することは、それが神の摂理であることは十分ありうる、ということです。日本の歴史に於いても、先の戦争における敗戦後の状況は異民族支配を受け入れるべきときであったのでしょう。しかし、独立したのちも、超大国の支配下にある方が得だ、ということで、従属国状態を継続するなど、主なる神の摂理に反している、と思わざるを得ません。特にアメリカは、声を挙げない人々は無視される、というのが当たり前の社会です。支配的大国に対し、言うべきことを言わない屈従的態度はエレミヤの精神にはありえない、ことです。ユダ王国での宗教改革を進めた王たちの態度には考えさせられる点が多々あります。特に、ヒゼキヤ王の無謀な反アッシリヤ軍事行動、ヨシヤ王の独立志向とその成功、ヨシヤ王の無謀なエジプトへの敵対、等々です。祈ります。

(ご在天の主なる父なる神様、今日の礼拝の時を感謝いたします。ユダ王国における宗教改革を見ました。特にヨシヤ改革によりユダヤ教の基礎が作られたことを知りました。我らの主イエスのおっしゃられたこと、為されたことは、このユダヤ教の伝統を踏まえつつも、これに強い批判の意味を持つことであったことを思います。イスラエルの歴史、そして世界の歴史の中に働く「神の摂理」に私たちが謙虚であることができるよう導いてください。救い主、イエス・キリストの名により祈ります。アーメン)

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