パウロとコリントの教会
第一コリント16章5~24節

1.導入

みなさま、おはようございます。第一コリント書簡からの説教は今日で32回目、いよいよ最終回になります。といっても、これから引き続き第二コリント書簡の説教を続けていきますので、これで終わりということではなく、まだ道半ばといったところです。コリントというのは地中海世界の交易・交通の要衝に位置する大きな都市で、人口も50万人を超えていたと推定されます。50万というのは当時の古代世界では途方もない、大変な数です。ですからパウロはこのコリント教会に大きな期待をかけていて、自身のヨーロッパ伝道の拠点にしたいと考えていました。そこでパウロは時間をかけて、コリントの地に教会を建てあげたのです。このように、パウロとコリント教会の関係は深いものがありますが、それは愛憎愛半ばするといった感じで、いつも良好なものではありませんでした。それはこれまで読んできた第一コリントの内容からもお判りいただけると思います。これから私たちは第二コリントを学んでいきますが、そこにはパウロとコリント教会との間での生々しい葛藤が描かれています。今日の第一コリントのあとがきでも、そのことを暗示する箇所があります。その点に気を付けながら、今日の箇所を読んでいきましょう。

2.本文

さて、このあとがきを書いていた時のパウロの心理状態とはどんなものだったのでしょうか。一読すると、単なる事務連絡が書き綴られているような気もします。エルサレム教会への献金とか、自分やテモテの旅行プランとか、あるいはコリント教会の役員さんへの感謝の言葉などです。しかし、こうした記述の背後にはパウロの強い不安や懸念というものが感じ取られるのです。

パウロはここ10年ほど目覚ましい働きを続けてきました。ガラテヤ、ピリピ、テサロニケの教会、そしてコリントとエペソでの教会、こうした有力な教会群を、それぞれの教会にわずか1年から2年をかけるだけで、次々と立ち上げてきたのです。一つの教会を建て上げるだけでも大変なのに、休みなくこうした教会を一から立ち上げてきたパウロのバイタリティーには驚くべきものがあります。しかし、このような急拡大はもろさというか、脆弱さをも抱えていました。この第一コリント書簡は、コリント教会が実に様々な問題を抱えていたことを示していますが、これはコリントの人々が特別罪深かったからではありません。むしろ彼らは、パウロから十分な教育や訓練を受けられず、そのためにこうした混乱が起きたと考えた方がよいでしょう。コリントの教会に限らず、パウロは個々の教会に十分に時間を割いて、じっくりと教会員を育てるということができませんでした。なぜならパウロには時間がなかったからです。パウロは、自分が生きている間に主イエスが再び来られること、つまり再臨があると信じていました。パウロの目標は、主イエスが戻られるまでに全世界に福音を宣べ伝えることでした。全世界と言っても、私たちの知る全世界ではなく、パウロの生活圏の中での全世界です。それはちょうどローマ帝国の広大な支配領域と重なるものだったでしょう。パウロはローマの全支配地に、なるべく早くかつ効率的に福音を伝えようとしました。それで交通の要衝に位置する大都市に狙いを定めて伝道活動を行ったのです。しかし、ローマの版図は膨大であり、基本的に徒歩で移動することの多かったパウロにとっては全世界への伝道は大変困難な課題でした。ですから、個々の教会に仕える時間は長くても二年が限度でした。しかし、二年間というのは長いようで、あっという間です。旧約聖書を読んだこともないギリシア人やローマ人に、いろいろなことを教えるのには短すぎる期間であったともいえます。信徒の側に立って考えれば、伝道者であり信仰の育ての親でもあるパウロが立ち去った後、彼らは取り残されたような気持になったかもしれません。その彼らの心の隙間を突くかのように、新しい宣教団体がやってきました。しかも彼らはパウロが言っていることとは別のことを伝え始めたのです。彼らは、パウロが教えてくれなかったと思われる事柄を教えてくれました。パウロは、クリスチャンらしく生きなさい、神の子と呼ばれるのにふさわしく生きなさい、と口を酸っぱくして教会の人々に命じました。しかし、クリスチャンらしく生きるというのはどういうことなのか、具体的には何をすればいいのか、ということに関しては、パウロはあまり詳しくは話してくれませんでした。むしろ、「御霊にしたがって歩みなさい」とか、雲をつかむような指示ばかりではないか、と感じる人たちもいました。そこに、新しい宣教団がやってきました。彼らの言うことは、パウロとは違って大変具体的でした。彼らは、新しくクリスチャンとなった人たちがどのように生活すべきかについて、詳しく教えてくれました。彼らは聖書を持ち出したのです。彼らは旧約聖書の最初の五つの書、モーセ五書と呼ばれますが、それらの書に書かれている律法を示し、また日々の生活でそれらをどのように実践すべきかを教えてくれました。今までそんな話を聞いたことがなかった信徒たちは喜びました。「私たちに、もっとモーセの律法について教えてください」と。しかしこれは、パウロが掲げてきた伝道方針とは真っ向から対立するものでした。パウロは、ユダヤ人以外の異邦人信徒たちはモーセの律法を守る必要はない、いや守るべきではない、という立場でした。自分自身が徹底した律法教育を受け、かつそれを厳密に実践してきたパウロには、異邦人たちが律法を行うことがどれほど大変なのかがよく分かっていました。律法の実践とは、つまみ食い、あるいはいいとこ取りのように自分が気に入った一部の律法だけを守ればよい、というものではありません。律法は、すべての律法を守って初めてそれを行ったと言えるのです。パウロはこのことをガラテヤの教会に警告しています。ガラテヤ書5章3節です。

割礼を受けるすべての人に、私は再びあかしします。その人は律法全体を行う義務があります。

パウロにとって、律法はすべてをやるかやらないか、ゼロか十かしかありませんでした。適当にやる、というわけにはいかないものでした。それは食事のルールや清めのルール、安息日である土曜日の過ごし方など、日常の事細かな領域に及ぶものでした。パウロは異邦人信徒にとって、こうした律法の軛は重すぎると考えて、自らが立て上げた異邦人教会には律法については教えなかったのです。しかしそのパウロの立てた教会に、異なる宣教グループがやって来て、律法を守るようにと信徒たちに指導を始めました。まるでオセロゲームのように、パウロの立てた教会は異なる種類の教会へと塗り替えられていくようでした。

パウロがこのような動きを最初に知ったのは、小アジアにあるガラテヤ教会においてでした。パウロはこのことに激しく動揺し、また激怒し、あの有名なガラテヤ人への手紙を書いたのです。パウロはこの熱烈な手紙で、ガラテヤ教会の人々の心を取り戻そうとしたのですが、それは成功したようです。しかし、このパウロに敵対する伝道者たちの活動範囲は小アジアに留まりませんでした。なんとヨーロッパのギリシアにまで進出してきたのです。これが今日のみことばの背景です。

さて、16章の5節以降では、パウロはコリントの教会を再び訪れたいという希望を書き綴っています。パウロが初めてコリントに赴いて、そこで教会を立て上げたのは紀元51年の春頃と考えられます。パウロはまずギリシア北部、マケドニア地方のピリピやテサロニケに教会を立て上げますが、迫害が厳しくなってそこにはいられなくなり、ギリシアを南下していきます。それからギリシアの学問の中心であるアテネに向かいますが、そこでの伝道ははかばかしくなく、それからパウロは貿易港であり商業地であるコリントに行きます。それからパウロは一年半そこに滞在し、52年の秋ごろコリントを発っています。この第一コリントは、それから約1年半後の紀元54年ごろに書かれたものだと思われます。この1年半のあいだにコリントではいろいろなことがあり、そうした問題を解決するためにもぜひコリントの教会を再び訪れたいとパウロは考えていたのです。パウロはこの手紙を書いていた時、小アジアのエペソにいました。エペソからコリントまでは海路を船で行くのが一番の近道なのですが、パウロはわざわざ北上して陸路を伝わってマケドニアに向かい、そこから再びギリシアを南下してコリントに向かおうと考えていました。なぜ、最短距離の海路を取らずに、ぐるっと大回りしてマケドニアに向かおうとしたのか、それはマケドニアの教会、特にピリピとテサロニケ教会にも訪問する必要があったからなのです。それは、パウロが特に親しかったピリピやテサロニケの教会の人たちに会いたかったからとか、そういう個人的な思いからではありません。時間のないパウロは、私的な思いよりも常にやるべきことをするのを優先します。パウロが問題のデパートのようなコリント教会に行くよりも先にマケドニア教会に行こうとしたのは、そこに緊急性の高い問題が存在していたからに違いありません。そうです、ガラテヤ教会に現れてパウロの教会を引っ掻き回したのと同じような伝道者たちが、ピリピやテサロニケの教会にコンタクトしているという知らせをパウロはキャッチしたのです。パウロは居てもたってもいられなくなり、コリント教会よりもマケドニアの諸教会を訪問地として優先することにしました。

しかし、コリントの教会はパウロの伝道の要となる、非常に重要な教会です。パウロはコリントの信徒たちに、自分がマケドニア訪問のついでにコリントを訪れる、という風には考えてほしくありませんでした。そこで、7節に「私は、いま旅の途中に、あなたがたの顔を見たいと思っているのではありません。」と書いているのです。あなたがたは特別な教会なのですよ、ということをパウロは念を押しているのです。 

しかし同時に、パウロはただいま伝道活動を行っているエペソの教会についても心配事を抱えていました。小アジアの大都市であるエペソにも、パウロは大きな期待を持っていました。パウロはエペソにおいて二年間という、コリントの一年半よりも長い時間を伝道に用いました。これはパウロを有名にしたのと同時に、反対者をも多く作りました。そこでパウロはこう書いています。

しかし、五旬節まではエペソに滞在するつもりです。というのは、働きのための広い門が私のために開かれており、反対者も大ぜいいるからです。

このように、コリント教会のことも心配だが、エペソの教会も手が離せない、またマケドニアの教会からも火の手が上がっているという大忙しの状況で、パウロは自分の腹心であるテモテをコリント教会に送ることにします。そこでこう書いています。

テモテがそちらに行ったら、あなたがたのところで心配なく過ごせるよう心を配ってください。彼も、私と同じように、主のみわざに励んでいるからです。だれも彼を軽んじてはいけません。彼を平安のうちに送り出して、私のところに来させてください。私は、彼が兄弟たちとともに来るのを待ち望んでいます。

テモテはまだ若いので、軽く扱われる恐れがあったのでしょう。パウロはコリントの人々に、彼を主にある同労者として、自分と同じように扱うようにと依頼します。また、コリントの教会が大変問題の多い教会だったことを忘れてはなりません。パウロはコリントの人々に様々な勧告や命令を書き送っていますが、コリントの人たちがそれらを素直に受け止めるという保証はないのです。むしろ、パウロに反発して、他のリーダー、たとえばアポロを担ごうという人たちもいたでしょう。アポロがパウロの勧めにもかかわらずコリントに行こうとしなかったのは、こうした空気を察してなのかもしれません。ともかくも、こういう難しい状況の教会に若いテモテを送り込むのですから、パウロも心配だったことでしょう。くれぐれもテモテを軽んじることがないように、と書き送っています。今日の教会でも、若い牧師は若さゆえに愛されることもありますが、若く人生経験が少ないことで軽く見られることもあるかもしれません。この点は、パウロの勧告を私たちも心して受け止めたいものです。

若いテモテはパウロの宣教活動の同志でしたが、パウロは今日の教会でいうところの「一般信徒」も全く同じように同労者として見ていたことを覚えたいものです。15節以降では、そうした同労者の人たちへの感謝の言葉が書きつづられています。コリントの教会で最初に洗礼を受けたステパナとその家族の働きへの感謝の言葉が書かれています。彼はコリント教会のリーダーとして重責を担っていました。そして、お馴染みのアクラとプリスカの名前が出てきます。彼らはエペソで自宅を開放して家庭集会をしていたのが分かります。彼らは以前にコリントの教会にもいたので、この手紙の受け手であるコリントの兄弟姉妹にとっても懐かしい人たちでした。また、パウロは「アジアの諸教会がよろしくと言っています」と書いています。コリントの人たちと、エペソの教会のようなアジアの兄弟姉妹とは直接の面識はなかったでしょうが、パウロはこのようにして彼らを結び付けようとしています。キリストの教会は一つです。地理的には離れていても、同じ主にある兄弟姉妹だということを、パウロは思い起こさせようとしているのです。

そして22節以降は結びの言葉です。「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ」という言葉にショックを受けるかもしれません。パウロは、クリスチャン以外の人はみんな見捨てられよ、と言うのかと。しかし、必ずしもそうとは言えません。のろわれよという言葉の原語は「アナセマ」という名詞です。アナセマは英語になっていますが、それは「破門」という意味です。ですからここは、「主を愛さない者は、破門だ」とも訳せるのです。破門、というのはクリスチャンが教会から除名されることです。ですからパウロはここで、「主を愛さないクリスチャンは破門だ」と言っているとも取れるのです。しかし、クリスチャンで主を愛さない人なんているのでしょうか?ここで大切なことは、教会とは主のからだであり、教会を愛さないものは主のからだ、もっと言えば主ご自身を愛さないものだとも言えます。パウロは、ガラテヤの教会をかき回す自称キリスト者に対してアナセマ、つまり破門を宣告しますが、ここでも同じことを言っている可能性があります。つまり、この手紙で再三警告を受けている、コリントの教会をかき乱す人たちに対し、そうした行動を改めなければ破門だ、と警告しているともとれるのです。いずれにせよ、パウロはクリスチャンでないすべての人は呪われよ、と言っているのではないと思われます。

 そしてパウロは「主よ、来りませ(マラナ・タ)」という祈りの言葉を述べます。マラナ・タとはアラム語で、「主よ、来てください」という意味です。私たちも、パウロと心を一つにしてこのことを祈っています。主が来られ、この世界のすべての悪や不条理を正してくださること、これが私たちの切なる願いです。パウロがここで、ギリシア人をしゃべる信徒に対して唐突にアラム語を使っているということは、この「マラナ・タ」が言葉の違いを超えて、あらゆる信仰者に共通の言葉になっていたことを伺わせます。他にも「アッバ」、つまり「父よ」というアラム語がありますが、これらの言葉はアラム語を理解しない信徒たちにも馴染みのある言葉となっていたのです。ですから日本語を話す私たちも、大胆に「マラナ・タ」と声を上げたいと思います。「アーメン」、つまり御心通りになりますように、と同じように。

 最後にパウロはキリストの恵みと、パウロ自身との愛を語ります。パウロがコリントの人たちに厳しいことの数々を書き送ったのは、彼らを愛しているからです。彼らへの愛こそが、パウロを突き動かしたのです。

3.結論

さて、長きにわたった第一コリント書簡からの説教も今日で終わりです。この書簡には、実に多くのテーマが含まれていて、その中には私たちに大いに関係のあるものも少なくありません。説教は今日で終わりですが、ぜひ皆様にはこの手紙を何度も読み返していただきたいと願っています。私のつたないこれまでの説教も、原稿も録音もホームページに載っていますので、よろしければご参照なさってください。

 コリント教会は確かに問題の多い教会でしたが、この教会で起こったことは私たちの教会でも起こり得ることだということを忘れないようにしましょう。他山の石、という言葉がありますが、パウロのコリント教会へのことばを自分自身に向けられた言葉として聞くときに、何か新しい気づきや発見があると思います。それでは、これまで皆さんと第一コリントを学べたことを感謝して、主に祈りましょう。

天におられます父なる神よ。あなたが使徒パウロを通じてコリントの教会に送った手紙を時間をかけて学んで参りました。私たちは悟るのに遅く、聞いたことを実践するのにはさらに遅いものですが、どうか私たちを強め、この手紙から学んだことを日々の生活に生かすことができますように。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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