第一と第二コリントの間
第二コリント1章1~7節

1.導入

みなさま、おはようございます。第一コリントの32回のメッセージを終えて、今日からいよいよ第二コリントに入ります。しかし、この第二コリントは、パウロがコリント教会に出した第一の手紙のすぐ後に書かれた手紙、というわけではありません。第一コリントの手紙が書かれてから、第二コリントの手紙が書かれるまで、非常に重要な事件が起きているのです。今日は第二コリントの手紙の背景として、こうしたことを学んでいきたいと思います。この手紙の歴史的背景ということです。ですから、これまでの説教の内容のおさらいのような面もあります。

この手紙の著者は使徒パウロです。この「使徒」という呼び名は初代教会ではとりわけ権威のある呼び名でした。それは、使徒というのはイエス様の宣教活動に初めから終わりまで同行し、すべてを見届けた人たちだけに許される呼び名だったからです。教会では証人というのが重んじられました。使徒たちはイエス・キリストが確かに語られているような人物だった、高潔な人格で、奇跡によって多くの人々を癒し、素晴らしい教えを授けてくれて、十字架で確かに死なれたけれど、三日後によみがえったのだ、と証言しました。これらのイエスに関することが事実であるかどうかを判断するには、現代のように録画や録音のない時代にあっては、証人の証言に頼るほかなかったのです。ですからイエスの証人である使徒たちは大変重んじられたのでした。ではパウロは果たして使徒と呼ばれる資格があったのでしょうか?実は、厳密に言えばパウロは使徒ではなかったのです。彼は生前のイエスに会ったことがなかったからです。イエスは主にエルサレムの北部、日本でいえば東京から見た東北地方で活動していましたから、都会育ちのパウロはイエスの噂は聞いたことがあっても、実際にはどんな人かは知らなかったのです。それどころか、パウロにとってイエスはユダヤの公式な最高機関である最高法院、日本でいう最高裁判所ですね、そこで偽メシアとして断罪され、なんとローマ帝国から極刑の十字架刑で殺された罪人です。その罪人を救世主として崇めるキリスト教は怪しげな宗教にしか見えず、またユダヤ教では禁じられていた外国人との親しい交際をする、極めて危険な宗教でした。そこでパウロは他のユダヤ人がこの新興宗教に惑わされるようなことにならないように、一生懸命キリスト教を弾圧していました。そのパウロに、天に昇られたイエスが突然現れ、なぜ私を迫害するのか?と問うたのです。びっくりしたパウロは、それまでの自分の生き方そのものを問い直すようになりました。自分はこれまでユダヤ教に誰よりも精通していると思っていたのに、神がイエスをメシアとして選んだことに全く気が付かなかった。自分は、神への信仰において何か大きな勘違いをしたまま生きてきたのではないか、と真剣に考えるようになりました。パウロは必死に神に祈り、これから自分はどうすればよいのかを神に問いました。その時に神から彼に与えられた使命は、今後はユダヤ人だけではなく外国人に救いをもたらしなさい、ということでした。これはパウロには驚きだったはずです。パウロがこれまで教会を迫害したのは、まさに教会の外国人に対する態度を咎めてのことだったからです。教会は、もともとはユダヤ人だけで構成されていました。イエスも使徒も皆ユダヤ人だったからです。彼らはモーセの律法という父祖伝来の教えに従って生活してきましたが、その律法によれば食事や清めにおいて細かいルールがたくさんあり、そうしたルールを知らない外国人との不用意な接触は律法違反を犯す危険を生じさせました。外国人は豚肉を普通にお食べますが、ユダヤ人は決して食べません。私たち日本人はツブ貝やアワビなどのお寿司を食べますが、ユダヤ人はモーセの律法によれば貝類を食べられません。もし彼らがそれら禁忌のものを食べてしまえば、彼らは律法を破って罪を犯すことになり、神の怒りを招くことになります。ですからユダヤ人たちは外国人との交際に極めて慎重でした。

そしてユダヤ人には、自分たちが神から選ばれた特別の民だという強い信仰がありました。選民思想です。ユダヤ人たちはこれまでずっと外国の支配に甘んじてきていたので、神が自分たちを外国の支配から解放してくれることを心から願っていました。特にローマの支配を受けるようになってから、貧しい一般庶民の農民たちは重税に苦しんできました。ですからユダヤ人にとっての救いとは外国の支配からの解放であり、神が外国人を打ち払ってくれる、これがユダヤ人の夢見る未来でした。その打ち倒すべき憎むべき外国人に、救いの手を差し伸べること、これがパウロに神から命じられたことでした。それは大変な驚きだったでしょう。パウロは神から与えられた外国人に救いを届けるという使命について、深く思いめぐらし、そしてそれを実行に移すことにしました。

パウロは初め、小アジアと呼ばれる地域、現在のトルコで外国人に対して伝道活動を行っていましたが、それからしばらくしてヨーロッパのギリシアに活動の拠点を移します。パウロが初めてヨーロッパ伝道をした人だとまでは言えませんが、いくつかのギリシアの都市では確かにパウロは福音を初めて伝えるという栄誉に与ったのです。パウロは初めに、あのアレクサンダー大王を生んだマケドニア地方で伝道しました。ピリピやテサロニケという、マケドニアの大都市で伝道に励みます。しかし、そこでの迫害が激しくなり、逃げ延びるようにしてギリシアを南下していきます。そこでたどり着いたのがギリシア南部の大都市、当時としては破格の50万もの人口を擁する貿易都市のコリントでした。前回もお話ししたように、それは紀元50年ころのことでした。パウロはそこで1年半伝道をしました。一年半というとあっという間ですね。私も当教会に遣わされてちょうど1年半ぐらいですが、やっと教会のいろいろなことに慣れてきたところです。しかし、パウロはわずか1年半の間にコリントに大きな教会を立ち上げて去って行ったのですから、彼のバイタリティーには恐るべきものがあります。しかし、もし仮に私が1年半でこの教会の担当を変わったら、皆さんはなんて早いんだ、と思われるでしょう。歴史のあるこの教会ですらそうなのですから、できたばかりのコリント教会の人々にとってはなおのことでした。パウロが去った後、彼らは教会運営や毎週の説教にも苦労したことでしょう。そんな中、新しい宣教師のアポロが来ました。雄弁家のアポロに魅了されたコリント教会の人の中には、私はあのパウロ先生よりもアポロ先生の方がいい、と言い出す人もいました。そうして教会にはパウロ派、アポロ派のような派閥ができました。また、パウロは1年半しかいなかったので、あまり細かいことを教会の人々に教えることはできずに、イエスが救い主であり、世を裁くために再び来られることなど、基本的なことしか伝えられなかったようです。それで、コリント教会の信徒たちの間にいろいろと問題が生じたとき、教会としてどう対応して良いかわかりませんでした。こうして大混乱に陥ったコリント教会の様子を聞き知ったパウロは、コリントを去ってから約1年半後に、小アジアの大都市エペソで第一コリントの手紙を書き送り、いろいろな問題について細かい指示を書き送り、書くだけでなく自分の右腕であるテモテをコリント教会に遣わしました。

さて、これが第一コリント書が書かれたときの状況です。しかし、この第一コリントが書かれてから第二コリントが書かれるまで、またもやいろいろな出来事が起こりました。それについてお話ししたいと思います。

さて、パウロの代理としてコリントに向かった若きテモテですが、彼はそこで事態が予想以上に悪化しているのを見出します。パウロが第一コリントを書いたときには知らなかった新しい事情が生じていたのです。それは、パウロに敵対する新たなキリスト教の宣教師たちがコリントに来ていて、信徒たちにパウロの人格を疑わせるようなことを吹き込んでいたのです。かつて、パウロの後にコリント教会に来たアポロは決してパウロを悪く言うようなことはしませんでした。しかし、今度の宣教団は違ったのです。実際、パウロという人は敵を作りやすい人でした。彼は空気を読むとか、忖度するというようなことは大嫌いでした。彼は相手が誰であろうと、自分が信じることをはっきり言う強さを持った人でした。空気を読むことを重んじる今の日本では間違いなく嫌われるタイプの人だったと思います。特にパウロは、前回もお話ししたように、外国人には旧約聖書の教えであるモーセの律法を守らせる必要はない、と強く主張しました。このパウロの教えが気に食わない人たちがいました。モーセの律法は聖書に書かれた教えです。パウロは使徒でもないくせに、何の権利があって聖書の教えを守らなくていいなどと言えるのか、と聖書信仰を掲げる保守的なクリスチャンたちはパウロを攻撃したのです。コリントに来た新しい宣教師たちは、まさにこのような人たちでした。彼らから、「パウロは使徒だと自称しているが、彼はイエス様に会ったこともない。そのイエス様は自分では律法を守ったし、弟子たちにもそう教えた。それなのに、あのパウロは律法を守らなくてもよいなどという新奇な教えを言い広めていて危険だ。彼の言うことの全部は否定しないが、話半分に聞いたほうがよい」と吹き込まれたコリントの人たちは、パウロに疑念を抱くようになりました。自分たちはパウロから十分に教えてもらえなかったという不満がもともとありましたから、ある人たちはこの宣教師たちの言葉を信じてパウロから離れて行ったのです。この危機的状況をテモテから知らされたパウロは居ても立っても居られません。始めは同じく問題を抱えていたマケドニアのピリピやテサロニケ教会から訪問しようと考えていたパウロでしたが、急遽予定を変更し、急いでコリント教会に向かいました。しかし、この訪問は最悪の結果に終わりました。それが2章1節にある、「あなたがたを悲しませる訪問」でした。コリント教会のみんながパウロを拒絶したわけではありません。しかし、もともとパウロ派とかアポロ派とかペテロ派に分裂していたような教会でしたから、パウロに不満を持つ一定の信徒たちがいました。彼らが中心になって、「私たちはあなたを使徒とは認めない。偉そうにしないでいただきたい」というようにパウロを傷つけることを言い放ったのでした。しかし、もちろんパウロを慕い、擁護する信徒たちもいます。こうしてコリント教会は大混乱に陥り、パウロの二度目のコリント訪問は最悪の結果となりました。パウロはここでいったんコリントを退き、エペソに戻ってしばらくしてから涙ながらの手紙を書き送ります。そのことが2章4節に書かれています。残念ながらこの涙の手紙は残されていません。今私たちが読んでいるのは、この涙の手紙に続くさらにもう一つの手紙だからです。パウロはこの涙の手紙を、テモテではなくもう一人の同労者であるテトスに持たせます。しかし、その返事を待つパウロは気が気ではありません。テトスがなかなか帰ってこないので、もしやコリントでテトスの身に何かあったのでは、と不安になります。そして、テトスに会えるのではと思ってマケドニアに行き、そこでようやくテトスに会います。テトスからコリントの様子を知ってパウロは大喜びします。パウロの悲痛な、そして厳しい手紙を受け取ったコリント教会の人たちの多くはさすがに反省しました。そして、パウロをひどい言葉で侮辱した人を処罰することにし、パウロと和解しようとしているというのです。こうして一難去ったかのように見えましたが、しかしパウロに反対する宣教師たちもまたコリント教会に影響を持ち続けており、いまだにパウロに対して腹に一物をもつ信徒たちもいて、まだ油断できない状況だということも聞きました。こうした緊迫した状況で書かれたのがこの第二コリントの手紙なのです。

2.本文

さて、今日はこの手紙の冒頭の7節だけを読んでいただきました。冒頭ですから形式的な内容だと思われるかもしれませんが、決してそうではありません。まずパウロは初めに自分のことを「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロ」と書いています。コリントの人たちは、イエスに会ったことがないパウロが使徒と名乗るのはおかしいと指摘する宣教師たちに影響されて、パウロは本当に使徒なのか、疑念を抱いていました。しかしパウロは、自分は他でもない復活の主ご自身から直接召し出されたのだから、12使徒にも劣らない本物の使徒なのだ、と改めて自分自身を提示しているのです。ですからこの書き出しは、パウロの強い意志が表われていると言えます。あて先はコリント教会だけではなく、コリントが州都になっているアカイヤ地方全部の教会となっています。パウロが直接立ち上げたのはコリント教会だけですが、大都市コリントの教会はアカイヤ地方全部の教会に大きな影響を与えます。ですからパウロは、この手紙がコリントだけでなく、アカイヤの全ての教会に回覧されることを期待していました。パウロは彼らのために恵みと平安を祈り、また父なる神とキリストが讃えられるようにと祈ります。

ここでパウロは「慰めの神」という言葉を用いています。この第二コリントの手紙のキーワードは「慰め」と、その対になる言葉である「苦しみ」です。パウロはこの手紙で何度も何度も自分が苦しみに遭っていること、そして苦しみにある自分を神が慰めてくださるということを語ります。この短い七節にも、何度も「苦しみ」や「苦難」、そして「慰め」という言葉が出て来ます。ではなぜパウロはこんなにも「苦しみ」や「苦難」を強調するのでしょうか?その理由の一つは、パウロに敵対する宣教師たちの存在があります。彼らはパウロが使徒であることに疑問を投げかけましたが、その理由はパウロがイエスを知らないことだけではありませんでした。パウロが伝道のために至るところで迫害を受け、苦しんでいて、からだには持病を抱えていることは広く知れ渡っていました。パウロに反対する人たちは、パウロがあんなに苦しむのは、彼に何か問題があって、神が彼を守らないからに違いない、示唆します。ちょうどヨブ記のような話です。義人であると信じられてきたヨブが突然の災いに遭ったのを見た人たちは、ヨブが陰で何か悪いことをしていて、それを神が裁いたのだと噂をしました。同じように、神のために働いているはずのパウロにあんなに次々と不幸が襲い掛かるのは、きっと彼が知らないところで悪いことをしているに違いない、ということをほのめかしたのです。このような中傷に対し、パウロはこの手紙で繰り返し自分の苦しみの意味を説明します。パウロは、自分の苦しみを通じて、キリストの苦難の生涯、とりわけその十字架での死が明らかになる、自分は苦しみを通じてキリストを証ししているのだ、と主張します。と同時に、苦しみに遭っている自分を神は慰めてくださっている、神は私と共におられる、ということも強調します。慰めというのは、苦難にあるパウロの心に神が希望を与えている、というだけではありません。むしろパウロは、神が自分をこの苦境から救い出す力があるし、また救ってくださると確信しています。それはイエス・キリストを十字架の死という最悪の状況からすら、復活によって救ってくださった神を信じているからです。ですからパウロの語る「慰め」とは、神が苦難から救う神であることを確信していることから来るものなのです。この「苦しみ」と「慰め」というテーマを覚えながら、第二コリントをこれからじっくり読み進めていきたいと思います。

3.結論

まとめになります。「ご利益宗教」という言葉があります。無宗教と言われる日本人が熱心に神様に祈るときは、ご利益を求めてのことです。志望校に合格しますように、好きな人と結婚できますように、家内安全でありますように、商売繁盛しますように、などなど、何かを願い、うまくいくと「ご利益があった」といい、うまくいかないと「ご利益がなかった」と言います。このような宗教感覚からすると、第二コリントでパウロが語っていることはまるで意味が分からないでしょう。パウロは神を信じ、神に仕えているおかげでご利益を受けるのではなく、苦しみを受けているのです。信者に苦しみを与える神などいるものか、と今の日本人と同じように当時のコリントの人も思ったのです。しかし、パウロはキリストを証しするためにはこの苦しみさえ必要なものなのだ、と言います。それだけでなく、苦しみが溢れるところに慰めも溢れるのだ、と言います。主のために苦しむ時、そこに確かに主の慰めがあります。主イエスご自身も大変苦しまれたので、彼に従う人たちの苦しみが理解できるのです。ですから私たちも、ついご利益宗教的な考えに傾きがちですが、キリスト教はそうした宗教と何が違うのか、この第二コリントから多くを学べるでしょう。

私たちの人生にもいろんな苦しみがあります。苦しみのない人生は、残念ながらありません。病や老齢、ケガなどだけでなく、家族や友人との不和もあります。神を信じているのにどうして、と思う時もあるでしょう。しかし、苦しみにも意味があり、またそこには神の慰めがある、とパウロは語ります。私たちもそこから多くを学べるでしょう。これからしばらく、しっかりと第二コリントを読んでまいりましょう。お祈りします。

慰めの神よ、そのお名前を讃美します。今朝からパウロの第二コリント書簡を学び始めました。私たちの人生にも苦しみは避けられないものですが、その意味と、それに対する神の慰めがどんなものなのかをパウロの教えから学ぶことが出来るように、私たちに知恵をお与えください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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