アジアでの苦しみ
第二コリント1章8~12節

1.導入

みなさま、おはようございます。第二コリント書簡からの第二回目の説教になります。前回はこの手紙の特徴やテーマについてお話ししましたが、この書簡は「パウロの弁明」と呼んでもいいほど、パウロは必死に自らの使徒としての立場を擁護しています。パウロというと、新約聖書の約半分の文書を書いた、使徒の中の使徒、大使徒というイメージがあるでしょうが、まだ新約聖書が完成されていなかった最初期のキリスト教の黎明期、パウロの教会全体の中での立場は盤石ではありませんでした。盤石どころか、自らが設立した教会、いわばおひざ元と言える教会から次々と火の手があがる、そんな危機的な状況でした。

パウロに対しては、同じクリスチャンの宣教師仲間からも大きな反発がありました。出る杭は打たれる、というのは日本のことわざですが、あるいは万国共通なのかもしれません。パウロはユダヤ教から生まれたキリスト教が、民族宗教の殻を破って世界宗教になるために大変大きな貢献をしましたが、特にパウロはユダヤ教のシンボルともいえるモーセの律法について、これがユダヤ人と外国人との間の垣根になってしまい、民族を超えた一つの神の民というヴィジョンの妨げになるとして、律法からの自由を唱えました。しかし、これまで幼いころからモーセの律法を守ってきたユダヤ人クリスチャンたちは、このパウロの打ち出した新機軸に強く反発しました。聖書に書かれた神の言葉である律法、その律法を守らなくてもよいなどというとは、パウロは何様のつもりだ、とパウロに反対するグループさえ生まれました。この第二コリントの手紙の背景であるコリント教会とパウロとの緊張関係の背後には、このようにパウロに反発する宣教師たちの存在がありました。

しかし、パウロが直面していたのは、このようなキリスト教会内部での不和や対立だけではありませんでした。パウロは教会の外の人たちからも激しい迫害や暴力さえ経験していました。では、なぜパウロはこんなに激しい迫害を受けなければならなかったのでしょうか?ギリシアや小アジアの大都市の人々にとって、パウロは新しい神、新しい宗教を宣べ伝える存在でした。当時のローマ帝国、またローマの支配下にあったギリシアや小アジアの都市は、新しい宗教に関して寛容でした。基本的に多神教、日本で言う八百万の神々のように、多くの神がいるとローマ人たちは信じていたので、別にそこに新しい神が一人加わったからといって、そんなに目くじら立てるようなことではありませんでした。では、なぜパウロは新しい神を宣べ伝えたというだけで、そんなにひどく迫害されなければならなかったのでしょうか?その理由の一つは、キリスト教が当時のローマの人々の一般的な考え方と相いれないものをもっていたからです。先ほど、ローマの人々は宗教に対して寛容だった、と言いました。では、キリスト教の場合はどうでしょうか。他の宗教に対してキリスト教は寛容でしょうか?ほかの多くの神々を受け入れるでしょうか?いいえ、キリスト教も、その母体であるユダヤ教も、唯一の神のみを信じるという厳格な唯一神教でした。このような唯一の神を信じる人にとって、多くの神々が信仰されているローマ社会は決して生きやすい環境ではありませんでした。当時の人々にとっての宗教は、今日の我々にとっての宗教とは大きく意味合いが異なっていました。今の時代、宗教を信じるのも信じないのも、個人の選択、自由の問題です。私たちは別に何かの宗教を信じなければならないわけではないし、かといってかつての共産圏のように宗教を信じることが禁止されることもありません。あくまで自分次第なのです。また、宗教を信じる場合でも、どんな宗教でも信じてよいわけです。もちろん破壊活動を行うような反社会的なカルト宗教は論外ですが、社会の一般常識の範囲内で宗教活動を行っている宗教はみな認められています。こういう自由な社会の中で、私たちが自由に選択できる宗教というものとは違い、古代社会における宗教は一種の義務でした。もちろん、古代においても個々人の心の奥までは誰も知りえないし支配できませんので、本当にその人が神を信じているのかどうかは分からなかったでしょうが、ある都市でみんなが参加する宗教活動に参加しない自由というのはなかったのです。たとえばパウロがコリントの後に滞在した小アジアのエペソにおいては、女神アルテミスが守り神として信仰されていました。エペソには古代世界の七不思議の一つといわれる、アルテミスを奉るアルテミス神殿がありました。その神殿の中には高さ15メートル、建物だと4階建ての建物ぐらいの巨大なアルテミス像が置かれていました。この守り神であるアルテミスを拝むことはエペソに住むすべての人たちにとっての義務でした。別に他の神様を信仰していても構わないわけですが、それでもアルテミスを礼拝するお祭りにはエペソの住民はみな参加しなければならなかったのです。もしエペソに住む誰かがアルテミスを侮ったなら、アルテミスの怒りを買い、この都市に住む人たちには良くないことが起きると信じられていたからでした。日本でも奉加帳方式というのがあり、村の神様を祭るお祭りの費用は村民ならだれでも出さなければならない、というような村の掟がありましたが、そのような感じです。この際、その人個人にその神様への信仰があるかどうかは問題にはなりません。共同体の一員であるという事実そのものが、その神事への参加を義務づけたのです。パウロが教会を新たに設立したギリシアや小アジアでも同じようなことが行われていました。しかしパウロは、アルテミスやその他のギリシアの神々など存在せず、それらはただの作り話にすぎない。この世には、この世界を創造した唯一の神がおられるだけなのだから、他の神々を祭る礼拝やお祭りに参加してはいけない、と教会の人たちに教えました。

しかし、パウロの教会に家族が信者として加わった、他の家族の人たちはびっくりしました。今まで家族の義務として参加していたその都市の公式の宗教行事に、「私は一切かかわりません」と、最近キリスト教に入信した家族の一人が突然宣言したからです。「あなた一体どうしたんですか、別にキリスト教というのを信仰しても構わないけど、他の神々にもきちんと敬意を払わなければだめじゃないか」と説得しても、頑として聞き入れません。そこで、その家族に変な宗教を吹き込んだ張本人ということで、パウロを目の敵にするようになるのです。

また、もっと難しい問題もありました。当時の小アジアではキリスト教は急速に信者を獲得していましたが、それ以上に猛スピードで小アジアを席巻している宗教がありました。それが人であるローマ皇帝を神として礼拝する皇帝礼拝でした。これはなにも、ローマ帝国が植民地の各都市に皇帝礼拝を押し付けたわけではありません。むしろ各都市の方が、支配者であるローマ皇帝の覚えをめでたくしようということで、自発的に皇帝礼拝を始めたのです。この皇帝礼拝は、ギリシアの神々の礼拝とは違った意味がありました。この皇帝は神であると同時に王でもあるので、皇帝礼拝を拒否することはローマ皇帝を王として認めることを拒否する、つまり謀反と見なされる恐れがありました。特にキリスト教徒の場合、そのローマ皇帝によってローマの極刑である十字架で殺されたイエスこそ真の王であると主張しているので、ローマからすると皇帝の至上権を否定する危険分子と見なされるのです。日本でも戦争中に、特高に逮捕された牧師が「キリストと天皇のどっちが偉いのだ」と尋問されて答えに窮したと言われていますが、同じような状況がパウロの教会員の人たちにも起こりえたのです。

ともかくも、こういういろいろな問題を生じさせるキリスト教を広めるパウロは、ローマの役人からも危険人物としてマークされていました。そういう背景を踏まえながら、今日のみ言葉を読んで参りましょう。

2.本文

さて、前回の説教でもお話ししましたように、第二コリントの中心テーマは「苦しみ」と「慰め」でした。パウロに敵対する宣教師たちは、パウロが使徒と呼ばれるに値しない理由として、彼が耐え忍んでいる「苦しみ」を挙げました。パウロが本当に神の僕で、神のために働いているのならば、神はパウロを守るはずではないか。では、なぜパウロは至る所でトラブルに巻き込まれ、あんなに苦しんでいるのか。きっとパウロには我々が知らない隠れた罪があるに違いない。彼があんなに苦しんでいるのは、その隠された罪に対する天罰であるに違いない、こういってパウロを貶めようとする人たちがいたのです。そのような批判があることを知っていたパウロですが、しかし彼は自分の苦難を隠そうとはしませんでした。むしろ8節ではこう書いています。「兄弟たちよ。私たちがアジアで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。」ぜひ知ってほしい、と書いています。しかも、その苦しみたるや、大変なものでした。パウロはこう書きます。「私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危うくなり、ほんとうに自分の心の中で死を覚悟しました。」これほどの苦しみ、死を覚悟するほどの苦しみとは一体何なのか、詳しいことをパウロは語りませんが、おそらくコリント教会の人たちはパウロが何の話をしているのか、よくわかったことでしょう。これは単に暴力を受けて肉体的に傷を負ったということに留まらない、精神的に追い込まれた状況だと思われます。パウロの書簡には獄中書簡と呼ばれる、牢の中から書いた手紙があります。「ピリピ人への手紙」がその代表例ですが、この手紙がどこで書かれたのかということについてはローマ説が有力ですが、エペソだとする説も同じく有力です。私もおそらくエペソで書かれたのではないかと思います。パウロはエペソで、社会を混乱させるキリスト教を広め、さらにはローマ皇帝への忠誠を失わせるような信仰を市民に言い広めている反乱分子として、市当局に拘束されていたものと思われます。その時のパウロを取り巻く状況は非常に厳しく、実際パウロは死刑宣告を覚悟していました。パウロがここで「自分の心の中で死を覚悟しました」と書いているのは、牢屋の中で判決を待つパウロの偽らざる心境だったのではないかと思います。しかし、パウロはこの苦しみには意味があったのだと語ります。それは「もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした」というものです。人間、自分で何とかできると思う時には、必死で頑張るものです。しかし、どうあがいてもダメだ、自分の力ではこのピンチを乗り越えられないと観念するときは、後は天を見上げるしかありません。普段神などいるものか、と豪語している人でさえも、本当に追い詰められると自分では気が付かないうちに神に祈ることがあります。もちろんパウロはいつも神により頼んで生きてきた人ですが、その彼も絶体絶命のピンチに陥り、さらに深く神により頼む、そういう瞬間が訪れたのです。パウロは「死者をよみがえらせてくださる神により頼む」と言っていますが、これは死者の中からよみがえられたイエス・キリストのことです。イエスを十字架上の死という最悪の状況からすら救い出した神の力、その力を、死を前にしたパウロは信じたのです。

しかし、そのような瞬間にこそ、神の慰めがパウロに与えられました。そう、神はこの危機からパウロを救い出したのです。「ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。」パウロたちがどのようにして救われたのか、ここでもその詳しい経緯は語られていませんが、おそらくパウロの救出劇は有名で、コリント教会の人たちにも伝わっていたのだと思われます。苦難が大きければ大きいほど、また死の危険が重たければ重たいほど、そこから救い出してくださる神の力の偉大さが示されるのです。ですから、パウロの苦難はパウロが神から罰を受けていることの証拠ではなく、むしろパウロの苦難を通じて神の栄光が現されるためだったのです。パウロは続けて、「また将来も救い出してくださいます」と書いています。パウロは、自分たちを襲う苦難がこれで終わりだと思っていたわけではありません。これからパウロはもっと苦しむことになるでしょう。しかし、その苦しみの中にあるパウロに神は常に寄り添ってくださる、そして自分を救ってくださる、その確信こそが、パウロにとっての慰めだったのです。「なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです」と書いています。

そして11節ではパウロは、自分に与えられてきた神からのこのような恵みは、あなたがたの祈りのおかげなのだ、ということを書いています。

あなたがたも祈りによって、私たちを助けて協力してくださるでしょう。それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が感謝をささげるようになるためです。

パウロはここで、「私たちに与えられた恵み」は多くの人々の祈りによるものだ、とはっきり書いています。このことは、パウロだけでなく、いつの時代の主にある働き人にも当てはまるものです。私たちが主によって助けられる、主から恵みを受けるのは、自分自身の信仰のおかげではありません。もちろん自分の信仰も必要ですが、それ以上に多くの人々の祈りが私たちに神の恵みをもたらすのです。ですから私たちは互いに祈り合うべきです。祈りには力があります。ちょっと極端な例ですが、こういう話を聞いたことがあります。ある方がほとんど脳死判定されるほどの危機的な状況に陥りながら、奇跡的にすっかり回復したという実話があります。いわゆる臨死体験ですね。その人は、自分がそのような危険な状態にあったときのことで、はっきり覚えていることがあったというのです。それは、暗闇の中にいたときに自分のために祈っている声が聞こえた、聞こえただけではなくその人々が見えたというのです。その祈りが彼を死から救い出してくれた、というのです。私たちは自分が祈ることがどんな影響を及ぼすのか、はっきりとはわかりません。しかし、霊的な目が開かれると、そういうことが分かるようになるのかもしれません。特に生死の境をさまようような、自分の霊性が研ぎ澄まされる時、祈りが本当に力をもって私たちと神様とをつないでくれて、私たちを助け出すことが分かるのかもしれません。ともかくも、私たちは互いに祈り合うべきだし、しかも真剣に祈り合うべきです。その祈りには確かに私たちを救う力があるからです。

 さて、12節ですが、パウロは自分たちが「人間的な知恵によらず、神の恵みによって行動している」、それこそが自分たちの誇りだと述べています。これはまさに第一コリントのテーマですね。人間的な知恵ではなく、神の恵みなのだと、「誇る者は主を誇れ」ということです。パウロが何度も窮地から脱することができたのは、パウロの知恵や力がすごかったからではなく、神の知恵、神の力によるのです。パウロは極限状態に陥ることで、この真理を文字通り体得したのです。

3.結論

まとめになります。パウロは自分の受けている苦しみの意味を説明するために、つい最近起こったアジアでの出来事に触れました。それがどんな出来事だったのか、私たちには詳しいことは分かりませんが、パウロが死を覚悟するほどのものだったことは間違いありません。しかし、パウロはこの苦しみを通じて大きな慰め、恵みを受けました。パウロはこの時に、完全に主により頼むことを学びました。自分がいくら頑張ってもどうしようもない状況に追い込まれて、それでもどうやって人は希望を持ち続けられるのか?それは神を信じる信仰によるのです。そして実際に人がその苦難から救われたときに、その信仰はさらに確かなものとなり、神は将来も救ってくださるだろうという、未来への信頼をも持てるようになります。ですから、苦難に遭うということは確かに辛いことですが、悪いことばかりでもないのです。艱難汝を玉にす、と言われるように、艱難は私たちの信仰を確かなものとしてくれるからです。また、苦難に遭うときに互いに祈り合うことの大切さも学びました。パウロほどの信仰の人でさえ、多くの人の祈りに支えられて生きていたのです。弱い私たちにとってはなおさらのことです。私たちも祈り合いながら、この困難な時期を共に歩んで参りましょう。お祈りします。

慰めの神よ、そのお名前を賛美いたします。私たちはパウロのアジアでの苦難を通じて、苦しみの持つ積極的な意味を学びました。生きていれば必ず苦難にぶつかりますが、その私たちをいつも神が見守り、そして救い出してくださることを信じ、また感謝します。どうか私たちの歩みをお支えください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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