和解
第二コリント2章5~11節

1.導入

みなさま、おはようございます。今日は「音楽の集い」が午後から開催されるので、いつもより多くの方が礼拝に来られています。心より歓迎いたします。当教会では第二コリント書簡からの連続説教を行っていて、今日が5回目なのですが、今回が初めてという方もおられますので、この手紙の背景からお話ししていきたいと思います。

パウロがこの手紙を送った教会のあるコリントという都市はギリシアの南部に位置する貿易港で、当時の地中海世界では最大の都市の一つでした。人口は50万人を超えていたといわれますが、それより大きな人口を抱えた都市といえばローマなどごくわずかでした。パウロもこの大都市に宣教地としての大きな可能性を見出し、紀元51年から1年半にわたり伝道活動を続けました。1年半というと、今日の教会員の感覚ではとても短いものではないでしょうか。新しい教会に赴任してきた牧師が、1年半で別の牧師に交代、ということになれば、なんて急な話だろう、と私たちは思うでしょう。1年半かけて、やっと牧師と教会の方々の信頼関係が出来上がる、というのがせいぜいではないでしょうか。ですからコリント教会の人にとっても、開拓伝道者であるパウロが1年半で他の都市に行ってしまったということに対し、なんだかすこし寂しいというか、取り残されたような思いがしたことでしょう。

しかし、パウロにとって1年半は大変長い時間でした。パウロには明確な目的がありました。それはなるべく早く全世界に福音を宣べ伝えるということでした。もっとも、全世界といっても、それはパウロにとっての全世界、つまり地中海全域、それはおおむねローマ帝国の広大な支配領域に重なる部分でした。みなさんも世界地図を見てほしいのですが、車も電車もない時代、主な交通手段が徒歩である時代に地中海全域を歩いて回るだけでも気が遠くなるような大冒険です。パウロはそれをやろうとしていたのです。しかもただ歩き回るだけではなく、地中海全域に教会を建てようとしていたのです。したがって、パウロにとって時間は常に足りません。新しい地に新しい教会を建てたら、すぐさまほかの都市に移って伝道を始めました。ですから、そんなパウロにとっては1年半もの時間を費やして一つの都市で伝道するというのは異例な長さでした。それだけに、パウロにとって、コリントは伝道のための重要拠点となるべき地でした。

そして、ここにコリント教会をめぐる様々な問題の根源があるように思われます。つまり1年半という時間は、コリント教会の人にとっては短すぎたのに、パウロにとっては長すぎるほどだった、ということです。教会の創立者であるパウロがわずか1年半で去ってしまったので、無牧の教会になってしまったコリント教会としては当然新しい牧会者、教師を求めます。しかし、後任の教師をパウロが任命したわけではありません。当然、パウロとは大きく考え方の異なる教師たちがやって来る可能性もあります。それどころか、パウロに対してよくない気持ちを持っている宣教師たちが来る可能性もあったのです。

パウロに対してよくない感情をもったほかの宣教師がいた、というと不思議な感じがするかもしれません。今日のキリスト教会では、パウロは押しも押されぬ大使徒です。新約聖書の約半分は、パウロの書簡で占められています。ですからパウロは、多くのクリスチャンにとってイエスに次ぐ権威を持っていると言えるでしょう。しかし、パウロが実際に活躍していた二千年前、パウロの立場はそんなに盤石なものではありませんでした。それどころかひどく脆弱でした。まず、そもそもパウロを使徒と呼べるのか、という疑問が当時のクリスチャンたちの間にありました。ペテロなどの12使徒は、イエスの公生涯に初めから終わりまで付き従ったから使徒なのです。使徒となる要件とは、イエスの生涯をすべて見届けた人であることなのですが、この観点からすればパウロは使徒ではあり得ません。パウロは生前のイエスに会ったことがなかったのですから。それどころか、パウロは教会を怪しげなカルト宗教だと思い込んで、教会撲滅のために全力を挙げるユダヤ教の異端審問官のような人物でした。そのようなパウロでしたが、復活の主に出会って劇的な回心を遂げます。しかし、いくらパウロが回心をしたと言っても、これまで迫害されていた側の教会からすれば、話はそんなに簡単ではありません。パウロの迫害によって兄弟姉妹を傷つけられたクリスチャンの人もいたでしょう。パウロのことを内心では快く思わない人もいたかもしれません。そういう過去を持つパウロでしたから、過去のマイナス分を補おうと、より一層キリスト教の伝道に励むのですが、しかしパウロの伝道の仕方はかなり斬新なというか、保守的なクリスチャンからは疑念を持たれてしまうほど大胆なものでした。それは旧約聖書に書かれている神の戒め、それは十戒を含む律法と呼ばれるものですが、その律法をクリスチャンは守る必要はない、と主張したのです。これはユダヤ人のクリスチャンにとっては衝撃的な主張でした。律法は聖書に書かれている教えです。ですからパウロが律法を守る必要がない、ということを聞いた人は、パウロは聖書の教えを守らなくてもいい、と教えているかのように思ったことでしょう。このパウロと言う人物は、いったい何を考えているのかと思ったかもしれません。このように、初代教会の中でパウロは何かと物議をかもす人物であり、彼のことを必ずしも好意的に見ていないクリスチャンの宣教師たちもいたのです。 

そのパウロが1年半の伝道を終えてコリントを去った後、コリント教会では様々な問題が勃発しました。コリントの人たちとしては指導者を失ってしまったので、早く新しい先生を招きたいという願いがありました。そこにやって来たのがアポロという宣教師でした。このアポロという人は大変な雄弁家で、口下手でいまいち迫力不足だったと言われるパウロと比べると、彼の説教のうまさはなおさら引き立ちました。そこでコリント教会にはアポロ・ファンが生まれ、コリント教会は「パウロ派」と「アポロ派」に分裂してしまいました。今日の教会でいえば、前任牧師と現在の牧師とどちらがいいのか、そんなことを教会員が言い争っているような状況です。そんな状況はよいわけがありませんね。そしてアポロ自身はパウロを同労者として尊敬していたので、この状況に心を痛め、コリント教会を去ってしまいました。再び無牧の教会となってしまったコリント教会では、そのほかにもいろんな問題が勃発しました。この状況を聞きつけたパウロは、そのころは小アジアの大都市エペソで宣教していたのですが、そこからコリント教会に長大な手紙を書きました。それが第一コリントの手紙です。パウロはその手紙を自分の右腕であるテモテに持たせ、テモテをコリント教会に送りました。パウロ自身もコリントに行きたかったのですが、エペソでの伝道に忙しく、その時は動けなかったのです。

さて、こうしてコリント教会に向かったテモテですが、そこでは思いもよらない大変な状況になっていました。アポロが去って再び無牧になっていたコリント教会のところに新しい宣教師たちが来ていたのですが、彼らはパウロに対して大きな疑念を抱いた人たちだったのです。彼らはユダヤ人のクリスチャン宣教師で、おそらくエルサレム教会と深い関係を持っていた人たちだと思われます。エルサレム教会は十二使徒のペテロやヨハネ、そして主イエスの実の弟であるヤコブたちが率いる、まさに総本山とも呼ぶべき教会です。コリント教会に来た新しい宣教師たちは、新参者の宣教師であるパウロがコリント教会におかしなことを教えていないかチェックするために来たという、そんな感じの人たちだったと考えられます。彼らはパウロがコリント教会で教えた内容、特に律法を守る必要はないという教えに疑念を抱き、パウロについての厳しい評価をコリント教会の人たちに伝えました。そしてコリント教会の人たちも、この新しい宣教師たちの言うことに大きく影響され始めていました。そのような状況をテモテは目撃して、大慌てでこの情報をパウロに伝えました。この知らせを聞いたパウロは、これからの伝道旅行計画をすべてキャンセルして、急いでコリント教会を訪れました。約二年ぶりとなるコリント教会への訪問でした。しかし、この訪問は最悪の結果となりました。パウロは2章1節で「あなたがたを悲しませるような訪問」について書いていますが、コリント教会の一部の信徒は、あからさまにパウロに対して失礼な言動をし、中には暴言ともいえるようなひどい言葉をパウロに投げつけた人がいました。もちろんコリント教会全体がパウロに敵対したわけではありません。パウロを熱心に支持した人もいたのですが、そのようにパウロを擁護する人と非難する人がコリント教会を舞台に争い、もう収拾がつかない状態になってしまいました。この状況を見て、パウロはコリントに長くとどまることを諦めてエペソに帰ってしまいました。そしてエペソから、2章4節にある涙ながらの手紙を書き送ったのです。この涙の手紙は現存していないので、私たちはそこにどんなことが書かれていたのかは分からないのですが、しかし手紙の達人であるパウロが書いたものですから、コリント教会の人々の胸を打つには十分だったでしょう。コリント教会の人々はパウロに取った態度を反省し、パウロに暴言を吐いた信徒を厳しく処罰しました。今日のみことばは、この件についてパウロが書いた部分なのです。

2.本文

まず今日の聖書テクストの5節ですが、パウロは自分に対してひどいことを言った人物はパウロを悲しませたというよりも、コリント教会の人々全員に悲しみを与えたのだ、と言います。これは本当にそうだな、と思います。教会の総会などで、一人の信徒と牧師が大喧嘩をして、その牧師がその場を去ってしまったら、もちろんその牧師も傷ついているでしょうが、それ以上に他の信徒の人たちががっかりすることでしょう。教会という共同体は私たちにとって特別な場所です。この世の中には、たしかに多くのいさかいや争いがあるけれども、教会だけはそういう場所であってほしくない、平和と愛情の溢れる場所であってほしいというのが私たちの願いであり、祈りです。しかしその教会で、心無い暴言が多くの人が尊敬している人物に浴びせられるのだとしたら、それを聞いた人たちは胸がつぶれる思いがしたことでしょう。しかもコリントの人たちとパウロは約二年ぶりにあったのです。再会を喜び、これまでのお互いの苦労話や受けた恵みについて語り合いたいと願っていたのに、それどころではなくなってしまったのです。本当にがっかりしたことでしょう。

その後パウロがエペソに戻ってしまい、そのパウロからの涙の手紙、そこには厳しいことも書かれていたでしょうが、その手紙を受け取ったコリント教会の人たちは、自分たちは傍観者でいてはいけない、行動を起こさなければならない、と決意したのでした。昨年来学んできた第一コリントの手紙を読むと、コリント教会の人たちは教会内で問題が起こっても、その信徒のことを取り扱おうとせずに責任を押し付け合い、挙句の果ては教会の外の裁判所に問題を持ち込むような有様だったのが分かります。第一コリントの手紙でパウロは「いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することができるような賢い者が、一人もいないのですか」(6章5節)と書いています。さらには、「外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい」(5章12-13節)という、非常に厳しい指示を出しています。おそらくパウロは、エペソから書いた今度の涙の手紙においても、自分に対して暴言を吐いた人物に対してコリント教会の人たちが厳しい態度で臨むことを要求したのだと思われます。その手紙を読んだコリント教会の人たちは、意を決してその問題の人物に厳しい処罰を与えることにしたのでしょう。今まで人間関係が悪くなるのを恐れて厳しい処置を避けてきたコリントの信徒たちも、今度は逃げられないと思ったのです。

しかし、こういう厳しい処置を要求したパウロは、その人に復讐したかったのではもちろんありません。9節ではパウロは、「私が手紙を書いたのは、あなたがたがすべてのことにおいて従順であるかどうかをためすためであったのです」と書いています。パウロはあえて厳しいことを書いて、コリント教会の人々が今度こそ難しい問題にもしり込みせずに、きちんと向き合うかどうか、このことを試したかったのです。そして、パウロの言うとおりにコリント教会の人たちが行動したので、パウロにはそれで十分でした。むしろパウロは、その厳しい処罰を受けた人の心が折れてしまわないか、救いから背を向けてしまうのではないか、そうしたことの方が心配でした。ですからパウロはその人について、「その人を赦し、慰めてあげなさい」、また「その人に対する愛を確認することを、あなたがたに勧めます」とも書いています。さらには、「もしあなたがたが人を赦すのなら、私もその人を赦します」と、パウロ自身も自分への非礼を赦そうと書いています。ここから大事な教訓を私たちも学ぶことが出来ます。

私たちの教会の中で、何か問題があるときにそれから目を背けてはいけません。教会は一つの体ですから、一部分がおかしくなると必ず全体がおかしくなります。ですから厄介で、感情的になりそうな難しい問題であってもそれから逃げてはいけません。教会の中の罪は罪として正しく認識し、適切な処置をしなければなりません。なあなあにしてはいけないのです。しかし、このような処罰を行うのは、復讐のためとか怒りをぶつけるためであってはいけません。あくまで、その罪を犯した兄弟姉妹を立ち直らせるため、そして教会の純潔を守るためであり、それ以外の理由があってはならないのです。ですから、その問題を起こした兄弟姉妹が心から悔い改めるなら、喜んでその罪を赦し、その人を受け入れてあげるべきなのです。同時に、その罪を犯した兄弟姉妹だけを責めるのではなく、自分にも至らない部分があるのであれば、自分のそのような足りない部分も積極的に認め、自分もまた罪人の一人であることを率直に認めるべきです。そうしたことを一つ一つ丁寧に行ってこそ、教会の中で真の和解が生まれます。

ここで注意したいのですが、相手を赦すことと、相手と和解することとは似て非なるものです。赦すという行為は、赦す方が正しく、赦される方が悪い、という暗黙の前提があります。確かに、ある問題についてはある程度正しい側と、悪い側という区分があるとは言えるでしょう。しかし、人間関係において問題が起きる時に、一方が100%正しく、他方が100%間違っているというような状況の方が稀です。ですから、人間同士が和解する時は、「確かにあなたのやったことは間違っていたけれど、自分の方にもいくらか問題があった。そのことはお互い認め合って、より良い関係を築いていこう」ということになるべきなのです。コリント教会の場合でも、確かにパウロに暴言を吐いた人の行動には問題がありましたが、彼の発言はある意味で教会全体の一つの考えを代弁したものと言えるかでしょうから、そのようなことを口に出さなかった人たちも黙っていたから無罪だ、ということにもならないはずです。さらに言えば、そのようなことを言われてしまったパウロ自身にも、コリント教会との向き合い方に何も問題がなかったとはいえないかもしれません。もちろんパウロは心血を注いでコリント教会を立ち上げた功労者で、それだけでなくコリント教会のみならず他の多くの教会にも責任を負う多忙な身ではありましたが、コリントの人たちからすればパウロにはもっと手間暇かけて自分たちにかかわってほしいという思いもあったはずです。ですからこのような問題が生じてしまったのは、ある意味でみんなに責任があったのです。一人だけに責任を押し付けてしまえば、そこには真の和解はありません。自分だけが一方的に正しいということはあり得ないのです。私たちは神ではないのですから。むしろ、もし自分を完全に正しいとしてしまうのなら、それは自分を神の立場に置いてしまうことです。それはまさにサタンがすることなのです。相手を赦せない、いや赦さない、という態度の背後には、自分が絶対正しく相手が一方的に悪いという思いがあります。しかし、そんな思いを抱いている間は相手を赦すことはできても、和解することはできないでしょう。和解がなければそこには分断しか残りません。そして、それこそサタンの思うつぼなのです。パウロが11節で、「これは、私たちがサタンに欺かれないためです」と書いているのは、恐らくそういう意味なのではないかと思います。私たちも教会において問題を取り扱うとき、赦しにとどまらず真の和解を求めていく、そういう教会でありたいと願っています。

3.結論

今日は、コリントの教会で勃発した問題にパウロが、そしてコリント教会の一人一人がどう対処したのか、そのことを学んで参りました。私たちは教会内に問題があるとき、それを見て見ぬふりをしてはいけません。それは最悪の選択です。私たちは罪ときちんと向き合わなければなりません。しかし、罪を取扱うことは、問題を起こした人に報復をすることでも、罰を与えることでもありません。むしろ目的はその人を立ち直らせること、また教会内に真の和解をもたらすことなのです。私たちはみな罪人です。みな弱さや醜さを抱えています。だからといってそれで開き直ってはいけませんが、同時に互いの弱さを認め合い、補い合う必要もあります。そしてみんなで助け合えば、一人ではできないことも可能になります。なにより、そこに主の力が働いてくださるのです。私たちもそのような教会として歩み続けられるように、祈りましょう。

イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を讃美します。今日はパウロが受けた個人的な侮辱に、コリント教会全体がどう対処したのかを学びました。教会も欠けのある人間の群れである以上、問題が生じることは避けられません。しかしそのような時にも、赦し合い、真の和解を実現する力と知恵とを授けてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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