アカンの罪
ヨシュア記7:19-26
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

今日はヨシュア記のなかの物語の一つである「アカンの罪」からメッセージを得ます。このお話は、簡単に言えば、エリコにおける戦勝で奪ったものは、神に捧げるものとしなければならないのに、アカンという家族の長が自分のものとしました。その結果、アイの町との戦いに敗れたということです。そして犯人を見つけ、犯人の家族を石打ちの刑に処して罪を償わせた、ということです。そのあと8章でアイを攻めて勝利を売ることができました。また、新約聖書の使徒行伝4:32-5:11のアナニアとサッピラの話で、家を売って得たお金の一部を手元に置き、残りのみを教会に捧げるということをしたのに対し、神の怒りにより夫婦が死ぬ、という話がでてきます。これは、すべてを神に捧げたはずなのに、一部を自分のものとしたのは神のものを盗んだに等しい、ということから、このような罰が下されることとなった、というものです。「アカンの罪」も主なる神のものとされた聖絶のものを一部自分のものとしたことによって神の怒りを引き起こしイスラエルは、彼の家族全員を石打ちの刑と、焼き尽くすことにより償った、ということです。主なる神のものをちょろまかすのは旧約・新約通して大罪であり死を免れない、ということの話として伝えられてきました。しかし、今日は少々別の角度からこの物語を理解していきたい、と思います。

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ハナヌヤ
エレミヤ書28章1~17節

1.導入

みなさま、おはようございます。私たちの教会では、これまで旧約聖書の学びを熱心に続けています。この主日礼拝ではエレミヤ書、親子礼拝では創世記、祈祷会ではサムエル書を読み、森田役員のメッセージも旧約聖書からの講解です。私は以前奉仕していた教会でも、旧約ばかりを取り上げるので、「先生のご専門は旧約ですか?」と尋ねられることがよくありました。でも、私は新約学者の端くれでして、論文を書いたのはパウロについて、神学校でも新約学を教えています。ですから正直を申しますと、説教も新約聖書からの方がずっと準備しやすいのです。それでも、教会での説教で旧約聖書を大変重視しているのは、旧約聖書こそが新約聖書の土台だからです。家を建てる時は、まずしっかりとした土台を据えることが肝要です。土台もしっかりしないのに、いくら見栄えの良い上物を立てても、その家は固く立つことはないでしょう。新約聖書も同じことです。旧約聖書をよく知らずに、新約聖書ばかり読んでも、その内容を半分も理解できないでしょう。主イエス・キリストの宣教についても、旧約をよく知らずには十分には理解できないのです。理解できないどころか、それを誤解したり、曲解したりする恐れすらあります。なぜなら、旧約聖書という土台の代わりに、自分勝手な土台を据えてしまう恐れがあるからです。

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反バビロン連合
エレミヤ書27章2~22節

1.導入

みなさま、おはようございます。前回、今回と説教のタイトルに「バビロン」という名前が登場します。エレミヤにとっても、当時の南ユダ王国にとっても、バビロンというのは非常に大きな存在でした。私たち日本について考える場合にも、アメリカ、あるいは中国という大国の存在抜きに政治や経済、あるいは文化を考えるのは不可能なわけですが、南ユダ王国にとっても、北の大国バビロンは目の上のたん瘤、常にその存在を意識しないわけにはいかない存在でした。

しかもこのバビロン、あっという間に勢力を拡大した新興勢力でした。いわゆる成り上がり国家でした。バビロンはずっと北の大国アッシリアの植民地で、アッシリアから独立したのはエレミヤが預言者としての召命を受けた2年後のことでした。ですからエレミヤが預言者として活躍を始めたときには、バビロニア帝国は存在すらしていなかったのです。それが、またたく間にその力を拡大し、宗主国であったアッシリアの首都ニネベを攻め滅ぼすまでになります。わずか20年ほどで、メソポタミア地方の盟主にのし上がったのです。

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第一次バビロン捕囚
エレミヤ書24章1~10節

1.導入

みなさま、おはようございます。早いもので、エレミヤ書からのメッセージも今日で10回目になります。今後もあと2か月ほどは、エレミヤ書からメッセージをさせていただきますが、その際にお願いしたいのは、今日お手元にお配りした「補助レジュメⅡ」を、ぜひ毎週お持ちいただきたいということです。何度も言いますが、エレミヤ書の記述は年代順に並んでいません。エレミヤ書を読んでいると、時々迷路をさまよっているような気持になります。迷路を進んでいると、一度通ったはずの道にまた戻ってしまうということがありますが、エレミヤ書の場合でも、ある歴史上の出来事について読んだ後に、何章も読み進んでからまた戻ってきてしまうというようなことがあるのです。ですからエレミヤ書を読むうえでは、迷子にならないように、今自分がどこを歩いているのか、どの時代の出来事を読んでいるのかを確認していく必要があります。今日お渡ししたレジュメは、その意味でお役に立つことと思います。

私の今後の説教は、基本的にはこのレジュメの歴史の流れに沿ってお話ししますので、まずこのレジュメについて簡単にご説明したいと思います。先日お配りしたレジュメのⅠでは、エレミヤの40年間の預言者としての歩みをまとめましたが、今回はエレミヤの後半生、特にヨシヤ王が死んだ後のエレミヤの歩みをより詳しく書きました。ここには、ユダ王国16代の王ヨシヤの跡を継いだ4人の王の名が記されています。ヨシヤ王の三人の息子が17代、18代、そして20代目のユダ王国の王に次々と就任しました。19代目の王は、ヨシヤ王の孫、そして18代の王エホヤキムの息子でした。しかし、17代と19代の王は短命でそれぞれ3か月だけの王様でした。17代の王エホアハズは三か月後にエジプトに捕虜として連れていかれ、19代の王エホヤキンは三か月後にバビロンに連行されました。このたった三か月間だけ南ユダの19代目の王だったエホヤキンとその家来たちがバビロンに連行された出来事を「第一次バビロン捕囚」と呼びます。そして、その第一次バビロン捕囚が今日の説教のテーマになります。

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遊女ラハブ
ヨシュア記2:1-7
森田俊隆

本日はヨシュア記です。ヨシュア記はモーセの死後、ヨシュアに率いられ、カナンの地に侵入するイスラエルの民の物語です。クリスチャンにとって重要な問題を孕んでいる書物です。重要な問題と言うのは「戦争」と「聖絶」の問題です。ヨシュア記では神が戦争の先頭に立ち、また、戦いの勝利のあと、すべての命を完全に絶つこと、即ち「聖絶」を要求している、問題です。この社会倫理に関する根本問題は私自身、今一つ納得できる解釈を持っていませんが、その問題は、別の機会に譲ることとして、本日はイスラエルの民が最初に占領する町エリコにまつわる一つの話からです。

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ヨシュア記2:1-7
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偽りの預言
エレミヤ書23章23~32節

1.導入

みなさま、おはようございます。ここ数回の説教は、エレミヤ書の歴史的背景についてかなり詳しくお話しました。エレミヤが活躍した時代の状況や背景が皆さんもだんだんと掴めてきたことと思います。今日は歴史というよりも、聖書全体を通じての重要な神学的テーマである「預言」について、またその対極にある「偽りの預言」、「偽預言者」について、エレミヤ書から学んでまいりたいと思います。まず、預かる言葉と書く「預言」という文字そのものについて確認したいのですが、これは予め語ると書く「予言」、未来予告のことではないということです。「今から3年後に大戦争が起きる」ですとか、「今から1年以内に大地震が起きる」と語って、それが起きなかったらその人の予言は信用されなくなるでしょうが、だからといってその人が聖書のいう「偽預言者」かというと、直ちにそうはならないのです。つまり、聖書の言う偽預言者とは、未来の出来事を予告してそれが外れた人のことではないのです。

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書記バルク
エレミヤ書36章20~32節

1.導入

みなさま、おはようございます。エレミヤ書からの説教は8回目になりますが、前回からエレミヤの預言者としての後半生を学んでいます。今日は、このエレミヤの後期の活動を支えてくれた人物、彼の「相棒」とも呼ぶべき人物についてお話ししたいと思います。みなさんは、「相棒」というと、どんな人物を思いだすでしょうか?私はイギリスの推理小説、シャーロック・ホームズに登場するドクター・ワトソンを思い浮かべます。ホームズは架空の人物とはいえ、イギリス人のユニークさを体現したような非常に興味深い人物です。しかしこのホームズの大活躍も、彼の相棒にして伝記作家であるワトソン博士の働きなくしては私たちに伝わることはなかったでしょう。そしてホームズにとってのワトソンこそ、エレミヤにとってのバルクでした。エレミヤはホームズと違って歴史上の人物ですが、エレミヤは自伝を書き残したり、自分の預言を集めて預言集にしたりすることはありませんでした。エレミヤの預言者としての驚くべき働きが今日の私たちに伝えられているのも、この書記バルクの働きのお陰なのです。

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神殿での説教
エレミヤ書7章1~15節

1.導入

みなさま、おはようございます。エレミヤ書からの連続説教は今日で7回目になりますが、今日の箇所はエレミヤの預言者としての40年の歩みの後半生の幕開けと呼ぶべきものです。エレミヤはだいたい20歳ぐらいから預言者としての活動を始めますが、それから19年後、エレミヤが40歳になる少し前に、衝撃的な出来事が起きました。それが前回の説教でお話ししたヨシヤ王の死です。ヨシヤ王は、南ユダ王国の歴史の中でもっとも神に忠実だったといわれる王で、偶像で満ち溢れていた南ユダ王国から偶像礼拝を一掃し、唯一の神への信仰に人々を立ち返らせるために力を注いだ人物でした。エレミヤも、この王の改革の働きに賛同し、預言者として人々に偶像礼拝から離れるように訴えました。多くの反対に遭い、孤立しがちだったエレミヤにとって、この同年代の王は心の支えだったことでしょう。ヨシヤ王にとっても、自分の改革を支持してくれる若き預言者は心強い存在だったでしょう。

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三人の証人・証言
申命記19:15-21
森田俊隆

先月は申命記の各種律法のなかから安息年における負債の免除の条項を採り上げました。本日は、裁きの時に於いて、証人が一人では罪に定めることはできず、複数人の証人を必要とする、ということが言われています。この規定は十戒のうちの第九戒申命記5:20「あなたの隣人に対して、偽証してはならない」を更に具体的に示したものです。十戒に違反して偽証していても一人であれば、それが偽証かどうかも分からない、ので、複数人の証言を求めています。いわば裁判の公正さを確保するための方法を律法として定めたもの、ということができます。「証人」「証言」は現代の裁判においても証拠の一つとされ、ここにおける偽証は極めて重大な問題を引き起こします。一般の社会においても「あの人が言っていることだから間違いないであろう」ということで信ずることも日常的にあります。考えてみると重大なことが気軽に決められていることもあります。

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王のための挽歌
エレミヤ書22章1~12節

1.導入

みなさま、おはようございます。エレミヤ書からの説教は今回で6日目になります。エレミヤ書をじっくりと読んで、エレミヤという人物について思い巡らす時に、彼の預言者としての歩みには大きく分けて前半と後半がある、ということが見えてきます。彼の預言者人生は40年にも及びますが、そのおおよそ半ばごろ、大きな出来事、衝撃的な出来事があり、それがエレミヤの人生にも深い影響を与えました。その出来事とは何かといえば、「王の死」です。王様、あるいは指導者の突然の死は、その国に甚大な影響を及ぼすことがあります。その指導者が優れた人物で、改革の先頭に立っているような場合、それはなおさらです。私たちの記憶に新しいところでは、アメリカのケネディ大統領のことを思い浮かべるかもしれません。彼は1963年に暗殺されましたが、その死はアメリカだけでなく、日本に住む人たちにも大変なショックを与えたと言われます。そのころちょうど太平洋横断テレビ放送が始まったのですが、アメリカから届けられた最初の放送が大統領の暗殺という、なんとも忘れがたい出来事になってしまったのでした。ケネディの暗殺がなければ、アメリカは泥沼のベトナム戦争に突入することはなかったと言われています。現在のアメリカの年間軍事予算は70兆円以上もあり、日本の一年間の税収よりも多いのですが、このような異様なアメリカの軍事国家化は、ケネディが仮に8年間大統領を務めていたら、あるいは阻止されたかもしれないし、世界の歴史は変わっていたかもしれません。このように、指導者の死は、その家族や近親者だけでなく、一国の運命、ひいては世界の運命にも影響を及ぼし得るものです。

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