十字架の愚かさと力
第一コリント1章17~2章2節

1.導入

みなさま、おはようございます。10月も最後の週になりました。秋も深まってきましたが、読書の秋ですので、物事を深く考えるのにもよい時期になってまいりました。さて、前回の説教ではコリント教会に生じた深刻な問題、仲間割れと派閥争いのことを学びました。コリントの教会の人たちは、コリント教会の創設者であるパウロ、そしてパウロが去った後に、いわば二代目宣教師としてコリントに来たアポロ、さらにはコリントの教会との直接の縁はないものの、イエスの一番弟子として初代教会の間では名高いペテロ、こうした人たちを自分たちのリーダーに担ぎ上げて、互いに争っていました。なぜ彼らがそのような派閥争いに血道をあげたのかといえば、それは自分たちが他の人たちよりも上になりたい、えらくなりたいという自己中心的な思いから来ていた、ということを学びました。パウロよりペテロの方が偉い、あるいはパウロよりアポロの方が賢いならば、自分はペテロにつきたい、あるいはアポロにつきたい、そうすれば自分はパウロ派の人たちよりも偉くなれる、そんな思いから彼らは相争っていたのです。

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四大士師以外の八士師
士師記3:7-11
森田俊隆

当日の説教では、この原稿の一部を省略して話しています。

今日は士師たちのいろいろな側面を見て、士師記の理解の基本を知っておきたい、と思います。士師記には12人の士師と呼ばれる人物が登場しますが、4大士師ということができる、デボラ、ギデオン、エフタ、サムソンについては次月以降のテーマとし、これら四名の士師を除く8人の士師を見るとともに、士師全体を見て、私たちが心に留めおくべきことを申し上げておきたい、と思います。 士師記はイスラエルの英雄列伝のようなところがあり、イスラエルの庶民には自らの歴史を記憶する上の必須項目でした。単に英雄について述べているにとどまらず、部族間のいろいろな問題等も記されています。ヨシュア記のようにイスラエルのカナンの地での戦いを申命記神学に立って極端に美化しているところもなく、真実味があります。個別の士師を見ていく中で、問題のテーマにつき、お話いたします。

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士師記3:7-11
森田俊隆
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貧しい人たちのための王国
ルカ福音書6章20節
ワールド・ビジョン・ジャパン・デボーション

みなさん、おはようございます。今日みなさんとのデボーションに招かれたことを心より感謝いたします。また、みなさんの平素からの貴いお働きに心から敬意を表します。

さて、ワールド・ビジョン・ジャパンの10月からの1年間のテーマと聖句が「神の国をまず求めなさい」であるということをお聞きしました。そこで今日は、短い時間ではありますが、この年間テーマで言われている「神の国」とはどんなものなのかを考えてまいりたいと思います。「神の国」、あるいは「天の国」と言われることもありますが、この言葉はイエスの伝記である福音書に100回ほど、イエスの言葉として登場します。イエスの言葉として、こんなに多く使われている言葉は他にはありませんので、まさにイエスという人物、またその働きを理解する上でのキーワードだと言えます。けれども、イエスは神の国とはこれこれこういうものです、ということを事細かには説明しませんでした。むしろ、「神の国とはなになにのようなものです」、というように、たとえ話を用いて、どこかつかみどころのないものとして話すほうがずっと多かったのです。イエスの話は聞く人に、「神の国」とはどんなものなのか、自分自身で思いめぐらすように、また深く考えるようにと促していました。もっと言えば、イエスの地上での生涯そのものが、私たちに「神の国とは何なのか?」と鋭く問いかけるものでもありました。

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分裂するキリストのからだ
第一コリント1章10~17節

1.導入

みなさま、おはようございます。先週から使徒パウロのコリントの教会への手紙を学び始めました。前回は、コリントとはどんなところなのか、その歴史を振り返ってみましたが、今日の箇所からいよいよ本題に入っていきます。先週もお話ししたように、使徒パウロはギリシャの商業都市コリントで開拓伝道を始め、そこで約1年半をかけて伝道活動を行いました。パウロは、自らの使命を牧師と言うより、今日でいうところの外国人宣教師のように考えていました。宣教師とは、まだ福音が宣べ伝えられていない、異教徒の住むキリスト教未開の地に入っていって、そこで初めてキリストの福音を宣べ伝え、信者を獲得していくという、そういう働きをする人です。日本にも、明治時代以降に欧米からたくさんの宣教師が来てくれました。彼らは教会が立ち上がると、そこで長く留まろうとせずに、新たな開拓地を探してほかの場所に移り、自らが開拓した教会のことは日本人の牧師などに託すという行動パターンを取ります。彼らの目的は、なるべく広い地域に福音を届けることなので、一か所にずっといるということはないのです。それに対し、牧師というのは、一つの教会に10年とか、かなり長い期間留まります。そこで教会員の人たちと長期間にわたって人格的なかかわりを持ち、教会の発展や教会の周囲の地域社会とのつながりを深めていく、という役割があります。パウロには、長期間にわたって一つの教会に関わってその教会を発展させていくことよりも、なるべく早く広い地域に福音を届けるという明確な目的がありました。なぜかと言えば、パウロは自分にはあまり時間がないと思っていたからです。パウロはキリストが再び来られるとき、つまり再臨が近いと信じていたので、それまでのうちに世界中に福音を広めようと思っていました。世界中といっても、パウロにとっての世界とは地中海世界のことで、中国や、ましてやアメリカ大陸などは、その存在すら知らなかったでしょう。パウロの目的とは、キリストが再び来られるまでに、彼が知っている範囲の世界全体に福音を届けることでした。ですから彼はあわただしい旅人の人生を送っていたのです。

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コリントの教会とパウロ
第一コリント1章1~9節

1.導入

みなさま、おはようございます。4月から半年の間、旧約聖書の大預言者エレミヤについて学んでまいりました。今日からは、新約聖書の使徒パウロの手紙を学んでまいります。今回は半年というわけにはいかず、おそらく1年近くかかる連続説教になると思います。

エレミヤの時代とパウロの時代は600年以上も離れています。具体的にいえば、足利幕府の室町時代と平成の時代ぐらい離れているわけです。室町幕府の時代からつい先ごろの平成までの時代には、日本には本当に多くの出来事があり、室町の頃の日本と平成の日本とは、単純に同じ国だとは言えないぐらいの違いがあります。ですから、エレミヤ書とこのパウロのコリント教会への手紙は、同じ聖書の書だからといって、似ているはずだとか、同じような内容だとは到底言えないのです。室町時代に書かれた本と、平成の時代に書かれた本が全然違うのと同じです。しかし、同じイスラエルの神に仕える人たちが、同じ神の霊感を受けて書いた書ですから、共通する部分はもちろんあります。もっといえば、エレミヤ書そのものがパウロに強い影響を与えているのです。

ここで忘れてはならないのは、パウロが子供の頃には新約聖書はまだ一つも書かれていなかったということです。新約聖書の約半分がパウロ自身によって書かれた手紙だということを考えてみれば、当たり前のことですね。パウロの年齢は、おそらくイエス様とほぼ同じだったか、少し若いぐらいだと思われますので、彼の少年時代にはイエスのことを聞いたこともなかったでしょう。したがって、当然イエスの伝記である福音書も書かれていません。むしろ、彼にとっての聖書とは、旧約聖書だけだったのです。ですから、少年から青年になる年齢にかけて、パウロは旧約聖書を一生懸命読んでいました。旧約聖書の中でも、エレミヤ書は大変有名で重要な書だったので、パウロはそれをよく読んでいて、勇敢な大預言者エレミヤに憧れる思いを抱いていたでしょう。パウロの手紙の中には、エレミヤを思わせるような記述があったり、エレミヤ書から引用している箇所がありますが、それは彼がエレミヤ書に深く親しんでいたことの何よりの証拠です。

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新しい契約
エレミヤ書31章23~40節

1.導入

みなさま、おはようございます。半年間かけて、エレミヤ書に取り組んでまいりましたが、今日はその最終回になります。前回は、エレミヤの人生の終わりがどのようなものだったかを学びました。20歳そこそこの青年時代からすべてを神に献げ尽くした人物の生涯の終わりとしては、それはあまりにも悲劇的なものでした。このような義人の苦しみ、神に心から仕えた人の受けた苦難の意味をどう考えるのか、というのは聖書における一つの重大なテーマです。神に仕える人は神に守られるべきではないか、なぜ神は僕を見捨てたもうたのか、という問いは、実にイエス・キリストの十字架にまで続く大きな問いなのです。しかし今日は、エレミヤの生涯の軌跡を追うよりも、そのような苦難の人生を経てエレミヤの思想がどのように深められていったのかを考えてまいりたいと思います。エレミヤという偉大な預言者の思想、あるいは神学の深まりの軌跡を考えていこうということです。

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士師記の時代
士師記1:27-33
森田俊隆

説教者の希望により、説教原稿を改定しています。そのため、音声と以下の内容が一致しないことをご了承ください。

今日から数回、士師記を学びたいと思います。ヨシュア記、士師記は旧約聖書の難物です。聖書の言葉を文字通りに読んで、「納得」という訳にはいかないからです。その理由は、人間から見て、残虐に見えるような事柄が起こり、それが「神の命令」「神の計画」であると書かれているからです。

そのうち最たるものは新改訳聖書で「聖絶」と訳されている言葉についてです。聖なる破滅と書きます。この言葉が最も沢山出てくるのはヨシュア記です。ついで、申命記、サムエル記と続きます。ヨシュア記では戦争のあと、敗戦のカナンの人々を全員、殺すという意味で出てきます。主なる神の命令として出てくるのです。ヨシュア記の次の士師記ではわずか2か所にしかでてきませんが、そのあとのサムエル記になりますとこの意味での「聖絶」が復活したかの如く何度も登場します。ヨシュア記ではイスラエルの民はカナン人に連戦連勝で、その勝利のあと、対戦の相手を全員殺せと命じられています。士師記になると、イスラエルは周辺の民族との融和路線になり、そもそもすっきりと勝利した戦争は消えます。そのため「聖絶」の言葉も登場回数が減ります。はっきり言えば、カナンの民の方が強かったので、戦争を仕掛けるなどと言うことはほとんどできなかったのです。しかし、サムエル記にはいると周囲の民族との民族存続をかけた戦争に突入します。初代の王サウルはアマレク人を打ち破り、その民を「聖絶」しますが、その家畜は「聖絶」しなかったということから、王として不適格とされる事態に至ります。サウルは精神病のような状態になり、結局、ダビデが王位につくことになります。

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エレミヤのその後
エレミヤ書42章1~22節

1.導入

みなさま、おはようございます。エレミヤ書からの連続説教も今日で16回目、残すところあと2回となりました。今日のメッセージは、エレミヤの人生の最後の日々、エルサレムが陥落し、ユダ王国に遣わされた預言者としての使命を終えた後の人生の最晩年について学んでまいりたいと思います。エルサレムが陥落した時、エレミヤはもう60歳になっていました。今日では人生100年時代と呼ばれるようになりましたが、当時は60歳というともう現役を退く年でした。過酷な預言者人生を送ったエレミヤですので、せめて余生は平穏な人生を送りたかったでしょうが、そうはいかなかったのです。彼の人生は、その終わりまで苦難に満ちたものでした。

さて前回は、エルサレムが滅びる直前に行われた、エレミヤとユダ王国最後の王ゼデキヤの密談の場面を見ました。エレミヤは、もうすぐバビロンがエルサレムを滅ぼすために戻ってくる、それまでの間に早くバビロンに降伏して生き延びなさいと強く勧めます。その言葉を受け入れたゼデキヤ王ですが、結局徹底抗戦を叫ぶ部下たちを恐れて決断できず、エルサレムはとうとうバビロンによって攻め滅ぼされました。その顛末は、本日交読文でお読みした通りです。バビロンの王ネブカデレザルは、エルサレムが陥落するとき、部下に命じて囚われの身だったエレミヤを保護させました。なぜバビロンの王がイスラエルの預言者を保護したのか、その詳しい理由は書かれていません。おそらく、早い段階でバビロンに投降していた親バビロン派のユダヤ人たちが、バビロンの王にエレミヤのことを伝えていたのでしょう。エレミヤは、イスラエルの神はバビロンの王を覇者に定めたと預言していましたら、そのことを聞いたバビロンの王も悪い思いはしなかったのでしょう。エレミヤを助け出すことにしたのです。

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王と預言者
エレミヤ書38章14~28節

1.導入

みなさま、こんにちは。9月に入りました。エレミヤ書からのメッセージも、今日を含めて三回になります。さて、ここ一週間は安倍総理大臣の突然の辞意表明を受けて、次のリーダーは誰か、どう決めるのかについて世間の注目が集まっています。リーダーの資質は国の行方を左右するので、このことは大変重要なことです。特に国が危急存亡のときには、リーダーの決断一つで国の運命が決まってしまいます。私たち日本も、問題が山積している状態にあるので、本当にふさわしい人がリーダーになることを願わずにはおれません。

さて、今日はエレミヤの仕えた最後の王、そして実にユダ王国の最後の王となったゼデキヤの決断、いや決断というより彼の優柔不断について見てまいります。南ユダ王国はまさに危急存亡の際にいました。今や世界の覇者となったバビロンに攻め込まれ、18か月もの間首都エルサレムはバビロン軍に包囲されていました。エジプトから援軍が来たためにバビロンの包囲は一時的に解かれましたが、バビロンの王ネブカデレザルはエルサレム攻略をもちろん諦めてはいません。いつまたバビロンが攻めてくるか分からない、そういう状況にユダ王国は置かれていたのです。このバビロンの包囲が解かれた、つかの間の時間、この時が一国のリーダーたるゼデキヤ王に残された最後の時、決断をするための最後の機会でした。この時どう決断するかで、彼自身とその王国の命運が決まるのです。この時ゼデキヤ王は預言者エレミヤに助言を求めました。その顛末を今日は学んでいきます。

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エレミヤの祈り
エレミヤ書32章16~44節

1.導入

みなさま、おはようございます。さて、エレミヤの預言者としての人生も、いよいよ終盤に差し掛かってきました。前回は、ユダ王国の人々が奴隷解放の誓いを撤回したために、滅亡が避けられないものとなったというお話をしました。今日の箇所は、その滅亡の先にある希望についてです。

ではいつものように、これまでの経緯を振り返ってみたいと思います。ユダ王国最後の王であるゼデキヤは、北の超大国バビロンの後ろ盾でユダ王国の王となることができました。しかし、ゼデキヤは南の超大国エジプトとひそかに同盟を結ぶことで、バビロンの支配を脱しようとしました。このユダ王国の動きを知ったバビロンの王ネブカデレザルは自分の子飼いの王の背信に怒り、大軍をもってユダ王国に攻めてきました。バビロンは、南ユダ王国の主要都市をすべて滅ぼし、最後にエルサレムを包囲しました。いわゆる籠城攻めです。しかも、18か月間、1年半もの間包囲網を敷きました。ユダ王国は窮地に追い込まれ、神の憐みを乞うために今まで一度も守ったことのない神の戒め、つまり奴隷解放の戒めを実施します。しかし、ここで事態が急変します。南の大国エジプトがとうとう動き出し、エルサレム救出のために援軍を送ったという報が届きました。バビロンも強国エジプトからの軍を警戒し、いったんエルサレムの包囲網を解きます。すると、脅威が去ったと喜んだエルサレムの人々は奴隷解放の宣言を撤回し、解放奴隷を再び奴隷にしました。この恥ずべき行動は神の激しい怒りを引き起こし、神はバビロンを再び連れ戻してエルサレムを滅ぼすことをエレミヤに伝えました。これが前回までの話です。

つまり、今回の聖書箇所はエルサレムが一時的にバビロンの包囲から解かれ、人々がつかの間の平和、安堵感を味わっているという状況で起きた出来事でした。では、今日の箇所を詳しく見ていきましょう。

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