あなたは誰を隣人としますか?
ルカ福音書10章25~37節

1.導入

みなさま、おはようございます。今日は午後から教会総会がありますので、いつものパウロの第二コリント書簡からの講解説教をお休みして、福音書からメッセージをさせていただきます。今年の元日礼拝でも福音書からメッセージをしましたが、その理由は聖書全体の中でも四つの福音書は特別な重要性を持っているからです。使徒パウロは新約聖書の約半分の文書を書いた大変重要な人物で、彼の書簡からは教会について大切なことをたくさん学べます。しかしあえて言うならば、パウロ書簡を含めて考えても、聖書全体の中で最も大切なのはイエスの生涯について語る福音書であるのは間違いないことです。私たちの信仰は、常にイエスを見上げ、イエスに倣うことで形成されていきます。ですからこれからも特別な機会には福音書に帰り、福音書からメッセージをしていきます。

さて、いうまでもないことですが、福音書は一つだけでなく四つあります。その四つの内のマルコ、マタイ、ルカ福音書はお互いによく似ているので共観福音書と呼ばれます。しかし、よく似てはいますが、良く調べるとそれぞれに特徴があり、イエス様の描き方にも違いがあります。ルカ福音書の描くイエス像は、とりわけそのやさしさ、憐み深さが強調されています。イエス様のたとえ話の中でも最も有名なものは「良きサマリヤ人」と「放蕩息子の話」ですが、この二つはルカ福音書にのみ収録されています。これは注目すべきことです。この二つの譬えは、見捨てられた人、失われた人に対する神の強い愛を私たちに教えてくれますが、これはルカ福音書全体が大変強調している点でもあります。失われた人の救いという意味では、あのザアカイさんの話もルカ福音書にだけ収録されています。今日は、このように非常にルカ福音書らしい話である「良きサマリヤ人」の話をみなさんとじっくり読んでいきたいと思います。

この「良きサマリヤ人」、この話は一度聞いたら忘れないようなインパクトを持っています。それはこのサマリヤ人の行動が、普通の人にはとてもまねのできない、人類愛の理想のような行動であるように思えるからでしょう。それに引き替え、半殺しにあった人を見て見ぬふりをする祭司とレビ人のなんと冷たいことか、宗教家のくせに、人助けをしないとは、なんて人たちだ、と義憤さえ感じることもあるでしょう。このたとえ話が強烈なインパクトをもっているのは、宗教人である祭司たちと一般人の良きサマリヤ人の行動があまりにも対照的であるからでしょう。しかし、祭司とレビ人は偽善者の宗教家、ユダヤ教の悪い見本で、良きサマリヤ人は愛に溢れる素晴らしいクリスチャンの模範だ、というような読み方はかなり的を外しているのです。この話の時代背景や、旧約聖書の教えをよくよく考えると、祭司やレビ人は間違ったことをしていた、とは必ずしも言えないのです。こういうと驚かれるかもしれませんが、聖書的には祭司たちは正しい行動を取ったとすら言えるのです。ですから、祭司たちを悪者のように見るべきではありません。むしろ注目すべきは、隣国のユダヤ人とは不倶戴天の敵であったサマリヤ人の行動です。私たちの例でいえば、今隣国同士の日韓関係は悪化していますが、当時のユダヤ人とサマリヤ人の仲の悪さ、険悪さはその比ではありません。しかしそのサマリヤ人は、敵であるはずのユダヤ人を隣人にした、友人にした、そこにこのたとえ話のポイントがあります。この良きサマリヤ人のたとえで問われているのは、「あなたの隣人とは誰なのか」、もっと言えば「あなたは誰を自分の隣人として選ぶのか」ということなのです。

2.本文

では、さっそく今日のみことばを詳しく見ていきましょう。イエスと律法学者の間で交わされた会話で問題となったのは二つの問いです。一つは、「何をすれば永遠のいのちを得ることが出来るのか?」、二つ目は、「私の隣人とはいったい誰のことか?」です。ここで大事なことは、第一の問いについてはイエスと律法学者の意見は一致していたということです。むしろ、問題となったのは、「隣人」の定義なのです。誰が隣人なのか、律法学者はこの点についてはイエス様には落ち度がある、責められるべきことがあると思ってイエス様に論争を挑んできたのです。そしてイエスは彼の疑問に答えるために「良きサマリヤ人」のたとえを語りだしたのです。

繰り返しますが、第一の問い、「何をすれば永遠のいのちを得られるのか」については、イエスと律法学者の間には意見の相違はありません。この会話は、律法学者の「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるのでしょうか」という問いから始まります。この同じ問いを、どこか別のところで聞いたことがある、と思われないでしょうか?そうです、あの富める青年との会話です。ルカ福音書のもう少し後の方、18章の18節で、この律法学者とは別人物の、富める青年が全く同じ質問をイエスに問うています。そこをお読みします。

またある役人が、イエスに質問して言った。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるのでしょうか。」

この富める青年は、非常にまじめな意図でイエスに質問をしました。律法学者の場合はイエスを試そうという狙いがありましたが、この若い青年は真剣に純粋な思いからイエス様に救いの道を尋ねたのでした。

ここで忘れてはならないのは、どちらの人も「永遠のいのちを受けるためには何をすればよいのでしょうか?」と尋ねたことです。「何を信じれば」ではなく、「何をすれば」と尋ねました。それに対しイエス様は、「何をすれば救われるか、というのは質問自体が間違っています。なぜなら人は行いではなく、信じるだけで救われるからです」とは決しておっしゃらなかったのです。むしろどちらの場合でも、律法に書いてあることを行いなさい、そうすれば永遠のいのちを得ます、とはっきりと語られました。この点で、いわゆるパウロ神学の「律法の行いではなく、信仰で救われる」という教えに慣れている人は違和感を覚えるかもしれません。行いがなくても、ただ信じるだけでいいのだ、それが信仰義認だ、というように理解されている方は、このイエス様の言葉につまずいてしまう、ということをしばしば耳にします。

パウロの信仰義認の教えの真意について話し出すと、今日の説教のポイントから逸脱するので今日は詳しく話すのは控えますが、一つだけ確認したいのは、イエス様の教えのどこをとっても、「救いのために行いは不要だ。信じるだけでいいのだ」とおっしゃっている箇所はないということです。行いは重要なのです。信じることとその行動が一致すること、「知行一致(ちこういっち)」という言葉がありますが、主イエスの教えはその点では一貫しています。イエスは「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです」(マタイ7章21節)と言われましたが、信仰と行動が一致すること、行いを生み出すような信仰を持つこと、それが永遠のいのちへの道だというのがイエスの教えなのです。俗に言われる「信じるだけ、行いはいらない」というのは本物の信仰ではないということです。今日の箇所でも、イエスははっきりとこう言われました。

イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」

このように、モーセの律法の要約である二つの教え、神を愛することと隣人を愛すること、その二つを「実行しなさい」、それがいのちに至る道である、と教えているのです。これがイエス様の教えなのです。

さて、このように「どうすれば永遠のいのちを得られるのか」という点について律法学者もイエス様の教えに全く異論はなかったのです。神を愛し、隣人を愛する、この二つを実行することが、永遠のいのちへの道です。律法学者がイエス様に問いただしたかったのは、「誰が私の隣人か」という点でした。御存じのように、イエス様は当時の人々から「罪人」だと思われるような人たちとばかり付き合っていました。今の教会で言えば、牧師が売春婦や前科者ばかりを呼んできて、教会がそういう人たちでいっぱいになってしまうというような状況です。教会にいる敬虔な信者さんは「牧師先生、こんなに世間から白い目で見られている人ばかりを教会に連れてこられても困ります。教会の評判が落ちてしまうではないですか」と苦情を言うかもしれません。この常識人である律法学者もイエス様に同じような思いを抱いていました。神の民であるユダヤ人の中でも、売春婦や、ローマ帝国の手先となって働く売国奴の徴税人、こんな連中とばかり親しく付き合うイエス様はイスラエルの清さ、聖性を損なう危険な行動をしていると見ていたのです。そこで、この点では自分の方が正しいと主張しようと、

「では、わたしの隣人とはだれですか。」

と、律法学者はイエス様に問うのです。わたしにもあなたのように、売春婦や取税人ばかりと付き合え、彼らと隣人として親しく付き合いなさいというのですか、と。

そこでイエスは「良きサマリヤ人」のたとえを話し始めるのです。それは、「あなたの隣人とはいったい誰なのか」ということを律法学者に示すためでした。ここでまず強調したいのは、祭司やレビ人を冷血漢として見るべきではない、ということです。たとえばこう考えて下さい。みなさんは日曜日に、礼拝が始まるのを心を静めて待っています。ところが、礼拝時間の10時半になっているのに、牧師がいつまでたっても礼拝堂に現われないのです。そうして1時間が経ち、結局礼拝できずにお昼になってしまいました。皆さん途方に暮れてしまいました。実は牧師は、道端に倒れている人がいたのでその人を看病しようと、その人に付き添って救急病院に行っていたのでした。教会の皆さんも後でそのことを聞いて、「そういうことなら仕方がない」と納得しました。しかし、そういうことが、一度ならず何度もあったらどうでしょうか。受け入れがたいのではないでしょうか。もちろん、このような人助けの行動自体は賞賛されるべきものですが、しかし何度も礼拝に穴をあけるのは、それはそれで大問題ですよね。私自身がその場に居合わせたとしても、よほどのことがないかぎり礼拝を優先してしまうのではないかと思います。周りに誰かがいれば、その人に人助けをお願いして、ともかく礼拝を守ろうと、そういう行動を選択してしまう可能性の方が高いというのが正直なところです。

そして、この「良きサマリヤ人」のたとえに登場する祭司やレビ人も、実は同じようなジレンマに陥っていたのです。もちろん彼らも困った同胞のユダヤ人を何とか助けてやりたい。聖書にそう書いてあるし、自分たちはいつもそのように教えてきました。しかし、もしこの半殺しに遭った人がもう死んでしまっていたら、その人に触れただけで祭司は汚れた存在となってしまいます。それが聖書の教えだからです。レビ記に次のような教えがあります。

どんな死体のところにも、行ってはならない。自分の父のためにも母のためにも、自分の身を汚してはならない。聖所から出て行って、神の聖所を汚してはならない。(レビ記21:11-12)

このように、たとえ親族の死体でも触れた場合には汚れてしまい、神殿での奉仕が出来なくなってしまうのです。死体に触れてしまった祭司やレビ人は、神殿に入ってはいけなくなります。そうして神殿で祭司の到着を待っている礼拝者たちは、待ちぼうけとなってしまうのです。彼らが勝手に神殿での祭儀を行うことは出来ないからです。このように、祭司たるもの、清さを保って汚れを避けるために死体に触れることはご法度だったのです。ですから、死にかけている人を見た祭司も、気の毒に思いつつも自らの神様へのお務めを果たすために、やむなく彼を避けて通ったのです。レビ人もそうです。彼は祭司ではありませんが、神殿で祭司を助ける仕事をしていましたので、今でいえば神学生のような立場です。彼も道端で倒れた人が気の毒でしたが、しかし、祭司様も礼拝者の方々も神殿で待っているので、そこで死人に触って身を汚すわけにはいかなかったのです。道端で倒れていたユダヤ人にはまことに気の毒ですが、しかし祭司もレビ人も自分の神様のための務めを真剣に考えていればいるほど、その人を助けるわけにはいかなかったのです。

朦朧とした状態で祭司やレビ人が通り過ぎているのを見ていたユダヤ人が次に目にしたのは、なんとサマリヤ人でした。その瞬間、このユダヤ人は絶望しました。というのも、紀元前2世紀ごろにユダヤにはハスモン王朝という強力な王家がありましたが、このハスモン家はサマリヤ人に本当にひどいことをしました。紀元前100年ごろ、ユダヤ人はサマリヤという都市に急流を流し込み、町ごと水没させて消滅させようとしました。まさに大虐殺です。ハスモン王朝はサマリヤ人にとって最も大切な神殿を破壊することもしました。イエス様が活躍したのは、このような悲惨な記憶が鮮明だった時代です。半殺しの目に遭っていたユダヤ人は、サマリヤ人を見て、「ああ、俺はもうだめだ。あいつに復讐される」と覚悟を決めたことでしょう。つまり、当時のユダヤ人にとってのサマリヤ人は、隣人どころか敵でした。歴史的にユダヤ人に虐げられてきたサマリヤ人には、復讐するための十分な動機があったのです。

しかし、驚いたことに、このサマリヤ人はそのユダヤ人に復讐したり、見殺しにすることなく、それどころか、親身になって介抱してくれて、宿屋に連れて行って寝かせてくれました。しかも宿屋の主人にお金を託して、もっと費用がかかれば帰りがけにお金を払う、と約束して立ち去っていきました。

この出来事は、この半殺しに遭った不幸なユダヤ人にとっては衝撃でした。自分が万事休す、という状況に陥り、自分を助けてくれると思った同胞の人々、今の日本でいえば僧侶や神父様は自分を見捨てていったのに、かつて日本が侵略して虐殺を働いたと噂される見ず知らずのアジアの人が自分を助けてくれたのです。どう考えても自分を助けるはずがないと思った敵国人が、驚くべき親切さと愛情を示してくれたのです。こんな体験をすれば、いくら彼が以前にはサマリヤ人に偏見や嫌悪感を抱いていたとしても、このサマリヤ人への見方を根本から改めさせられたでしょう。今まで隣国でありながらも敵だとしか見ていなかった人を、本物の隣人、いや友人として認識するようになったでしょう。それはこのサマリヤ人が、これまでの過去のいきさつや民族的な恨みを超えて、この見ず知らずの惨めなユダヤ人の隣人になると決めたからです。彼も親兄弟から、ユダヤ人の過去の悪逆非道な行動を聞かされていて、ユダヤ人が大嫌いだったかもしれません。口もききたくないと思っていたかもしれません。しかし、そのような思いがあっても、今目の前にいる人の苦境を救いたいという気持ちが止められなかったのです。どんなに憎くても、今目の前にいる人の苦しみを見過ごせなかったのです。そこでこのサマリヤ人は、このユダヤ人の隣人になることを決めました。憎しみを乗り越えて、彼を助けるという行動を選んだのです。そしてこのサマリヤ人は、新たに隣人を得たのです。今まで敵同士だと思っていたユダヤ人とサマリヤ人は、こうして互いに隣人になったのです。今までユダヤ人にとっての隣人にはサマリヤ人は含まれませんでした。逆もまた真です。しかし、このサマリヤ人の行動は、そのような民族の壁を打ち破りました。そしてイエスは、また神は、私たちがそのような行動を選ぶことを望んでおられるのです。

イエスは律法学者にこのことを伝えたかったのです。「あなたは、わたしが罪人とばかり付き合うことを不審に思ったかもしれない。こんな人たちと隣人となる必要があるのか、と私の行動を批判的に見ていることも知っています。しかし、彼らは病人なのです。彼らは助けを求めているのです。私は彼らを助けたいし、それだけではなく彼らの隣人になりたいのだ。彼らも私も隣人となってくれるでしょう。あなたにも、そうなってもらいたい。壁を壊し、敵ですら隣人とするような行動を選び取ってもらいたい。誰を自分の隣人とするのか、それはあなたの選択にかかっています。あなたが隣人とは思わないような人たちも、あなたの隣人になり得るのです。あなたもこのサマリヤ人のように行動しなさい。霊的に死にかけている人たちのところに行って、彼らの隣人になりなさい。彼らもあなたの隣人になってくれるでしょう。」イエスはこのように言いたかったのです。

3.結論

このように、「良きサマリヤ人」のたとえでイエス様が本当に伝えようとしたことは、隣人についての狭い考えを捨てなさい、ということでした。この律法学者は立派な人だったのですが、自分と同じように立派な人としか付き合いませんでした。自分が聖なる民、神に選ばれた民であることを誇りにし、それに相応しい人とだけ付き合おうとしました。彼にとっての隣人とは、このように非常に限られた人たちだけでした。しかし、イエス様はそのような彼の固定概念を揺さぶります。あなたの隣人とは、本当にそれだけに限定されてしまうのだろうかと。あなたは本当は、「罪人」と軽蔑する人たちと隣人になれるのではないか、と。

私たちクリスチャンにも同じような傾向があるかも知れません。自分たちは神から選ばれて愛されている者なので、悪い人とは付き合ってはいけない、と思うかもしれません。しかし、イエスの愛を本当に求めているのはそういう「悪い人たち」なのではないでしょうか。「あなたも行って同じようにしなさい」というイエスのお言葉は、私たちにも与えられているのです。また、私たちも良きサマリヤ人のように、敵だと思われている民族の人たちへも助けの手を差し伸べることが出来るのではないでしょうか。残念ながら日本は隣国との関係が良くありませんが、お互いにこのサマリヤ人のように行動すれば、この状況を変えられるのではないでしょうか。イエス様は永遠のいのちへ至る道として、「隣人を愛する」という教えを実践しなさい、と言われました。そして、隣人とは自分の周りにいる、似たような人たち、気の合う人たちのことだけではなく、自分から積極的に作るものだ、敵すらも隣人に変えることが出来るのだと教えてくださいました。私たちも、そのように実行していきましょう。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様。その御名を讃美します。教会総会の日に、今日は主イエスの教えに耳を傾けました。どうか聞くだけでなく、それを実行する者となることができるように、私たちを強めてください。主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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