男と女について
第一コリント11章2~16節

1.導入

みなさま、おはようございます。いつもお話ししているように、今学んでいるコリント第一の手紙は、その内容がたいへん具体的・実際的であるのをその特徴としています。というのも、パウロはコリントの問題で起こった様々な問題の一つ一つを取り扱う形でこの手紙を書いているからです。パウロは8章から10章にかけて、「偶像にささげた肉」の問題をじっくりと取り扱いました。このテーマに沿って、私たちも今年の2月から数カ月にわたって学んできました。そしてこのテーマが終わり、今日の箇所からパウロは新しい問題に取り組みます。今日の11章から14章にかけて、パウロが扱う問題とは、「礼拝」です。コリントの教会の礼拝において生じた問題、それには礼拝における聖餐式や異言語りなどが含まれますが、それらについてパウロは取り組みます。その中に、あの有名な「愛の讃歌」も含まれています。

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サウル王の遺棄
サムエル記第一15:10-23
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

今月はサムエル記からです。サムエル記は上下2巻あります。上巻は預言者サムエルとイスラエル初代の王サウルの話です。下巻は王となったダビデの話です。中原キリスト教会では木曜会で山口先生がサムエル記からお話をされていますので、私のお話において、それも参考にさせていただいております。今日の聖書個所としてあげましたのはサムエル記第一15:10-23ですが、お話は15章全体を念頭にお話し、させていただきます。まず15章には何が書いてあるかを若干のコメントをしながら概略ご説明します。

15:1-3で預言者サムエルはアマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ、との主の命令をサウルに伝えます。15:3には「今、行って、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ。容赦してはならない。男も女も、子どもも乳飲み子も、牛も羊も、らくだも、ろばも殺せ。』」とあります。ヨシュア記、士師記を呼んだ方は驚かないかもしれませんが、このような知識のない方は驚きます。集団殺戮と何ら変わりません。アマレク人と言うのはユダヤの南のネゲブ砂漠の方に住んでいた人々です。聖書による血統ではイスラエルの始祖ヤコブの兄弟エサウの孫アマレクの子孫です。したがって、そんなに遠くない親類です。全滅させよ、という理由は出エジプトの時、イスラエルの民が南からカナンの地に上ってくるのを邪魔したから、というのです。この理由は調べると怪しいものです。一度は、アマレク人とカナン人がいっしょになってイスラエルを打ち破り、イスラエルがカナンの地に入るのをあきらめさせましたが、結局、モーセはヨシュアをたてて、アマレクを打ち破り、出エジプト記17:14では「アマレクの記憶を天の下から完全に消し去った」ことになっています。サムエルが言っていることは、常識的には何癖です。理由にもならないことを理由にした復讐です。

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偶像にささげた肉(2)
第一コリント10章14~11章1節

1.導入

みなさま、おはようございます。先週は幸いな復活祭がもてたことを心より感謝いたします。今日の説教では、再び第一コリントに戻ります。さて、これまで学んできましたように、8章から今日の箇所までパウロはずっと同じテーマを取り扱っています。それは「偶像にささげた肉」の問題です。この点については毎回話していますが、今回も簡単におさらいしましょう。古代社会では、肉は貴重な食べ物で、今日のようにいつでもスーパーで買えるようなものではありませんでした。では、古代世界最大のブッチャー、お肉屋さんはどこかといえば、それはゼウスやアポロン、アルテミスなどのギリシャ・ローマの神々を祭る神殿でした。こうした神殿で神様をどうやって礼拝したのかといえば、牛や羊などの家畜動物を屠り、そのお肉を燃やして香ばしい香を焚き、それを神々におささげしたのです。しかし、動物の脂肪を全部燃やしたわけではありません。肉のある部分は、神殿の中での食事会や晩さん会に使われ、それでも残った部分は市場に売られたのです。ですから、「偶像にささげた肉」を食べるという場合、二つの問題がありました。一つは、神殿でのお肉の食事会や晩さん会に果たしてクリスチャンは出てもよいのか、それは偶像礼拝になってしまうのではないか、ということで、もう一つは市場で売られているお肉が、偶像の宮で神々に捧げられた肉のお下がりである場合、その肉を食べてもよいのか、という問題でした。今日の箇所は、これまでの議論の締めくくりとしてパウロはこの二つの問いに対して、具体的な指示を与えています。

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復活の経験
ヨハネ福音書11章17~27節

1.導入

みなさま、復活祭おめでとうございます。復活祭はキリスト教の祝祭の中でも最大かつ最も大切な日です。初代教会からの伝統を最もよく保っていると言われるギリシャ正教にはクリスマスを含む12の大祭がありますが、復活祭はこの12の中には含まれない、別格の大祭とされます。なぜなら、主イエス・キリストの公生涯において、この復活という出来事ほど重要なものはないからです。パウロは、もしキリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰は全く意味のないものとなる、と語っています。その箇所、第一コリントの15章14節を開いてみましょう。

そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。

そこで今朝は、主イエスが復活したことと、私たちの救いの関係について考えてみたいと思います。私たちプロテスタント教会では救いを語るときに復活よりも十字架に強調点が置かれるからです。私たちは「イエスの十字架によって救われた」とは言っても、「イエスの復活によって救われた」と言うことはほとんどないのではないでしょうか?私たちの罪のために、私たちの身代わりとしてイエス様が十字架で死んでくださった、だから私たちは救われるのだと。しかしパウロは、イエスが十字架で死んだだけでは私たちは救われないのだ、ということを強く訴えています。先ほどのコリント書の続きでパウロはこう書いています。

そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。

と、こう語っています。十字架だけでは十分ではないのです。

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出エジプト
第一コリント10章1~13節

1.導入

みなさま、おはようございます。いよいよ今日から「受難週」が始まります。受難週とは、イエスが地上における最後の一週間を過ごした期間を指す言葉です。今日の主日は主イエスがエルサレムに入城するところを人々が棕櫚の枝を振って歓迎したという故事により「棕櫚の主日」と呼ばれています。これから主イエスは腐敗したエルサレムの権力者たちへの神の裁きを宣告するために、エルサレムの神殿に入って有名な「宮清め」を行います。イエスから批判されたエルサレムの大祭司たちは反撃に転じてイエスに論争を挑みますが、かえってイエスに完膚なきまでに論破され、いよいよ最後の手段としてイエスを逮捕し、処刑することを企みます。このように嵐のような一週間を過ごすわけですが、主イエスのエルサレム入城の大きな目的はエルサレムの権力者との対決だけにあるのではありません。むしろ、人々を救い出すことこそが主イエスの一番大きな目的でした。主イエスの働きは、モーセのそれと似ています。神はかつてモーセを救世主としてエジプトに遣わしましたが、それはエジプトで奴隷として苦しめられていたイスラエル人を奴隷状態から解放するためでした。その出来事は出エジプト、エクソダスと呼ばれています。そして、イエスがエルサレムでなさったこともエクソダスと呼ばれていることに注意しましょう。

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ルツ記の女性たち:ルツ
ルツ記2:17-23
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

先月はルツ記に登場する姑のナオミについて主にお話しました。今日は、この文書の名前になっている「ルツ」について主にお話したいと思います。ナオミやルツ以外にルツ記に登場する女性として町の女たちについても若干述べさせていただきたい、と思っています。ナオミの時の話の補足という感じでお聞きいただきたく思います。  この文書はルツ記と称せられていますが、実はルツ自身の言葉はあまり含まれていません。その他の記述から彼女の信仰姿勢等については推測になります。まず、ルツはモアブ人です。モアブ人というのは創世記に示されている血統からすると、アブラハムの甥ロトの子モアブの系譜の人々です。このモアブはロトとその姉娘との間に生まれた子です。このようなことは昔から禁じられていた性行為ですから、モアブは不義の子ということが言えます。アブラハムの子イサクの子ヤコブの血筋であるイスラエルの民とは遠い親戚ということになります。彼らの住んでいた地は死海の東側です。イスラエルの民はエジプトに逃れ、その後出エジプトを経てカナンの地に戻ってきた人々ですが、その途中、モアブ人の土地を通過しようとしたのを断られたことから、両者は、曰く因縁の間柄となります。ルツ記の前の文書である士師記においては、モアブ人の王エグロンがカナンの地に侵入しエリコの町を占領し、18年間イスラエルを支配したと書かれています。そこにベニヤミン族出身の士師、左利きのエフデが起こされ、彼は剣を携え王に近寄り、その剣で暗殺し、そのあと士師の役割を果たした、と言われています。サウル王はモアブと戦いましたが、ダビデは両親をモアブの王に預けたと書かれていますし、ダビデ30勇士にはモアブ人がいたと記されています。両親が殺されたためダビデはモアブ人を討ったというユダヤ教の伝承もあります。ルツ記は士師の時代のこと、と言われていますので、この時代のイスラエルとモアブ人の関係は敵対関係と友好関係が入り組んだような時代であった、と推察されます。ルツ記はユダのベツレヘム出身のエリメレクがモアブの地に移住するところから話が始まります。その息子がモアブの娘ルツを娶る、という訳です。ユダ族とモアブ人との関係は少なくとも庶民の間では隣同士の民族という間柄、という状態であったと思われます。後に、捕囚から帰国したユダの指導者ネヘミヤが異民族との結婚を厳に禁止しますが、この士師の時代にはそのような制約はありませんでした。

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ルツ記2:17-23
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朽ちない冠
第一コリント9章24~27節

1.導入

みなさま、おはようございます。三月も中旬になりました。コロナ下での緊急事態が続いていますが、それと並行してオリンピックの開催問題も国民的な関心事になっています。まだワクチン接種もほとんど進んでいない状況で、国民の多くは中止や延期を望む中、政府はオリンピックを何としても開催するという強い決意を示しています。私はジャーナリストではないので、詳しいことは分かりませんが、日本のコロナ対策はオリンピック開催という至上命題のためにいろいろ影響というか、制約を受けているということが言われています。今や巨額のマネーが動くオリンピック開催をめぐって、いろいろきな臭い話が巷間を騒がせています。しかし、オリンピック参加を目指して人生をかけて頑張ってきたアスリートにとっては、政界や財界の思惑などには関心はなく、ただただ競技に参加したいというのが本音でしょう。

今朝与えられている聖書箇所では、パウロは勝利を目指してスポーツに打ち込むアスリートの姿を例に引いて、自分自身の伝道にかける生き方、またクリスチャン一般の生き方について熱心に説いています。この箇所は、特にクリスチャンのスポーツ選手に好まれる言葉が含まれています。「あなたがたも、賞が受けられるように走りなさい」という言葉はそのまま陸上選手やマラソン選手に励ましの言葉として贈ることが出来るでしょう。ではどうしてパウロは突然、スポーツを例に引いて語り始めたのでしょうか。それはコリントの人たちにとってスポーツが身近なものだったからです。私たちの場合でも、仮にこのまま東京オリンピックが開催されて、みんなが感動するような熱戦が繰り広げられれば、スポーツ選手を題材にした説教をする先生も少なからずおられるのではないかと思います。コリントも、ある意味で今の東京のような状況にありました。古代ギリシャには四大競技会と呼ばれるスポーツイベントがあり、ゼウス神を讃えるための古代オリンピックと並ぶイストミア祭というのがあり、コリントはそのホスト・シティーでした。この大会は二年に一度開かれていて、多くのコリントの群衆がこのイベントに熱狂していました。パウロもコリントの人たちの間でこの大会がよく知られていたことを前提にして、それに登場するアスリートたちを例に引いたのです。

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自由と福音
第一コリント9章19~23節

1.導入

みなさま、おはようございます。本日与えられている聖書箇所は大変有名な箇所で、パウロの福音宣教にかける情熱を感じさせる感動的な聖句です。しかし、パウロはここで、いかに自分が全身全霊をかけて宣教に打ち込んでいるのかという自己アピールをしているわけではありません。パウロは、自分がどんなに福音のために頑張っているのかをコリント教会の人たちに知ってほしくてこのようなことを書いているのではないのです。むしろ、パウロはずっと一つのことを考え続けています。それは、何度も言いますがお肉の問題です。コリント教会の人たちは、肉を食べる自由を謳歌すべきか、あるいはその自由を我慢するべきか、という現実的な問題に直面していました。なぜ肉を食べることがそんなに問題になるのかといえば、当時売られていた肉の多くは宗教的な目的に関係していたという事情があります。当時のコリントで、肉を一番多く製造していたのは、実は異教の神々を礼拝するための神殿でした。つまり「偶像の宮」です。ギリシャやローマの神々、あるいは現人神であるローマ皇帝を礼拝するために、当時の人々は多くの家畜をいけにえとして屠っていました。屠られた牛や羊の肉の一部は神殿で燃やされて、その香ばしい香りが神々へと献げられたのですが、燃やされなかったほかのお肉は売り物として市場に卸されたのです。ですから、肉を食べるという行為がどこかで偶像礼拝とつながってしまう、そういう現実的な問題がありました。

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自由とは
第一コリント9章1~18節

1.導入

みなさま、おはようございます。あっという間に2月も終わりとなりましたが、第一コリントからの説教も今回で第15回目になります。今日は9章の内容を読んでいきますが、これは前回の8章の話の続きとして読むべき箇所です。8章では、パウロは「偶像にささげた肉」の問題を取り扱っていて、その結びを次の言葉で締めくくっています。

あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。

パウロは、コリントの教会の兄弟姉妹をつまずかせないために、今度一切肉を食べないと書いています。ではなぜそんな決心をするに至ったのかといえば、当時の食料事情が背景にありました。当時コリントの市場で売っていた肉は、ギリシャ・ローマの神々のための神殿において、それらの神々に供物としてささげられた動物の肉の残りがほとんどでした。市場で売っている肉がそのような偶像にささげられた肉だということをよく知っているコリント教会の信徒が、その肉をパウロが購入して食べているのを目撃したとします。そしてこう考えてしまうのです。「えっ、パウロ先生は偶像礼拝に使われた肉を食べているのか。パウロ先生は、偶像礼拝を大した問題だと考えていないだろうか。それでは、自分も親類や友人との付き合いで、ギリシャの神々への礼拝やお祭りに参加してもいいのかな」と勘違いし、ズルズルとかつての偶像礼拝の世界に引き戻されてしまう、そういう事態を招きかねなかったのです。そこでパウロは、兄弟姉妹の信仰をぐらつかせるぐらいなら、そんなことになるくらいなら、自分は肉を食べる権利を放棄する、とパウロは宣言したのです。

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ルツ記の女性たち:ナオミ
ルツ記4:13-17
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

お読みいただいたルツ記の個所はルツ記の結論部分で、苦難の人生を歩んだナオミが幸せをつかんだところです。内容はご存じのことかとは思いますが、聖書に添って、順番に見ていきましょう。特に、今日は、ルツの姑ナオミに注意を向けてください。

ナオミはベツレヘム出身のエリメレクの妻です。「ナオミ」の名前の意味は「私の喜び、楽しみ、愉しみ、快い」であり、美しい名前です。この夫婦には二人の男の子がいました。一家は飢饉でモアブの野に行った、と記されています。モアブの地に開拓に入った、と考えよさそうです。私の親戚にもブラジルのアマゾン川下流のベレンに移住した家族がいますが、その開墾は大変な苦労だったようで、結局、ブラジリアに移り、野菜栽培と商売で生計を立てるようになりました。エリメレク一家もモアブの野の開墾は大変なことであったと思われます。その間に二人の息子は現地のモアブの娘と結婚します。長男の嫁がルツで次男の嫁がオルパです。ルツという名前は「友情、潤い、友」という意味の言葉でこれも美しい名前です。その後10年くらいモアブの地に住んでいた、と言われています。ナオミは15歳で結婚したとすると、二人の子が生まれ一家をなすまでが5年とするとナオミが20歳でモアブの地に移り、子供たちが結婚するまでが15年とし、更に10年住んでいた、ということのようですから、ナオミは既に40歳です。当時であれば孫がいて、おかしくはありません。この嫁二人には子供が生まれなかったようです。嫁は25歳くらいです。律法では子の生まれない妻は離縁されても文句を言えないことになっていましたが、エリメレクとその息子たちが離縁を考えた風はありません。おそらくナオミが異邦人であるモアブ人の嫁を自分の子のように扱い、子供が生まれなくても、男どもはそれをとやかく言わなかった、と理解してよいでしょう。男たちは、開墾が大変で、家のことはナオミが仕切っていた、と考えて差し支えありません。女系の雰囲気です。

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ルツ記4:13-17
森田俊隆
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