朽ちない冠
第一コリント9章24~27節

1.導入

みなさま、おはようございます。三月も中旬になりました。コロナ下での緊急事態が続いていますが、それと並行してオリンピックの開催問題も国民的な関心事になっています。まだワクチン接種もほとんど進んでいない状況で、国民の多くは中止や延期を望む中、政府はオリンピックを何としても開催するという強い決意を示しています。私はジャーナリストではないので、詳しいことは分かりませんが、日本のコロナ対策はオリンピック開催という至上命題のためにいろいろ影響というか、制約を受けているということが言われています。今や巨額のマネーが動くオリンピック開催をめぐって、いろいろきな臭い話が巷間を騒がせています。しかし、オリンピック参加を目指して人生をかけて頑張ってきたアスリートにとっては、政界や財界の思惑などには関心はなく、ただただ競技に参加したいというのが本音でしょう。

今朝与えられている聖書箇所では、パウロは勝利を目指してスポーツに打ち込むアスリートの姿を例に引いて、自分自身の伝道にかける生き方、またクリスチャン一般の生き方について熱心に説いています。この箇所は、特にクリスチャンのスポーツ選手に好まれる言葉が含まれています。「あなたがたも、賞が受けられるように走りなさい」という言葉はそのまま陸上選手やマラソン選手に励ましの言葉として贈ることが出来るでしょう。ではどうしてパウロは突然、スポーツを例に引いて語り始めたのでしょうか。それはコリントの人たちにとってスポーツが身近なものだったからです。私たちの場合でも、仮にこのまま東京オリンピックが開催されて、みんなが感動するような熱戦が繰り広げられれば、スポーツ選手を題材にした説教をする先生も少なからずおられるのではないかと思います。コリントも、ある意味で今の東京のような状況にありました。古代ギリシャには四大競技会と呼ばれるスポーツイベントがあり、ゼウス神を讃えるための古代オリンピックと並ぶイストミア祭というのがあり、コリントはそのホスト・シティーでした。この大会は二年に一度開かれていて、多くのコリントの群衆がこのイベントに熱狂していました。パウロもコリントの人たちの間でこの大会がよく知られていたことを前提にして、それに登場するアスリートたちを例に引いたのです。

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自由と福音
第一コリント9章19~23節

1.導入

みなさま、おはようございます。本日与えられている聖書箇所は大変有名な箇所で、パウロの福音宣教にかける情熱を感じさせる感動的な聖句です。しかし、パウロはここで、いかに自分が全身全霊をかけて宣教に打ち込んでいるのかという自己アピールをしているわけではありません。パウロは、自分がどんなに福音のために頑張っているのかをコリント教会の人たちに知ってほしくてこのようなことを書いているのではないのです。むしろ、パウロはずっと一つのことを考え続けています。それは、何度も言いますがお肉の問題です。コリント教会の人たちは、肉を食べる自由を謳歌すべきか、あるいはその自由を我慢するべきか、という現実的な問題に直面していました。なぜ肉を食べることがそんなに問題になるのかといえば、当時売られていた肉の多くは宗教的な目的に関係していたという事情があります。当時のコリントで、肉を一番多く製造していたのは、実は異教の神々を礼拝するための神殿でした。つまり「偶像の宮」です。ギリシャやローマの神々、あるいは現人神であるローマ皇帝を礼拝するために、当時の人々は多くの家畜をいけにえとして屠っていました。屠られた牛や羊の肉の一部は神殿で燃やされて、その香ばしい香りが神々へと献げられたのですが、燃やされなかったほかのお肉は売り物として市場に卸されたのです。ですから、肉を食べるという行為がどこかで偶像礼拝とつながってしまう、そういう現実的な問題がありました。

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自由とは
第一コリント9章1~18節

1.導入

みなさま、おはようございます。あっという間に2月も終わりとなりましたが、第一コリントからの説教も今回で第15回目になります。今日は9章の内容を読んでいきますが、これは前回の8章の話の続きとして読むべき箇所です。8章では、パウロは「偶像にささげた肉」の問題を取り扱っていて、その結びを次の言葉で締めくくっています。

あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。

パウロは、コリントの教会の兄弟姉妹をつまずかせないために、今度一切肉を食べないと書いています。ではなぜそんな決心をするに至ったのかといえば、当時の食料事情が背景にありました。当時コリントの市場で売っていた肉は、ギリシャ・ローマの神々のための神殿において、それらの神々に供物としてささげられた動物の肉の残りがほとんどでした。市場で売っている肉がそのような偶像にささげられた肉だということをよく知っているコリント教会の信徒が、その肉をパウロが購入して食べているのを目撃したとします。そしてこう考えてしまうのです。「えっ、パウロ先生は偶像礼拝に使われた肉を食べているのか。パウロ先生は、偶像礼拝を大した問題だと考えていないだろうか。それでは、自分も親類や友人との付き合いで、ギリシャの神々への礼拝やお祭りに参加してもいいのかな」と勘違いし、ズルズルとかつての偶像礼拝の世界に引き戻されてしまう、そういう事態を招きかねなかったのです。そこでパウロは、兄弟姉妹の信仰をぐらつかせるぐらいなら、そんなことになるくらいなら、自分は肉を食べる権利を放棄する、とパウロは宣言したのです。

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ルツ記の女性たち:ナオミ
ルツ記4:13-17
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

お読みいただいたルツ記の個所はルツ記の結論部分で、苦難の人生を歩んだナオミが幸せをつかんだところです。内容はご存じのことかとは思いますが、聖書に添って、順番に見ていきましょう。特に、今日は、ルツの姑ナオミに注意を向けてください。

ナオミはベツレヘム出身のエリメレクの妻です。「ナオミ」の名前の意味は「私の喜び、楽しみ、愉しみ、快い」であり、美しい名前です。この夫婦には二人の男の子がいました。一家は飢饉でモアブの野に行った、と記されています。モアブの地に開拓に入った、と考えよさそうです。私の親戚にもブラジルのアマゾン川下流のベレンに移住した家族がいますが、その開墾は大変な苦労だったようで、結局、ブラジリアに移り、野菜栽培と商売で生計を立てるようになりました。エリメレク一家もモアブの野の開墾は大変なことであったと思われます。その間に二人の息子は現地のモアブの娘と結婚します。長男の嫁がルツで次男の嫁がオルパです。ルツという名前は「友情、潤い、友」という意味の言葉でこれも美しい名前です。その後10年くらいモアブの地に住んでいた、と言われています。ナオミは15歳で結婚したとすると、二人の子が生まれ一家をなすまでが5年とするとナオミが20歳でモアブの地に移り、子供たちが結婚するまでが15年とし、更に10年住んでいた、ということのようですから、ナオミは既に40歳です。当時であれば孫がいて、おかしくはありません。この嫁二人には子供が生まれなかったようです。嫁は25歳くらいです。律法では子の生まれない妻は離縁されても文句を言えないことになっていましたが、エリメレクとその息子たちが離縁を考えた風はありません。おそらくナオミが異邦人であるモアブ人の嫁を自分の子のように扱い、子供が生まれなくても、男どもはそれをとやかく言わなかった、と理解してよいでしょう。男たちは、開墾が大変で、家のことはナオミが仕切っていた、と考えて差し支えありません。女系の雰囲気です。

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偶像にささげた肉
第一コリント8章1~13節

1.導入

みなさま、おはようございます。今週からレントに入ります。レントというのは、イースター、つまり復活祭から数えて46日前のことです。46というと中途半端な数に思えるでしょうが、日曜日を除くとちょうど40日間になります。40日といえば、公生涯に入る前のイエス様が荒野で飲まず食わずの断食を行った期間です。私たちもまた、受難を乗り越えて復活に至った主イエスの苦難を覚えて、厳かな日々を過ごしていく、それがレントの意味です。

欧米では、レントの期間中クリスチャンが何か好きなものを断念する、ということをよくします。私がイギリスで留学生活を始めて最初のレントの時、神学部の友人の女性がレントの期間は紅茶を飲まない、と私に話したので、「どうしてそんなことをするのですか?」と聞くと、レントの期間は主イエスの苦難を覚える時なので、私も自分の好きな紅茶をレントの期間は我慢するのです、と説明してくれました。日本でもレントの期間にそのようなことをされているクリスチャンの方もたくさんおられるのかもしれませんが、私はそれまで恥ずかしながらレントの期間に何かを我慢するというようなことをしたことがなかったので、その友人の話は大変新鮮に響きました。

さて、レントの期間は46日で終わりますが、ではもし皆さんが一生の間、何かを我慢する、あきらめるとしたらどうでしょうか?特に皆さんの大好物な食べ物を46日間ではなく、一生涯あきらめなければならないとしたら、どんな風に感じるでしょうか。今日の聖書箇所の最後では、パウロは今後いっさい肉を食べません、と宣言しています。すごい発言ですね。皆さんも、これから一生お肉が食べられない、とんかつも、チキンナゲットも、牛丼も、ハンバーグも食べられないとしたら、なんと悲しいことでしょうか。では、なぜパウロはそんな大胆なというか、驚くべき決断をしなければならなかったのか、そのことを考えながら今日の聖書箇所を読んでまいりたいと思います。

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危機の時
第一コリント7章25~40節

1.導入

みなさま、おはようございます。第一コリント7章からの、三度目の説教になりますが、今日の箇所はその中でも最も難しい箇所です。と、いきなり皆さんを身構えさせるようなことを言ってしまいましたが、できるだけわかりやすくお話ししたいと思います。では、いったい何が難しいのかといえば、こう考えていただきたいのです。今から百年後の人たちが、今の状況下で私たちのやりとりしている手紙を読んだとします。そこには、「今の緊急事態の下では」というようなことが書かれています。私たちは「緊急事態」といえば、何の説明もなくても、「ああ、コロナのことだな」とすぐにわかります。しかし、百年後の人たちは、きちんと歴史の勉強をしないと、私たちが何のことを言っているのかわからないでしょう。そうはいっても、現代は大変な情報社会なので、百年後の人たちも今の時代の状況については有り余るほどのデータや資料があり、簡単に調べられるでしょう。それに対し、私たちは二千年前の時代に架かれた手紙を読んでいます。その時代の状況を説明してくれる文書は断片的で、数も非常に少ないのです。ですから、パウロが26節で言っている「現在の危急のとき」というのはいったい何のことなのか、確実にどうだとは言えないのです。そういう歴史上の難しさがあります。

また、ここでパウロの書いているギリシャ語もなかなか難しく、日本のいくつかの聖書を比較すると、訳がかなり違っているケースがあります。私たちが使っている新改訳の第3版の訳が必ずしも正しいとも言えませんので、私も原文のギリシャ語を確認しつつ、いったいどの訳が妥当なのかを説明しながら話していきます。ですから、今日の箇所の訳については皆様に別途プリントで私の私訳をお渡ししましたが、そちらも参考にしながら話を聞いていただきたいと思います。

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召命について
第一コリント7章17~24節

1.導入

みなさま、こんにちは。1月も、はや今日で終わりになります。今日の第一コリント書からの説教は「召命について」です。「召命」というテーマではこれまでも何度かお話をしています。「召命」という言葉は普通の日常会話ではあまり使いませんが、神学校ではよく使われる言葉です。将来牧会者になることを志して神学校の門をくぐる人に、真っ先に問われるのは「召命はありますか?」という問いです。神から牧会者として召されているという確信があるのかを問われるのです。これは教会の教師になるための試験の時も同じです。あなたはこの職責に召されているという神からの声を聞いたのか、その確信があるのか、と問われるのです。では、神からの召命とはどんなものでしょうか?

有名なものでは「イザヤの召命」や「エレミヤの召命」、そして「パウロの召命」があります。イザヤは神殿に広がる主の栄光のヴィジョンを目撃して恐れるのですが、その時神がこう語られるのを聞きます。「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」そこでイザヤは「ここに、私がおります。私を遣わしてください」と応えます。それに対してエレミヤは、神の召しにひるんでしまい、「私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません」と答えました。そのエレミヤに対し、神は「私があなたを守る」と約束して、エレミヤを励まします。そして、この手紙の著者のパウロも劇的な召命体験を持っています。教会を滅ぼすために東奔西走するパウロに対し、主イエスが現れ、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」と語りかけられます。この経験を通じてパウロの人生は百八十度の方向転換を遂げます。

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結婚について
第一コリント7章1~16節

1.導入

みなさま、おはようございます。早いもので、第一コリントからの説教も11回目になります。今日の箇所から、パウロは新しい問題を取り扱います。7章の冒頭に、「あなたがたの手紙に書いてあったことについてですが」とありますが、パウロはここから、コリントの人たちがパウロに手紙を送って尋ねてきたいろいろな質問に対して答え始めます。これは逆に言えば、この第一コリントの1章から6章までにパウロが取り扱ってきた問題は、コリントの人々がパウロに尋ねてこなかった内容、むしろパウロに隠しておきたかった内容だ、ということになります。それはそうですね。自分たちが派閥を作って内部抗争を繰り返しているとか、教会員の中で、自分の義理の母親と性的関係を持ってしまった人がいるとか、はたまた売春宿に通っている教会員がいるとか、そんなことがパウロの耳に入れれば、パウロが怒るに決まっています。ですから彼らはそれらをパウロの耳に入れたくなかったのです。またパウロは当時、アジアの大都市エペソにいましたから、パウロに手紙を送るとその内容がエペソの教会の人々にも伝わってしまい、自分たちコリント教会の恥が白日の下にさらされ、彼らからは軽蔑されてしまうだろうという不安を抱いたのです。ですから彼らはパウロに手紙を送ったとき、こうした内容には蓋をして、7章以降に書かれている、もう少しまともなというか、穏便な質問だけを書き送ったのです。

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士師記;付録
士師記18:27-31; 20:43-48
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

本日は士師記の最後で通常「士師記・付録」と称せられている箇所から、メッセージを受け取りたい、と思います。17章から21章までです。「付録」と言われるのは、士師記の一部に似つかわしくないからです。特別、士師と言われる人物が出てくるわけではなく、士師の時代にイスラエルに起きた出来事を二つ記述してあるだけです。一つは12部族の一つ「ダン族」がユダ族とベニヤミン族の間の地から、イスラエルの最北端のフーレ湖(ガリラヤ湖の更に北)の近くに移住するに際し起きた出来事です。偶像礼拝に関する出来事です。二つ目は「ベニヤミン族」に関することです。ベニヤミンにあるギブアの人々が、一人のレビ人のそばめにひどいことをしたことが契機で、イスラエル全体とベニヤミン族の内戦がおこり、ベニヤミン族は絶滅の寸前にまでいく、という話です。不道徳的な事柄が立て続けに起こり、士師記の時代のイスラエルの極めて堕落した社会を赤裸々に記述しています。

ダン族移住物語の最初の方17:6とベニヤミン内乱物語の最後21:25に共通の言葉があります。「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」という言葉です。士師記の著者がこの付録部分を書いた理由が推測できます。士師記の時代はイスラエルの「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っ」た大混乱の時代であり、イスラエルには部族をまとめる権威ある王が必要である、ということです。いままでの士師に関するお話から推測できるように、例外はありますが、大部分の士師といわれる人物はイスラエルの十二部族をまとめた、などお世辞にも言えない状況であり、おそらく大混乱の時代であったろう、と推測されます。そのなかで、王をもとめる機運が強くなり、士師の時代の次に、サウル王、ダビデ王、ソロモン王の時代になるのです。

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神の神殿として
第一コリント6章12~20節

1.導入

みなさま、おはようございます。第一コリント書簡からの学びも今回で10回目になりますが、コリント教会の人々へのパウロの言葉もますます熱を帯びたものとなっています。今日の箇所のテーマは、ずばり「からだ」です。パウロの手紙を読むときに注意してほしい点があります。それは「肉」と「からだ」というふたつの言葉に注意するということです。ギリシャ語の原語では「肉」はサルク、「からだ」はソーマという言葉で、パウロはこれらを使い分けています。「肉」という言葉は、パウロの手紙の中では多くの場合否定的な意味で使われます。たとえばガラテヤ書の「肉の願うことは御霊に逆らい」(ガラテヤ5:16)という言葉がその典型です。「肉」というのは罪が働く領域である、そういうニュアンスがあります。それに対し、「からだ」にはそのような否定的な意味合いはありません。パウロは人間の「からだ」についてどう考えているのか、ということがとてもよく分かるのが今日の聖書箇所です。パウロの教えを要約すれば、「からだを大事にしなさい、大切に扱いなさい」ということです。からだを大事にしない、からだを粗末に扱うということの今日的な例では、軽いケースではアルコール中毒、はなはだしい場合はドラッグ中毒があります。アルコール、あるいはドラッグと呼ばれるものは一時的な高揚感を与えますが、それを続けるとからだは確実に蝕まれていきます。一時の快楽と引き換えに、からだを売り渡しているようなものです。「自分のからだなんだから、好きにさせてくれ」と思う方もいるかもしれません。しかし、神を信じる者にとっては、からだは親から頂いたものであり、また究極的には神からいただいたものです。自分勝手に好きなようにしてよいものではないのです。

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