新しい契約に仕える者
第二コリント3章4~18節

1.導入

みなさま、おはようございます。10月も後半に入り、だんだんと秋が深まってきたように思います。第二コリントの手紙の内容も非常に深く、濃くなってきます。今日は比較的長い箇所をお読みいただきましたが、一読されて、ずいぶん難しいことを書いているなあ、と思われたかもしれません。パウロが何を言いたいのか、にわかには分からないかもしれません。いきなりモーセが出てくるのはどうしてなのか、と思われるでしょう。ですので、まず今日の箇所の内容を大づかみで捉えてみましょう。今日の箇所の入り口のところ、3章の冒頭には、「推薦状」の話題が出てきました。前回の説教でお話ししたように、古代社会においては、推薦状というのはとても大事で、特に身分の高い人に会うためには推薦状は不可欠でした。では第二コリントのこの箇所で、どうしてパウロが推薦状の話を持ち出したかといえば、そこにはある特別な事情がありました。パウロがコリント教会を開拓伝道してから離れた何年か後で、当時は無牧の状態になっていたコリント教会にやってきたユダヤ人の宣教団は、推薦状を携えてやってきました。自分たちが信頼できる教師であることを証明する推薦状です。おそらく彼らは当時のキリスト教の総本山であるエルサレム教会からの推薦状を持ってきたものと思われます。エルサレム教会は、12使徒であるペテロやヨハネ、主イエスの弟であるヤコブなど、錚々たる面々の率いる教会です。その教会からの推薦状は、一番格が高いといいますか、権威があったことでしょう。そしてエルサレム教会が権威を持っていたのは、それが聖地エルサレムに所在していたことが大きな要因であったことは間違いありません。エルサレムはキリスト教の母体であるユダヤ教の聖地です。主イエスも、エルサレムを聖地として重んじていました。さて、エルサレム教会からの推薦状を持ってきた宣教団の人々は、パウロも推薦状を持ってコリント教会にやって来たのか、とコリント教会の人々に尋ねたものと思われます。パウロも、私たちのようにエルサレム教会からのお墨付きがあるのか、と聞いたわけです。しかしパウロは、エルサレム教会からの推薦状も、あるいはユダヤ教との結びつきを強調することも必要ないと考えていました。このことが、今日の聖書箇所の背景にあります。

今日の箇所でパウロはいったい何を論じているのかと言えば、キリスト教とユダヤ教とを比較しているのです。より正確にいえば、主イエスによって結ばれた新しい契約と、それから千年以上も前にモーセによって結ばれた古い契約との比較です。モーセは旧約聖書では一番重要な人物だと言っても言い過ぎではありません。新約のイエス様に対して、旧約の中心にはモーセがいます。そしてイエス様とモーセの共通点は、といえば二人ともユダヤ人であるということです。私たちの教会にはユダヤ人の方はおられませんが、もしおられたら、私たちはどう感じるでしょうか。かっこいい、と思うかもしれません。彼らはアブラハムの子孫で、またモーセの契約の民でもあり、新約聖書だけでなく、旧約聖書の世界とも直接つながっているのです。ユダヤ人はキリスト教が誕生するずっと前から、神に選ばれた民でした。クリスチャンの中でも特別のエリートのような感じがするかもしれません。エルサレム教会から推薦状を持ってきたユダヤ人宣教団に対し、ユダヤ人ではないコリント教会の人たちも同じような感じを抱いたことでしょう。彼らは特別な人たちなんだ、と。しかしパウロは、そういったユダヤ人、あるいはユダヤ教の優位性のようなものはないのだ、ということをモーセの契約と主イエスの新しい契約とを比較して証明しようとしているのです。そのことを頭に入れて、今日のテクストを読んでまいりましょう。

2.本文

まず5節ですが、ここでパウロは資格があるのかないのか、ということを書いています。ちょっと意味が取りづらい箇所ですが、ここでパウロは先の2章16節の言葉を念頭に置いています。それは「このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう」という言葉です。パウロはキリストの福音を伝える務め、キリストの香りを運ぶ務め、その務めにふさわしいのは誰か?それは私たちだ、と言っていました。では、パウロがそのような務めを担う資格は誰から、あるいはどこから与えられたのでしょうか?パウロは、そのような資格は自分自身から来たものではない、と言います。自分自身の能力や実績、それらのゆえに自分がこの務めにふさわしいわけではない、ということです。ではその資格はどこから来るのか?それは神からです。自分たちに高い実力があるから、あるいは優れた実績があるからではなく、ただひたすら神からその資格が与えられたのです。もちろん、パウロには伝道者としての極めて高い聖書知識や能力も、過去の大きな伝道実績もあります。私たち人間は、人を評価する時どうしてもそういうところをチェックしてしまいます。そしてこういうことが不要だとか、無意味だということでも決してありません。しかし、一番大事なことは神がパウロを用いているという事実にあります。では、なぜパウロは自分が神に用いられているといえるのか、その証拠は彼の中に働く聖霊です。6節以降には御霊、聖霊という言葉が何度も出て来ます。御霊こそ、今日の聖書箇所の中心テーマなのですが、それは神の御霊こそがパウロに伝道の務めにふさわしい資格を与えているからです。

聖霊、御霊なる神は、イエス様や父なる神と比べると分かりにくいかもしれません。信者の中に働く聖霊の働きを非常に重視するグループがあります。そういうグループでは信徒の方が突然異言を語りだしたりとか、そういう目立つ動きがあります。私たちはそういう経験をほとんどしたことがないので、聖霊が私たちの中に働くというのがどういうことなのか、具体的にイメージしづらいかもしれません。ただ、たとえ目立った働きを私たちが見ることができないとしても、聖霊は今ここにいるすべての人の中で働いています。私たちが今朝起きて、今日は礼拝に行こう、神様を礼拝しよう、と思ったのは私たちの意志でもありますが、同時にその背後に聖霊が働いていることを忘れてはなりません。聖霊は、こういう言い方が許されるならば、控えめな神様です。私はここにいいますよ、とアピールはしませんが、私たちの背後にいて、いつも私たちを支えてくださっています。

パウロは、この聖霊の働きこそ新しい契約の特徴なのだ、と論じます。6節でパウロはこう言います。「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」と書いています。なぜ文字は殺すのか、文字とは何か?と思われるかもしれません。文字とはモーセの律法のことを言っていると考えて間違いありません。しかし、モーセの律法は神がイスラエルに与えてくださったものです。神が人に与えてくださった良いものが、人を殺すなどということがあり得るだろうか?と不思議に思われるかもしれません。もちろんパウロは、律法は悪いもので人を殺すのだ、などと言いたいわけではありません。律法、十戒は良いものなのです。しかし、イスラエルの歴史を振り返れば、パウロの言いたいことの意味が分かるでしょう。イスラエル人はモーセを通じて十戒をはじめとする律法を神から与えられました。その時に、律法を守れば祝福されるけれど、律法を守らなければ呪われる、という契約を結んでいます。ではイスラエルはどうなったかと言えば、祝福された期間もなかったわけではありませんが、基本的には不遇の時代、辛い時代のほうがずっと長かったのです。それはなぜか?それは預言者たちがいうように、イスラエルが律法を守らなかった、いや守れなかったからでした。律法を守らないと、契約の呪いがイスラエルに下ります。具体的な現象としては、外国が攻めてきて、侵略され、搾取されてしまいます。こういうことが繰り返しイスラエルの歴史に起こったのは、律法すなわち文字を守れなかったからです。パウロが「文字は殺し」と言った時、彼はイスラエルのつらい歴史を思い起こしていました。イスラエルの人は自分の力では律法が守れなかったのです。彼らに必要なのは、彼らを助け、律法を守る力を与える聖霊でした。神の御霊が彼らに降ると、彼らは新しい力を得て、律法を正しく行うようになるはずでした。しかし、なかなか約束の御霊はイスラエルには降りませんでした。聖霊が降るためには、イエス様が十字架に架かって、神と人との執り成しをする必要があったのですが、主イエスが来られる前のイスラエル、モーセによって結ばれた古い契約の時代には、聖霊は預言者など特別な人たちだけに降り、すべての信仰者には聖霊が降っていなかったのです。パウロは、私たちは今や聖霊が信者一人一人に降る時代、キリストの時代、新しい御霊の時代に生きており、自分はその神の御霊、新しい契約に仕える者なのだ、と言っているのです。

パウロはそのことを、モーセを引き合いに出して説明します。7節には、「もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消える栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば」とあります。何の話か分からないと思われるかもしれませんが、ここでは旧約聖書の出エジプト記の出来事を踏まえています。そこを読んでみましょう。出エジプト記34章29節から35節です。少し長いですがお読みします。

それから、モーセはシナイ山から降りて来た。モーセが山を降りて来たとき、その手に二枚のあかしの石の板を持っていた。彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。アロンとすべてのイスラエル人はモーセを見た。なんと彼の顔のはだが光を放つではないか。それで彼らは恐れて、彼に近づけなかった。モーセが彼らを呼び寄せたとき、アロンと会衆の上に立つ者がみな彼のところに戻って来た。それでモーセは彼らに話しかけた。それから後、イスラエル人全部が近寄って来たので、彼は主がシナイ山で彼に告げられたことを、ことごとく彼らに命じた。モーセは彼らと語り終えたとき、顔におおいを掛けた。モーセが主の前に入って行って主と話すときには、いつも、外に出るときまで、おおいをはずしていた。そして出て来ると、命じられたことをイスラエル人に告げた。イスラエル人はモーセの顔を見た。まことに、モーセの顔のはだは光を放った。モーセは、主と話すために入って行くまで、自分の顔におおいを掛けていた。

パウロはここを踏まえて7節を書いています。再び7節を見ますと、パウロはモーセの務めのことを「死の務め」と書いています。これは当時のユダヤ人にとっては、冒瀆と思えるほどのショッキングな言葉だったことでしょう。ユダヤ人にとっての最大の信仰の英雄はモーセです。その彼の務めのことを「死の務め」と呼ぶのは、現在のクリスチャンが使徒の中の使徒であるパウロのことを「死の務め」と呼ぶくらいショッキングなことだったはずです。しかし、ここでも先ほどお話ししたように、パウロはイスラエルの歴史を振り返っていたのです。モーセを通じて律法を受け取りながらもそれを守り通すことが出来なかったイスラエルの歴史は死の歴史と言えます。イスラエルはバビロン捕囚以降、繰り返し外国に隷属を強いられてきました。それは律法の呪いの歴史でもありました。それでも、そのような務めを果たしたモーセの顔は光り輝いていました。モーセ自身は神と直接話したので、モーセの顔は神の栄光を反映して光り輝いていたのです。しかし、何度も言いますがモーセの務め、モーセによって結ばれた契約は消え去る運命にありました。なぜなら、モーセの律法は聖霊の力を受けることなしには祝福の源とはなり得ないからです。その聖霊の時代が主イエスによってもたらされると、モーセの時代は終わります。いわば期間限定付きのモーセの務めにもこれほどまでの栄光があったのです。では、御霊に仕える務め、新しい契約に仕える務めはどれほど栄光に満ちたものでしょうか。

もちろん、そのような務めを担うパウロの働きは、栄光に満ちたものというより苦難に満ちたものでした。そのことはパウロ自身が誰よりも知っていました。しかし、前にお話ししたように、パウロの苦難はイエスご自身の苦難を反映したものであり、それゆえ栄光に満ちたものだったのです。ここには逆説があります。イエスの苦難の人生、そしてパウロの苦難の人生のどこに栄光があるのか、と。しかし、苦しみの中でも人のため生き、自分を呪う人のためにすら祈る姿、そこには確かに栄光があるのです。それはこの世のものではない、神の栄光なのです。

さて、12節以降のパウロの言葉には益々力が入ります。パウロは、「このような望みを抱いているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます」と言っています。大胆にふるまうとは、大胆に福音を宣べ伝えるということです。パウロは福音に覆いをかけるようなことはしない、福音をありのままに、大胆に宣べ伝えるのだ、と言っています。

けれども、その大胆に語られるイエス・キリストの福音に対して、多くの異邦人は応答しているのに、肝心のユダヤ人、イスラエル人の多くは福音のよびかけに応じようとはしませんでした。パウロはこの不可解な状況について、ローマ人への手紙で詳しく論じていますが、今日の箇所ではその理由を説明しようとはしません。ただ、今の残念な状況について次のように言っています。

しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときにはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。

このイスラエルの救いという問題は大きなテーマではありますが、今日の箇所のテーマではありません。ポイントはむしろ、「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです」ということにあります。ここは、人々の前では顔をおおいで覆っていたモーセが、主の前ではおおいを取ったという話が下敷きになっているのかもしれません。モーセが主の前では覆いを取られて主をまっすぐに見たように、私たちも主に顔を向けるなら、主をまっすぐに見ることができます。そして主を見たモーセの顔は、主の栄光を反映して輝いたように、私たちも主を見れば、その栄光を反映して輝くと、パウロは言っています。

しかし、主を見る、あるいは主を向くとはどういうことでしょうか。これは文字通りに私たちがこの目で神様を見るということを言っているのではないでしょう。なぜなら、パウロは「主は御霊です」と言っているからです。パウロがここで言っている「主」とは、イエス様や父なる神のことではなく、聖霊のことだということです。御霊は霊ですから、私たちの肉眼では見ることができません。ですから主に向くとか、主を見るということは、聖霊を受けるということの比喩的な言い方だということになります。聖霊は私たちを内側から変えてくださり、私たちを主イエスと似るものとしてくださいます。

ですから、すこしややこしいですが、私はここまで「主」とは聖霊を指すと申し上げましたが、「主と同じかたちに変えられて行きます」というころの「」だけはイエス様を指していると思われます。つまり、聖霊なる主の働きにより、私たちは主イエスに似たものとなっていく、それがここでの意味であろうと思われます。

3.結論

まとめになります。パウロは今日の箇所で、古い契約、モーセによって結ばれた契約と、新しい契約、主イエスによって結ばれた新しい契約とを比べていました。モーセの契約の最大の贈り物は律法でした。この律法は、人にどう生きるべきかを教え、それを守る者に祝福を与えます。しかし、罪ある存在である私たちは律法を守る力を持っていません。そうなると、律法は祝福どころか呪いになってしまいます。そこで新しい契約が必要になりました。新しい契約を結ばれた主イエスは、信じる者に聖霊を与えてくださいます。聖霊は私たちの中で働き、私たちを内側から変えて、私たちを主イエスに似た者としてくださいます。これがキリスト教の教えですが、では私たちはそれほどはっきりと聖霊が私たちの中に働いているのを感じることが出来るでしょうか。そんなにはっきりとは感じない、と思われるかもしれません。さきほども言ったように、聖霊の働きはひときわ人目を引くような場合もありますが、通常はひそやかなものです。

そして私たちの内に聖霊様に働いていただくために必要なものが二つあります。それは祈りと聖書朗読です。その二つをする時に、聖霊はより強く私たちの中で働くことができます。ですから、私たちもこの気候も良くなった秋の一日の内に静かな時間を取り、祈ってみことばに聞く時を持ちたいと願う者です。お祈りしましょう。

聖霊なる神様、そのお名前を賛美します。今日はパウロの手紙から、私たちは聖霊の時代に生きており、主イエスの尊い犠牲により、今や聖霊を受けることが可能になったことを学びました。どうか私たちに豊かに聖霊を注いでください。また、聖霊様をお迎えできるように、私たちは清く生きることができますように。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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