ユダ王国の宗教改革
列王記下22:8-13
森田俊隆

本日はユダ王国における宗教改革についてお話しようと思います。ユダヤ教の形成される最初の段階ということになります。王様でいうと、最初はユダ王国三番目の王アサです。次は第8代のヨアシュです。三番目は北王国滅亡直後のユダ王国の13代の王ヒゼキヤです。最後は第16代王ヨシヤです。このヨシヤ王が戦死したのちユダ王国は急速におとろえ、王国滅亡に向かっていきます。

ユダヤ教とイスラエル信仰との関係について一言申し上げます。イスラエル信仰の出発点は創世記に示されています。創世記は世界の創造から始まっており、イスラエル信仰には、他民族も含んだ世界大の信仰の流れと、イスラエル民族の形成と言う民族主義的な流れとが共存しています。しかし、出エジプト記以降、歴史書まではそのうちの民族主義的傾向を強く示しており、ユダヤ教の基礎となっている申命記律法の確立過程が描写されています。これがユダヤ教です。創世記に示された、世界大、国際的潮流が旧約聖書の傍系の流れとして繋がっていきます。ルツ記とかヨブ記、箴言、伝道者の書などに受け継がれていきます。イザヤ、エレミヤの預言書にも、このような国際的志向が強く表れています。そしてその頂点が、主イエスの言動です。それがキリスト教となるのです。

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パウロの第二の予定変更
第二コリント1章23~2章4節

1.導入

みなさま、おはようございます。だんだんと秋らしい天気になってきました。第一コリントからの最初の説教が昨年の10月からでしたので、パウロのコリント教会への手紙を読み始めてちょうど今月で1年ということになります。第二コリントの説教は今日で四回目になりますが、みなさんもこの第二コリントの内容というかトーンが、第一コリントとはだいぶ違うということにお気づきになられたことと思います。パウロは第二コリントの手紙において、一生懸命自分のことをコリントの教会の人たちに対して弁明しています。少し弱気になっているようにすら感じられます。その前の第一コリントの手紙では、パウロは権威を持って、かなり強い調子でコリント教会に対して耳の痛いことも書いていました。それは逆に言えば、厳しいことを書いてもコリントの人たちは自分のことを受け入れてくれるだろうという自信がパウロの側にもあったからでした。確かに第一コリントの手紙を書いたころにも、パウロに反対する人々がコリント教会にはいました。当時のコリント教会は「パウロ派」、「アポロ派」、「ペテロ派」というようにいくつかの派閥ができてしまっていました。自分はアポロ派だ、アポロ先生に付くんだ、という人たちはパウロからは距離を置いていたことでしょう。しかし、こういう派閥は教会員の人たちが勝手に作ったもので、パウロとアポロが対立したり、コリント教会の主導権を握ろうと争っていたわけではありません。パウロとアポロはお互いを優れた同労者として認めあっていて、コリント教会で自分たちをめぐって派閥が出来てしまったことに憂慮していました。ですから、パウロはアポロ派の人々に対しても遠慮することなく語りかけることができました。

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パウロの第一の予定変更
第二コリント1章12~22節

1.導入

みなさま、おはようございます。第二コリント書簡からの今日で三回目の説教になります。さて、過去二回の説教でも言いましたが、パウロの第二コリント書簡は非常に難しい手紙です。難しいというのには二重の意味がありますが、一つには、この手紙を書いた時のパウロの状況が大変難しかったことがあります。パウロはその当時、伝道に伴う大変な迫害を経験していて、その上自分が開拓伝道して立てた教会の信者たちとの関係も必ずしも良好ではありませんでした。まさに内憂外患という状態でした。私たちは1年前に旧約聖書の預言者エレミヤの生涯を学びました。人々の無理解に苦しむエレミヤは涙の預言者と呼ばれましたが、パウロも涙の使徒と呼びたくなるような困難に直面していたのです。そして二つ目の難しさとは、この手紙の内容そのものが難しいということです。それは、この手紙には難しい理屈や教理が書かれていて難解だという意味ではありません。そうではなく、この手紙を書いたときのパウロの置かれていた状況をよく踏まえておかないと、この手紙を理解するのはなかなか難しいということです。

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アジアでの苦しみ
第二コリント1章8~12節

1.導入

みなさま、おはようございます。第二コリント書簡からの第二回目の説教になります。前回はこの手紙の特徴やテーマについてお話ししましたが、この書簡は「パウロの弁明」と呼んでもいいほど、パウロは必死に自らの使徒としての立場を擁護しています。パウロというと、新約聖書の約半分の文書を書いた、使徒の中の使徒、大使徒というイメージがあるでしょうが、まだ新約聖書が完成されていなかった最初期のキリスト教の黎明期、パウロの教会全体の中での立場は盤石ではありませんでした。盤石どころか、自らが設立した教会、いわばおひざ元と言える教会から次々と火の手があがる、そんな危機的な状況でした。

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第一と第二コリントの間
第二コリント1章1~7節

1.導入

みなさま、おはようございます。第一コリントの32回のメッセージを終えて、今日からいよいよ第二コリントに入ります。しかし、この第二コリントは、パウロがコリント教会に出した第一の手紙のすぐ後に書かれた手紙、というわけではありません。第一コリントの手紙が書かれてから、第二コリントの手紙が書かれるまで、非常に重要な事件が起きているのです。今日は第二コリントの手紙の背景として、こうしたことを学んでいきたいと思います。この手紙の歴史的背景ということです。ですから、これまでの説教の内容のおさらいのような面もあります。

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イスラエルにおける王権の根拠
列王記下9:1-6
森田俊隆

今日のお話のタイトルとしては「イスラエルにおける王権の根拠」とさせていただきました。列王記というのはイスラエルの王国が南北に分裂し、その後の王の変遷を記した文書です。北イスラエルは通常、イスラエル王国と言い、南イスラエルはユダ王国と言います。北王国についてはアッシリアにより、南王国は新バビロニアにより滅ぼされるまでが対象です。南北分裂がBC922年、南王国の滅亡BC587年ですから、300年強のイスラエルの歴史、ということになります。北王国では19代、南王国では20代の王の変遷があります。この歴史の中から見えてくる、イスラエルの王の正当性の根拠はどこにあるのか、と言うのが今日のお話です。

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パウロとコリントの教会
第一コリント16章5~24節

1.導入

みなさま、おはようございます。第一コリント書簡からの説教は今日で32回目、いよいよ最終回になります。といっても、これから引き続き第二コリント書簡の説教を続けていきますので、これで終わりということではなく、まだ道半ばといったところです。コリントというのは地中海世界の交易・交通の要衝に位置する大きな都市で、人口も50万人を超えていたと推定されます。50万というのは当時の古代世界では途方もない、大変な数です。ですからパウロはこのコリント教会に大きな期待をかけていて、自身のヨーロッパ伝道の拠点にしたいと考えていました。そこでパウロは時間をかけて、コリントの地に教会を建てあげたのです。このように、パウロとコリント教会の関係は深いものがありますが、それは愛憎愛半ばするといった感じで、いつも良好なものではありませんでした。それはこれまで読んできた第一コリントの内容からもお判りいただけると思います。これから私たちは第二コリントを学んでいきますが、そこにはパウロとコリント教会との間での生々しい葛藤が描かれています。今日の第一コリントのあとがきでも、そのことを暗示する箇所があります。その点に気を付けながら、今日の箇所を読んでいきましょう。

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エルサレム教会への献金
第一コリント16章1~4節

1.導入

みなさま、おはようございます。第一コリントからの説教も、今日を含めて残すところあと二回となりました。先週までは15章で書かれている死者の復活と終末について考えていきました。その壮大なヴィジョンが終わって、今日の16章は手紙の末尾、いわばあとがきのような内容になっています。ただ、普通の本でも著者のあとがきというのは重要な内容を含んでいます。私自身もつたない物書きとして本を書かせていただいておりますが、あとがきは一生懸命書きます。ですから、この第一コリントの16章もじっくり学ぶべき価値のある章だと言えます。

16章にはいくつかのことが書かれていますが、はじめにエルサレム教会のための献金について書かれています。この第一コリントの講解説教が終わったら、続けて第二コリントの講解説教に入りますが、第二コリントにおいてはエルサレム教会への献金は大変重要なテーマになっています。ですから、第二コリントの説教の予告編のような意味でも、わずか4節の短い箇所ではありますが、今日の箇所をしっかりと見ておきたいと思います。

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神の奥義
第一コリント15章50~58節

1.導入

みなさま、おはようございます。さて、第一コリントもいよいよ佳境、大詰めに入ってきました。第一コリントの手紙は、割と身近なテーマが多い書簡でした。食事のことや結婚について、または礼拝における様々な問題など、私たちにとっても関係の深い大切なテーマが次々と登場しました。しかし、この手紙の最後の箇所では、パウロは身近とはいえないテーマ、壮大なテーマを語り始めます。パウロがこうした大きな問題を語り始めるきっかけは、やはりコリント教会の側にありました。コリント教会の人々は死者のよみがえりはないと主張しました。パウロは彼らに対して、死者のよみがえりはあると力説しますが、この死者のよみがえりという出来事は終末、世界の終わりに起こる出来事です。そのためパウロは、死者のよみがえりから始まって、終末について語り始めるのです。この「終末」というのはキリスト教における非常に大きなテーマです。キリスト教でいう終末とは、破局のことではありません。つまり、終末とは世界が滅びることではないのです。聖書全体を貫く大きなテーマは、世界の回復であり和解です。神はこの世界を非常に良いものとして創造したのですが、この世界は非常に良いものとは程遠いものになってしまいました。この世界は厳しい生存競争の中、被造物同士が敵意を抱き合う、そういう世界になってしまったのです。この世界に生きる私たちは分断され、敵対しあう関係に置かれています。しかし、このバラバラにされた世界がキリストのもとに一つにされる、世界は回復され、また被造物同士、そして創造主と被造物とが和解する、それがキリスト教で言うところの終末です。そして、この終末における死者のよみがえりはとても重要なことです。我々人間が死ぬということは、この被造世界の破れと分断を象徴するものだからです。死は人と人とを分かつものです。親しい人同士、ずっと一緒にいたいと願う人同士にも、必ず別れが来ます。その最も深刻なものは死です。仲たがいしたのなら仲直りする機会がありますが、死に分かれてしまった人とはもはやそのような機会はありません。しかし、その死、そして死による分断を乗り越えさせるのが死者のよみがえりです。しかし、死人がよみがえる、しかもからだを持ってよみがえるというのはどういうことなのか?それはどのようにして起こるのか?復活のからだはどのようなものなのか?疑問はいくらでも浮かんできます。パウロはこうした問題をできるだけ丁寧に解説しますが、それがこの15章の内容です。そして、その中でも特に重要な事柄として話すのが今日の箇所です。

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王権の継承
列王記上1:1-8
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

本日から列王記に入りたい、と思います。お読みいただいた個所は、ダビデの晩年のところで、最後のダビデ後継者争いが、始まるところです。この頃、ダビデは70歳くらいとみなされておりますが、体力は衰え、だれの目から見ても、最後の時が近づいている、と見える時でした。まず、先ほどお読みいただいた列王記の個所での出来事と、その結末について申し上げます。

一言、事前に申し上げておきたいことがあります。これから、私が申し上げることはダビデというユダヤ人に英雄視されている人物に関する手厳しい批判です。伝統的な神学から大きく外れる内容で、牧師であれば、お話することは憚られるだろう、と思いますが、私は「信徒伝道師」という立場でお話していますので、自分の考えを率直に言わせていただくことが許されている、と心得、申し上げる、ということです。ご容赦願います。

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列王記上1:1-8
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