種蒔きのたとえ
マルコ福音書4章1~20節

1.導入

みなさま、おはようございます。9月に入りました。早いもので、マルコ福音書からの講解説教も今日で14回目を数えることになりました。マルコ福音書は16章まであるので、まだその三分の一も終えていませんが、マルコ福音書の中でイエスのガリラヤでの活動を記録している部分に限って考えれば、今日の4章はちょうどその真ん中、ガリラヤ宣教の折り返し地点ということになります。そしてこの4章というのはマルコ福音書の中でも独特の意味合いがあります。

マルコ福音書を、マルコより後に書かれたマタイやルカの福音書と比べると、一つの大きな特徴に気が付きます。それは、マルコ福音書にはイエスの教えが少ないということです。マルコ福音書には「主の祈り」が含まれておらず、山上の垂訓もありません。また、ルカ福音書に収録されている、イエスが語った大変有名なたとえ、「良きサマリア人」や「放蕩息子」の話もありません。むしろマルコ福音書はイエスが何をしたのか、その行動に焦点を当てています。ですからマルコ福音書では、テンポよくストーリーが展開していくという、そういう印象を受けます。しかし、そのマルコ福音書の中では例外的にイエスの教えを収録している箇所があります。それが今日のマルコ4章であり、もう一つがマルコ13章の「オリーブ山の講話」です。この二つの章は、一つはイエスのガリラヤ宣教の真ん中に、もう一つはイエスのエルサレムでの最後の一週間の真ん中に置かれています。これは非常に興味深いことです。そして、これら二つの章には共通点があります。それは、これらの箇所はそれぞれイエスのガリラヤとエルサレムでの行動の意味を説明しているということです。

イエスの宣教には一つのパターンがあります。それは、イエスはまず行動し、それから後でその行動の意味を説明するというパターンです。マルコ福音書の1章から3章までは、イエスがガリラヤで行動を開始し、様々な力ある業を行い、それに対して人々がどのように応答したのか、その様子が描かれていました。マルコ福音書4章は、イエスのこれまでの行動の意図や意味について解き明かしているのです。ですから、マルコ4章はある意味ではマルコの1章から3章までの内容の要約だと言えます。そうしたことを頭に入れながら、さっそく今日のテクストを読んで参りましょう。

2.本文

さて、4章1節ではイエスがどのような状況で教えを語られたのかが記されています。マタイ福音書の有名な山上の垂訓は、その名の通り山の上でなされた教えでしたが、マルコ福音書によれば、イエスが普段伝道活動の場所として選んだのはガリラヤ湖畔でした。この度も、イエスはガリラヤ湖の湖畔で舟に乗って、岸に集まっていた大勢の群衆に対してボートの上から教えておられました。なぜイエスが不安定な舟の上からではなく、陸地で話さなかったのかといえば、イエスに触れるだけで病が治るといううわさが広まっていたので、陸地にいると人々がイエスのところに殺到してしまい、おしくらまんじゅう状態になって教えるどころではなくなってしまうためではないかと思います。

2節にはイエスは多くのことをたとえで教えられたとありますが、マルコ4章には三つのたとえが収録されています。そして、それら三つのたとえのテーマはみな同じでした。「神の国」、より正確に言えば「神の王国」あるいは「神の支配」がイエスの三つのたとえの主題でした。この「神の王国」の、イエスの宣教における重要性は言うまでもないことです。なにしろ、イエスの宣教の第一声が「神の王国は近づいた」であったからです。繰り返しますが、「神の王国」はイエスの宣教の中心にあります。しかし、イエスは「神の王国」、あるいは「神の支配」が到来するというのは、具体的にはどういうことなのかを説明しませんでした。実際、イエスの宣教第一声で「神の王国」という言葉が出て来てから、この4章になるまでの間、「神の王国」という言葉は一度もマルコ福音書には登場しません。イエスは「神の王国」とは何なのか、どういうことなのかを説明しないまま、悪霊を追い払い、病を癒し、そして新しい教えを人々に教えられました。実に、これらの活動、つまり悪霊を追い出したり、病を癒したり、人々に新しい生き方を示すこと、これらすべてが神の支配が本当にこの世界に到来していることの具体的な現れ、証明なのですが、しかしすべての人々がイエスのなさっていることを「神の支配」の到来とは見なしませんでした。先週お話ししたように、エルサレムから来た偉い先生方はイエスの力ある業を神の支配の現れどころか、悪魔の力を借りたものだと非難することさえしたのです。

このように、イエスのなさっていることはまことに目覚ましいことだったのですが、そうしたイエスの活動をどのように評価するか、どのように応答するのかについてはおどろくほど様々な反応がありました。最も肯定的にイエスの働きを評価し、熱心に従ったのはペテロたち12弟子でした。反対に、最も否定的にイエスの働きに反応したのはパリサイ派やヘロデ党、またエルサレムから来た律法学者たちで、彼らは当時の政治と宗教権力を独占していた既得権益者たちでした。彼らはイエスの働きにより自分たちの権威が脅かされる、失墜させられてしまうと感じ、猛烈にイエスに反対しました。この両極端の間に、どっちかずの多くの人々がいました。イエスは、これらの様々な人々の反応を描写するために、有名な「種蒔きのたとえ」を語りました。具体的に言えば、道ばたに蒔かれた種とは、イエスの言葉に聞く耳を持たないパリサイ派やエルサレムの律法学者たちのことです。彼らは自分たちのプライドを無名の若者に傷つけられてひどく不機嫌になり、イエスのことを正当に評価しようとしませんでした。彼らの自尊心に溢れ、頑なな心はサタンに付け入るスキを与えてしまいます。サタンは人間の嫉妬や妬み、プライドが大好きなのです。そういうもので一杯になってしまっている心は、サタンには非常に居心地が良いのです。サタンは人々の嫉妬心に油を注ぎ、ますます嫉妬心を燃え上がらせます。そうすると人は正気を失い、敵意や嫉妬の虜となっていきます。道端に落ちて、サタンに食われてしまう種の落ちた土壌とはそういう人々の心のことです。

しかし、イエスはごく一部の弟子以外には、たとえの意味についてのこういう詳しい説明をしませんでした。皆さんも、路上で人々に話しかけている人の演説を聞いていて、その人が「種を蒔く人が種を蒔いていると、その種は道ばたに落ちてしまい、鳥がそれを食べてしまった」という話をするのを何の解説もなく聞いたならば、この人はいったい何の話をしているのか、田舎で農業を始めたときの苦労話でもしているのか、と勘違いしてしまうでしょう。イエスの話を聞いていた大勢の群衆もそうでした。彼らはイエスのことを、不思議な病の癒し人として羨望の目で見つめていましたが、そのイエスが種蒔きの苦労話をいきなり話し始めるのを聞いて、何のことやらさっぱり分からなかったことでしょう。イエスの弟子たちにしてもそれは同じで、後からイエスにその意味を解き明かされて、この「種」というのはイエスの語る言葉で、いろいろな種類の土壌とは、イエスの言葉を聞いた人々の様々な心の在り方だったのかと、初めて得心がいったことでしょう。

では、なぜイエスはこの「たとえ」という分かりにくい手段でメッセージを伝えたのでしょうか。「たとえ」などという回りくどいことをせずに、「あなたたちの心は道ばたに落ちて鳥に食われてしまう種が落ちた土壌のようなものだ。同じように、私がいくら神の教えをあなた方に教えても、それを吸収したり受け止めたりすることができず、かえってサタンがそれを奪ってしまうのだ」と、分かりやすく率直に教えることをなさらなかったのでしょうか。イエスはその理由として、イザヤ書を引用しました。

彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることがないためです。

この一節はイザヤ書6章からの引用です。これは有名なイザヤ書の召命の場面に続いて出て来る言葉です。しかし、このイザヤ書の言葉と、イエスがたとえでしか語らないこととの間に、いったいどんな関係があるというのでしょうか?それは、イエスが置かれていた状況と、当時のイザヤが置かれていた状況が似ていた、ということなのです。

預言者イザヤは神に召し出され、神からイスラエルの人々にメッセージを伝えるように言われましたが、同時に人々は聞く耳を持たないだろうとも警告されます。イザヤが神から与えられたメッセージとは、一部の権力者たちが富を独占し、貧しい人々を虐げているイスラエルの現状を神は怒っておられ、いずれイスラエルは神の厳しい裁きに遭うだろうという、とても厳しいメッセージでした。しかし、人々はこんなメッセージは聞きたくありませんでした。人々が聞きたかったのは、自分たちを守ってくれる神、この快適な暮らしを守ってくれる神についてであり、自分たちの生き方を変えるように、社会を変えるようにと促す神の話など聞きたくなかったのです。イエスがここでイザヤ書を引用したのは、今イエスの話を聞く人たちも、イザヤが語りかけていたイスラエルの人たちとさして変わらないということを示すためでした。

イエスもこれまでガラテヤの人々に伝道活動を続ける中で、人々のことを観察し続けていました。多くの人はイエスを歓迎しているように見えましたが、それはイエスが彼らの抱えていた問題、特に病という問題を解消してくれるからであり、イエスが教える新しい生き方、つまり人を支配しようとするのではなく、むしろ人に仕えなさいという教えや、敵を憎むのではなく、むしろ敵すらも愛しなさいというイエスの教え、そんなものを受け入れたいとは実は願ってはいませんでした。彼らはこれまでのように生きていきたかったのであり、今までの暮らしを続ける上で障害となるもの、典型的には病気ですが、それさえイエスに解決してもらえばそれで十分だったのです。しかし、イエスにとってはそれだけでは十分ではありませんでした。神の支配がこの世界に実現するためには、それを受け入れる人々の生き方が根本的に変わらなければならなかったからです。

イエスは、これらの人々、つまりイエスの目的に真っ向から反対したり、あるいはイエスの意図を曲解したり、または人生の方向転換をするようにとのイエスの要求を薄めたり弱めたりする人たちのことを、はっきりとそれと分かるように指摘したり批判することも出来ました。しかし、彼らはそのように面と向かって言われても、イエスの言葉を受け入れようとはしなかったでしょう。旧約聖書の時代に、イザヤや他の預言者たちが語りかけたイスラエルの人々も同じでした。彼らは恵みを与える神の話は喜んで聞くけれど、これまでの人生の在り方、社会の在り方を改めて、弱い人たちを助けて、自分のことばかり考えずに他の人たちの必要も考えなさいと戒める耳の痛い神のことばは聞こうとはしなかったのです。

もっとも、イスラエル上層部を痛烈に批判したイザヤとは違い、イエスの話を聞いていたガリラヤの人たちの中には、大富豪と呼ばれるような人はそれほど多くはなかったでしょう。しかし、いわゆる普通の人々の中にも、さらに弱い立場の人たちのことには目をつぶって、今の自分たちの暮らしさえ守れれば良いというような、そういう利己的な思いがありました。彼らは、イエスの教えが投げかけるチャレンジからは目を背けていました。彼らが薄い岩地に落ちた種や、いばらの中に落ちた種のような人たちです。彼らはイエスの教えを聞いて、なかなか良いことを言っていると評論家のように感心しますが、それを実際に実行しようとはしません。聞くだけで実行しないので、イエスの教えが心に根を張らないのです。イエスの教えがその人の生き方そのものを変える、変革することがないのです。しかし、それではダメなのです。イエスの弟のヤコブは、兄イエスの思いを代弁してこう言っています。ヤコブの手紙1章21節と22節をお読みします。

心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。

イエスの言葉は、確かにわたしたちのたましいを救います。しかし、そうなるためにはただ聞くだけではだめなのです。ただ聞くだけの人とは、岩だらけ、あるいはいばらだらけの土壌のような人です。それに対し、何十倍もの実を結ぶ人、つまり自分の人生を新しいものにし、社会すらも変えていく人とは、イエスの言葉を聞くだけでなく、実行する人なのです。しかし、岩地やいばらの地ような人たちは、イエスから自分たちの現状をはっきりと指摘されたとしても、それを受け入れ、自分たちの人生を変えようとはしなかったでしょう。誰でも耳に痛いことを言われるのは嫌なものです。イエスも、こうした人々の心のかたくなさを見抜いて、彼らに対して単刀直入に語ろうとはされませんでした。

それでも、イエスは人々に期待していました。イエスはあえて「たとえ」という、すぐには意味が分からないようなスタイルであえて話すことで、人々の意欲を測っていました。イエスの働きの中に、確かに神の力が働いているのを認め、イエスの語っていることを真剣に受け止めようとしている人たちは、たとえイエスの語っていることがすぐには分からなくても、それを考え続け、ついにはイエスが何のことを語っているのかに気が付くでしょう。というより、神はイエスの言葉について真剣に問い続け、解き明かしを求める人に、その意味を明らかにしてくださるでしょう。「求めよ、さらば与えられん」です。イエスはそのように求め続ける人たちに期待していたのです。そして、イエスのたとえを理解しようと求め続け、その意味が分かった人は、そこで「ああ、なるほど」と思っただけではありません。イエスのたとえを本当に理解すると、その人の生き方そのものが変わるのです。イエスの「種蒔きのたとえ」を理解した人は、道ばたや、岩地や、あるいはいばらだらけのような土壌のようになりたい、あるいはその状態のままでいたいとは思わないでしょう。彼らは三十倍、六十倍、百倍の実を結びたいと、真剣に願うでしょう。では、どうすればそのように豊かな実を結ぶことができるのか?それは簡単でもあり、同時に難しいことでもあります。それはイエスが語られたことを実行することです。とてもシンプルで、同時に大いなるチャレンジでもあります。イエスは言われました。

だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。(マタイ7:24)

このように、イエスも彼の使徒たちも、繰り返し「聞くだけでなく、行う」ことの重要性を語りますが、私たちはついしりごみしてしまいます。自分にはそんな立派なことはできない、立派な生き方はできない、と。しかしそれは、完ぺきにやろうとするからです。例えば私たちが一流の体操選手の素晴らしい演技を見て、それをまねしようとしてもできるわけがありません。同じように、イエス様のように立派に生きようと思っても、いきなりそんなことが出来るわけがありません。しかし私たちは一夜にしてオリンピック選手のようになる必要はないのです。昨日の自分よりも、一歩前に進むことができれば、そのことをイエス様は喜んでくださいます。何も努力しなければ何も変わりません。とはいえ、したからといってすぐに変わるわけもないですが、しかし繰り返し実行する、練習するならば、段々とできるようになります。昨日の自分よりも、今日の自分の方が一歩前に進むことができるのです。ですから私たちは、イエスの教えが確かに簡単なものではない、イエスのように生きることが容易なことではないのを認めつつ、それでもイエスを見上げて、ほんの少しでも彼に近づこうと前を向いて歩むべきなのです。そして主イエスはそんな私たちを喜び、大いに助けてくださいます。よろける私たちと一緒に歩んでくれるのです。ですから、私たちも良い地に蒔かれた種のようになるために、日々少しずつでも、倦まずたゆまずイエスの教えを日々の生活で実行しましょう。具体的には、周りの人々を助け、慰め、励ましていきましょう。

3.結論

まとめになります。今日はイエスのたとえの中でも最も有名なものの一つ、「種蒔きのたとえ」について学びました。ここでは四種類の土壌に落ちた種がその後どうなったのか、ということが語られていますが、「種」とはイエスの教えのことで、四種類の土壌とはイエスの言葉を聞いた人たちの四通りの心の在り方でした。イエスの言葉を全く受け付けない、頭から拒否するというのは論外ですが、私たちの多くはむしろ岩地に落ちた種やいばらの茂った地に落ちた種のケースに当てはまってしまうかもしれません。これらのケースは、イエスの言葉を聞いて感動したり感銘を受けるけれど、そこで止まってしまい、実行に移そうとしない人たちのことです。クリスチャンでもこのレベルにとどまってしまうケースは案外多いのかもしれません。それに対し、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ種とは、イエスの言葉を聞いて、それを地道に生活の場で実践し続けている人です。こういう地味な努力は最初は日の目を見ないかもしれませんが、倦まずたゆまず続けていれば、大きな収穫を生み出すようになるでしょう。もちろんそれは私たちの力ではなく、私たちの行いを通じて働く神の力であるのですが。私たちの教会も神様から大いに愛され、期待されている神の畑です。たとえできることは小さくても、地道にイエス様の教えを日々の暮らしの中で実践していきましょう。そうすれば、きっと大きな実を結ぶことになります!お祈りします。

イエス・キリストをこの世に遣わし、私たちがどのように生きるべきなのか、そのまさに実例を主イエスの生涯において示してくださった父なる神様、そのお名前を讃美します。私たちは小さなものですが、少しずつでも主イエスに倣い、そのように生きていきたいと願う者です。どうかそのために私たちに力をお与えください。そして私たちがあなたに喜ばれる、大いに実を結ぶ人生を送ることができますように。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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