拡大する宣教
マルコ福音書3章7~19節

1.導入

みなさま、おはようございます。先週は猛暑があり台風の接近がありと、大変な1週間でしたが、こうして再び共に集まり、礼拝できることに感謝です。今日もマルコ福音書からイエスの宣教について学んで参りましょう。さて、今日の3章6節から3章の終わりまでは、マルコ福音書の第三幕とも呼べる箇所です。第一幕は1章です。この1章は、イエスが歴史の舞台に登場する、そのいきさつを描いています。全く無名の青年であったイエスは、バプテスマのヨハネから洗礼を受けたときに神からヴィジョンを与えられ、自分の天命、使命を悟ります。それから四十日四十夜の断食を通じて、最大の敵であるサタンの誘惑に打ち勝って、ますます自らの使命を確かなものにしていきます。それからイエスはガリラヤ宣教に乗り出します。イエスは神の王国、神の支配の到来を宣言し、新しい教えを伝え、悪霊に憑かれた人を悪霊から解放し、病の人々を癒しました。この新しいヒーロー、力ある業を行うイエスを人々は熱狂的に迎え入れる、これが1章の内容でした。

それに対して2章から3章6節までがマルコ福音書の第二幕と言えますが、これまで多くの群衆から歓迎されてきたイエスに対して、反対する人々が登場するという、そういう局面でした。イエスに反対する人々とは、宗教界のリーダーたちでした。これまで人々から信仰面のリーダーとして敬われていた宗教家たちは、突然現れた無名の青年に人々が惹きつけられていくのに脅威を覚えました。この青年は、自分たちにはできない驚くべきこと、病の癒しや悪霊払いなどを見事に成し遂げるので、宗教界のリーダーたちも表立ってはイエスに反対できません。そこでイエスの弱みを見つけようと、あら捜しをするようにしてイエスの宣教を観察します。すると、イエスが自分たちの教えていることと違うことをしているのを見出します。イエスは「罪人」と呼ばれる、人々から差別の対象となっていた人々と親しく付き合いました。イエスは「断食」という、当時の最も重要な宗教実践の一つを行わず、むしろパーティーばかり開いていました。イエスは「安息日」について、当時の宗教リーダーたちが定めたルールに従わずに、むしろ公然とそれに挑戦しました。これらの行動を見て、パリサイ派や他の宗教指導者たちは、イエスは自分たちの味方ではない、敵であると判断し、イエスを叩き潰すことを決意します。これが第二幕のあらすじでした。

そして今日の箇所からマルコ福音書の第三幕が始まります。イエスは敵対者たちとの戦いから一歩身を引いて、ご自身の宣教を次のステージへと進めていきます。それはイスラエルの再建、神の家族の再建という大きな目的に向けての一歩でした。イエスは、今の宗教的リーダーたちが率いるイスラエルに代わる、新しいイスラエルの建設、新しい神の契約の民、神の家族を生み出そうと、具体的な行動を起こすのです。

マルコ福音書に限らず、四つの福音書では登場人物の心理描写というものを基本的にしません。これが現代の小説やノン・フィクションと大きく異なる点ですが、ナレーターであるマルコは、イエスが何を考えていたのか、その行動の狙いは何だったのか、そういうことについてはほとんど全く語りません。イエス自身がご自分の宣教の目的について語る場合もありますが、それは多くの場合たとえを用いて語るので、その意味するところは直ちに明らかではありません。ですから、私たちは注意深く、マルコの簡潔な記述の行間を読むようにして、イエスの意図について深く考えていきたいと思います。

2.本文

それでは、今日の聖書箇所をじっくりと見て参りましょう。イエスは自分に対する宗教界のリーダーたちの明確な敵意を察知し、それまでの宣教戦略を変更します。それまでは、ユダヤ教の会堂、それは私たちの教会のようなものですが、その会堂での礼拝を通じてご自身の教えを広めようとしました。ユダヤ教の公式の礼拝の場である会堂を活躍の舞台に選んでいたのです。しかし、その会堂のリーダーたちからにらまれていることを知ったイエスは、会堂でこれからも活動を続けるのが難しいことを悟りました。そこでユダヤ教の会堂から退いていわば野に下る、在野の宣教者として活動することにしました。今の教会を例にとれば、毎週日曜の礼拝で教えを広めるのではなく、路傍伝道、多くの人が集まる公衆の場所で福音を伝える、そういう宣教戦略に切り替えたのです。当時の人々が集まる場所とは、ガリラヤ湖の周辺でした。イエスはこれから、ガリラヤ湖の回りを舟で移動しながら、神の王国の福音を伝えることにしたのです。

ユダヤ教の宗教リーダーからは嫌われ、煙たがれていたイエスですが、民衆からは絶大な人気を集めていました。イエスの名声はガリラヤを超えて、ガリラヤから見れば南に位置するユダヤの地、聖地であるエルサレム、さらにはユダヤ人を超えて異邦人の間でさえ広まりました。ヘロデ大王の出身地であり、イスラエルとは仲が悪かったイドメヤの人々、さらには異邦人の地であるフェニキアのツロやシドンという海岸沿いの地からも、イエスを求めて人々が押しかけてくるようになりました。あまりの人だかりに押しつぶされないように、イエスは人々から退避するための小舟を常に用意するように弟子たちに命じなければならないほどでした。

こうした人々がイエスに求めたのは、神の王国の福音を聞くことや、あるいはイエスの教えを学ぶことではありませんでした。彼らはもっと直接的な要望、つまり病気の癒しを求めてイエスのところに来たのです。心の問題、霊と魂の飢え渇きを癒し、神の教えをもっと深く知るためというより、体の問題を解決してほしいというのが彼らの一番の動機でした。これは無理のないことだったでしょう。非常に重い病気を抱えている人は、魂の問題を考えるよりも、まずは丈夫で健康な体になりたいと願うものですし、それは当然のことです。イエスも彼らの苦しみを理解し、喜んで彼らを癒しました。しかし、人間というものは、体が丈夫であれば何の問題もないのかと言えば、そうではありません。人間は体が元気でも、それだけで本当に幸福ではないのです。神との交わり、また隣人との交わり、そうした交わりの輪があってこそ、人は本当に幸せになるのです。ですからイエスは彼らの体を癒すだけでなく、彼らが本当に幸せに暮らせる神の共同体、神の家族を造り上げようとしました。それがこれからのイエスの宣教の重要なテーマとなっていきます。

さて、話を戻しますと、病を癒してもらおうと集まって来た人々はイエスの下に押し寄せ、イエスと話すことはできなくても、せめてイエスに触れよう、さわろうとしました。イエスに触れるだけで病が治るといううわさがあり、実際に治った人がいたからです。イエスはそうした人々を嫌がることなく、できるだけ多くの人を癒そうとされました。また、イエスは病の癒しだけでなく、悪霊の制圧も続けていました。人々の体だけではなく、精神をも蝕む悪霊たちの悪い影響から人々を救い出すこともイエスの重要なミッションでした。

悪霊たちは、悪い霊とはいえ霊的な存在でしたから、一般の人たちよりも霊的な世界の現実に通じていました。ですから彼らはイエスが単なる人間ではないことを知っていたのです。それで彼らはイエスを見ると、「あなたこそ神の子です」と叫んで恐れおののきましたが、イエスは彼らがご自身の正体を明かすことをお許しにはなりませんでした。これまでもイエスは、悪霊たちがイエスが神の子であるのを言い広めるのを禁じてこられましたが、それはここでも変わっていないのです。この点について、さらに考えてみましょう。

先の2章では、イエスはご自分のことを「人の子」と呼びました。イエスは自分のことを「神の子である」とか、「キリストである」とは言いませんでしたが、ご自分が「人の子」であるということは認めていたのです。しかも、この「人の子」とは単なる人間のことではありません。なぜなら、人の子には罪を赦す権威があるとか、安息日に関してもすべてを決定することのできる権威が備わっている、とイエスは語っているからです。そんなことが出来る人がただの人であるはずがありません。ここで、「人の子」と「神の子」の違いについて少し考えてみましょう。

私たちはつい誤解してしまいますが、「神の子」とは神だ、という意味では必ずしもありません。少し変な例ですが、私たちはよくある選手のことを「野球の神様」とか「サッカーの神様」と呼んだりしますが、その際に別にその人のことを本当に神様だとは思っていないですよね。それと同じく、イスラエルの人たちがある人物を「神の子」と呼んだ場合、その人を本当に神だと信じていたわけではないのです。むしろ「神の子」とはイスラエルの代表である王の別名でした。例えば有名な詩篇2篇の7節には、

主はわたしに言われた。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」

という言葉がありますが、ここで神が「わたしの子」と呼んでいるのはイスラエルの王のことです。イスラエルの王、メシア王は「神の子」とも呼ばれていました。そしてこれまでの歴史でイスラエルの王は何人もいたのですから、歴史上に「神の子」は何人もいたことになります。ですから、イエスが「神の子」と呼ばれても、それは王であるという意味ではあっても、神である、ということではなかったのです。

それに対して、「人の子」という言葉は、曖昧ではありますが、ある特定の文脈においては人間ではなく、神ご自身という意味にもなり得ます。ダニエル書7章によれば、「人の子のような方」とは神の一切の権能を授けられる、神そのものと言ってよい方なのです。ですからもしイエスがダニエル書を念頭に置いて「人の子」と自分を呼ぶならば、イエスは自分が神だと主張しているということなのです。王の別名である「神の子」であることを隠しながら、神を意味するかもしれない「人の子」であると公言するイエスの行動は矛盾している、と思われるかもしれません。イエスがなぜこのような謎めいた行動を取ったのか、その確たる答えはありません。ただ、「人の子」という曖昧なタイトルだけでは、それを聞いた人々は直ちにそれをダニエル書7章とは結びつけなかった、ということだけは言えます。逆に言うと、イエスが明確にこの「人の子」というタイトルをダニエル書7章の文脈で語った場合には、人々はこれに激怒するでしょう。そして、イエスが将来裁判にかけられた時、このことが実際に起きるのです。

少し難しい話になりましたが、本題の聖書テクストに戻りましょう。13節には、「イエスは山に登り」とあります。これまではガリラヤ湖の湖畔を活躍の場に定めていたイエスが、山に登ったのですから、そこには象徴的な意味があると考えてよいでしょう。この山に登るという行動は、モーセを思い起こさせるものです。モーセは神の山であるシナイ山に上り、そこで神から律法を授けられ、イスラエル12部族からなる神の民を誕生させました。イエスの行動にも、このモーセと同じような意図を感じさせます。イエスは「ご自身がお望みになる者たちを呼び寄せられ」ました。そして、呼び集められた者たちは12名でした。イスラエルの部族数は12、イエスの弟子たちの数も12、このことはとても偶然の一致といえないでしょう。むしろ、イエスは明確な意図を持って「12」人の弟子を選んだと考えるべきです。イエスは、ご自身と対立する宗教リーダーたちが支配するイスラエルに対抗するように、新しいイスラエルを自らの回りに生み出そうとしておられたということです。この12弟子は新しいイスラエルの核となるべき人たちでした。

イエスがこの弟子たちに要求したのは三つのことでした。最初は「身近に置く」ことでした。彼らはイエスと寝食を共にし、常にイエスのそばにいることで、イエスの証し人となり、同時にイエスから多くのことを学んで、将来はイエスの始められた宣教を引き継いでいくことを期待されたのです。このことは、実は12弟子だけでなく、イエスに信じ従うすべての人に必要なことです。私たちがクリスチャンとしてするべき最初の、そして最も大切なことは常にイエスの身近にいることです。イエスを見つめ、イエスから学ぶ、それがクリスチャンの生き方の基本であり、中心にあることです。もちろん、私たちは実際にイエスと寝食を共にすることはできません。しかし、福音書を通じてイエスのことを深く知る、学ぶことはできます。だから、福音書を学ぶことはクリスチャンの人生において最も大切なことだと言えるのです。

イエスが弟子たちの望まれた二番目のことは、「彼らを遣わして福音を宣べさせる」ことでした。福音とは、「神の王国が近づいた」という福音ですが、特にここでの福音という言葉にはイスラエルの回復、再建という意味合いが込められています。イエスの12弟子そのものが、新しくされるイスラエルの象徴ですので、彼らの伝える福音にも「神の支配の到来により、神の民であるイスラエルが新しくされる」というメッセージが込められていると考えられるからです。そして神の支配が本当に到来しているということの証拠が、イエスが弟子たちに託された第三のこと、つまり「悪霊を追い出す」ことでした。神の支配は言葉だけでなく、力を伴うものでした。その力は悪霊に苦しめられている人々を解放する、そのような力でした。

しかし、当然ながら、イエスのこうした行動は、その当時のイスラエルを支配する宗教リーダーたちにとっては重大な挑戦となり得るものでした。イエスが今なさっていることがイスラエルの刷新、再建であり、12弟子たちがそのリーダーであるならば、今イスラエルを支配している人たちは、イエスが任命した12弟子たちによって取って代わられることになるからです。新しいイスラエルの核となる人々を集めるイエスの行動は、自分たちは権力の座から追い出される、そのような危惧を当時の宗教的リーダーたちに抱かせる可能性がありました。実際、まだ先の話ですが、イエスがエルサレムに行かれたときに、ユダヤ人の指導者たちはイエスのそのような意図を見て取り、全力でイエスを排除しようとしました。

とはいえ、イエスが選んだ12名は、当時の常識で考えればとてもイスラエルの指導者となれるような人たちではありませんでした。彼らには立派な家柄も、財産もありませんでした。イスラエルに限らず、どんな国でもリーダーになるためにはそれなりの資質が求められます。今の日本で考えても、今や日本の国会議員の3割、自民党に限れば半分は世襲議員です。偉くなるためには親が偉いこと、家柄がとても重要だという現実があります。親が国会議員でない人が国会議員を目指そうと思えば一流大学を出て高級官僚となって実績を積んで政策立案を覚えたり、芸能人などの有名人になって人々に覚えてもらうとかでなければ、なかなか国会議員や日本のリーダーにはなれないでしょう。イエスの時代のイスラエルにおいても、家柄と学歴は決定的に重要でした。イスラエルの最高機関、日本の国会に相当するサンヘドリンはそういう人たちによって支配されていました。しかし、イエスの選んだ新しいイスラエルの最高機関となるべき12弟子の中には、家柄や学歴の高い人は皆無でした。イエスの使徒の中で、例外的と言えるほど高い学歴を備えていたのは使徒パウロだけですが、彼は生前にイエスに会ったことはなく、12弟子でもありませんでした。

ここにイエスのもたらそうとした「神の王国」がどんな国なのか、その性格の一端を知ることができます。イエスが建設しようとしていた神の王国は、選ばれた優秀な一部のエリートが多くの群衆を支配する、そういう王国ではありませんでした。また、意志が強くてどんな困難にもひるまない、そういう意志堅固な人たちが先頭に立って、その他の弱い人たちを導いていく、そういう王国でもありませんでした。むしろイエスが集めた新しいイスラエルのリーダー、12弟子となった人たちは、どこにでもいる普通の人たちでした。イエスを慕ってどこへでもついてはいくけれど、イエスの言っていることがなかなか理解できずに、むしろ誤解したり、失敗ばかりしている、そういう人たちでした。では、特にこれといった取柄もないようなこうした人たちがなぜ12人のリーダーとして選ばれたのでしょうか?

イエスがリーダーとして任命した人たちは、初めから完成しているような人たち、最初からなんでもできてしまう人たちではありませんでした。むしろ、最初はだめでも、イエスの言うことを素直に受け入れて、変わること、変えられていくことを喜んで受け入れる、そのような人たちでした。何度失敗しても、自分のことを信じてくれて、何度でもチャンスを与えてくれる、弱い自分を決して見捨てない、諦めずに、最後まで自分を信じてくれるリーダーであるイエス、そのイエスに感謝し、その信頼にこたえていこうという、そういう素直な気持ちを持った人たちでした。彼らは、イエスにこれから従っていく多くの人たちのお手本となるような人たちでした。私たちも、自分を振り返ればよく分かるように、クリスチャンになったときには全くダメな存在です。自分勝手で、弱虫で、そのくせ見栄を張ったりする、そういう愚かな存在です。その私たちがイエスを目指し、イエスのようになろうとしても、あまりにも大きなギャップに絶望するだけでしょう。しかし、自分たちの目の前に、自分たちと同じように弱く愚かだけれど、イエスの恵みによって大きく変えられた人たちがいれば、大いに励まされます。自分も変われるのではないか、こんな自分でも成長できるのではないか、そういう人たちが前を歩いていれば励まされますよね。イエスが選んだ12弟子、彼らは特別な存在ではなく、むしろ私たち自身なのです。私たちも彼らのように初めは失敗だらけでも、いずれ成長してイエスに従っていけるようになるのです。イエスは彼らが特別だから12弟子を選んだのではありません。むしろ彼らも私たちと同じように平凡な人たちだからこそ選んだのです。それは私たちも彼らのようになるためです。しかし、そこには警告もあります。イエスが選んだ12人は、すべてがイエスの期待通りに活躍したのではありませんでした。イエスを裏切ってしまう、イエスから離れてしまう人もいたのです。イスカリオテのユダです。私たちも、自分はイエス様に選ばれたのだから大丈夫だと安心しきったり、慢心しないようにしたいものです。

3.結論

まとめになります。今日は、イエスがユダヤ教の会堂から退いて野外で活動を始める、そのイエスの下に、それこそ世界中から人々が押しかけて来る、その彼らのためにイエスは本物の神の共同体、神の家族を造り上げようと、12弟子を任命したというところを学びました。イエスから選ばれた12弟子は特別なエリートではありませんでした。むしろどこにでもいる普通の人たちでした。彼から普通でなかった点は、むしろイエスと出会った後の成長ぶりでした。弱虫なくせに見栄っ張りだった彼らは、段々とイエスのように謙虚で、しかも強い気持ちを持って自らの使命を果たしていく、そういう人物に変えられていきました。私たちもそうです。私たちは何か特別に優れたところがあるから神に召されたのではありません。むしろ私たちは普通の、それどころか弱い人たちです。そんな私たちも、12弟子たちのように大きく変わることができるのです。神にはそのような力があるのです。そのことを信じて、これからも歩んで参りましょう。お祈りします。

イスラエルを再建するために奮闘されたイエス・キリストの父なる神様、そのお名前を讃美します。今日はイエスが12弟子を選ばれたことを学びましたが、彼らは普通の人たちでした。その彼らはあなたによって大きく変えられ、成長しました。私たちもそのようでありますように。イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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