安息日の主
マルコ福音書2章23~3章6節

1.導入

みなさま、おはようございます。8月に入りましたが、今週は再び猛暑が続く予定です。そんな中、今月もマルコ福音書をじっくりと読んでまいりましょう。先週のテーマは「断食」でしたが、今日のテーマは「安息日」です。ユダヤ教、そしてキリスト教が広く人類に与えた良い影響、恩恵の一つに、安息日が挙げられると思います。私たちは今では週休二日が職場や学校では当たり前になっていますが、日本がキリスト教国から強い影響を受ける前の江戸時代では週一日の休みすらありませんでした。「盆暮れ正月」という言葉があるように、奉公人の休みはお盆と年末年始だけで、あとはずっと働いていたのです。藪入りという言葉もありますが、それによると休みは一年間でたった二日でした。今では信じられないことですが、これが日本の歴史の真実です。

このように、一週間の中で定期的に休みという習慣がなかった民族にとって、安息日が与えられたことはまさに福音でした。人生が仕事だけで明け暮れることなく、ゆっくりと休んだり、自分が好きなことを楽しむことができる日があるというのはとても素晴らしいことですね。また、安息日があることで一週間にリズムが生まれるので、働き通しよりもむしろ仕事の能率は上がります。

では、安息日の本家本元のユダヤ人にとって、安息日とはどんなものだったのでしょうか?ユダヤ人は安息日には神様を礼拝していた、礼拝の日だったと思われるかもしれませんが、旧約聖書には毎週安息日には礼拝をしなさい、という戒めはないのです。これは意外に思われるかもしれません。つまり、礼拝というのは安息日になすべき宗教的義務ではなかったのです。安息日とは、その名の通り休む日であり、礼拝が義務化してしまえば、それは休みではなくなってしまいます。ですからユダヤ人は義務ではなく、それが楽しいこと、喜ばしいことだから礼拝をしていたのです。お休みの日にお祭りに行っても疲れないですよね。それが楽しいからです。同様に、ユダヤ人はそれが義務だからではなく、うれしいこと、疲れを癒してくれるものだから礼拝を守っていたのです。このことは、私たちの礼拝にとっても重要な示唆を与えてくれます。礼拝は義務ではなく、私たちの心身をリフレッシュさせ、新しい1週間を元気に生きていくための力を与えてくれる、そういうものなのです。

さて、安息日とはこのように基本的に休むための日であり、それが負担になるようなことはないはずでした。しかし、その安息日は段々とユダヤ人にとっては重荷になっていきました。安息日には「働かなくてもよい」、「あなたにとって良いことをしなさい」と言われればそれは福音ですが、「働いてはいけない」、「いかなる労働も禁止だ!」という命令になってしまうと、それは良い知らせというよりもむしろ重荷になり得るのです。といいますのも、いくら安息日だと言っても、人間はその日だけ生命活動を止めるわけにはいきません。食事もしたいし、トイレにも行きたい、気分転換に散歩にも行きたい、と考えるわけです。しかし、美味しい料理を作ろうと思えばそれなりの準備が要りますし、買い出しも必要になります。そういうことは安息日にしてもよいのか、それは労働ではないのか、という疑問が生まれます。敬虔なユダヤ人は、安息日の前の日に食事を作っておき、安息日には働かなくてもよいようにしていた、と言われています。また、安息日に病気になってしまった場合はどうなのか、という問題もあります。お医者さんに診てもらいたいけれど、治療行為は労働だから、患者の応対をすることで医者が安息日の規定を破ることにならないか、という問題も生まれてきます。ですから安息日にはおちおちお医者にも診てもらえない、ということになってしまいます。極論になると、戦争をしている場合は安息日の日には戦ってはいけないわけですが、相手がそんなことにはお構いなしに攻めて来る場合にはなすがままに蹂躙されることになります。実際、イエスの時代から150年ほど前、ユダヤ人がシリアと戦争をしたときに、安息日だからと休んでいたら、敵に攻められて全滅しそうになった、ということがありました。 

なんだかこのように考えていくと、安息日という、そもそもは人間にとってのありがたい休みの規定が、「これをしてもいいのか、いけないのか」をいちいち考えなくてはならない煩わしい戒律になっていきます。そして、イエスの時代のユダヤ人にとって、まさに安息日はそのようなものになっていました。

そもそもの安息日についての聖書の教えは、十戒の中に含まれていました。その箇所、出エジプト記の20章8節から11節を読んでみましょう。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。―あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も―、それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。

ここにあるように、安息日の起源は神の天地創造です。神は六日間で天地万物を創造し、七日目に休まれた。これが神の聖なる労働のリズムというべきもので、私たちもその神の在り方に倣って、六日間は働いて七日目は休む、ということです。また、神は七日目を単に休みの日としただけではなく、聖なる日としました。聖なるものとする、ということの意味は取り分ける、神のために取り分ける、ということです。ですから人間は、六日間は労働のために、七日目は神のために取り分けるのです。このように、聖書は安息日についての原則的な考え方を述べているだけで、それを実際にどう運用すべきか、その細目は定めていません。そこでこの安息日規定の「解釈」が必要になります。そしてこの解釈というのが曲者なのです。私たちもよく知っている身近な例を挙げましょう。日本国憲法の第9章はこうなっています。

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

現在日本の陸海空軍の戦力は、世界の上位十か国の一つに数えられるほどのものです。軍事費もドイツやフランスとほぼ同じです。こんな強い軍隊を持ちながら、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と言えるのかといえば、これも憲法の解釈次第でそうだと言えるのです。つまり戦争目的ではなく、自衛目的だからだ、ということになります。しかし、ほとんどの戦争は「自衛」のためと言って始められます。アメリカのイラク侵攻も、ロシアのウクライナ侵攻も、どちらも自衛のための先制攻撃だと、少なくとも当事者は主張しています。  

このように、ある法律の実際の運営は、解釈次第でどうにでもなるという面があります。安息日規定も、十戒の規定そのものが理念的で詳しい解説が含まれていないものなので、ユダヤ人たちはこの規定を日常生活の中で具体的に守るために、その細則をたくさん作り上げました。とはいえ、ユダヤ人の間でもいろいろな解釈があり、すべての人に対して決定的な権威を持つ細目までは定めることはできませんでしたが、少なくとも一定の影響力を持つ「通説」的な安息日の細目規定がパリサイ派によって作られていきました。その中には、安息日には何歩まで歩いてもよいが、それ以上歩いてしまうと労働になる、というような、半ばどうでもいいじゃないか、と思われるものがありました。しかも、こうした細かいルールが2百ぐらいあったとも考えられます。覚えるだけでも大変ですよね。そのような細かいルールに対してイエスが疑問を呈す、さらには反対する、というのが今日の聖書箇所の内容です。

2.本文

さて、今日は二つの出来事を記した箇所を取り上げます。二つの出来事は別々の独立した出来事ですが、どちらも共通したテーマについての出来事です。それが「安息日」です。まず、今日の二つの出来事が置かれている大きな文脈に注目しましょう。毎回お話ししていますが、マルコ福音書1章と2章とでは、そのトーンが大きく異なっています。1章は、イエスが多くの群衆から熱狂的に迎え入れられる、イエスが肯定的に受け止められるのに対し、2章ではイエスに対し宗教界のリーダーたちが警戒感を示し、さらには敵意を抱いていくという、そういう流れになっています。イエスが宗教学者たちから敵意を抱かれていくのは、イエスが彼らの領域に踏み込んでいく、しかも批判的な態度で彼らの領域に切り込んでいったからでした。イエスは宗教界のリーダー、特に祭司の専管事項である「罪の赦し」の宣言を行いました。また、宗教的なリーダーたちが差別の対象とした人々、それは取税人や売春婦たちですが、彼らと親しく付き合い、宗教界のタブーを冒したと批判されました。さらには当時の重要な宗教的慣行である「断食」をせずに、パーティーばかり開いていると批判されました。このように積み上げられていく敵意や対立の頂点に、今日の二つの出来事は置かれています。

それが「安息日」という、ユダヤ人にとって最も神聖な掟についての解釈をめぐる論争でした。まず、パリサイ派の方からイエスに抗議がなされました。それは、イエスの弟子たちが安息日に麦畑で穂を摘んでいることに対しての抗議でした。意外に思われるかもしれませんが、このパリサイ派の抗議は聖書的で、したがって正当なものでした。いわゆるいちゃもんのような抗議ではなかったのです。なぜなら聖書には次のような規定があるからです。その箇所、出エジプト記34章21節をお読みします。

あなたがたは六日間働き、七日目には休まなければならない。耕作の時も、刈り入れの時にも、休まなければならない。

ちなみに、イエスの弟子たちが他人の畑で勝手に穂を摘んでよいのか、という疑問に対しては、その答えはイエスです。申命記23章25節にはこうあります。

隣人の麦畑の中に入ったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑でかまを使ってはならない。

このように、知り合いの麦畑で穂を手で摘むことは合法でした。しかし、それを安息日に行ってはならなかったのです。

さて、パリサイ派の抗議に対するイエスの答えは意外なものでした。イエスは安息日規定というテーマから、もっと大きなテーマについて語りだしたのです。それは、律法は常に守らなければならないのか、それには例外はあるのか、ということでした。イエスはここで突然ダビデの故事を持ち出します。それはまだ王位に就いていないダビデがサウル王に命を狙われて逃げ回っていた時の話です。ダビデはお腹が減っていたので、祭司しか食べてはいけない特別なパンを食べたことがありました。この時、ダビデは別に安息日規定に違反したわけではありませんでしたが、しかしレビ族ではなく、したがって祭司ではないダビデが、祭司のみに許されたパンを食べるというのは別の面で律法違反でした。けれども、ダビデは普通の人物ではなく、神から油注がれたメシア、これからイスラエルの王となるべき人物でした。したがってダビデの律法違反は違反とはならない、いわば例外的に許される行動となったのです。イエスはここで、ダビデも律法に反しても許されたのだから、自分も許されるのだ、とこのように示唆しているのです。このことを深読みすると、イエスは自分自身をダビデと同等か、あるいはそれを上回る権威を持つ人物なのだ、と主張していることになります。イエスと対話をしていたパリサイ派は、イエスがこのように主張していることまでは気が付かなかったかもしれませんが、しかし律法違反に対して、いわば開き直ったような物言いをしているように思われるイエスに対し、強い反発を抱いたことは間違いありません。

イエスはここで、安息日についての一般的な原則を述べます。それは、この安息日に穂を摘むという行為についてといより、むしろ次の出来事である安息日における病の癒しを意識した発言だと思われますが、27節でこう語っています。

安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。

これは、本来は人間休ませてリフレッシュさせるために設けられた安息日を、事細かなルールを後からこしらえて、かえって人間の生活を窮屈にしている、当時のパリサイ派の在り方への根本的な問題提起とも言える言葉です。繰り返しますが、この言葉は穂を摘むという行為についてというより、もっと大きな問い、「安息日とは何なのか」ということについてのイエスの明快な教えだと言えますが、イエスはこのような究極の問いについても自分は究極の権威である、と主張しています。それが「人の子は安息日にも主です」という言葉の意味です。以前にも申し上げましたが、「人の子」という言葉はものすごく重要な言葉でした。ダニエル書によれば、「人の子」とは神から全宇宙の支配権を授けられる人物、神そのものと言ってもよいような人物のことだからです。イエスは神のごとき「人の子」として、「安息日には何をしてもよいのか、また安息日とは何なのか、そういうことを決める権威が自分にはある」と主張しているのです。イエスと話していたパリサイ派は、このイエスの言葉にそこまでの強い自己主張があるとは気が付かなかったかもしれませんが、しかしイエスが自分たちの言うことを気にしていないということは十分に分かったでしょうから、イエスに対して強い憎しみを抱いたことは想像に難くありません。

そして、今日の二つ目の出来事、3章1節から6節の出来事を見て参りましょう。先のケースでは、イエスはパリサイ派から論争を仕掛けられましたが、今度はイエスの方が主導権を取り、ある意味ではパリサイ派を挑発しているとも思われる行動を取ります。先ほど、パリサイ派の人たちは安息日について無数の細則を定めた、と申しましたが、パリサイ派は安息日についての病気の治療についてもいくつかのルールを作っていました。それによれば、命にかかわるような病気、生きるか死ぬかという緊急の医療行為を安息日に行うのは合法だが、明日まで待てるような治療行為、生死にかかわらないような場合は安息日が終わるのを待ってから治療をするように、というものでした。イエスもおそらくこのルールを知っていたのでしょう。マルコ福音書1章32節では、夕方になり、日が沈むまで、つまり安息日が終わるまで、病の癒しを行うのを控えていました。しかし、今回はイエスはこのルールをいわば公然と無視し、会堂でパリサイ派の目の前で安息日に病の癒しを行おうとしました。この場合の病は片手の不自由な人の癒しでしたから、安息日が終わるまで癒しを待ったとしても、命に別状はないことは言うまでもありません。イエスはパリサイ派に挑むように、こう言われました。

安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、あるいは悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。

このイエスの問いの意味をパリサイ派はすぐに察したのでしょうが、あえて答えませんでした。というのも、安息日に行うべきなのは善か悪か、という一般的な問いの答えはもちろん善なのですが、それを目の前の状況に当てはめるなら、イエスがこれからしようとしていること、つまり病の癒しという善を認めてしまうことになるからです。あるいはパリサイ派も、イエスの言ういのちを救うか、殺すか、という二者選択はこの際当てはまらない、と考えたのかもしれません。なぜならイエスが癒しを安息日が終わるまで延ばしたとしても、それでこの片手の不自由な人を殺すことにはならないからです。

イエスは黙っているパリサイ派を怒りを持って見つめ、イエスの問いかけに真摯に向き合おうともせずに、初めからイエスを断罪する気満々のパリサイ派を嘆きながら、彼らや群衆がかたずをのんで見守る中で、片手の不自由な人を癒しました。パリサイ派の人たちにとっては、イエスからの公然の挑戦、あるいは自分たちを軽んじる侮辱ともとれるような行動でした。これで、彼らのイエスに対するスタンスは決まりました。これまでは様子見でしたが、これからはイエスをはっきりと敵として認識したのです。それから彼らはヘロデ党の人たちと相談しました。ヘロデ党とは、あの残忍なヘロデ大王の息子でガリラヤの領主だったヘロデ・アンティパスに仕える人たちでした。彼らは元々パリサイ派とは仲が悪かったのですが、パリサイ派も民衆に絶大な人気を誇るイエスを敵に回すには、時の権力者であるヘロデ・アンティパスを味方につけた方が得策だと考えたのでしょう。ヘロデ党とパリサイ派は全然意見が合わなかったのにもかかわらず、イエスに対しては協力しようという、まさに野合のような協力関係がここに出来上がったのでした。

3.結論

まとめになります。今日は、エスカレートしていくイエスとユダヤ人の宗教的リーダーたちとの対立が、「安息日」という死活問題をめぐって頂点に達するという、そういう場面でした。特に二つ目の出来事については、イエスの方からあえて彼らとの対決モードに入って行ったという、そういう印象を受けます。しかし、イエスはなぜ時の宗教的リーダーたちとの協力ではなく、対決という道を選んだのでしょうか?彼らとの意見の違いがあるとしても、よく話し合えば分かり合えて、むしろ一緒に協力してイスラエルの再建という目標にあたることができたのではないか、という疑問も生じます。その理由の一つは、おそらくパリサイ派のプライドの高さにあったのでしょう。彼らは、自分たちこそ聖書を一番よく知っている、神の御心を知り、それを実践しているという自負がありました。実際、彼らは熱心で勤勉な人たちでした。しかし、そのプライドの高さが彼らから柔軟な思考を奪ってしまいました。彼らにとってイエスとは、ろくに教育を受けていない、自分勝手な解釈を振り回すアマチュア教師に過ぎませんでした。彼らは、もしイエスが有名な学者、誰もが認める権威だったならば彼の言うことにも耳を傾けたかもしれません。しかし、いかに力ある奇跡をなしているといっても、どこの馬の骨ともわからないような人物の言うことなど聞けない、という偏見、あるいは高慢が彼らの中にはありました。その頑なさを見てとったイエスは、あえて正面突破を図ったのです。彼らが衝撃を受けるような行動を取るという、いわばショック療法です。それについていけないパリサイ派がたくさんいましたが、中には回心してイエスを受けいれた人物もいました。あの使徒パウロも、もともとは筋金入りのパリサイ派だったのです。

私たちも、つい権威のある人たちの言うことは聞くけれど、肩書のない人の言うことは、たとえそれが正論でもなかなか素直に聞けない、ということがあるかもしれません。しかし神は、立派な肩書を持っている人を選んで、その人を通じてメッセージを送るということはなさいません。聖書を読んでいけば、むしろその反対です。神は思わぬ人を選んで、メッセージを託されることの方が多いのです。ですから私たちも人をうわべで見ないで、その人が本当はどういう人なのか、その人の言動をきちんと見てから、その人の語ることに耳を傾ける、そういう謙虚で素直な姿勢を持ちたいと思わされます。

同時に、メッセージを発する立場についても考えさせられます。私たちの社会では、イエスのように、本当のことをストレートに語る、正論を語るとかえって人から疎まれる、嫌われる、ということがよくあります。しかし、イエスのように真理をおそれずに語るということも、大切だということを改めて思わされます。正論が言えなくなるような社会は病んだ社会であり、危険でもあります。ですから私たちは真理をはっきりと語る、そのような勇気のある生き方ができるように、祈って参りましょう。

イエス・キリストの父なる神様。そのお名前を賛美いたします。今日は、神様が私たち人類に与えてくださった大いなる祝福である「安息日」について学びました。しかし私たちはその恵みでさえ、重荷に変えてしまうような愚かな者でもあります。安息日の意味をよく考えて、心からの喜びと感謝を持って、これからも主の前で礼拝をささげることができるように私たちを導き、養ってください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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