罪人との共食
マルコ福音書2章13~17節

1.導入

みなさま、おはようございます。また暑さが戻ってきましたね。今日もマルコ福音書から、イエスの伝道活動を見て参りましょう。さて、前回の説教から、マルコ福音書のトーンといいますか、流れが変わってきたのにお気づきでしょうか。といいますのは、マルコ福音書1章までは、ガリラヤで宣教を始めたイエスは、常に人々から好意的に迎えられました。それまでまったく無名の青年だったイエスは、その力強く新しい教えで人々を惹きつけました。また、イエスは肉体や精神を病んでいる人々を次々と癒していきました。人々は、すい星のように現れたこの不思議な青年を熱烈に歓迎し、自分たちのところに何とか引き留めようと一生懸命でした。

しかし、このイエスの宣教の最初の段階が終わると、段々とイエスを批判する人々が現れ始めました。イエスの行動は既存の社会秩序を脅かすのではないか、壊すのではないか、という警戒感を持つ人々がいたのです。最初の反発は、イエスの発したある一言に向けられました。それは、「あなたの罪は赦されました」という一言でした。律法学者と呼ばれる聖書の教えの専門家は、罪を赦すことができるのは神だけなのに、なぜイエスは人間の分際でそんな大それたことを言うのか、と反発しました。しかし、彼らが反発した理由はそれだけではありませんでした。イエスの発言は、ユダヤ人エリートの既得権益に対する挑戦でもあったのです。どういうことかと言えば、罪を赦せるのは神だけですが、しかし罪の赦しを宣言することができる人たちがいたのです。それが、エルサレムにある壮麗な神殿を管理する祭司たちでした。旧約聖書によれば、罪を犯した人が赦される方法はただ一つ、それはささげ物を携えて神殿に行って、そこで祭司によって罪の赦しのための儀式を行ってもらうことでした。儀式を終えると祭司は、「あなたの罪は赦されました」と宣言をするのです。このように、祭司には罪を赦す権限があったのですが、祭司でも何でもないただの私人であるイエスにはそんな権威はないだろう、と律法学者たちは文句を言ったのです。イエスの登場はこれまで宗教的権威を独占していた祭司たち、また祭司たちの下にいた律法学者たちにとっては自分たちの権威、あるいは領分を脅かす脅威と映ったのです。

そして、今日の箇所ではイエスは社会的な因習、人々の心に深く根を張っていた偏見と闘おうとしています。どんな社会も、人々から差別されるような特定のグループを作りだす傾向があります。江戸時代には士農工商という身分制度がありました。最近の教科書ではこの名称は使われていないようですが、とにかく身分の違いが厳然としてありました。しかし、このような身分の外にいる人、人に非ずと書いて非人と呼ばれて差別される人たちがいました。このように身分制度の外にいる人々を作ってきたのは日本だけではなく、インドもそうでした。インドにはカースト制度という身分制度がありますが、そのカーストの外にいる人たち、アウトカーストと呼ばれる人たちがいて、ひどい差別の対象になってきました。こうした人々は、多くの人がやりたがらない仕事を押し付けられ、またそうした人が嫌う仕事をしているためにさらに人々から差別されるという、悪循環に陥ってしまった人々です。そのような仕事は単に仕事がきついとか、そういう理由からではなく、汚れているから、という宗教的な理由で人々から忌避される仕事でした。これらの仕事の中には、死体を扱う仕事や、売春のような性産業も含まれます。

ユダヤ社会にも、このような人の嫌がる仕事に従事しているために、「罪人」と呼ばれて差別されている人たちがいました。彼らは、特別に性格がひねくれているとか、日ごろの行いが悪いとか、そういう理由で罪人と呼ばれたのではなく、彼らが従事している仕事そのものが罪深いものと見なされていたので「罪人」と呼ばれていたのです。そして、人々から宗教的に汚れていると見られていた職業の典型が「取税人と遊女」でした。遊女とは性産業に従事する女性たちのことです。そして取税人とは税金を取り立てる人たちです。でも、取税人が差別されるというのは現代の感覚からすると意外に思われるかもしれません。税務署で働いている、と言えば、今の日本での普通の反応は「いいお仕事ですね」という感じではないでしょうか。しかし、イエスの時代の取税人たちは、人々が嫌がる仕事の代表でした。その理由は二つありました。一つは取税人はユダヤを植民地支配するローマ帝国、あるいはローマ帝国の傀儡であるヘロデ一門の代理人として働いていたからです。ユダヤ人たちは自分たちを支配し、重税を課し、平気で暴力をふるうローマ人を憎んでいましたので、彼らの代理人として税金を取り立てる取税人を非常に嫌っていました。もう一つの理由は、彼らが人々から大目に税金を取り立てていたからでした。取税人は、彼らの雇い主であるローマやヘロデ一門から給料を貰っていませんでした。というより、取税人とは税金を取り立てる権利をローマから与えられた人たちであり、徴税権を得る見返りとして、ローマが要求する税額を集めて納める、そういう立場の人でした。ローマから要求されている税額さえ納めれば、それ以上集めた税額はすべて自分の収入になる、そういう制度だったのです。ですから取税人は決められていた税額よりも多めに税を徴収し、その差額を自分の収入として懐に入れていました。どれくらい多めに取るのか、というのはケースバイケースだったでしょうが、税を取られる方から見れば、取税人は不正な手段で自分たちの財産を奪っているとしか思えません。取税人の中には、自分の立場を利用してかなりあくどいことをして金持ちになる人もいました。暴力団まがいの恐喝で税を集める人もいました。ですから、取税人の中には良心的に仕事をしている人もいたでしょうが、しかし彼らは十把一からげに「罪人」として分類される、そういう立場に置かれてしまいました。今日の箇所は、イエスがその罪人である取税人を弟子として召し出す、そういう場面です。

2.本文

さて、それでは今日の聖書箇所を読んでいきましょう。イエスは湖のほとりに行かれた、とありますが、湖とはもちろんガリラヤ湖です。イエスは湖のほとりを歩いていると、収税所の近くを通りかかりました。収税所とは主に通行税を徴収するところです。町と町、村と村を結ぶ街道には収税所が置かれ、そこを通って商品を運ぶ商人たちは通行税を払わなければなりませんでした。その収税所にアルパヨの子レビが働いていました。つまり取税人です。宗教的なリーダーは取税人を「罪人」と見なし、彼らとは口もきかないようにしていました。しかし、その取税人であるレビにイエスの方から「弟子にならないか」とスカウトしたのです。これは驚くべきことです。イエスは先に、漁師であったシモン・ペテロのその兄弟のアンデレ、同じく漁師だったゼベタイの子ヤコブとヨハネをスカウトしていますが、彼らは学問はなかったものの、まっとうな仕事についていて、「罪人」と分類される人たちではありませんでした。しかし、取税人レビは彼らとは全く状況が違います。彼は自分から神との契約を捨てて、罪の道に生きることを選んだと思われていたような人でした。ですから、レビの方から、「イエス様。私は取税人などという罪深い仕事を捨てて、これからは神様のために生きたいと願っております。ですから、どうか私をあなたの弟子にしてください」とお願いするのならまだしも、取税人という立場に留まっているレビにイエスの方から声をかけるというのは驚くべきことだったのです。レビも、イエスの噂はよく聞いていましたが、まさか自分が声をかけられるとは思ってもいなかったでしょう。青天の霹靂のような、イエスからの呼びかけでした。しかし、レビは即座にイエスについていく決断をしました。先にペテロがイエスに弟子になるようにと呼びかけられたケースでは、イエスから声をかけられる前にイエスとペテロにはさまざまな交流があり、イエスの呼びかけは突然のものではなかったことを見てきました。しかし、このレビの場合には、まったく突然の声掛けだったと考えてよいでしょう。それなのに、レビが即座にイエスについていく決断をしたのには驚かされます。レビは、少なくとも経済的には不満のない暮らしをしていたでしょうから、イエスの弟子になるということは定職を失い、先の見えない人生に飛び込むことだったからです。手に職を持っていた漁師のペテロとは違い、取税人の立場は雇い主であるローマやヘロデとの良好な関係がすべてでした。取税人の立場を捨てるということは、権力者であるローマとの関係を自ら断ち切ることであり、彼はその立場には二度と戻れなかったでしょう。いわば背水の陣を引くような決断だったのです。そこまで大きな決断をどうしてレビが出来たのか、その理由は取税人であるということで彼がこれまでどんなに嫌な思いをしてきたのか、ということにあるように思えます。彼らは確かに取税人という立場を自分で選んだ、つまりカネのためにアウトカーストの身分を自ら選んだような人たちでしたが、彼らも何も好き好んでそんな選択をしたわけではなかったでしょう。遊女になることを選んだ女性たちの多くが、貧しい家庭を助けるためという、やむにやまれぬ理由からだったように、取税人になることを選んだ人たちも、ほかに選択肢がないという厳しい状況に置かれていたからでした。しかし、その結果社会から「罪人」という烙印を押され、軽蔑されながら生きていくのは大変つらかったのは想像に難くありません。

しかし、そんな自分に偏見を抱かずに、あちらの方から声をかけてくれる人がいた。しかもその人は、あのイエス、誰もがうわさをして注目する、きっと神が遣わしたに違いないあのイエスだったのです。その驚きが、レビを変えました。「これは大きなチャンスだ。私は人生をやり直せるかもしれない。もしこの機会を逃せば、次はないだろう。」こういう思いをレビは抱いたのではないかと思います。その思いが彼を後押しして、即座の決断へと導いたのでしょう。

レビの決断もですが、彼を弟子にしようと決めたイエスの側の決断にも驚かされます。イエスももちろん、取税人が差別の対象であり、特に宗教的権威からは毛嫌いされていたことを知っていました。そんな人物を弟子にすれば、当然ユダヤ人のリーダーたちからはにらまれることは分かっていました。しかしイエスは、「取税人や遊女」を差別するユダヤ人たちの偽善にも気が付いていました。遊女は罪人として差別されますが、その遊女をお金で買っている側の方は差別されなかったのです。考えてみれば当たり前の話ですが、遊女は遊女にお金を払う人がいなければ成り立たない職業です。しかし社会は遊女の側にだけすべての罪を押しつけて、そういう職業を成り立たせている社会そのものの欺瞞については見て見ぬふりをしていたのです。

取税人も、誰かがやらなければならない仕事でした。たしかにその役職を、私腹を肥やすために使うような人は軽蔑されても仕方がないでしょうが、真面目に働いている人もいたはずです。また、貧しい家族を助けるために、あえて嫌われ者になる覚悟で恥を忍んでその仕事を行っていた人もいたでしょう。そういう人たちを「罪人」と単に切り捨てるだけでよいのか、むしろ自分の立場を恥じて苦しんでいる彼らのような人にこそ、神の愛が差し伸べられるべきではないのか、そういうイエスの思いがこのレビへの呼びかけに現れているように思えます。

ともかくも、そういうレビとイエスの思いとが一致して、レビは晴れてイエスの弟子としての第二の人生をスタートすることになりました。この門出を祝って、盛大なパーティーが催されました。そこにはレビと同じ取税人仲間もたくさん招かれました。彼らも、レビと同じく人々からの偏見や差別に苦しみ、肩身の狭い思いをしていたので、仲間であるレビの勇気ある決断を心から喜び、応援してやりたかったのでしょう。レビにはこうした多くの仲間がいたことからも、彼が取税人としての業務を立派に果たしてきたことがわかります。こうして楽しい宴が始まりました。それは周囲の人たちの間で大きな話題となったことでしょう。イエスは人気者でしたので、そのイエスと楽しく語らうことができたレビたちをうらやむ人たちもいたでしょう。しかし、そのことを快く思わない人たちがいました。

それは宗教指導者であるパリサイ派や律法学者たちでした。彼らにとって、取税人は問答無用に罪人であり、まともな人、正しい人が交際してはならない人たちでした。イエスという新進気鋭の若者は、神の人だという評判を得ているけれど、なんのことはない、あんな罪人たちと付き合っているのか、と文句を言い始めたのです。私たちたちイスラエルは聖なる民であるから、汚れた人々を排除しないと、私たちまで汚れてしまう。イエスや弟子たちも、神のために働くというのなら、ああいう罪人たちと付き合うべきではない、と申し入れてきました。

それに対し、イエスはとても大事なことを教えられました。こう言われたのです。

医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。

この言葉には、どこか皮肉が込められているようにも思えます。ここで「医者」と言われているのはもちろん癒し人であるイエスのことです。そして、病人または罪人とされているのが、レビに代表されるような取税人たちです。彼らは自分たちが罪人であることをよく理解していた、いやむしろ、意識させられていました。では、丈夫な人、あるいは正しい人とは誰でしょうか?それはイエスを批判してきたパリサイ派や律法学者たちのような宗教的リーダーでした。しかし、彼らは本当に「正しい人」だったのでしょうか。むしろ、やむにやまれぬ事情から、人々が嫌がる仕事をしている人たちを「罪人」と見下し、彼らの苦しい心の内をまったく理解しようとしない、そして神がそうした罪人たちこそを助けたいと願っておられることに気が付かない、心の鈍い彼らが本当に神の前に「正しい人」なのでしょうか。

そのように考えると、レビに自分の方から声をかけ、レビの仲間たちと自ら進んで友となったイエスの行動には、時の宗教リーダーたちへの痛烈な批判が隠されていたと言えるでしょう。そうしたイエスの狙いに気が付いたリーダーたちは、ますますイエスを警戒し、憎しみさえ抱いていくのです。

このように、イエスと当時の宗教的なリーダーたちの間には大きな意見の対立、見解の相違があることが明らかになってきました。当時の宗教的リーダーたちは、社会から落ちこぼれていった人たちを「罪人」として排除することで、自分たちは清く正しい聖なる民なのだ、ということを確認しようとしました。それに対しイエスは、神の憐みはそうした社会の日陰者にこそ注がれるのだ、神は心砕かれた人をこそ求めておられるのだ、ということをその行動を通じて主張しました。実際、旧約聖書に描かれている神はそのような神なのです。イザヤ書から一節だけそのような箇所を見てみましょう。こうあります。

わたしが目を留めるのは、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。(イザヤ66:2)

イエスがツァラアトの人、あるいは取税人に自分の方から近づいていったのは、神の憐みがそのような弱い立場の人たちに向けられていることを示すためでした。しかし、既存の常識や社会秩序を維持することに汲々とする人たちには、このような神の御心が見えなくなっていました。律法を字義通りに行うことばかりに目を向けて、律法に現されている神の御心、神の憐みが見えなくなっていたのです。これが当時のイスラエルを覆っていた霊的な闇であり、イエスはそこに光をもたらそうとしたのです。

また、イエスは罪人と呼ばれる人々を病人に譬えていることも示唆的です。罪人とは、自分から罪を犯すことを選んだ人、自ら堕ちていった人、という風に思われるかもしれませんが、病気になる人は自分から病気になることを選んだのではありません。むしろ、病気になりたくはないのになってしまった、そういう不運な人たちです。そのようにイエスは、罪人と呼ばれて蔑まれていた取税人や遊女は、特別罪深いのではなく、むしろ不運な人々、やむに已まれぬ事情でそのような立場に追いやられてしまった人々だと見ていたのが分かります。イエスがそうした人々に深く共感していたからこそ、多くの取税人や遊女がイエスを受け入れ、また人生を新しくやり直す力を得ることができたのでした。

3.結論

まとめになります。今日はイエスが二度目の弟子のスカウトを行った場面を見て参りました。一度目はペテロたち、漁師を弟子にする場面で、二度目はレビという取税人を弟子とする場面でした。取税人は「罪人」と呼ばれてイスラエルの宗教的リーダーからは無視されたり軽蔑された存在でしたが、イエスはあえてそのような人を選んで自分の弟子にされたのです。神の前に価値のない人間などいません。人間が勝手に「罪人」というカテゴリーを当てはめようとも、神はそのようには人を見られない、むしろその人が本当に「心砕かれた」人であるならば、神は喜んでそうした人を迎え入れてくださる、イエスはそのことを示そうとされたのです。

レビが新しい人生を歩み始めることが出来たように、私たちも命ある限り、いつでも新しい人生を歩み始めるチャンスを神は与えてくださいます。福音が福音であるのは、神はいつも私たちが人生をやり直すことを力強く後押ししてくださる方であることを私たちに伝えてくれるからです。ですから私たちも偏見を持たずに人々に接していきたい、そう願う者です。小説ではありますが、レ・ミゼラブルのミリエル神父はジャン・バルジャンを罪人として扱わずに、むしろ神の失われた子として接しました。それが彼の人生を変えたのです。私たちもイエスに倣って、そのように生きたい、そのように人に接したいと願うものです。お祈りします。

罪人として蔑まれていた取税人レビに、ご自身から近づいていき、弟子として召し出されたイエス・キリストの父なる神様。そのお名前を讃美します。私たちもまた、イエスに倣って人々に偏見を持つことなく、どんな人も失われた神の子だという敬意を抱いて接していくことができるように、どうかお力をお与えください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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