パウロの戦い
第二コリント10章1~18節

1.導入

みなさま、おはようございます。今日の説教タイトルは「パウロの戦い」となっています。「戦い」とは穏やかではない、と思われるかもしれませんが、聖書にしばしばみられるように、パウロはここで戦争のイメージを用いています。実際パウロは、4節では「戦いの武器」という言い方をしています。ではパウロはどんな戦いをしているのかといえば、その戦いには二重の意味合いがあります。一つはコリント教会に今やしっかりと根付いてしまったパウロの反対者たちとの戦いです。コリント教会にはもちろんパウロを支持する多くの信徒たちがいましたが、パウロに敵対的な一部の信徒たちのグループがあり、彼らはエルサレムから来た新しい宣教団とタッグを組んで、パウロに批判的な勢力を形成していました。

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あなたは誰を隣人としますか?
ルカ福音書10章25~37節

1.導入

みなさま、おはようございます。今日は午後から教会総会がありますので、いつものパウロの第二コリント書簡からの講解説教をお休みして、福音書からメッセージをさせていただきます。今年の元日礼拝でも福音書からメッセージをしましたが、その理由は聖書全体の中でも四つの福音書は特別な重要性を持っているからです。使徒パウロは新約聖書の約半分の文書を書いた大変重要な人物で、彼の書簡からは教会について大切なことをたくさん学べます。しかしあえて言うならば、パウロ書簡を含めて考えても、聖書全体の中で最も大切なのはイエスの生涯について語る福音書であるのは間違いないことです。私たちの信仰は、常にイエスを見上げ、イエスに倣うことで形成されていきます。ですからこれからも特別な機会には福音書に帰り、福音書からメッセージをしていきます。

さて、いうまでもないことですが、福音書は一つだけでなく四つあります。その四つの内のマルコ、マタイ、ルカ福音書はお互いによく似ているので共観福音書と呼ばれます。しかし、よく似てはいますが、良く調べるとそれぞれに特徴があり、イエス様の描き方にも違いがあります。ルカ福音書の描くイエス像は、とりわけそのやさしさ、憐み深さが強調されています。イエス様のたとえ話の中でも最も有名なものは「良きサマリヤ人」と「放蕩息子の話」ですが、この二つはルカ福音書にのみ収録されています。これは注目すべきことです。この二つの譬えは、見捨てられた人、失われた人に対する神の強い愛を私たちに教えてくれますが、これはルカ福音書全体が大変強調している点でもあります。失われた人の救いという意味では、あのザアカイさんの話もルカ福音書にだけ収録されています。今日は、このように非常にルカ福音書らしい話である「良きサマリヤ人」の話をみなさんとじっくり読んでいきたいと思います。

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ヨブは悔い改めたのか
ヨブ記42:1-6
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

本日の聖書文書は「ヨブ記」です。超難解な文書と言っても差し支えないでしょう。「神義論」の文書として有名です。神義論というのは、神は完全なる義なる存在である、というのは本当か、神が意図して人間に悪をなすことはありうるのか、という問いに対し、どう答えるかの神学的議論です。ヨブ記のように義人ヨブが「理由なき苦難」を経験させられるのはなぜか、という問いにどうこたえるか、ということです。

この文書の舞台となっている場所は、ウツの地と言われています。アブラハムの兄弟ナホルの子に、この名が見られます。イスラエルの北、アラムの地です。七十人訳では、ヨブはヤコブの兄エサウの系譜の人物で舞台はイスラエルの南、エドムの地とされています。後になって登場するエリフがアラビア系の人物と考えられますので、舞台はエドムの地と推測するのが自然なように思います。ヨブという名はBC2000年期の西方セム族ではポピュラーな名前であったようです。伝承のスタートはいつかわかりませんがかなり古いかもしれません。しかし、神義論的形をとったのは比較的新しいものと考えられます。著作年代はBC5-3cと幅広い時期が、推測がされています。この時期は捕囚の民の帰還・第二神殿建設・ネヘミヤによるエルサレム城壁建設の時期を始期として、アレキサンダー大王の時代を経て、プトレマイオス朝エジプトの緩やかな支配にあった時期を終期としています。私は、他の知恵文学の著作時期とほぼ同時期の緩いエジプト支配の時代ではなかろうか、と思っています。この時期はイスラエルにおける百花斉放の時代と言ってもよいだろうと思います。中間期から新約時代へ、大きな影響を与えた文書が書かれた時代です。

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エルサレム教会への献金(2)
第二コリント9章1~15節

1.導入

みなさま、おはようございます。今日の説教は、先週に続いてエルサレム教会への支援募金、支援献金のお話です。前回と今回の箇所は、第二コリントでは8章と9章に分かれていますが、内容的は同じか、同じとまではいかなくてもかなり重複していると感じられたかもしれません。ではなぜパウロは同じような話を繰り返しているのでしょうか。この疑問についてパウロ書簡を研究している学者の間では、8章と9章はもともと別々の手紙で、その二つの手紙がこの第二コリント書簡に並んで収録されたのだとする説が有力です。私自身は、その説に100パーセント合意しているわけではありませんが、あり得ることだと思います。例えば私たちの例で考えても、東日本大震災で被災した教会への支援募金を訴える場合、アピール文は一回だけでなく、二回・三回と繰り返されます。パウロも、前回にもお話ししたようにエルサレム教会への献金に、それこそ命を懸けて取り組んでいたので、同じような趣旨の手紙を二回コリント教会に送るというのは十分考えられるからです。また、8章と9章の内容は似て非なるものなので、それぞれじっくり読むに値します。こういう言い方は変かもしれませんが、みことばの有名度合いという点では、この9章の方が私たちにはなじみ深いものだと思います。私たちが使っている同盟教団所定の月定献金袋に書かれているみことばも、この9章から取られたものです。

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エルサレム教会への献金(1)
第二コリント8章1~24節

1.導入

みなさま、おはようございます。先週は、パウロとコリント教会の信徒との対立、そして和解に向けての双方の努力ということについてお話ししました。今日の箇所では、内容が一転してエルサレム教会への献金がテーマとなっています。エルサレム教会への献金についてはこれまで何度かお話ししていますが、これはパウロの伝道生涯を考えるうえで極めて大切な事柄です。どれくらい大切かというと、パウロはこのエルサレム教会への献金のために命を懸け、そして実際にそのために命を落とした、それくらい重要な事柄でした。パウロは逮捕されて殺される危険があるにもかかわらずエルサレムへの最後の旅行をしました。それは、この献金をどうしてもエルサレム教会に自分自身の手で届けたかったからです。ではなぜエルサレム教会への献金がそんなに大事なのかと言えば、それがパウロにとって非常に大切なヴィジョンを体現するものだからです。パウロが抱いていたヴィジョンとは、「ユダヤ人も異邦人もない」教会、民族の垣根を乗り越えた、世界中のあらゆる民族が一つになる教会というヴィジョンです。私たち日本の教会で言えば、「日本人も外人もない」教会、人種や民族の違いを超えた真にユニバーサルな教会ということになるでしょう。

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悲しみの手紙
第二コリント7章2~16節

1.導入

みなさま、おはようございます。今日も再び、第二コリントのみことばから学んでまいりましょう。今日の聖書箇所はとても重たい内容です。それは、牧師と信徒との対立という事情がこの手紙の背景にあるからです。コリント教会は深刻な問題を抱えていて、それが今日の箇所の重要な背景となっています。私たちの教会は、規模からすれば小さな教会ですが、とても仲が良く、互いに信頼し合っている教会です。私も皆さんのことを信頼していますし、皆さんも私のようなものを信頼してくださっています。ですから、このパウロの手紙が送られたコリント教会の状況とはずいぶん事情が違うのだろうと思います。しかし、残念ながら牧師と信徒の関係がうまくいっていない教会というのも少なからず存在するというのが現実です。そういう状況に置かれた時に、私たちはつい犯人捜しをしてしまいます。あの信徒が悪いからとか、あの役員が悪いからとか、あるいはあの牧師が悪いからとか、そういう犯人捜しをついしてしまうのです。みんなにいくらか問題があるというより、問題の所在をある人に集中させてしまうのです。このコリント教会の手紙に関して言えば、普通は牧師のパウロが100%正しく、コリント教会の信徒が100%悪い、という読み方をしてしまいます。キリスト教におけるパウロ先生の絶大な権威を考えればそれが当たり前なのかもしれません。しかし、ある共同体に深刻な亀裂が生じた際に、どちらか一方が100%正しくて、他方が100%悪いというような状況は現実にはあり得ないのではないでしょうか。コリント教会がこんなに大きな問題を抱えてしまったことに、牧師であるパウロにも少なからず責任があるというのが公平な見方ではないかとも思うのです。このコリント教会への第二の手紙からは、パウロの立場や視点しか知ることが出来ませんが、叱責されているコリント教会の側の立場になって考えるということも必要なことではないかということです。今日の説教では、なるべく複眼的なというか、いろんな角度からコリント教会の現実を考え、学んでいきたいと願っています。

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エステル:ユダヤ民族のヒロイン
エステル記9:17-19
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

本日はエステル記からのお話です。ヨシュア記以降イスラエルの歴史に関する文書が続きました。その最後のところに置かれているのがこのエステル記です。しかし、内容は歴史書ではなく、ペルシャの支配下にあった時代にユダヤ民族を滅亡から救った一人の女性の話です。そのため、ユダヤ人の聖書では「諸書」という分類に入れられ、聖書の後ろの方にあります。我々の聖書における文書の順番は基本的に、旧約聖書のギリシャ語訳の順序に従っています。おそらく、エステル記の内容はペルシャの時代の話ですので、ペルシャ時代の初期のことを記しているエズラ記、ネヘミヤ記のあとに置いたということでしょう。このギリシャ語訳エステル記は我々の聖書にあるヘブル語エステル記より長い文書になっています。「エステルの祈り」や「ペルシャ王の布告」などが載っており、ヘブル語エステル記を更に理解するのには役に立つ部分が付加されています。このギリシャ語訳エステル記はカソリックの聖書には含まれており、「外典」と呼ばれでいます。ヘブル語エステル記を概略見た後に付加部分も若干見てみたい、と思います。エステルはユダヤ民族を救った人物であり、それを記念したお祭りがあります。プリムの祭り、と言いますが、その個所が、お読みいただいた個所です。明るいお祭りで、御馳走を食べるお祭りで今もユダヤ人のなかで祝われています。ユダヤ暦の12月、太陽暦では2-3月です。この祭りの時、エステル記が読まれます。いわばエステルはユダヤ民族のヒロインと言える人物ですが、他のユダヤ民族のヒロインも概観し、これらの女性に見られるイスラエル信仰の基本についてお話したいと思います。

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この世とのかかわり方
第二コリント6章14~7章1節

1.導入

みなさま、おはようございます。先週は、今年最初の礼拝ということで、第二コリントから離れて、ルカ福音書のイエス様とザアカイさんとの出会いの場面から学びました。今日からは、再び第二コリントに戻ります。そして今日の聖書箇所と、先週のルカ福音書との箇所は対照的な内容になっています。先週のルカ福音書では、世の中の多くの人が汚れた人、罪深い人だとして付き合いを避けていたような人に、主イエスは積極的に係わっていき、彼らを救うという場面を学びました。それに対して今日の箇所は、世の中となれ合うな、罪深い人たちとは距離を取りなさいというように、正反対のことを教えているように思われます。では、どちらが正しいのでしょうか。罪人と呼ばれる人たちと親しく交わり、彼らを新しい人へと造り替えていったイエス様に倣うべきか、あるいは「朱に交われば赤くなる」という古くからの諺通りに、悪い人たちとの付き合いを避けるべきだというパウロの勧告に従うべきなのでしょうか。これは難しい問題ですが、どちらにも大切な真理が含まれています。私たちは一方に偏ることなく、どちらの教えにも耳を傾ける柔軟さを持ちたいと思います。

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失われた人を求めて
ルカ福音書19章1~10節

1.導入

みなさま、新年おめでとうございます。私は昨年からずっと、パウロの手紙である第一、第二コリント書簡の連続説教をしてきました。しかし今日は今年最初の礼拝メッセージということで、パウロの自叙伝的色合いの濃い第二コリント書簡をいったんお休みし、新年にふさわしい箇所からメッセージをさせていただきたいと考えました。そこで今日は、ルカ福音書を通じて改めて主イエスの福音宣教について考えてまいりたいと思います。

今日の箇所は大変有名な箇所で、教会に長らく通っている方なら何度も読んだり聞いたりした箇所だと思います。ザアカイという人は、とても印象的な、インパクトの強い人なので、この話を一度聞いたらおそらく忘れることができない、そういう人物です。今日は、このザアカイさんだけでなく、その前に出て来る盲人の物乞い、マルコ福音書によればその物乞いの名はバルテマイですが、バルテマイとザアカイという対照的な二人、さらにはその前のルカ18章に登場する金持ちの青年、これらの人物たちを対比しながら、主イエスの伝道の目的を考えていきたいと思います。

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パウロの弁明
第二コリント6章3~13節

1.導入

みなさま、おはようございます。先週は幸いなクリスマス主日を共に祝うことができたことを心から感謝します。そして今日はいよいよ2021年最後の主日礼拝になります。早いものですね。今年の最初の主日礼拝は第一コリント6章からでした。そして最後のメッセージが第二コリント6章からになります。まさに、コリント教会と共に歩んだ1年だったといえるでしょう。

今日の説教題は「パウロの弁明」です。弁明、という言葉はちょっと固い響きのある言葉ですね。日常会話ではあまり使いません。「弁明の機会を与える」というような言い方はよく聞きます。つまり弁明というのは、非難に対して釈明をするという、そういう意味です。でも、そもそもパウロのような偉大な人物が自己弁護などする必要があったのでしょうか。ここで私たちは頭を切り替えないといけません。今日、パウロと言えば押しも押されもせぬ大使徒ですが、この手紙を書いた当時のパウロについて、評価は定まっていなかったのです。むしろ彼に対しては疑問の声を上げる人が少なくなかったのです。これまでの説教でも何度かお話ししましたが、この第二コリント書簡そのものが、パウロの釈明の書として読むべきものです。ではパウロがどんな非難を向けられていたのか、それを三つ挙げましょう。

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